国際啄木学会岩手大会
2001年 9月28・29・30日 岩手県盛岡市 岩手大学
当日の岩手日報には石川啄木事典のCMが載っていました。「祝 国際啄木学会 岩手大会」と書いてあってさすが地元紙という感じです。
● 記念講演会 <ミニ講演>
● 座談会 谷川俊太郎氏を囲んで
● 研究発表
記念講演会
<ミニ講演>
- 啄木短歌〜朝鮮語・中国語・日本語の対比から〜 崔 華 月
- 地理学から見た啄木短歌 米地 文夫
- 啄木が釧路料亭で飲んだ酒 藤原 隆男
- 甦った宝徳寺襖絵 佐々木祐子
- インターネットで見る啄木 松尾 昭明
「インターネットで見る啄木」と題する松尾昭明氏の発表では、20ほどのサイトが紹介されました。特にご自身が管理している『啄木勉強ノート』については、章立て、特徴、これからの課題などにわたり、説明がありました。定番ホームページ1500選、文学部門のトップに載っているとのコメントもありました。
この「啄木の息」ページにも触れ、「本人が啄木ゆかりの地を訪れてレポートしている。」ことなどを、紹介していただきました。
座談会:谷川俊太郎氏を囲んで
<木股知史・田原・小菅麻起子>
- (この記号の部分は谷川氏のお話です)
- 啄木は現実生活を上手に出来なかった人、ぼくはきちんとやろうとしても結果的にうまくいっていない。
- ぼくは短歌のメロディーが肌に合わないところがある。でも、現実生活からちょっと浮き上がったところにポエジーを感じるところが、啄木の歌との共通点である。
- 詩壇内部で評価されるより普通の人に読んでもらいたい。ふだん使っている言葉と地続きで詩を書きたい。現実はどうにもならないが、「ことば」を通して現実と結びつくところに詩がある。
かっぱ
かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった
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谷川作品「かっぱ」の中国語訳が田原さんにより発表され、谷川さんも朗読してくださいました。力強い声と、リズム。“ああ、詩は字だけではなく、音と密接に結びついているのだ”と、会場にいる人々が同じ波に揺さぶられるような素晴らしいひとときでした。
- 中国語(訳のなか)で、合羽盗んでるの?(田原「盗んでます。」)菜っぱ切ってるの?(田原「切ってます。」)ホーすごいね。
谷川俊太郎氏(右から二人目)の張りのある声に耳を傾ける |
中国で唯一の外国人文学を紹介する月刊誌「世界文学」に谷川さんが載ったことが紹介されました。
- 中国は無断でいくらでも転載できる。著作権も原稿料も一切ない。転載されることは名誉なんだね。
- (「詩人では、リルケが載っています。」と聞いて・・)ぼくは、リルケと並んでいるのか。
- (「リルケより前に載っています。」)それじゃ、そろそろ死なないとならないな。(笑い)
- 中国に行って圧倒的に文化の深さと広大さに感激した。日本よりかずっと西洋寄り。個人が自立している。日本みたいに「仲良くやろうよ」ではない。
寺山修司との深い関わりについても、話されました。
- 寺山は幼い頃、母から離され預けられていた。だから母性を知らないのではないか。母に愛された記憶がない。甘えたこともない。甘えさせてもくれなかった。
- 寺山の結婚式のとき、牧師が東北人で東北弁でしゃべっているので寺山はくすくす笑っていたね。
啄木が、亡き子を詩人の目で見ていたことを指摘しました。
- 詩は現実とどこかで切れていなくてはいけない。啄木の子が死んだときの悲しみのリアリティー。啄木は詩人になって外から子の死を見ていた。それは詩人の目。「非人情」(夏目漱石「草枕」の中の言葉を引いて)だから救われる。詩は漱石のいう非人情の世界。啄木もぼくも日常を表現しながら、どこか現実離れしたところに、自分のポエジーを持っている。
終わりに「生きる」の詩の朗読をしてくださいました。目を閉じて、谷川さんのことばを耳で感じていました。<いま>生きているということを<いまがいま過ぎていくこと>を・・・。
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生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
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研究発表
・正宗白鳥と啄木 時代の憂鬱を基軸として 伊藤 典文
・東北大飢饉が啄木一家に与えた影響 川田淳一郎
・啄木再評価の岐路ー歌稿ノート「暇な時」の考察と意義 昆 豊
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「東北大飢饉が啄木一家に与えた影響」と題して川田淳一郎氏の発表がありました。
- 啄木一族の悲劇の原因は、啄木の父一禎が、本山への宗費を滞納し宝徳寺の住職を罷免されたことにある。
- 一禎は、本堂が焼けて無くなっていたのを、数年間の内に金集めをして建て直したほど頭のいい人だ。それなのになぜ滞納したのか。
- 東北地方を襲った歴史的飢饉が、一家の生活環境にも大きな影響を与えた。
- 1600年(慶長5)から1870年(明治3)にかけて、3.3年に1回の凶作・9.6年に1回の大凶作
- 1886年(明治19) 県下コレラ流行 患者520人 死者112人
- (啄木の生まれた年)
- 1890年(明治23) 渋民村 腸チフス大流行
- 日清戦争・日露戦争による岩手県下の死者2273人
- 暴風雨の農作物被害、赤痢、大火、三陸大津波、その他
- 檀徒の奉納米(戸口米)は、農作業の労働力にならない老人、幼児にまで一人五合
- 渋民村641人 約80俵
- 平時 1俵 1円70銭
- 戦時 1俵 3円76銭
- 月収にすると 平時 約10円 戦時 約24円になる。
- 支出は、約12円と考えられる。
- 一禎の経済感覚のまずさや不甲斐なさ、啄木の盛岡中学進学が家計に与えた影響などもある。しかし、自然災害による不作、戦争・伝染病などによる被害で、戸口米が村の檀家から半分も納入されなかったことが宗費滞納の大きな原因であった。そして、後の啄木の経済苦境を生む要因ともなった。
会場から一歩外に出ると、さすが東北岩手の冷たい風に驚きました。夜のニュースで、記録的な低温だったと聞きました。
大きな会を催すには、たくさんの方々のご苦労があったことと思います。参加させていただき、感謝します。どうもありがとうございました。
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