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啄木の広場   関連の話題・皆様からのご意見ご感想

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2003-06-16 「新・小樽のかたみ」発行 石川啄木と小樽啄木会五十五年 −小樽啄木会・小樽文学舎

2003-06-08 啄木祭「啄木と尾崎豊」 - 岩手日報・毎日新聞

2003-03-22 啄木に助けられて大学合格 - hanihani

2003-01-14 <啄木より>新成人に贈る言葉 - 朝日新聞

2003-01-12 『石川啄木文献書誌集大成』佐藤 勝 - 第3回ゲスナー賞 銀賞受賞

2003-01-03 啄木最晩年の年賀状 - 岩手日報

2002-12-11 舟越さんの啄木像 - 森 義真

2002-12-09 青春館 啄木、賢治像の贈呈式 - 岩手日報

2002-11-30 石川啄木と鉄道・東北新幹線盛岡-八戸間開通 - 銀河系いわて めるまが

2002-11-28 「心に残る家」石川啄木 - 日本テレビ


2003-06-16

「新・小樽のかたみ」発行−石川啄木と小樽啄木会五十五年− 小樽啄木会・小樽文学舎

 啄木の生々しい人間性紹介

 小樽ゆかりの歌人・石川啄木の業績をしのぶ小樽啄木会(水口忠会長)は、同会の創立五十五周年と啄木没後九十年にちなんだ記念誌「新・小樽のかたみ」を発行した。
 
 記念誌の発行は四十年ぶり。タイトルは小樽日報の記者だった啄木が、執筆記事を「小樽のかたみ」としてスクラップしていたことにちなんだ。
 啄木の妹で、寺の住職の娘でありながら、明治末に小樽メソヂスト教会(現小樽教会)で洗礼を受けたとされる石川ミツをめぐる最新の研究や、初代会長で小樽時代の啄木と親交の深かった高田紅果さんが在りし日の啄木を回想した遺稿、啄木会の沿革史など十九編を収めた。
 1986年に市立小樽文学館で啄木の特別展を開催した際、遺族やゆかりの人を取材した学芸員の玉川薫さんは「宮崎氏と石川氏、金田一氏」と題した寄稿文の中で、啄木の親友だった金田一京助氏の子息で国語学者の春彦氏から、「私たちの家庭に、こんな傷を負わせた石川啄木を決して許さない」と一喝されたことなどを述懐。「借金の天才」ともいわれた啄木の生々しい人間性を伝えている。

『新・小樽のかたみ』−石川啄木と小樽啄木会五十五年−

・編集:小樽市立文学館・小樽啄木会 発行:小樽啄木会・小樽文学舎
 
・A5判 400部作製。希望者には実費販売する。送料込みで一冊1700円。

・以下のいずれかの方法で申し込む

 1) 〒047-0155 小樽市望洋台2−32−14 水口方 啄木会刊行委員会
 2) FAX  0134-52-2775 水口方 啄木会刊行委員会
 3) Mail  tamizu@nifty.com ←ここからメールで直接ご注文できます
  送本先の 郵便番号、住所、氏名、電話番号をお書きください。
  ※1冊   送料等込み 1700円、
  5冊以上は 送料等無料で1500円
  送本の際、払込加入者負担の払込用紙を同封しますので、到着次第
  郵便局より送金ください。


2003-06-08

 啄木祭「啄木と尾崎豊」〜時代を駆け抜けた青春〜 岩手日報・毎日新聞

 望郷の歌人石川啄木と、メッセージを込めたロックで死後11年たっても人気が衰えない尾崎豊。共に26歳で他界した2人の共通項を探る催しが7日、啄木の故郷の岩手県玉山村文化会館姫神ホールであり、約500人が参加した。

 第1部は、尾崎の才能を見いだした須藤晃プロデューサーと、1996年に啄木と尾崎との共通点に着目し番組を製作したテレビ岩手の広島文樹ディレクター、啄木記念館の山本玲子学芸員の3人による座談会を開いた。

 山本学芸員が「尾崎のデビュー曲『十五の夜』や啄木の『……空に吸はれし十五の心』などには、明治と昭和の十五歳が抱いた学校への違和感や大人社会への反発がある」と指摘。「平成の十五歳」の胸にはどちらが響くか」と話すと、広島ディレクターは「取材の中で尾崎のノートに啄木の歌があるのが見つかった」と語り、須藤プロデューサーは「命ははかないものという哀しさが、2人の歌の根底に流れている。2人が残してくれた作品を愛し続けていくことが大切」と訴えた。

