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石川啄木 年譜 1886年(0歳)〜1904年(18歳)

1886年 明治19年 0

1896年 明治29年 10

1906年 明治39年 20

1887年 明治20年 1

1897年 明治30年 11

1907年 明治40年 21

1888年 明治21年 2

1898年 明治31年 12

1908年 明治41年 22

1889年 明治22年 3

1899年 明治32年 13

1909年 明治42年 23

1890年 明治23年 4

1900年 明治33年 14

1910年 明治43年 24

1891年 明治24年 5

1901年 明治34年 15

1911年 明治44年 25

1892年 明治25年 6

1902年 明治35年 16

1912年 明治45年 26

1893年 明治26年 7

1903年 明治36年 17

啄木の死後

1894年 明治27年 8

1904年 明治37年 18

1895年 明治28年 9

1905年 明治38年 19

(3・7・8歳は特記なし)

      資料盛岡における啄木居住地     

石川啄木 年譜 


 1886年 明治19年 満 歳   

● 2月20日 父一禎が住職をしていた岩手郡日戸村(現玉山村日戸)の曹洞宗常光寺に生まれる。啄木の戸籍名は、「一(はじめ)」。一禎は、僧籍であることを考慮してか、母カツを入籍していず、母は工藤姓のままであった。母の戸籍に「戸主工藤カツ長男私生 一(はじめ)」として届けられた。(1885年10月27日説もある。)
 父一禎は、岩手郡平舘村の農業石川与左衛門の五男。母カツは、南部藩下級藩士工藤条作の末娘。

この日の石川家
 
父 一禎      生年月日1850年(嘉永 3年) 4月 8日 35歳
母 カツ      生年月日1847年(弘化 4年) 2月 4日 39歳
姉 サタ(通称サダ)生年月日1876年(明治 9年) 8月 2日  9歳
姉 トラ(通称とら)生年月日1878年(明治11年)11月 1日  7歳
 
(満年齢のとなえ方により、2月20日に母カツだけは、この年の誕生日を過ぎている。)

○ なお、後に妻となる堀合セツ(通称節子)は、同年(1886年)10月14日に南岩手郡上田村(現盛岡市上田)に生まれる。父は盛岡市の士族堀合忠操、母はトキ、第一子長女。
 

 1887年 明治20年 満 歳   

● 隣村の渋民村宝徳寺十四世住職・遊座徳英の急逝に伴い、一禎は同寺十五世住職となり、一家は渋民へ転住。
 
○ このため前住職遊座徳英の妻子は寺を出て生活に困窮し、未亡人サメは檀家の佐藤家に、長男は(岩手町)川口の小学校の代用教員に、三男は岩手県北方の御返地の寺へ、四男は遠野近くの達曽部へと、一家離散した。
 
○ そうした、ある意味では強引な一禎の宝徳寺転住は、後の一禎や啄木の一生にも微妙な影を落とすことになる。

 1888年 明治21年 満 歳   

○ 12月20日 妹ミツ(通称光子)生まれる。
 

 1890年 明治23年 満歳   

○ 一禎、1877年(明治10)3月の火災によって焼失していた宝徳寺本堂を、八方奔走して費用を集め、3年かけて再建する。
 

 1891年 明治24年 満 歳   

● 5月2日 学齢より1歳早く、渋民尋常小学校へ入学。当時は、現在のような堅固ないっせい入学制度ではなかった。
 
○ < その昔/小学校の柾屋根に我が投げし鞠/いかにかなりけむ >『一握の砂』
 
○ 二女トラも同年度入学。
 
○ 10月21日 長姉サダ田村末吉と結婚。

 1892年 明治25年 満 歳   

○ 4月1日 堀合節子、盛岡第一尋常小学校に入学。
○ 9月3日 母カツは、二女トラ、長男一、三女ミツを伴って石川家に入籍し、三人の子は戸籍上石川一禎の養子となる。啄木も以後工藤姓から石川姓となった。
  

 1895年 明治28年 満 歳   

○ 3月 渋民尋常小学校を卒業。卒業時は首席であったと言われる。
 
○ < そのかみの神童の名の/かなしさよ/ふるさとに来て泣くはそのこと >『一握の砂』
 
○ 当時、尋常小学校は四年制。渋民には、まだ高等小学校は設立されていない。当時、県内唯一の高等小学校は盛岡にあった。
 
● 4月2日 盛岡高等小学校へ入学。校長は新渡戸仙岳。当時、4年生だった金田一京助は啄木の登校するのを見て「この子は幼稚園に行くのを間違って来た」という級友のことばを真に受ける程、可愛い少年だったという。
 
