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2001-06-24 啄木に興味を持ったきっかけは? - 正春

2001-06-12 「本郷新の啄木立像について」お答えします - 森 義真

2001-06-05 『横浜と啄木』 続きは何かな? - hanihani

2001-05-13 野村胡堂と啄木 - 「知ってるつもり!?」日本TV

2001-05-10 いつも更新楽しみにしてます - from つき

2001-04-30 啄木の父一禎:高知の新情報 - 森 義真

2001-04-18 啄木と、独逸語? - hanihani

2001-04-18 『春潮』未掲載分の可能性 - 岩手日報

2001-04-14 啄木短歌 幻の初出誌発見 - 岩手日報

2001-04-06 館山へどうぞ - 館山市商工観光課観光係

2001-03-26 行ってきました!啄木ツアー(東京編) - hanihani

2001-03-19 啄木ツアー(東京編)決定! - hanihani


2001-06-24 「啄木に興味を持ったきっかけは?」

★★ 正春

yukoさん、こんばんは。

 石川啄木について詳しく説明されていて、またゆかりの地へ直接出向いて
写真を撮っているところ感心しました。
ところで、yukoさんが石川啄木に興味をもたれたきっかけは何ですか? HPで紹介されると更に
思い入れが伝わると思いますが、いががですか。

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☆☆ yuko
「なぜ啄木か」・・・本当にそうですね。
実はあまり考えていないのですが、改めて思うと、「憎らしいのかもしれない…………」なんて。
 ご指摘ありがとうございます。ぽつぽつと思い当たったらHPにも書きますのでまたアクセスしてください。


2001-06-12 「本郷新の啄木立像について」お答えします

★★ 森 義真

本日、初めて「お便りのページ」を開きました。
標記の件につき、「どこかにあるのでしょうか」とコメントされていますので、お答えします。

釧路市大町・港文館前の啄木立像が、「啄木によせて」に書いているイメージ通りのものです。
これは、「幸町公園」に昭和47年10月に建立され、台座には、「さいはての駅にーーー」の歌も刻まれています。
平成5年5月に、旧釧路新聞社の建物が復元され、「港文館」として開設された際、幸町公園から移設されました。
小生が釧路に行ったのは、平成4年5月のことで、幸町公園の像を見ました。

現在地は、幣舞橋の近く、フィッシャーマンズワーフウー(という釧路では有名な建物)の対岸にあるとのことです。

大森浜の座像は、昭和33年10月に建立されています。また、本郷新が書いた「啄木によせて」は、昭和42年11月発行の『啄木全集第5巻』の月報に載っていますので、時間の経過が合うと思います。


2001-06-05 「『横浜と啄木』 続きは何かな?」

★★hanihani

 新『横浜と啄木』  いつも楽しみにしています。

 私は2年前まで神奈川に住んでいたので、横浜にもしょっちゅう行きました。

 あの街が啄木と関わりのあったところだったなんて驚きです。

 17歳の時、啄木も今の私と同じようにドイツ語を学んでいたと思うと、彼に少し近づいた気分になりました。

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☆☆ yuko
 横浜も、通りの向こうから啄木が歩いてくるような街だと思いました。
横浜に住んでいらしたのなら、きっと擦れちがっていたことでしょう
 
 横浜・馬車道の『太陽の母子』像の作者、本郷新氏の「啄木によせて」という文章を見ました。
【・・函館にある啄木の像をつくるとき立像にしようか、座像にしようかといろいろ考えた。到達したのは「考える人間啄木」へ落ち着いた。・・ 
 ところで、私はもう一つの啄木像をいま考えているのである。立像で、例のとがった肩をいからし、腕をくみ、遠くの方を見ている姿。マントを着ているが、一方のそでが裏がえり肩にかかり、何か憮然とした格好の像。こういう啄木を作りたいといま考えている。・・】

 もうどこかにこの像はあるのでしょうか。

(ありました。詳しくはこの上のお便りをご覧下さい)


