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2001-12-08 盛岡の演劇人による「泣き虫なまいき石川啄木」1 - 森 義真

2001-12-08 「井上ひさしさんに観てもらいたかった」2 - 森 義真

2001-11-23 啄木偲び宝徳寺に歌碑建立 - 岩手日報

2001-10-28 「ふるさとの山」石川啄木:NHKカルチャーアワーを聴いて - yuko

2001-10-19 文芸批評の筆者「ハノ字」は啄木 - 岩手日報

2001-10-15 啄木の盛岡中学時代 - 角谷政弘


2001-12-08 盛岡の演劇人による「泣き虫なまいき石川啄木」『街もりおか』 森 義真

 2001年2月1日。岩手教育会館大ホール満席の聴衆に向かって、作家井上ひさしさんは、「盛岡は演劇の盛んなマチ」「その演劇を市民がバックアップして、高い文化的レベルを保ってほしい」という熱いメッセージを発した。
 その「井上ひさし・二一世紀新春啄木講演会」の当日、釜石までお迎えに行き、タクシーの車中で約二時間半、親しく井上さんとお話をするという願ってもない役を仰せつかり、たくさんの会話をさせていただいた。
 その中で、15年ぶりにこまつ座が再演する「泣き虫なまいき石川啄木」の地方巡演、特にも盛岡での公演についてお伺いしたところ、その難しさを語るとともに、「ぜひ、盛岡の演劇人でやってほしい」との強い期待の込められた言葉を聞いた。
 東京・紀伊国屋ホールでの再演を観てしばらくした後、盛岡演劇協会の主だった方々に集まっていただき、盛岡の演劇人による「泣き虫――」の公演実現をお願いした。オブザーバーで同席された昆明男さんが、「それは講演会の後、あいさつに行ったら俺も言われたし、5年前の日本劇作家大会の時にも言っていた」と話され、意を強くし、時期はいつがいいか、配役はどうするか、肝心なのは誰がプロジュースするかなのだ、などと談論風発した。
 一方、それと平行する形で、やはり井上さんのメッセージを受け止めていた坂田裕一さん(プラザおでって副館長)が動き、「おでってリージョナル劇場第一回公演」という形で、今回の「泣き虫――」が実現!
11月2・3・4日(金・土・日)の三日間、盛岡市中ノ橋際のおでってホールで行われた三ステージは、いずれも満員の大盛況の中で演じられた。
 演出の藤原正教さんはじめ、六人の出演者(佐々木達矢さん、吉田瑞穂さん、伊勢二朗さん、畑中美耶子さん、永井志穂さん、千葉伴さん)、それに舞台を支えたスタッフの皆さんは、住所地は異なっても、皆、盛岡を拠点に活動している方々。
 つまり、盛岡の演劇人による「泣き虫なまいき石川啄木」が、盛岡で公演されたのだった。
ところが、話はそれだけで終らない。劇中で使われる「盛岡弁」(主に、母カツと妻節子のセリフ)は、映画や芝居の方言指導でも活躍されている畑中美耶子さんが中心になって、本来の盛岡弁に直し、そのテープを原作の井上さんに送り、承諾を得た上で演じたものという。
 井上さんの立場になって考えてみると、岩手では一関と釜石で暮らし、盛岡へも時折訪れた。それなりに「盛岡弁」らしきものを覚え、「泣き虫――」を書くにあたって資料も調べたが、あまり自信がなかった。というのが本音のように思う。
 15年前の資料を読むと、公演直前まで台本が上がらず、断片的に届けられる場面場面を、一生懸命になって稽古した。とあるから、苦心して書き上げた「盛岡弁」のセリフを、専門家に検証してもらうような時間は全くなかった、と推測しても間違いないだろう。
それが、盛岡人によって本来の盛岡弁に書き直され、盛岡の演劇人によって演じられたのだから、井上さんとしては納得し、安心し、ほっと胸をなでおろしたのではないだろうか。
その意味でも、今回の芝居はぜひとも井上さんに観てもらいたかった。また、その感想とコメントをお伺いしたかった。
 いずれ、今回の芝居「泣き虫――」は十分に堪能した。
15年前のこまつ座(テレビ)、8年前の劇団未来(大阪)、今年3月のこまつ座(紀伊国屋ホール)に続いて4回目の観劇になるが、私自身の感じとしては、今回が最高だった。
 150席+α、というアットホームな「芝居小屋」の雰囲気のおでってホールの最前席で観たことと、これまでに何度か芝居を観たり脚本を読んだりして、ストーリーはすでに体の一部としてあったことも大いに関係しているかもしれない。
 そうしたことを越えて、出演者やスタッフの熱意が伝わってきたのかもしれない。
盛岡の演劇人による、こまつ座以上(筆者の買いかぶり?)の井上戯曲の成功を喜ぶとともに、『三日間満員』という盛岡市民(もちろん、周辺市町村を含む)の“演劇への理解”をも実感した。
(会社員・近代文学研究家) 

