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啄木文学散歩

東京都:上野・本郷・湯島

JR上野駅構内「歌碑」 - 新幹線乗換口の広場 「ふるさとの訛なつかし」

上野駅前通商店街「歌碑」 - 群馬県鬼石の桜石は赤い縞目模様

本郷弓町 喜之床「旧居」 - 床屋の二階が啄木一家の住まい

湯島切通坂「歌碑」 - 「二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を


J R上野駅構内【歌碑】


新しい場所で 固定されるのを待つ

 いつものように、新幹線コンコースに石川啄木の歌碑を訪ねたが、無くなっていた。人に聞いても分からない。駅員に聞いたりして、やっとその懐かしい碑に逢えたのは、東北・高崎・常磐線方面の改札口に近く,新幹線乗換口に向かう広場の、太い円柱の前だった。碑は、まだ運んだばかりで、固定されていないため、緑色のフェンスに囲まれていた。後ろに廻って覗き込んでいたら、工事の人たちがやって来た。「明日、この裏にコンクリを流し込んでしっかり止めるんだ。そうすればフェンスを取る」と、話していた。

 ここは、前にあった場所よりもずっと歌碑が見やすいし、親しみが持てそうな気がした。 

上野駅前通り商店街の入口【歌碑】

 掃除したばかりらしく、筑波山のような形をした碑の上のくぼみには、澄んだ水が溜まっていた。群馬県鬼石の桜石は、この碑を建てた横張さんのお話の通り、結核で血を吐いた啄木を想わせるように、冷たい風の中で赤い縞目を流していた。


バケツがまだ置いてあって 歌碑が身近に見える

  ふるさとの訛なつかし

  停車場の人ごみの中に

  そを聴きにゆく

本郷弓町 喜之床【旧居】

 本郷区弓町の床屋、新井喜之助方の二階六畳二間が石川啄木一家の住まいだった。

【1909年(明治42年)6月 〜 1911年 8月】


啄木が借りていた二階に 現在の「理容アライ」がある
通りから見える階段の右脇に金色に光るプレートがはめ込まれて
「啄木ゆかりの喜之床旧跡」の紹介文がある

 姑 カツと 嫁 節子が火花を散らし、節子は家出する。

……『かかあに逃げられあんした』と、金田一の元に駆け込んだ啄木は、……食べ物も咽を通らず……やりきれなくなっては、『お母さん酒だ、酒が無いか』と怒鳴ると、おどおどして腰の曲がったおっ母さんが、起きて危ない、真っ暗な、急な梯子を降りて、……通りの酒屋へ貧乏徳利を下げて買いにいった。

  《金田一京助・弓町時代の思ひ出から》

 東京で唯一の現存する石川啄木ゆかりの家だったが1980年(昭和55年)「明治村」に移設された。

 今の階段。


啄木一家は この二階に住んでいた
現在この階段を上ると右側が、理容アライの店になっている
階段を2,3段上り 見上げたらなんだかとても急な角度に見えた 

 

湯島切通坂【歌碑】

 親子五人、そろって住んだため費用がかさみ、啄木は、朝日新聞社の勤めも夜勤をしなければならない。

  二晩おきに

  夜の一時頃に切通の坂を上りしも──

  勤めなればかな。


碑の文字は 原稿ノートの自筆を刻んでいる
青い空を映し ちょうどビルの角に【石川啄木】の署名が架かっている
家族を危うく支えているそのときの 彼の姿のようだ 

 歌の下には、文京区教育委員会の説明文がある。

「夜勤の晩には───湯島神社の石垣をまさぐりながら暗い切通坂をいろいろな思いを抱いて上ったことであろう。─この歌は当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている」

 思いっきり定型をはずしたこの歌は、振り払うことのできない生活のやりきれなさを、文字にして溢れさせているように わたしには思える。

(2001-冬)   

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