2001-05-13 野村胡堂と啄木  「知ってるつもり!?」 日本TV

【“銭形平次捕物控”を生み出した小説家、野村胡堂と〈彼女なくして胡堂なし〉と言われた妻のハナと、その二人を囲む多彩な交友関係の一人として石川啄木が語られた】

 1882年(明治15)岩手県紫波郡生まれの胡堂は、1896年(明治29)県下の名門盛岡中学(現盛岡第一高校)に入学。同級生の金田一京助とともに、校友会雑誌編纂をしていた。

 その校友会雑誌には、胡堂が「これほど下手な詩を書くものはいないだろう」と思う、彼の1年後輩がいた。白蘋という気取った名で短歌を載せていた。その後輩の名は、石川一、後の石川啄木である。 1886年(明治19)生まれの啄木は、1898年 盛岡中学へ入学した。

 1902年(明治35)3月、胡堂は中学卒業後、父の決めた婚約を破棄し、同じ村に住む6歳年下の橋本ハナとの結婚を願ったが反対され、東京へ向かった。

 啄木も跡を追うように、同年10月、盛岡中学を退学し上京。東京に夢を求めたが、金のあてがなく、友人たちから金を借り続ける毎日。やがて友人は一人またひとりと減っていった。そんな啄木に親身に相談に乗ったのは、一高法学部に通う胡堂だった。だが啄木は突然ハガキを寄こし胡堂の元を去って故郷へ帰った。

 1908年(明治41) 胡堂の父長四郎が凶作から村を守れず、村長を辞職。

 1910年(明治43) 東京でハナと再会した胡堂は、結婚。翌年、長女誕生。

 1911年(明治44) 親からの送金無く、胡堂は東京帝大を退学。

 1912年(明治45) 4月13日 啄木は、小石川の借家で貧困の果てにこの世を去る。

           胡堂は、葬儀にも出られず、東京中を職探しで歩き回っていた。

【胡堂と啄木について語られたのは、ここまで】

 その後、胡堂は報知社(現報知新聞社)に勤め、4人の子を持つが、3人まで結核のため失う。

 1931年(昭和6)から1957年(昭和32)まで27年間にわたり、

          シリーズ読み物として世界一の“銭形平次捕物控”を執筆。

 1963年(昭和38)「ああ、もう思い残すことはない」と語り昇天。80歳。 

          妻ハナもその5年後、同じ80歳で昇天。

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【幼なじみと結婚し、極貧の中で子を持ち、ペンで生活を支えていた胡堂と啄木。

 80歳まで生きた胡堂、26歳で亡くなった啄木。

 野村学芸財団を設立し、一切返済義務のない奨学金を人々に与え続けている胡堂。

 啄木は今もなお、人々に何を与え続けているのだろう? 番組を見ながらそう思った。】


2001-05-10 「いつも更新楽しみにしてます」

★★ from つき

 実際に訪ねた場所の写真が多いので、雰囲気がよく分かって、いつも楽しみにしています。
最近のnewsの中にあった、初出の5首の中では、最後の歌が一番好きです。

「倒るるとき遠き都に雷のごと響けわか住む山の大木」

では、また。

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☆☆ yuko  
 いつもアクセスしてくださって☆⌒(*^-°)v Thanks!!
そうです。写真が主であとはちょっと ツ ケ タ シ というところでしょうか。
「倒るるとき遠き都に雷のごと響けわか住む山の大木」
わたしもあの中では一番の歌です。啄木という人の心の広さや精神の豊かさを感じます。


2001-04-30 「啄木の父一禎」高知の新情報

(この情報は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました)