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2001-12-08 「井上さんに観てもらいたかった」『感劇地図』(近刊)  森 義真

 盛岡の演劇人による「泣き虫なまいき石川啄木」のつづき)

 最後の「焼いではわがね!おら、もう一回夫さそむぐ!」という節子のセリフを聞いた途端、涙がこぼれた。この芝居に対する様々な想いが一遍に込み上がってきたクライマックスだった。
 おでってリージョナル劇場『第一回』公演「泣き虫なまいき石川啄木」は、大成功だったと強く思う。11月2日(金)からの三日間・三ステージは、いずれも満員の盛況で、芝居を作り上げたスタッフと役者の一生懸命さと、客席の期待とが一体となって、会場の「おでってホール」は熱気に包まれた。
 ぜひとも、作者の井上ひさしさんに観てもらいたかった。きっと、「素晴らしい、さすがは盛岡の演劇人だ」と、誉めてくださったに違いない。そして何よりも、ご自身が中途半端な形で書かざるを得なかった『盛岡弁』のセリフが、すっかりこなされた言葉に変わり、地元の役者にイキイキと演じられたことに感嘆し、納得したはずだ。
 今回の公演にあたり、井上さんは快く作品を提供したばかりでなく、母カツと片山カノ役の畑中美耶子さんを中心とした盛岡のスタッフが、書き直して吹き込んだ『盛岡弁』のセリフのテープを聞いて、そのリメイクを承認してくれたという。
 芝居は、啄木の死後、妻の節子が、啄木が焼き捨てろと遺言した日記を読み返し回想する、という設定。東京本郷の床屋の二階を舞台に、啄木の「最後の三年間」での思想的な到達という側面をほのめかしつつ、その間における家族と友人が展開する悲喜劇が描かれている。
 キリスト教伝道師を目指す妹が、帰ってくる度に起こる家庭騒動。嫁と姑の確執。妻の家出と晩節問題。父の悟りと家出。友人の援助と同じ境遇など。
 啄木をめぐる様々な動きが、その評伝の所々をアレンジした形で描かれ、演じられた。
 妹の光子(永井志穂さん)のきっぱりとした物言いが、物語の展開を観客によく理解させてくれるリード役をした。母カツ(畑中美耶子さん)は、終始「盛岡弁」で嫁いびりをしながらも、最後には人情味も垣間見せ、笑いと涙を誘った。妻節子(吉田瑞穂さん)は、姑との対立に耐えかねて家出をしたり、啄木の親友宮崎郁雨との不貞を疑われ、髪を切って詫びるという修羅場を乗り切って啄木の才能を信じ、遺言に背いて日記を残した。
 父一禎(伊勢二朗さん)は、すべてを悟ったような禅僧の言葉を発するとともに、好きな酒のためには孫の仏壇を質入れするような滑稽さを見せた。親友の金田一京助(千葉伴さん)は、喧嘩をしながらも啄木に対する友情にあふれつつ、啄木一家への惜しまない援助を示した。
 そして、啄木(佐々木達矢さん)は、若くして人生を達観した考え方を示しながら、友人や家族に対しての愛情と突き放したようなクールさを併せ見せた。
 いずれも、「役」に感情移入した迫力があり、好演だった。更に、一場と八場で、四人が全く違う役を演じるダブルキャストも興味深く、よかった。
 惜しむらくは、効果音の音量が低かったこと。すなわち、一場と八場の京子が歌う「我は海の子」、二場の「ゴスゴスと氷を削る音」、七場の「夜鳴きそば屋の声」が、もう少しはっきりと出ていれば、舞台での動きがもっと幅広く、観客に迫ってきたのではないかと思う。
 この芝居は、セリフに込められたユーモアとシリアスな状況を聞いて、観て、楽しむ「みどころ」がポイントだった。従って、啄木の評伝をよく知っている人には、言葉のやりとりに織り込まれたユーモアにクスリ、という場面が多くあった。
 そういう場面を、それまで啄木に興味もなく、伝記的なエピソードを知らない観客は、どう聞いて、どう感じたのか、非常に興味があるところだ。また、比較的若い観客が、「盛岡弁」を聞き取り、理解できたのか、という点にもやや不安が残る。
 ともあれ、盛岡の演劇人が見事に演じてくれた啄木の「最後の三年間」の意味を、今、しみじみと感じている。その啄木の現代的意味をーーー。
(会社員・近代文学研究家)