 歌の演奏による第2部は渋民中学の生徒や地元バンド、コーラスグループなどが啄木の「春まだ浅く」や尾崎の「卒業」などを競演した。


2003-03-22

 啄木に助けられて大学合格

★★ hanihani

 久しぶりです。
 今年の4月から上京して大学に通うことになりました。

 受験勉強の時は、度々啄木の詩集・短歌・日記に助けられました。一年間何とかがんばれたのは彼のおかげも大いにあります。

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☆☆ yuko

 hanihaniさん、うれしいお便りありがとう。そして合格おめでとうございます。
 実はあなたからのメールをきっかけにして、この『啄木の広場』ページが始まりました。ちょうど二年前に「啄木ツァー(東京編)決定!」というあなたの文が最初に載っています。だからhanihaniさんには、感謝しています。


2003-01-14

 <啄木より>新成人に贈る言葉 朝日新聞天声人語より 2003-01-13

 ・・・石川啄木も20歳が一つの転機だった。初めての本である詩集『あこがれ』を出版した年である。故郷の寺で住職をしていた父がその職を失い「何の財産なき一家の糊口(ここう)の責任といふものが一時に私の上に落ちて来た」年でもあった。

 序詩を上田敏が書き、与謝野鉄幹が「あなめざまし、あななつかし、あなうるはし、人見て驚かぬかは」と激賞のあとがきを書いたが、もちろん詩で糊口をしのぐことはできない。困窮の生活が続いた。

 明治時代の2人(石川啄木と樋口一葉)の作家の20歳である。2人ともそれから10年を生きることなく逝った。珠玉の作品を書き続けた短い晩年であった。きょう成人式の若者たちに2人の言葉を贈ろう。

 「恋は尊とくあさましく無残なるもの也」。実らぬ恋に苦しんだ一葉のつぶやきである。「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない」。啄木が短歌に託した思いだった。


2003-01-12

 『石川啄木文献書誌集大成』佐藤 勝-第3回ゲスナー賞 銀賞受賞

 第3回ゲスナー賞受賞作品が決定いたしました。

  銀 賞 佐藤 勝 著
  『石川啄木文献書誌集大成』 武蔵野書房 1999年 B5判 VIII,549頁

受賞者のコメント

 今、私は島津製作所の田中耕一さんになった気分です。
 私は石川啄木の研究者でも書誌学者でもなく、ただ啄木が好きというだけでした。17,8歳の頃から啄木に惹かれ、作品を読んでいるうちに、啄木について書かれているものも読みたくなりました。色々読んでいくうちに、自分の手に入らないもの、例えば大学の紀要に発表されたようなものは全く手に入らないので、どうすれば手にはいるのかと考えはじめました。それで、20歳過ぎた頃からの私の趣味は“啄木の文献をあさること”そして“それを書いた人たちに往復ハガキを送ること”になっていました。
 この本の前に自分の蔵書目録を作ったのですが、書誌学というものを知らなかったので、本の後ろに載っている参考文献を参考にしました。「初版はいつ出たのか」「当時はいくらだったのか」「どれくらいの大きさなのか」、そのようなことを同好の人たちにも教えてあげたい、という気持ちで蔵書目録を作りました。その本について、坂敏弘(ばんとしひろ)という書誌学者が、ある雑誌に『未熟だが熱意が感じられる』という書評を書いてくださり、そこではじめて、書誌学という学問があることを知りました。
 またその本が、岩手日報文学賞の啄木賞の次席になったこともあり、啄木学会に招かれ、そこで先生方からいろいろなアドバイスをいただきました。いただきすぎてちょっとわからなくなってしまいましたが。その時、ある先生に「自分が欲しいと思うものを作ればいい」と言っていただき、そういうことならもう一度、以前から残していたメモをまとめてみようと思い、前の本には不正確な部分があったので、今回はその点を反省しながら取り組みました。
 私は、林先生の言葉にあった“パソコンを使えない”方で、今は少し使えるようになり、“トキ”にならずにすみそうですが、はじめは手書きだったものを、途中からワープロを使いはじめたのですが、うっかり操作を間違え、入力したデータ3カ月分が一瞬で消えてしまいました。背中から血の気が引くのを感じました。あまりのショックに眠れない日が続いたからか、啄木の夢を見まして、“きっと啄木がもう一度作り直せと言ってくれている”と自分を励まし、次からはフロッピーディスク2枚にコピーしながら、ようやく完成させることができました。
 啄木が好きで“啄”という文字のみか、時には“豚”という字にまで反応してしまったりということもありましたが、この本は楽しく作ることができました。本日はありがとうございました。