 大阪の知人からの情報によると、「啄木の父石川一禎終焉の地」標柱は、2003年完成予定の高知駅前整備事業のため、半年前に撤去され、市役所に保管されているようです。

 また、100M離れた所にある案内板も、鉄塔やアパートが近く解体されるということで、どうなるのか分からない状況のようです。


2001-04-18 「 啄木と、独逸語・・・?」

★★ hanihani

 啄木の日記に時折りみられる言葉、「独逸語」。演劇の国でもあるし、どういうわけか私もドイツ語を始めてしまいました

☆なぜ啄木は独逸語を始めたんでしょうね?英語の会みたいなのを作ってたから、列強国の文化に興味があったんじゃないかとは思うけど。果たして彼のドイツ語は、どこまで上達したんでしょうね。自称天才だし、なかなかいい線いってたような気がします。

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☆☆ yuko
 ドイツ語ですか。期待してます。
わたしも高校のときの第二外国語がコレだったような。
自慢じゃないけど、サッパリ何にも残っていません。

 啄木は言語というものについて鋭い感性を持っていたと思います。
独学ですごいレベルまでいっていたということです。
 なぜドイツ語だったのか、どなたかメールくださるといいな。

【このことについて、盛岡市の森義真さんから、たくさんの資料とどの文献を調べればよいかのアドバイスをいただき、hanihaniさんへ転送しました。】


2001-04-18 「春潮」未掲載分の可能性  岩手日報 

(この記事は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました)

「ツララ」の出る前年に村山徳次郎(龍鳳)が出した雑誌「春潮」に啄木は「高秋」と題した百首を送っているが、従来はそのうち四十七首の掲載だけが確認され、残りは不明だった。今回の二十六首はその一部だった可能性があり、研究者は注目している。

「春潮」と啄木のかかわりは、啄木の詩を同誌が無断掲載したことに始まる。筑摩書房版全集第一巻に故岩城之徳さんが書いた解題によれば、第二号に無断掲載されたことを知った啄木は春潮社に詰問の手紙を出す。村山はわび状を送り、あらためて丁重に原稿を依頼。啄木はこれにこたえて「高秋」百首を送ったことが、啄木の日記で分かっている。

 このうち四十七首は「春潮」休刊直前の第七号に掲載されているが、残る五十三首が第八号に載っているかどうかは雑誌が不明で解明されないままになっていた。「高秋」でなお未発見の二十七首の中にも初出作品が含まれている可能性がある。


2001-04-14 啄木短歌 幻の初出誌発見   岩手日報

(この記事は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました)

東京の古書店で

 石川啄木の短歌が掲載された幻の初出誌が見つかった。1909年(明治42)3月に盛岡市で発行された雑誌「ツララ(氷柱)」第一巻第一号。ほかの新聞・雑誌には発表されていない五首を含め二十六首の掲載が判明した。

「ツララ」は29ページ。編集・発行人は盛岡市の村山徳次郎(龍鳳)。啄木研究家で国際啄木学会理事の遊座昭吾さんが東京の古書店を通じて入手した。

雑誌「ツララ」が初出の啄木短歌五首

  壁よ壁汝を打てばこつこつと何ごころなき音立てにけり

  今も猶戀に死ぬ人ありかかる大事は史書に記すべかりける  

  美はしきもの永久にありとせばかかる心も死なざるものか

  来るといふに先つぞ人をは驚かす秋は尊し豫言者のごと

  倒るるとき遠き都に雷のごと響けわか住む山の大木

 啄木の短歌は「高秋」と題して二十六首が掲載されており、遊座さんが過去の初出と照合し、この五首が発表例のないことが分かった。

文学研究では啄木短歌の総数を 

 1 歌稿ノート 四千百二十四首(4124) 

 2 歌集    四千六十七首 (4067)

と解釈していた。今回の発見で新たに二十六首が加わることになる。


2001-04-06 「館山へどうぞ」

★★ 館山市商工観光課観光係

 ホームページ拝見いたしました。きれいに、解り易くまとめられており関心いたしました。
 また、館山についてもページを割いていただきありがとうございます。
 次回の更新を楽しみにしております。
 館山は、四季を通じて温暖なまちです、8月には花火大会が北条海岸で実施されます
 9月には、八幡神社の祭礼、10月には南総里見祭りの武者行列などのイベントも実施されます
 またのお越しをお待ちしております。
 ありがとうございました。