○ 盛岡市仙北組町の母カツのすぐ上の兄である伯父工藤常象方に寄寓する。
 

 1896年 明治29年 満10歳   

○ 3月23日 節子盛岡仁王尋常小学校を卒業。
 
○ 早春の頃、伯父の家から、母方の伯母海沼イエと娘ツエ、孫の慶治の住む盛岡市新築地に移る。イエは、妹のたった一人の男の子である啄木のために出来るだけの援助を惜しまなかった。また慶治は啄木とほぼ同年齢(1歳上)で、良い友だちであった。
 
○ 3月25日 修業証書授与式。啄木は1年を修了。当時の成績は「善・能・可・未・否」の五段階で示されたが、啄木は「学業善、行状善、認定善」のかなり優秀な成績であった。
 
○ 4月1日 節子盛岡高等小学校入学。渋民村出身の金谷のぶを知る。
 
○ 4月4日 始業式。担任は佐藤熊太郎訓導。
 

 1897年 明治30年 満11歳   

○ 3月24日 修業証書授与式。啄木は2年を修了。成績は引き続き「学業善、行状善、認定善」であった。3年担任も佐藤熊太郎訓導。
 
○ 6月30日から、中学校受験のため、海沼慶治とともに、菊池道太の経営する学術講習会(後予備校江南義塾、私立岩手橘高等学校を経て、現江南義塾盛岡高等学校に通学。海沼慶治は、体格が良く、啄木がいじめられたときなどいつもかばってやったという。当時の制度として、高等小学校2年次終了で、中学校受験は可能であった。
 
○ 8月11日 次姉トラ、日本鉄道株式会社勤務の山本千三郎(当時福島県・湯本駅勤務)と結婚。
 

 1898年 明治31年 満12歳   

○ 3月25日 盛岡高等小学校修業証書授与式。3年間の成績は、いずれも「学業善、行状善、認定善」。3年間を通して啄木は首席。
 
○ 4月8日 始業式。啄木は四年次に進級。
 
○ 4月11日 岩手県盛岡尋常中学校入学試験。
 
○ 4月18日 128名中10番の好成績で合格。
 
● 4月25日 岩手県盛岡尋常中学校入学式。クラスは身長順に甲・乙・丙に分けられ、啄木は丙1年級編入。
 
○ 担任は数学の富田小一郎
 
○ 同級に阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一、船越金五郎、伊東圭一郎がいた。
 
○ 南部藩の「立志」の思いが全校に溢れていて、この中学校から、官僚的束縛を受けにくい軍人、財界人を初めとして、多くの人材を輩出した。2年に、板垣征四郎(陸軍大臣)、野村長一(作家・胡堂)、3年に、及川古志郎(海軍大臣)、金田一京助(言語学者)、田子一民(衆議院議長)、5年に、米内光政(首相)らがいた。
 
○ 保証人は伯父対月の女婿、米内謙二郎。
 

 1899年 明治32年 満13歳   

○ 3月 1年次修了時成績は、131名中、25番。
 
○ 4月、岩手県盛岡尋常中学校は、岩手県盛岡中学校と校名変更。2年次進級。やはり身長順に組分けされ、4クラス編成の丁2年級。担任は再び富田小一郎。
 
○ 堀合節子も、盛岡高等小学校から、私立盛岡女学校2年次に編入する。
 
○ 夏休みを利用して最初の上京。6月5日、上野駅に転任した次姉トラの夫山本千三郎宅に滞在。上野の杜と品川の海を見て帰る。
 
○ 11月1日 担任の富田小一郎は、クラスの旅行の会を「丁二会」と呼ぶ。(「丁二会」は、翌年から、級友会に発展した。)
 
● 12月20日 蒟蒻版摺「丁二会」の雑誌発行。
 
● 啄木と節子は、この年に出会う。
 

 1900年 明治33年 満14歳   

○ 1月 海沼家から、帷子小路長姉田村サダ夫妻の家に寄寓。
 
○ 3月 2年次修了時成績は、140名中、46番。学業はやや低下。
 
○ 4月 丁3年次進級。担任は三度富田小一郎。 < よく叱る師ありき/鬚の似たるより山羊と名づけて/口真似もしき >『一握の砂』
 
○ 4月25〜26日 丁3年級の級長に阿部修一郎、副級長に小野弘吉を選出。
 
● 阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一、伊東圭一郎らと、親睦の会を作り、後に「ユニオン会」(ユニオンリーダー巻四を自習するところから名づけられ、しだいに社会情勢や文学についても関心をもつようになった)へと発展する。
 
