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2001-10-14 生活困窮と節子との関わり - 土岐仁三

2001-10-10 私の苗字は啄木と縁が深いのです - 土岐仁三

2001-10-03 石川啄木の犯罪記録 非公開決定取り消し

2001-09-22 胡堂にあてた手紙の中の啄木像 - 盛岡タイムス

2001-08-11 啄木の青春に新証言 - 岩手日報

2001-07-21 啄木って、問題児だったのですね - from つき

2001-07-18 啄木の玄孫「笑っていいとも」テレビ生出演 - フジテレビ

2001-07-05 第16回岩手日報文学賞 啄木賞該当作なし」 - 岩手日報

2001-07-01 私は 遊座先生の教え子です - 佐藤 泰久


2001-10-14 「生活困窮と節子との関わり」

★★ 土岐仁三

 レポートありがとうございました。楽しく拝見しました。 
金田一京介:小学生の時使っていた国語辞典の編纂者ですね。「片山かの」さんのような器量を持ち合わせた人はいつの世も少ない
 啄木の奥さんの名前が節子であることも知りませんでした。節子について書かれた本を読んでみたいものです。偶然とは不思議なもので私の姉が”セツコ”と言います。文字も同じです。
 節子に対する興味の根源は啄木一家の生活困窮の裏に節子の関りが在るのではないか?と感じているからです。節子は教養人との事ですからこの推憶は外れているのかも知れません。
 節子は生来の働き者だったのでしょうか?
 働いていたとすれば何か原因と状況が在って働き出したのではないか?
 もしかしたら節子が働かなければならなくなった原因は節子自身にあったのではないか?
 教養人なる人種が働き者としての資質を持っているものだろうか?
沸々と湧く憶測

 追記:私の最初の子供・長男も生まれて2週間で死にました
    せめて生まれた証にと「生希/ショウキ」と名付けました

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☆☆ yuko

 生活苦は、今回の国際啄木学会岩手大会でもお話がありました。
啄木の父の不甲斐なさ、啄木の経済観念の無いことはもちろんですが、

明治19年・岩手県下コレラ大流行 23年・腸チフス大流行 27年・日清戦争 28年・コレラ、赤痢、腸チフス大流行 29年・三陸津波死者18000人 35年・暴風雨で農作物大被害 etc

 東北を襲った試練の影響も抜きにすることはできないと、研究者の方が仰っていました。

 金田一京助さんが、もし啄木を援助しなかったら・・・これも私の、知りたいことです。

 節子さんについては, 独立して本も出ているのですが・・・身内の方の書かれたものでも節子側と啄木側では、まったく違った見解もあるようです。
 一つの出来事でも右から見るのと左から見るのとで、180度ちがう良い例でしょうね。私も興味があるので勉強していきます。

●節子の本
「啄木の妻節子」          堀合了輔 洋々社
「石川節子  永遠の愛を信じたく候」澤地久枝 講談社
「啄木浪漫・節子との半生」     塩浦 彰 洋々社

 啄木は若くして亡くなりましたが、その苦労や数々の経験は、みんな彼の中で昇華して、作品になっていったのですね。土岐さんのお便りを読みながら、そんなことに気づきました。


2001-10-10 「私の苗字は啄木と縁が深いのですが」

★★ 土岐仁三

 初めてhp拝見しました。私の苗字は石川啄木とはとても縁が深いのですが何か思い当たりませんか?当ててみてください。
 初めて啄木の詩集に触れたのは凡そ30年前、今でも若いのですが、でも”若い頃”何の気なしに本屋さんで見かけて、ニ〜三ページ拾い読みしたところで何だか恐ろしくなってそれ以上読むのを止めました。詩集は本棚にありますが今も開けていません。
 私は啄木の生き方に、またそれ以上に啄木の奥さんはどのような人だったのかに興味があります。 

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☆☆ yuko

 メールありがとうございます
土岐さんはもしかして、土岐哀果(善麿)さんのご関係の方ですか?
なんだかもし違ったとしてもドキドキしてきます。
 
 深いことは分かりませんが-。
 啄木は、妻になる節子さんとは13歳のころ知り合い(二人は同年)、19歳で結婚、20歳で子どもが生まれています。節子さんは、代用教員をするほど当時としては教養の高い人でした。その後のよく知られている悲惨な生活から、節子さんがどうして逃げ出さなかったか(一度、家出をしていますが)啄木や、義父母や義理の妹を支え続けたか、不思議なことばかりです。
 直接の答えにはならないのですが、啄木の死後、節子さんが館山に住んだ時期があります。その場所をレポートしましたので、ぜひ雰囲気を味わってください。(
啄木を訪ねて 館山市) 


2001-10-03 「石川啄木の犯罪記録 非公開決定取り消し」  

 内閣府情報公開審査会は2日、情報公開法に基づき東京の新聞社が請求していた明治期の詩人、石川啄木の犯歴を公開できないとした盛岡地検の決定を取り消す答申を検事総長に提出した。