●ゲスナー賞について

 雄松堂書店は、1997年創業65周年記念事業として、Bibliography Awardを創設し、書誌学の父コンラート・ゲスナーに因んで「ゲスナー賞」と名づけました。
 ゲスナー賞では、高い志と熱意あふれる優れた作品を表彰し、その著作や研究活動を応援します。

●コンラート・ゲスナー (1516-1565)

 1516年、スイスのチューリッヒに生まれる。書誌学、自然科学、医学、神学などのあらゆる知識と、ラテン語、ギリシャ語、フランス語などの外国語に通じ、百科全書家、大博物学者と呼ばれ、今日にその名を残している。博学多才で人間性に満ち溢れた彼の生涯は、博物学者、南方熊楠に深く感銘を与え、「我欲しくは日本のゲスネルにならん」と言わしめた。
 ゲスナーには『動物誌』など、後世に影響を及ぼした著作が数多くあるが、中でも『万有文庫』は、世界で初めて、あらゆる時代(彼が生きた16世紀までの)著述家のアルファベット順索引と学問領域の体系的な叙述を備えた書誌として異彩を放っている。
 『植物誌』などの著作を手掛けつつ、惜しくも志し半ばにしてペストに倒れ、49才でその生涯をとじた。


2003-01-03

 啄木最晩年の年賀状  岩手日報2003-01-01

 盛岡市の啄木研究家遊座昭吾さんは、石川啄木が亡くなった1912(明治45)年元旦に出した年賀はがきの写真を、はがきを所蔵する日本近代文学館(東京都目黒区)から借り受けた。ロシア文学研究で知られる作家の内田魯庵(1868-1929年)にあてたもの。病気で直面する仕事が進まないもどかしさを伝える内容だ。

 はがきは「石川啄木全集」(筑摩書房刊)には未収録。啄木は当時、病苦の中、ツルゲーネフの翻訳でも知られる作家、二葉亭四迷の「二葉亭全集」(東京朝日新聞社刊)の編集作業に携わっていた。

 全集刊行の過程で交流を持った魯庵に対し、啄木は

「 謹賀新年   
   昨年は二月以来病床にのみ打過ごし候ため、心にもなき御無沙汰仕り、殊に「全集」の発行を遅延せしむるに至り候・・・   

  四十五年一月一日 」

と、病気で編集作業が遅れていることをわびている。名前は本名の「石川一」と記した。啄木はこの年、4月13日に没した。

 遊座さんは「魯庵と仕事をする機会を得ながら、病気に苦しめられている啄木の心境がよく出ている。魯庵との関係は、啄木研究者の間でも踏み込んで論じられていない。2人の関係が表れた貴重な年賀はがきを、多くの人に理解してほしい」と説明している。


2002-12-11

 舟越さんの啄木像  森 義真 『街もりおか』2002年8月号

 いったい、舟越保武さんは、どんな啄木像を再び彫塑しようとしていたのだろうか。

 今年2月、舟越さんの訃報を聞いてまもなく、それを確認するために、盛岡てがみ館と盛岡一高白堊記念会館に足を運んだ。

 てがみ館の廊下に、舟越さんが福田常雄氏に宛てた手紙が展示されていたので、その文面を確かめるとともに、舟越さんの肉筆をもう一度見てみたいと思ったのだった。

 昭和三九年一月二二日と書かれたその手紙には、「石川啄木も、いつかはきっと、やり遂げるつもりでいます。.函館にこの正月行きました時、本郷新氏の作、浜辺に腰を下ろした啄木を見ましたが何か物足らなく、つまり逃がしていると感じました」とあった。

 本郷新氏は、七つ年上の先輩で、新制作派協会彫刻部の創立に共に取り組んだ仲間でもある。一緒に釣りに行ったことなども書かれたエッセイ集で、「愛すべき先輩であった」(「石狩の浜」)と評している。また、競作で行った仕事として、釧路市幣舞橋に設置された「道東の四季」という四つのブロンズ像で、舟越さんは「春」、本郷氏は「冬」を制作した。

 舟越さんが「逃がしている」と評した本郷氏の座像は、啄木が函館在住時によく訪れた大森浜の小公園に、昭和三三年一〇月に建てられた。本郷氏は、「啄木の像を作ってみたいと思ったのは、もうずい分前のことだ」「どうしても啄木の像を作り上げたい」(「啄木を慕う」)と、昭和三〇年に書いた。そして建立後九年経ってのエッセイには、「啄木は私の中に二十年ばかり生きていた」(「啄木によせて」)と書き、いろいろ思い悩んだ末、「ものを思う啄木」として座像にした制作過程も明かした。函館出身の亀井勝一郎氏に誉められ喜ぶ様子もあり、会心の作だったようだ。