2001-11-23 「啄木を偲び 宝徳寺に歌碑建立」 岩手日報

 11月20日、玉山村渋民の宝徳寺駐車場に石川啄木歌碑が完成した。

 建立式は、啄木愛好家らが出席して行われた。碑は、同村渋民の伊五沢富雄さんが、祖先の伊五沢丑松と石川啄木供養のため、宝徳寺本堂完成を記念して建立した。

 丑松は玉山小学校初代校長を務め、啄木の小説「道」に校長役のモデルとして登場している。

 建立式では、伊五沢さんが「啄木をしのび、丑松を語ってほしい」とあいさつした。 

 歌碑は高さ約3メートル、重さ約2.4トンで姫神山ふもとで採られる姫神小桜石でできている。石碑には、丑松の句と啄木の歌、啄木が1907年(明治40年)に丑松にあてた163行の長い手紙の末文が刻まれている。

  • 啄木「今日もまた胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行きて死なむと思ふ」
    『悲しき玩具』の歌で、郷土を思う気持ちが表れている。
  • 丑松「名香の 堂を埋(うず)むや 魂祭」
    の句を酒楽(しゃらく)の俳号で詠んだ。
    盆の宝徳寺にお参りする人が集まり、線香が漂い先祖を供養する様子を描いている。  


2001-10-28 ふるさとの山:石川啄木『一握の砂』『悲しき玩具』を聴いて 

 NHKカルチャーアワー「文学と風土」というラジオ番組の中で「北国名作探訪」として作家の高田宏氏が、啄木の山への思いを語りました。

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 あわただしく、激しく、悩み多く生きた石川啄木にとって、つねに心のよりどころとなっていたのが、ふるさとの山ではなかったでしょうか。岩手山、標高2041メートルのこの山を、故郷にいる日々見上げ、北海道や東京に住んだ日々も岩手山に語りかけていました。

  • 二日前に山の絵見しが/今朝になりて/にはかに恋しふるさとの山
  • かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川

 「おもひでの川」は北上川です。心が挫けそうになると岩手山を思い自分を支えていたのだと思います。啄木のふるさとは山、山はふるさとの核をなし、ふるさとは山によって生きているのです。山は神であり、神は山に住むのです。