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☆☆ yuko
 館山の暖かな気候と、それより暖かな人たちの中で、啄木夫人の節子さんはずいぶん幸せだったと思います。
 いつかまたキット伺います。


2001-03-26 「行ってきました!啄木ツアー(東京編)」

★★hanihani

 22日、啄木ツアーに行ってきました。小石川図書館のあたりは私と一緒に行ったNちゃんの地元なので、そこまでは彼女に案内してもらいました。小さいけど雰囲気のいい図書館で居心地がよかったです。そこで暫くたくさんの啄木資料を読んで、私たちの気分は一層盛り上がりました。啄木終焉の地までの道は、迷ったけれど結局図書館の人に聞いて無事たどり着けました。石碑は、暖かい日差しの真ん中にひっそりとたたずんでいました。
 終焉の地で私たち二人は、少しばかり切ない気持ちになったので、元気を出すために春日通沿いの甘味処に寄ってパフェを食べました。そうして次は、相馬屋を目指し神楽坂へ。「啄木は熱気味だったって言うのにこんな距離を歩いたんだね。」なんて言い合い、そのときの啄木の姿を想像しつつどんどん歩きました。しかし神楽坂に着いたはいいけれど、あまり詳しい地図を持っていなかったため、坂を行ったりきたりしてようやく相馬屋に到着。伝統ある文具屋さんという風格があり、万年筆でも買ってみたいような気持ちになりました。でも、購入予定のものはもちろん、相馬屋製原稿用紙。原稿用紙が売られてるケースには、あれっ?三色ある。しかも400字詰めは2パターン!どれかな?yukoさんのHPには草色のことがかいてあったな、それに啄木はきっと草色を選んだだろう。と思って(勝手に判断して)400字詰め草色行間なしのを購入。非常に感激しました。嬉しかったです。Nちゃんもかわいいシールを見つけ購入。そしてお決まり。相馬屋の隣にあるゲーセンでプリクラ撮影。最後に画像の上に書き込んだメッセージは、もちろん啄木。はしゃぎすぎたので、帰りは電車にしました。護国寺を降りて暫く歩くと、景色すべてが春の夕日に一まとめにされていました。次々に去っていく車も、急に電線を飛び立ったおびただしい鳥の集団も、けだるいような安心できるような、大きくて生ぬるい空気でつつまれていました。90年前の今ごろ、啄木は儚げにこの空気の片隅に身を寄せていたと思うと、胸がいっぱいになってしまいました。Nちゃんもそんなことを思ったのか、「生きている啄木に逢いたい。」といいました。
 このツアーに行ったおかげで、計画中のシナリオの構想をより濃密なものに練っていけそうです。ああ、楽しかった!

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☆☆ yuko  
 2001年の東京の町が一瞬にして明治に戻ったことでしょう。
 報告編じっくり読んでる暇がないのでまたね。
 今日は、啄木の妻ゆかりのところへ行くの。
 HPを待っててね。      


2001-03-19 「啄木ツアー(東京編)決定!」 

★★ hanihani

 こんにちは。Nちゃん(親戚の子の名前)の家に泊まりに行く日が近づいてきました。電話してみると彼女もわりと啄木ファンだということで、一緒に啄木終焉の地から、yukoさんのホームページの紹介をもとになんと、『相馬屋』まで徒歩で行こうかと思います。帰りに小石川図書館に寄って、啄木関係図書を読んで彼女の家へ。これが22日。24日に、古書店街散策。結局、時間的に位置的に早稲田のほうにしました。こんな感じです。ああ、楽しみだなぁ。

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☆☆ yuko 
 うれしいな!わたしのHPが少し役に立つなんて。
 相馬屋さんは、ほかにも確か夏目漱石や有名な文人の御用達の店だったようです。店の中、左奥の方にカウンターがあって、そこに少しだけ展示物もありました。
 図書館は、特に啄木関係はいっぱいあります。
 たくさん楽しんで、いっぱい教えてね。

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