 啄木は1906年(明治39年)、友人からの借金を返さなかったとして、横領容疑で当時の盛岡地裁検事局に取り調べを受けた。罪状は軽微として不起訴になったが、その記録は現在まで残り、1982年に開かれた企画展で、処分内容の書かれた検務事件簿が公開された。
 今年4月施行の情報公開法に基づき、この事件簿の開示請求が出され、盛岡地検は5月、
 (1)特定個人の犯罪歴に当たる 
 (2)「慣行として公にされている情報」に該当しない―
として、非公開にしていたが、請求者がこれを不服として審査を求めていた。

 決定取り消しについて答申は
 (1) 啄木自身が著書で取り調べを受けた事実を明らかにしている
 (2) 企画展で地検が自ら公開している犯罪歴(友人からの借金を踏み倒したとされる「横領事件」)を示す文書が公開されており、現時点でプライバシーを侵害する恐れはない
 (3) 同記録が盛岡地検の協力で一般公開され、新聞や図録に掲載された
などを理由に、事件簿が「現在でも、何人も閲覧することが可能」と判断し、慣行として公にされている情報に当たると判断した。  


2001-09-22 「胡堂にあてた手紙の中の啄木像」 盛岡タイムス(2001-08-06)

(この記事は神奈川の佐藤勝さんから送っていただきました)

前回(2001-08-07)の広場の詳報です

「頂口才にして気障な奴」 

 猪川浩(盛岡中学の同窓生)は見つかった中で最も多い八通の手紙で啄木について触れている。

 明治三十五年に第一中に進学した胡堂にあてて「さて白羊会の人間とハ如何なる人か例の歌人一輩(啄木のこと)いたづらに頂口才にして気障な奴殊にハ(中略)廿面をさげた男はがきを相手に何を苦しんで歌など捻り出す必要があるかと思えば(略)」(原文)と辛らつに評していた。

 啄木の小説「鳥影」を東京毎日新聞に連載するきっかけを作ったとされる安村は、明治四十一年に胡堂あてにはがきを送った。文面には「啄木の小説東京毎日新聞に出づ、十回まで見申候、内容は大学生好摩、姫神山恋など候『先生ア今日お菓子喰ってらけな。みんなしてお茶(ぢちとあり。)のんで・・・。』など散見致し候以上」とあった。

 余白には「ヨミタガッタラ、アゲアンスベガ松奴の写真近々到来可致候右まで」と追伸も。友人同士のたわいないやりとりだった。

 胡堂の書簡については現在も読み下し整理の最中。今後も啄木についての記述がある手紙が見つかる可能性もあるという。


2001-08-07 「啄木の青春に新証言」  岩手日報

 岩手県紫波町の野村胡堂・あらえびす記念館は、中学校の同窓生が胡堂にあてた書簡の中で、石川啄木に関する記述がある手紙やはがき7通の常設展示を始めた。偉人としての啄木ではなく、中学時代の啄木を率直に批評した文面もあり、興味を引く内容になっている。

 公開している啄木ゆかりの書簡7通は、生家に眠っていた胡堂あての書簡約980通を整理して見つけた。啄木に触れた文章がある書簡はほかに7通あり、計14通分の内容は目録としてまとめている。

 胡堂、啄木の後輩の小林茂雄が1901年(明治34年)に胡堂にあてた書簡は、啄木から十和田湖のことなどを書いた手紙をもらい、中には美しい歌もあり、面白かった−という内容。

 啄木と同学年の猪川浩の1902年の手紙は、啄木が「カンニング事件」でけん責を受けたことを高慢らしくふれ歩くので「まけおしみとは知れども気障で々々で仕様がない」とばっさり切り捨てている。ほかに2人が上京した後の様子がうかがえる手紙もある。


2001-07-21 「啄木って、問題児だったのですね」

★★ from つき

欠席の多き事と師の下口を取る事級中随一たり。先生に拉せられて叱責を享くる事殆んど連日に及ぶ。(石川啄木「百回通信」)

啄木って、けっこう問題児だったのですね。でも、きっといろいろ悩みなんかもあったのでしょうね。

「空に吸はれし 十五の心」

というところは、わたしには、十五歳の啄木の”悩み”や、”もやもや”が大きな空に吸い込まれていったように想像されます。まったくのしろうと読みですが。。。
このころの啄木は、どこにいたんでしたっけ?

最近のわたしのお気に入りのコーナーは、「啄木と花」です。更新を楽しみにしています。

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☆☆ yuko
詳しく読んでくださって、ありがとうございます。

この先生に受け持ってもらってから11年経ち、啄木は「富田先生が事」を書いています。「怖い先生也・・短躯童顔、顎下の鬚山羊に似たり・・」

だけど大好きな先生だったからこそ、大人になって懐かしんでいるのでしょうね、きっと。

「sucked up into the skyーMy heart at fifteen 」わたしはこれも気に入りましたが、いかがでしたか。

十五歳の頃は盛岡中学校に通ってました。この歌を作ったのはその十年後位で、東京に住み、結婚し子も生まれ父母を養っているときだと思います。そう考えると「空に吸われし・・」はすごい表現ですね。むむむ、啄木ってすごい。


2001-07-18 「啄木の玄孫“笑っていいとも”テレビ生出演」フジテレビ 

人気番組“笑っていいとも” 「ご先祖様はスゴイ人!」コーナー

 登場した方の「有名なご先祖は誰か」を当てるというコーナーで、啄木の『やしゃご』(玄孫・曾孫の子)が、出演しました。

 祥太くんという、4歳のお子さんでした。まだご先祖が明かされないときに、系図が出ました。ご先祖の妻の欄に「節子」と書かれていたので、「もしや啄木では・・」「いやいや、啄木はまさか登場しないだろう・・」などと、思っていました。ところが、これが啄木だったのですからビックリ!