  • 山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり

 ひたすらに山を思って、山によって自分をいやしているのです。

  • ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな

 啄木の山恋いの歌、望郷の歌がこの詩人の内面深くを見せているものだと思っています。

「ローマ字日記」にはこんなところがあります。

  • いなか!いなか!予の骨をうずむべきところは、そこだ。おれは都会のはげしい生活に適していない。

 望郷の激情は、地方から都会へ出てくる多くの青年の心にあるもので、啄木にはそれがことさら強かったようです。


2001-10-19 「文芸批評の筆者「ハノ字」は啄木」 岩手日報(2001.9.21)

 1902(明治35)年6月20日付岩手日報に掲載された文芸批評「『ゴルキイ』を読みて」と翌21日付「夏がたり」の2本の筆者「ハノ字」は石川啄木か−。

 筑摩書房版全集で参考資料とする理由について故岩城之徳さんは、当時の啄木が号していた「白蘋(はくひん)」の頭文字を採って「ハノ字」を名乗ったのかもしれないとした(全集解題)。
 「ハノ字」作品について盛岡市の啄木研究家遊座昭吾さん(国際啄木学会理事)は、当時の掲載紙を検討した。それによると啄木が「白蘋」「白蘋生」の署名で書いた文芸批評「寸舌語」「五月乃文壇」は同年3月から6月1日まで一面の中段に断続的に掲載され、同じレイアウトで同20、21日に「ハノ字」が登場する。紙面構成や表現の類似性などから「啄木が一連の筆者とみて間違いない」「新聞はレイアウトが命。一連の文芸コラムが同じ位置に固定されているのを見れば、筆者も同一人物であることは自明だ」と指摘し、「次期全集には啄木作品として収録すべきだ」と提起している。

 特に「ハノ字」の田山花袋論は花袋研究者も「同時代評では出色」と評価しており、「啄木」を名乗る以前から確かな文学観を抱いていたことがうかがえる。


2001-10-15 啄木の盛岡中学時代」

★★ 角谷 政弘

 時折、拝見しております。啄木の母校・盛岡第一高校同期会の佐藤泰久さんからこのページを教えてもらった次第。
 
 啄木には、青春当時、特に関心を持ちませんでしたねぇ。
それでも、たまたま書物から見つけた事柄の 二つ、三つを紹介します。

  • 小生の育った所近くに、中津川に架かる上ノ橋があります。橋の歴史は旧く、「慶長十四年十月渡り初め 長さ二十間 広さ三間 擬宝珠十八個」と、古書に記しています。
    この擬宝珠は、現在も受け継がれていますが、啄木は友人に送った書信に、「錆色蒼然たる古銅の擬宝珠を有する橋を見るべく候」と述べています。 盛岡ガイドの先駆者でもありましたな。
  • 野村胡堂は、盛岡中学で「六○五」という不思議な名の回覧雑誌を出していたそうで、啄木が歌稿を持ち込んだところ、「鼻持ちならない」といって掲載を逡巡したというエピソードがあります。
    これ、猪口才な、と同じことでしようかね。
  • 金田一京助から「明星」を借りた話は有名ですが、後に海軍大将となつた及川古志郎から鉄幹の詩歌集を借り受けていた話はでませんね。

 追記 小生も映画、旅は好きです。ベルギーは10年余前、汽車の一人旅を楽しみました。

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☆☆ yuko

 いつもアクセスしてくださいまして、ありがとうございます。
佐藤泰久さんからもメールをいただいて、いろいろと楽しいお話を伺っています。
 
 わたしは、一年と少し前にこのページを始めた啄木ファンです。知らないことばかりですので、このようなお便りをとても嬉しく思います。
 擬宝珠のことも、野村胡堂のこともおもしろいお話です。これから、「啄木文学散歩ページ」に、『盛岡市』を載せる予定です。その中で角谷さんのお話を生かしていきます。 やはり啄木の母校を出た方のお話は、皆様にも興味深く読んでいただけると思います。

 映画や旅行の部分もお読みくださったのですね。ヨーロッパの鉄道はちょっとだけ乗ったことがあります。

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