 石に腰をおろし、左手に本を持ったまま何かを考え込んでいる啄木の座像のどこに、「逃している」と感じたのか。その舟越さんが、ブロンズ像の頭像「若き石川啄木」を、新制作展に出品したのは、昭和四〇年九月。福田氏に手紙を出してから一年半余り経っていた。

 この像を作った経緯は、エッセイ「夏祭りの夜」に詳しい。制作が難しく、何度も失敗して挺摺っていた時、夢の中に啄木が現れたという。夢からさめ、その顔を作るのに没頭し一気に作り上げた。それは写真とは違い、「私だけに見えた顔になった。私は私なりに、夢の中の顔を彫刻にとらえた」と綴っている。

 その頭像は、石川啄木記念館や山王美術館にもあるが、解説も確認するために、白堊記念会館を訪れた。その解説に曰く、「舟越保武は永いあいだ、啄木のイメージを考えていたがある時、夢の中に、普通の村の青年のような啄木が現れてきて、これこそ啄木の姿だと思い作品にまとめた。展覧会のおり、金田一京助が『似ていない』と言ったので大変気になり、手を加えようとしたが手を加える度に自分の思いと違ったものになるので、自分のイメージに忠実に従って、この作品をつくりあげた」。前半は「夏祭りの夜」に一致する。ところが後半の金田一氏のコメントについて、舟越さんのエッセイや、『金田一京助全集』を調べたが、該当する箇所はなかった。舟越さんの事蹟に詳しい画廊経営のUさんや、県立美術館のSさんに伺ったが知らないという。

 解説をどなたが書いたのかは不明とのことだが、金田一氏、あるいは舟越さんの関係者から直接聞いた話なのかもしれない。

 この「若き石川啄木」が、本郷氏が捉えきれなかった啄木の本質を捉えたものだったのだろうか。私は違う気がしてならない。

 昭和四五年二月の「街もりおか」に、「啄木の首を彫刻している。五年ほど前から何べんもやり直して、一度だけ何とか出来上がったが、満足できない」(「啄木の顔」)と書いている。金田一氏に言われただけではなく、ご自身でも何かしら満ち足りないものを心に抱いて、再び「啄木の顔」を彫塑しようと試行錯誤を重ねたのではないだろうか。

 今となっては、舟越さんの本心を伺うことはできないが、「若き石川啄木」を超える、啄木の「像」を彫塑しようと心にかけながら、それを果せずに逝ってしまったように思う。(会社員)


2002-12-09

 青春館 啄木・賢治像の贈呈式  岩手日報2002-11-08・11-15 

 11月28日に開館する盛岡市中ノ橋通一丁目の「もりおか啄木・賢治青春館」に展示するブロンズ像の贈呈式は6日、市役所で行われた。

 同市中ノ橋通の東山堂書店社長と岩手銀行頭取が桑島博市長に故舟越保武氏制作「若き石川啄木」と高田博厚氏制作「宮沢賢治」の目録を手渡した。

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 宮沢賢治「ぼくが短歌をつくりはじめたのは、石川先輩の『一握の砂』を読んだのがきっかけでした」。石川啄木「それにしては下手すぎるね」。劇作家井上ひさしさんによる仮想対談の一節だ。啄木は賢治の十歳年上で旧制盛岡中学の先輩。得意げに文学の話をする啄木と、それをもじもじ、にこにこしながら聞く賢治の姿が浮かんでくる。二人のブロンズ頭像が28日開館する.「もりおか啄木・賢治青春館」に並ぶ。互いの人生が重なるのは、わずか十六年間にすきない。若くして世を去り、生涯出会う機会がなかった二人の「初対面」となる。さて、何を語り合うのだろう。

 歌集「一握の砂」が刊行されたのは、1910(明治43)年。その翌年から、盛岡中学在学中の賢治は短歌を作り始める。生活を歌い、三行書きという啄木の新たな表現形式は歌壇に衝撃を与えた。賢治が影響を受けないはずがない。

 賢治は後年、上京の際に啄木を支えた友人の言語学者金田一京助を訪ねた。金田一は「一、二語、私と啄木の話を交えたようだったが…」と随想に書き残す。賢治は,啄木の話をしたかったのだろうか。

 「青春館」は、啄木が寝ころんだ岩手公園近く、賢治が「川と銀行木のみどり」と歌った中津川そばにある。耳を澄ませば、川音に交じって二人の笑い声が聞こえてくるかもしれない。


2002-11-30

 石川啄木と鉄道   銀河系いわて めるまが(No.159より抜粋)