 祥太くんは、少し右に首を傾げ、眠かったのか、とても寡黙でした。どこか面差しが啄木に似ていると、タモリさんや他の方も話していました。
 わたしも、ほほのふっくらしたところや整った面立ちが、そういえば啄木の高等小学校1年頃の写真に似ているような気がしました。一緒に登場されたのは、祥太くんの祖母(啄木の孫の妻)と、母(曾孫の妻)でした。

 啄木というと「ムカシのヒト」と感じているところがありましたが、本当に近い子孫をテレビの中に見て、同じ21世紀の空気を吸っているのだと興奮してしまいました。

 フジテレビの担当の方にお聞きしましたら、『日曜日「笑っていいとも増刊号」で、この部分のダイジェストが放送される可能性はある』とのこと。ただし『7月22日は、特別編成なので29日にもしかしたら・・』という話でした。

 今日ご覧にならなかった方は「笑っていいとも増刊号」要チェックです!!!

(チェックしました。残念ながら登場しませんでした。)


2001-07-05 「第16回岩手日報文学賞 受賞者決まる 啄木賞該当作なし」岩手日報

(この記事は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました)

岩手日報社主催の第16回岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)の受賞者が決まる。

 啄木賞 該当作なし  

 賢治賞 さいたま市 萩原昌好氏

 随筆賞 雫石町   高前田博子さん

遊座昭吾審査委員長・評(啄木賞について)

 碓田のぼる「石川啄木の新世界」は、啄木の思想を今日的な「自由と民主主義」の視点から見直し、そこから「石川啄木の新世界」を評論を持って意義付けようとした。啄木の自由と愛を求めての教育実践、議会政治を見守った姿勢などは重い意味を持つ評論となっている。だが望みたかったことは、表題が持つ「新世界」の今日的意義を、風土と関連させて、より一層浮き彫りにしてほしかった事である。

 井上信興「漂泊の人 実録・石川啄木の生涯」は啄木研究の最終作業である伝記に挑んだ。「ふるさと」「北海道」「東京」の三章からなり、長年の研究実績に裏打ちされ、一気に読ませる作品に仕上げられている。近来にない啄木伝である。ただ、ノンフィクションのスタイルで生涯を追うことに賭けた意欲は、必ずしも作品に色濃く反映されていない。


2001-07-01 「私は遊座先生の教え子です」

★★ 佐藤 泰久

在京疾風会の佐藤です。私、現在横浜在住なものですから、「啄木と横浜」のページに目がいきました。感想を少々。

啄木と言えば渋民、盛岡、東京、函館、と思い浮かびますが、横浜はなかなか思い浮かびません。もちろん、高知はなおさらです。普段行ってる県庁界隈や港みらい地区の写真が出てきて、ああ、若き啄木が尋ねていったんだな、という感慨がわいてきました。こんどこのページのプリントを持って散歩してみようと思います。当時はいまの海外へいくくらいの気分だったのではないでしょうか。ほんと啄木の行動を詳細に研究してる方がおられるんですね。

それとこのページの学生服を着た啄木、初めてみました。写真じゃなくて肖像画なんですね、ビックリです。だいたいは和服を着ていると思うのですが、これだとまるで私らの年代の同級生という感じで親しみが持てます。顔も額から目のあたりが私の亡くなった兄に似ていて2度ビックリしました。

最近発見された啄木の未公開短歌は、たしか啄木研究家の遊座昭吾先生がかかわっていたと思いました。遊座先生は私の在学中、国語の先生をしておられ、先生からは古文を教わりました。その時は啄木研究をしてるとは知らなかったのですが、今もご健在でがんばっておられる様子です。私の名前を出しても覚えておられないとは思いますが...。

また思いついたところメールいたします、では。


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☆☆ yuko
ごていねいなメールありがとうございます。
横浜に住んでいらっしゃるのですね。横浜にも、啄木の好きな方がたくさんいらして、その集いに初めて誘われました。

啄木の肖像画が、お兄さまに似ていらしたのですか。偶然ですね。この絵を肖像画家にお願いした方に、のちほどお便りしてみようと思います。

遊座先生の姪に当たられる方とも、ときどきメール交換をさせていただいてます。ホームページ国際啄木学会茨城大会のページに姪の方とわたしとの出会いを書きました。遊座先生もこのページをごらんになったことがあるようです。

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