「忘れがたき人人」
二
いつなりけむ
夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり
*プロローグ、橘智恵子の声の訪れ。この節の歌はすべて、智恵子に捧げられている。
頬(ほ)の寒き
流離(りうり)の旅の人として
路(みち)問(と)ふほどのこと言ひしのみ
*以下八首は函館時代の智恵子を回想する歌。
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
ひややかに清き大理石(なめいし)に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ
世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳(ひとみ)の
今も目にあり
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
真白(ましろ)なるラムプの笠の
瑕(きず)のごと
流離の記憶消しがたきかな
函館のかの焼跡(やけあと)を去りし夜(よ)の
こころ残りを
今も残しつ
人がいふ
鬢(びん)のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
*以下十二首は札幌に住む智恵子を東京にいて想う歌。
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる
忘れかねつも
病むと聞き
癒(い)えしと聞きて
四百里(しひやくり)のこなたに我はうつつなかりし
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
*「街」は東京の街。智恵子が東京の街にいるはずはないのに、似た姿を見てさえ、啄木は胸を躍らせる。
かの声を最一度(もいちど)聴かば
すっきりと
胸や霽(は)れむと今朝も思へる
いそがしき生活(くらし)のなかの
時折のこの物おもひ
誰(たれ)のためぞも
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
長き文(ふみ)
三年(みとせ)のうちに三度(みたび)来(き)ぬ
我の書きしは四度(よたび)にかあらむ
*エピローグ。夢の中の声の訪れよりもたしかな手紙の訪れが三度あったことを確認してこの節を結ぶ。