○ 5月18日 「丁二会」の雑誌を改め、回覧雑誌『丁二雑誌』発行。翌月2号。
 
○ 7月18日から、富田小一郎教諭に引率されて級友7名と丁二会旅行として、南三陸沿岸方面への旅行に参加する。
 
○ 盛岡中学校校友会発足。
 
○ 11月6日 「丁二会」を「級友会」と改め、啄木は第一部長に選ばれる。
 
● この年、上級生の及川古志郎(後に海軍大臣)を知り、与謝野鉄幹の『東西南北』『天地玄黄』の手ほどきを受け、その紹介でやはり上級生の金田一京助を知り、『明星』閲読に便宜を得、与謝野晶子らに圧倒的な影響を受けた。また、野村長一(後の胡堂)などの影響により文学に志す。
 

 1901年 明治34年 満15歳   

● 2月 岩手県盛岡中学校において、校内職員の軋轢を契機として、3・4年生徒間に校内刷新運動発生。
 
○ 2月26日 啄木の学級も、担任富田小一郎教諭の説得にもかかわらず、級長の阿部修一郎の指示のもと、ストライキ合流決議。啄木も熱心に参加。
 
○ 2月28日 啄木・阿部・佐藤二郎起草の具申書を校長多田綱宏に提出。
 
○ 学内外に衝撃を与えたが、時の知事、北条元利の裁定により収束。大筋において生徒側要求の貫徹。教員は、校長の休職を始めとして、23名中、19名までが、休職、転任、依願退職となった。事件処理結果が、啄木に与えた影響も少なくなかったと思われる。
 
○ 3年次修了時成績は、135名中、86番。
 
○ 4月1日 校名が、岩手県立盛岡中学校と変更。丙4年次進級。担任は国語科の西村元主。
 
● 元学習院教授山村弥久馬が新校長となり、学校側の強硬な生徒指導で校内の自由な雰囲気は一掃される。
 
○ 5月9日 丁二会解散。
 
○ 6月25日 古木巌との回覧雑誌『三日月』第3号発行。
 
○ 7月下旬 友人たち数人と秋田県鹿角地方へ旅行した。
 
○ 9月7日 『三日月』と瀬川深等の『五月雨』との合併披露。
 
● 9月21日 回覧雑誌『爾伎多麻』第1号発行。啄木は「翠江」の筆名で、美文「秋の愁ひ」と短歌「秋草」30首、「嗜好」等を発表。現存する啄木最古の作品。同雑誌は、2号まで発行された。
 
○ 11月 田村家の転居で仁王小路に移る。
 
● 12月3日から翌年1月1日にかけて『岩手日報』に「翠江」の筆名で、友人たちと結成した「白羊会詠草」を発表。啄木短歌で活字となった最初の作品であった。
< 迷ひくる春の香淡きくれの欄に手の紅は説きますな人 > 岩手日報12月3日
なお、啄木が中学校時代に用いた筆名・署名としては、他に「麦羊子・白蘋」等がある。
 
○ この年、雑誌「明星」(前年4月創刊)のバックナンバーおよび新刊、高山樗牛「文明批評家としての文学者」「美的生活を論ず」「天才の犠牲」、与謝野晶子『みだれ髪』等を耽読、浪漫主義を満身に吸い込む。石川啄木の文学的生涯の起点。浪漫主義文学者としての出発はこの年の遅くない時期と見なしうる。
 
● この年、節子との恋愛も急速に進む。
 

 1902年 明治35年 満16歳   

○ 1月11〜12日 「麦羊子」の名で、「『草わかば』を評す」を『岩手日報』に発表する。
 
○ 1月29日 ユニオン会友人等と『岩手日報』号外「青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件」を売り、足尾銅山義援金とする。
 
