啄木文学散歩 高知県:高知市 ● それを高知駅前で見つけた - 啄木の父石川一禎 終焉の地 ● 眠るがごとき旅立ち - 娘夫婦のもと 78歳の生涯を閉じた それを高知駅前で見つけた 高知駅に着くとすぐの観光案内所で手に入れたパンフレットに《石川啄木の父一禎 終焉の地》と書いてあった。今回の旅行の日程には全く入っていなかったけれど、どうしてもいきたい。 旅行の最後の日、高知駅前の歩道橋の上に立って、方角を見定めて歩き出した。 駅前の雑多な所から外れてすぐの、ちょっとしたグリーン地帯の中に、一本の柱が見えた。駅から、1〜2分の距離と言ってよい。傍まで行ってみる。高さ1.6メートルほどの柱の正面には
南はどっちかと、太陽で確かめてから、東北あたりを見た。 そこに鉄塔があった。駅から出る十本近いレールのほぼ真ん中だ。 鉄塔の傍に寄ろうとしたが、フェンスがあって行けない。辺りを見回すと跨線橋がある。その階段を上って橋の上に出ると鉄塔の根元がよく見えた。レールの間が終焉の地とすると、一禎さんは『鉄道事故に遭われたか』、あるいは『行路病者として発見されたか──明治41〜42年の真冬、一禎は一家の窮迫を見るに見かね、一文も身につけずに家出して東北本線奥中山峠で、疲労のために気を失い、行路病者として駅に担ぎ込まれたことがあった──』など、さまざまな思いが胸をよぎった。 そのとき、第二の鉄塔が目に入った。“終焉の地の柱”に戻って確かめると、東北の方角と言えなくもない。あらためて第二の場所を目指す。直接は行けなくて、バスの車庫を大回りして近づくと、フェンスの端にプレートがあり 《啄木の父 石川一禎終焉の地 高知県歌人協会》と、記されてあった。『ああ、ここなんだ』と思わずプレートの打ち込んであるざらざらとしたコンクリートにつかまった。 高知駅バス停前の小空間/啄木の父の碑を/発見す 幾本の/蘇鉄に抱かれし木碑には/「啄木の父・終焉」とあり 角柱に/「啄木の父・終焉」と/筆跡柔らに書かれるを見る 近くで立ち話をしていた男性に尋ねると「これは今、JRの寮で、啄木のお父さんが昔ここで生まれた(?)そうだ」と、話して下さった。
眠るがごとき旅立ち この後に行った寺田寅彦記念館の受け付けの方に、「啄木の父終焉のことについて、ご存知でしたら教えて下さい」と、お聞きしたら、資料を探してくださった。 寺田寅彦記念館 そこには、こう書かれていた。
高知から帰ってから、ボランティア協会にお礼状を差し上げたら、丁寧なお便りと資料を送ってくださった。お便りには「啄木の父のことは高知の観光バスガイドも話をしておらず、ボランティアガイドの特ダネとして10年ほど前から、特に岩手、宮城方面からのお客様に案内をしている。岩手の人などからは、『高知に来て啄木の話を聞こうとは思わなかった』『父の話は初めて聞いた』とか割合好評だ」と書かれてあった。 高知駅長官舎の庭 1925年(大正14)11月9日 『一枚の集合写真』という高知新聞の学芸欄には、所長官舎の庭に並んだ記念写真が載っている。「鼻下に白い髭を蓄え」「快適な晩年を送った」白髪の老翁、父一禎が前列右端に写っている。(右から3人目が啄木の姉、とら。後列右端がとらの夫、千三郎。その隣が千三郎の長男、勝重。) また、『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。 (この資料等をお送り下さった方は、土佐観光ガイドボランティア協会会長の岩崎義郎さんです。南国高知のガイドを無料でして下さいます。 吉田孤羊著『啄木を繞る人々』の中で、著者は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞き「その臨終はまるで文字通り眠ったままだった」と書いている。また北海道の啄木の娘、京子から“みだれ芦”を見せてもらったときのこともあり、「何れも一度使い古したやうな日本紙の帳面を、裏返して丁寧に綴じ込んだもので、中には歌ばかりでなく、啄木の追悼会の新聞記事などまできれいな筆跡で写されて」あったという。自慢の一人息子が26歳の若さで亡くなり、 「塵の世と思ひ捨ててもさらばとて移り住むべき所だになし」 と歌った父。でも、母カツは、啄木の「名声が今日ほど高くなるとは夢にも知らず永眠され」たが、父は 「世に広く謳わるるわが子の名を充分耳にして亡くなられた」とある。 この鉄塔の下が父一禎終焉の地 わたしは、土佐の高知に旅をし、あざやかな空の青さと陽光の力強さに感激した。一禎もこの地に移り住み2年と3カ月、ここを愛し、おだやかに旅立たれたと信じた。 「住むべき所なし」と/歌に遺して啄木の父は/高知の早春に逝く 啄木の生きてあるれば四十一の/誕生の日に/その父は逝く かつて住む所長官舎の在りし地に/「啄木の父眠る」の/プレート温し (2000)
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