啄木の広場 関連の話題・皆様からのご意見ご感想 2001年3月- 啄木の広場:2005年1月- 2003年7月- 2002年11月- 2002年2月- 2001年10月- 2001年7月- 2001年3月- 2001-06-24 啄木に興味を持ったきっかけは? - 正春 2001-06-12 「本郷新の啄木立像について」お答えします - 森 義真 2001-06-05 『横浜と啄木』 続きは何かな? - hanihani 2001-05-13 野村胡堂と啄木 - 「知ってるつもり!?」日本TV 2001-05-10 いつも更新楽しみにしてます - from つき 2001-04-30 啄木の父一禎:高知の新情報 - 森 義真 2001-04-18 啄木と、独逸語? - hanihani 2001-04-18 『春潮』未掲載分の可能性 - 岩手日報 2001-04-14 啄木短歌 幻の初出誌発見 - 岩手日報 2001-04-06 館山へどうぞ - 館山市商工観光課観光係 2001-03-26 行ってきました!啄木ツアー(東京編) - hanihani 2001-03-19 啄木ツアー(東京編)決定! - hanihani 2001-06-24 「啄木に興味を持ったきっかけは?」 ★★ 正春 yukoさん、こんばんは。 ☆☆ yuko 2001-06-12 「本郷新の啄木立像について」お答えします ★★ 森 義真 本日、初めて「お便りのページ」を開きました。 2001-06-05 「『横浜と啄木』 続きは何かな?」 ★★hanihani 新『横浜と啄木』 いつも楽しみにしています。 私は2年前まで神奈川に住んでいたので、横浜にもしょっちゅう行きました。 あの街が啄木と関わりのあったところだったなんて驚きです。 17歳の時、啄木も今の私と同じようにドイツ語を学んでいたと思うと、彼に少し近づいた気分になりました。 ☆☆ yuko もうどこかにこの像はあるのでしょうか。 (ありました。詳しくはこの上のお便りをご覧下さい) 2001-05-13 野村胡堂と啄木 「知ってるつもり!?」 日本TV 【“銭形平次捕物控”を生み出した小説家、野村胡堂と〈彼女なくして胡堂なし〉と言われた妻のハナと、その二人を囲む多彩な交友関係の一人として石川啄木が語られた】 1882年(明治15)岩手県紫波郡生まれの胡堂は、1896年(明治29)県下の名門盛岡中学(現盛岡第一高校)に入学。同級生の金田一京助とともに、校友会雑誌編纂をしていた。 その校友会雑誌には、胡堂が「これほど下手な詩を書くものはいないだろう」と思う、彼の1年後輩がいた。白蘋という気取った名で短歌を載せていた。その後輩の名は、石川一、後の石川啄木である。 1886年(明治19)生まれの啄木は、1898年 盛岡中学へ入学した。 1902年(明治35)3月、胡堂は中学卒業後、父の決めた婚約を破棄し、同じ村に住む6歳年下の橋本ハナとの結婚を願ったが反対され、東京へ向かった。 啄木も跡を追うように、同年10月、盛岡中学を退学し上京。東京に夢を求めたが、金のあてがなく、友人たちから金を借り続ける毎日。やがて友人は一人またひとりと減っていった。そんな啄木に親身に相談に乗ったのは、一高法学部に通う胡堂だった。だが啄木は突然ハガキを寄こし胡堂の元を去って故郷へ帰った。 1908年(明治41) 胡堂の父長四郎が凶作から村を守れず、村長を辞職。 1910年(明治43) 東京でハナと再会した胡堂は、結婚。翌年、長女誕生。 1911年(明治44) 親からの送金無く、胡堂は東京帝大を退学。 1912年(明治45) 4月13日 啄木は、小石川の借家で貧困の果てにこの世を去る。 胡堂は、葬儀にも出られず、東京中を職探しで歩き回っていた。 【胡堂と啄木について語られたのは、ここまで】 その後、胡堂は報知社(現報知新聞社)に勤め、4人の子を持つが、3人まで結核のため失う。 1931年(昭和6)から1957年(昭和32)まで27年間にわたり、 シリーズ読み物として世界一の“銭形平次捕物控”を執筆。 1963年(昭和38)「ああ、もう思い残すことはない」と語り昇天。80歳。 妻ハナもその5年後、同じ80歳で昇天。 【幼なじみと結婚し、極貧の中で子を持ち、ペンで生活を支えていた胡堂と啄木。 80歳まで生きた胡堂、26歳で亡くなった啄木。 野村学芸財団を設立し、一切返済義務のない奨学金を人々に与え続けている胡堂。 啄木は今もなお、人々に何を与え続けているのだろう? 番組を見ながらそう思った。】 2001-05-10 「いつも更新楽しみにしてます」 ★★ from つき 実際に訪ねた場所の写真が多いので、雰囲気がよく分かって、いつも楽しみにしています。 「倒るるとき遠き都に雷のごと響けわか住む山の大木」 では、また。 ☆☆ yuko 2001-04-30 「啄木の父一禎」高知の新情報 (この情報は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました) 大阪の知人からの情報によると、「啄木の父石川一禎終焉の地」標柱は、2003年完成予定の高知駅前整備事業のため、半年前に撤去され、市役所に保管されているようです。 また、100M離れた所にある案内板も、鉄塔やアパートが近く解体されるということで、どうなるのか分からない状況のようです。 2001-04-18 「 啄木と、独逸語・・・?」 ★★ hanihani 啄木の日記に時折りみられる言葉、「独逸語」。演劇の国でもあるし、どういうわけか私もドイツ語を始めてしまいました ☆なぜ啄木は独逸語を始めたんでしょうね?英語の会みたいなのを作ってたから、列強国の文化に興味があったんじゃないかとは思うけど。果たして彼のドイツ語は、どこまで上達したんでしょうね。自称天才だし、なかなかいい線いってたような気がします。 ☆☆ yuko 啄木は言語というものについて鋭い感性を持っていたと思います。 【このことについて、盛岡市の森義真さんから、たくさんの資料とどの文献を調べればよいかのアドバイスをいただき、hanihaniさんへ転送しました。】 2001-04-18 「春潮」未掲載分の可能性 岩手日報 (この記事は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました) 「ツララ」の出る前年に村山徳次郎(龍鳳)が出した雑誌「春潮」に啄木は「高秋」と題した百首を送っているが、従来はそのうち四十七首の掲載だけが確認され、残りは不明だった。今回の二十六首はその一部だった可能性があり、研究者は注目している。 「春潮」と啄木のかかわりは、啄木の詩を同誌が無断掲載したことに始まる。筑摩書房版全集第一巻に故岩城之徳さんが書いた解題によれば、第二号に無断掲載されたことを知った啄木は春潮社に詰問の手紙を出す。村山はわび状を送り、あらためて丁重に原稿を依頼。啄木はこれにこたえて「高秋」百首を送ったことが、啄木の日記で分かっている。 このうち四十七首は「春潮」休刊直前の第七号に掲載されているが、残る五十三首が第八号に載っているかどうかは雑誌が不明で解明されないままになっていた。「高秋」でなお未発見の二十七首の中にも初出作品が含まれている可能性がある。 2001-04-14 啄木短歌 幻の初出誌発見 岩手日報 (この記事は盛岡市の森 義真さんから送っていただきました) 東京の古書店で 石川啄木の短歌が掲載された幻の初出誌が見つかった。1909年(明治42)3月に盛岡市で発行された雑誌「ツララ(氷柱)」第一巻第一号。ほかの新聞・雑誌には発表されていない五首を含め二十六首の掲載が判明した。 「ツララ」は29ページ。編集・発行人は盛岡市の村山徳次郎(龍鳳)。啄木研究家で国際啄木学会理事の遊座昭吾さんが東京の古書店を通じて入手した。
啄木の短歌は「高秋」と題して二十六首が掲載されており、遊座さんが過去の初出と照合し、この五首が発表例のないことが分かった。 文学研究では啄木短歌の総数を 1 歌稿ノート 四千百二十四首(4124) 2 歌集 四千六十七首 (4067) と解釈していた。今回の発見で新たに二十六首が加わることになる。 2001-04-06 「館山へどうぞ」 ★★ 館山市商工観光課観光係 ホームページ拝見いたしました。きれいに、解り易くまとめられており関心いたしました。 ☆☆ yuko 2001-03-26 「行ってきました!啄木ツアー(東京編)」 ★★hanihani 22日、啄木ツアーに行ってきました。小石川図書館のあたりは私と一緒に行ったNちゃんの地元なので、そこまでは彼女に案内してもらいました。小さいけど雰囲気のいい図書館で居心地がよかったです。そこで暫くたくさんの啄木資料を読んで、私たちの気分は一層盛り上がりました。啄木終焉の地までの道は、迷ったけれど結局図書館の人に聞いて無事たどり着けました。石碑は、暖かい日差しの真ん中にひっそりとたたずんでいました。 ☆☆ yuko 2001-03-19 「啄木ツアー(東京編)決定!」 ★★ hanihani こんにちは。Nちゃん(親戚の子の名前)の家に泊まりに行く日が近づいてきました。電話してみると彼女もわりと啄木ファンだということで、一緒に啄木終焉の地から、yukoさんのホームページの紹介をもとになんと、『相馬屋』まで徒歩で行こうかと思います。帰りに小石川図書館に寄って、啄木関係図書を読んで彼女の家へ。これが22日。24日に、古書店街散策。結局、時間的に位置的に早稲田のほうにしました。こんな感じです。ああ、楽しみだなぁ。 ☆☆ yuko |