○ 3月11〜18日 「白蘋」の名で、『岩手日報』に文芸時評「寸舌語」を発表する。
 
○ 4年次修了時成績は、119名中、82番。
 
○ 3月26日 堀合節子、盛岡女学校卒業し、家事に従事する。
 
○ 4月 クラスは身長順によらず分けられ、乙5年次に進級。担任は修身・国語・歴史を教える田島道蔵。
 
● 4月17日 4年次期末試験において、不正行為があったとして譴責処分。
 
○ 4月21日 保証人を米内謙次郎から、義兄の田村叶に変更。
 
○ 5月28日〜6月1日 5年級修学旅行(石巻、松島、仙台方面)に参加。
 
○ 6月20日 「ハノ字」の名で『岩手日報』に書評「『ゴルキイ』を読みて」を発表する。
 
● 7月15日 1学期末試験においても、啄木は友人の狐崎嘉助に代数の答案を見せてもらい、二度目の譴責処分。保証人の田村叶召喚。1学期の成績は、「修身、作文、代数、図画」不成立、「英語訳解、英文法、歴史、動物」不合格。出席104時間、欠席207時間。
 
○ 9月2日 処分告示。狐崎嘉助は、特待生を解かれた。
 
● 10月1日 『明星』第3巻、第5号に < 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 > が「白蘋」の筆名で掲載される。
 
○ この年、2月・5月・9月・10月と授業料支払いの督促を受けている。
 
● 10月27日 当時の盛岡中学校校則からすると、落第は必至であることもあり、「家事上の都合」をもって退学願い提出、持ち回り会議によって退学許可エリート街道を進んできた啄木の転身の契機の一つとなる。
 
● 10月30日 文学で身を立てるべく渋民を出発。途中盛岡にて一泊し、ユニオン会の仲間や節子との別れを経て、上京「かくて我が進路は開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。雲は高くして巖峯の巓に浮び秋装悲みをこめて故郷の山水歩々にして相へだゝる。・・・」と日記に記す。
 
○ 11月2日 大館みつ方(当時の小石川区小日向台町)に止宿する。
 
○ 11月4日 野村薫舟(胡堂)から、「君は、才に走りて真率の風を欠く、・・・着実の修養を要す。」と忠告を受ける。
  
○ 11月5日 野村薫舟(胡堂)と神田付近の中学校を訪ね、5年編入を照会したが、欠員無く徒労に終わる。
 
○ 11月9日 細越夏村に連れられて城北倶楽部の新詩社の集まりに出席。初めて与謝野鉄幹に接する。(他に、平木白星、山本露葉、岩野泡鳴、前田林外、相馬御風、前田香村、高村砕雨、平塚紫袖、川上桜翠等14名。)
 
● 11月10日 渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問。以後夫妻の知遇を得る。鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語っている。
 
○ 11月21日 イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の英訳本を購入し、訳述して生活の資を得ようとしたが果たさず。
 
○ 12月28日 盛岡中学校の後輩の金子定一の厚意で、金港堂に雑誌『文芸界』の編集主任佐々醒雪を訪ね、編集員として就職を希望するが「大繁忙で逢はれない」との取り次ぎの語に面会さえできず、空手で帰る。窮乏の中で年末。
 

 1903年 明治36年 満17歳   

○ 1月上旬 下宿料滞納により、大館みつ方を追われる。京橋付近の鉱業会社に勤務していた佐山某に助けられ、20日ほど神田錦町の下宿に止まる。
 
○ 2月26日 父に迎えられて東京出発。再起を期して丸善でC・A・リッジーの『Wagner』を買い求める。
 
● 2月27日 帰郷。
 
○ 3月19日 (小林茂雄宛書簡)「・・毎日にがい薬をのんで顔をしかめては砂糖こもりを囓り囓り日を暮して居ると云ふ有様ですから御察しを希上ます、毎日夕刻には薬取方々医師の家迄散歩します・・」
 
○ 病と傷心とは、故郷の自然と堀合節子との愛によって慰められる。
 
○ 5月31日〜6月10日 『岩手日報』に石川白蘋の筆名で「ワグネルの思想」を発表するが反響はなかった。
 
○ 7月1日 『明星』卯歳第7号に載った短歌4首の中に、< ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき > がある。
 
● 秋以降、翌年にかけて、アメリカの海の詩集「Surf and Wave」の影響を受け、最初の詩稿ノート『EBB AND FLOW』を作成した。作品352篇の中からアメリカの詩人の作品8、イギリス26、ドイツ3、イタリア1、アイルランド1、不明2、合計41篇を選び、丹念に書き写した。そしてその詩集の影響ののもと、詩作に志し、新境地を開く。
 