 12月1日、東北新幹線盛岡〜八戸間が開通することにより、高速鉄道網が岩手県を縦断します。これは、明治24(1891)年に東北本線上野〜青森間が開通から111年ぶりのことです。(上野〜盛岡間はその前年に開通)

 東北本線開業時に幼少期を過ごした岩手出身の詩人、石川啄木(1886〜1912)が残した作品のうち、鉄道に関連する短歌について、いくつかご紹介します。

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  ふるさとの訛りなつかし

  停車場の人ごみの中に

  そを聴きにゆく      『一握の砂』


 停車場とは当時、東北本線の始発であった上野駅です。

 啄木が故郷を出て三年経った満二十四歳の頃、東京にいて何度も故郷を思い浮かべました。四季の草花や香り、虫の声、夏の蛍狩り、そしてふるさとの人々を思い浮かべ、涙を流しました。

 啄木はいつかはかならず故郷へ帰り、ふるさとを拠点にして新聞や雑誌を発行し、文学活動をしたいとも願っていました。

 ※JR上野駅構内及び上野駅前通商店街に「歌碑」が設置されています。

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  三度ほど

  汽車の窓よりながめたる町の名なども

  したしかりけり      『一握の砂』


 かつて啄木は、北海道にいる義理の兄を訪ねるため、東北本線を二度、北上しています。三度目は、啄木が北海道へ移住するために、好摩駅から青森駅行きの汽車に乗り込みました。

 汽車の窓から、ようやくほころび始めた故郷の桜を眺めつつ北へ向かう啄木でした。三戸の駅では、構内の桜が半ば散りかけているのを見、手の届かんばかりのところに山吹の花が咲いているのを眺めました。

 こうした風景と共に、啄木は町の名前を親しく思い出したことでしょう。

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  霧ふかき好摩の原の

  停車場の

  朝の虫こそすずろなりけれ   『一握の砂』

 「すずろなり」とは「なんとなく心が引かれる」という意味です。

 盛岡から北の東北本線は明治二十四年に開通しました。啄木が生まれて五年後のことです。当時はまだ、啄木が住む渋民に駅はなく、盛岡へ行くにも東京へ行くにも、歩いて四十分ほどの好摩駅を利用しました。

 夏の朝、好摩のあたりは霧が深くたちこめることがあります。多くの夢を抱いて好摩駅に立った啄木の耳に、朝の虫の声は心地よく聞こえたことでしょう。

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  なつかしき

  故郷にかへる思ひあり、

  久し振りにて汽車に乗りしに。   『悲しき玩具』


 久しぶりに汽車に乗ってみると、懐かしい故郷へ帰るような気持ちになったことを詠んだものです。啄木は中学時代から、上京するときも、帰郷するときも汽車を利用していました。

 汽車に乗ってふるさと渋民を出たのは、啄木満二十一歳のときでした。以来二度とふるさとへ戻ることはありませんでした。しかし故郷は長く、深く、強く、常に啄木の心を支配していました。啄木の心の磁石はいつも北を指していたのです。

 作品解説「啄木歌ごよみ」(財団法人石川啄木記念館)

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 終わりに

 啄木は、逝く十カ月前、一編の詩を残している。理想の暮らしを描いた詩『家』だ。そこには、「場所は、鉄道に遠からぬ、心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ」と詠まれている。

 故郷に家を建てて暮らしたいと願いながらも、故郷と東京を結ぶ鉄道から遠くない場所に住みたいと思う心。そうした心の中での葛藤が、故郷への思いをさらに強め、叙情あふれる名歌を生み出したとも言えよう。


2002-11-28

 「心に残る家」石川啄木 日本テレビ2002-11-27

 盛岡の賑やかな中央通りを少し小道にそれると、明治の詩人石川啄木が新婚の日々を暮らした家と出会います。この家の二間を間借りしたのは二十歳の時。両親と妹は奥の八畳に、夫婦は四畳半の小さな部屋で新しい生活を始めます。

 定職もなく不安だらけの結婚だったけれど、啄木はささやかな幸せをかみしめていました。初恋の人と結ばれた喜び、貧しさを承知で自分の胸に飛び込んでくれた妻へのいとおしさ。彼女の弾くバイオリンの音色は何もないすすけた部屋を彩り、明るい明日を運んでくれるのでした。

 「たましひの 君にと燃ゆる

   みち足らふ日の 輝きを」

              (詩集「あこがれ」より)

 苦難のままに27歳で命を閉じた石川啄木。彼のはかない生涯の中でこの家で過ごした日々はもっとも満ち足りた至福の時だったのかもしれません。

 

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