● 11月1日 『明星』卯歳第11号の社告に石川白蘋等を新詩社同人とするとの発表が掲載される。
 
● 12月1日 『明星』に石川啄木の筆名で掲載された「愁調」5編は、新詩社を初めとして多くの注目を集めた。この時が、筆名「啄木」の使用開始である。以後、この詩の好評に自信をえて、啄木の名で精力的に詩作をつづける。
 

 1904年 明治37年 満18歳    

○ 1月8日 友人阿部修一郎の姉梅子の葬儀に参列のため盛岡の龍谷寺に行き、節子に会う。午後姉(田村サダ)の家で夜8時過ぎまで節子と語り、将来を約束する。
 
○ 1月14日 姉田村サダから、節子との婚約確定の報あり。「待ちに待ちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」『甲辰詩程』
 
○ 1月14日(葉書)、21日(書簡)From the Eastern Sea 『東海より』によって世界的詩人となった野口米次郎(ヨネ・ノグチ)に「米国行の志望」と新しい病である「渡米熱」を伝える。
 
● 2月3日 母カツ堀合家に結納を持参し、堀合節子との婚約成る。
 
○ 2月8日 盛岡中学校の同級生でカリフォルニア州在住の川村哲郎に書簡にて米国行き志望を書き送る。
 
● 2月10日 日露戦争開戦。
 
● 3月3日〜19日 『岩手日報』に 「戦雲余録』を8回連載。この時期の啄木の主張は日露義戦論と言ってよいものである。しかし、同年9月5日『時代思潮』に掲載された英文のトルストイの日露戦争論等の影響を受け、好戦思想から、日本と中国、日本とロシアの現実を考えるようになった。
 
○ 3月31日 節子、岩手郡滝沢村立篠木尋常高等小学校代用教員(裁縫)として採用される。月給5円。篠木の山崎家に寄寓する。
 
○ 9月28日〜10月19日 上京に先立って北海道行。当時小樽にあった次姉トラ宅(夫山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)等を訪問。詩集刊行資金調達が、その直接の目的であったが、トラが病床にあったこともあり、果たせなかった。
 
● 10月31日 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京
 
● 12月26日 父一禎、宗費113円滞納のため、曹洞宗宗務局より、住職罷免の処分。以後の啄木の生涯に重大な影響を与えることになるが、啄木はこのことを知らずに年を越すことになる。滞納の原因は、一禎の性分や啄木上京事後処理によるものであるとの説もあるが、確定はできていない。
 
○ この年、旺盛な詩の発表を行い、『明星』の他にも『時代思潮』(3月、4月、7月、8月、10月、12月)、『帝国文学』(3月)、『太陽』(8月、12月)、『白百合』(6月、7月、9月、11月、12月)等に連続して発表した。
 

石川啄木年譜  1905年 明治38年 満19歳〜22歳 

 主要参考文献
「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001
「石川啄木伝」岩城之徳/筑摩書房/1985
「石川啄木」人物叢書/岩城之徳/吉川弘文館/2000
「啄木評伝」岩城之徳/学燈社/1976
「啄木の妻節子」堀合了輔/洋々社/1981
「石川啄木」近代作家研究叢書/金田一京助/日本図書センター/1989
「石川啄木全集」第8巻啄木研究/筑摩書房/1983
「石川啄木集」日本近代文学大系23/岩城之徳・今井素子/角川書店/1990


 資料盛岡における啄木居住地

時代

番号

当時の住所・寄宿先

現住所表示

期間(定説)

学生時代

仙北町組町四十四番戸  工藤常象方 仙北二丁目 1895(明治28).4〜

大沢川原小路三十五番戸 海沼イエ方 開運橋通 1896(明治29).1あるいは2〜

新築地三番地      海沼ツエ方 大沢川原三丁目 1896(明治29).2あるいは3〜

帷子小路五番戸     田村叶 方 中央通三丁目 1900(明治33).1.6〜

長町八十番戸      田村叶 方 長田町 1901(明治34)6.11〜

四ッ家町二十七番地   田村叶 方 本町通二丁目 1901(明治34).10.15〜

仁王小路三十番戸    田村叶 方 中央通二〜三丁目 1901(明治34).11.25〜1902(明治35).10

新婚時代

帷子小路八番戸 中央通三丁目 1905(明治38).6.4〜

加賀野第二地割久保田百六番地 加賀野一丁目 1905(明治38).6.25〜1906(明治39).3

森 義真「もりおかの啄木碑」No.26


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