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啄木文学散歩

北海道岩見沢〜旭川 2

  

1 岩見沢駅と啄木

2 北村牧場の啄木歌碑 (このページ)

3 美唄駅前の啄木歌碑

4 砂川市・滝川公園の啄木歌碑

5 旭川


2 北村牧場の啄木歌碑

 

 ○「鹿子百合の碑」

  

「道道6号線の歌碑案内板」

・岩見沢駅から道道6号線を北西に12〜13km、啄木の函館時代の同僚である橘智恵子が結婚した先の北村牧場に着いた。6号線の牧場入り口には「石川啄木歌碑」の案内矢印が見えた。

 

「ピカピカの表示板」

住所 岩見沢市北村豊里1093

・岩見沢市観光協会のパンフレットには、草花の新たな生命が芽吹く春、大地のキャンパスは情熱的な色合いへと変わる夏、石狩平野の限りない地平線へと沈む夕陽の秋、どこまでも続く真っ白な雪のジュータンの冬・・・と、岩見沢の四季が謳われていた。また、文化工芸施設学びスポットとして、石川啄木の歌碑の住所や写真が紹介されていた。

 

「表示の左後ろに啄木歌碑」   

歌碑の設置場所はゆったりとした広さ
がある。北村牧場の厚意の深さを思う。

 

「動画:鳥の声や風の音も入っています」

碑文

 薄幸の歌人石川啄木があこがれた橘智惠(戸籍はチヱ)は、北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み一九〇六(明治三十九)年三月函館区立弥生尋常小学校訓導となった。

 翌四十年六月代用教員として採用された石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合」にたとえ、美しい同僚の存在に強く心ひかれるものがあった。不幸にも同年八月の函館大火によって職を失った啄木は、智恵の下宿先を訪れて処女詩集『あこがれ』を贈り、札幌へと旅立って行った。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全快した智恵は、札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとへ嫁ぐことになり、明治四十三年五月石狩川を汽船で遡って、空知郡北村の北村農牧場(後の北村牧場)に来たのであった。

 啄木は明治四十三年末に出版した処女歌集『一握の砂』を智恵に贈ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人々二」二十二首は、智恵を歌ったものである。

 のちに「空知ホルスタインの父」とたたえられる夫と共に、多忙な毎日をおくっていた智恵は、啄木が東京で肺を患い、栄養もままならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手難だったバターを、夫の同意のもとに、歌集へのお礼の気持ちも込めて、かつての同僚に贈った。

 一九二二(大正十一)年十月一日、智恵は産褥熱のため、愛する夫と六人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。満三十三才であった。

 私たちは、この美しいエピソードを永く後世に伝えるため、この碑を建設する。

  一九九九年十月      北村歌碑建設期成会


       「鹿子百合の碑」

 

  

「横から見ると碑が一つ一つ離れている」

 ○  ローマ字日記の「 Tie-ko san ! 」


MEIDI 42 NEN.
1909.
APRIL.
9 TH,  FRIDAY.

 Ototoi kita toki wa nan to mo omowanakatta Tie-ko san no Hagaki wo mite iru to, naze ka tamaranai hodo koisiku natte kita.  ' Hito no Tuma ni naranu mae ni, tatta iti-do de ii kara aitai ! '  So omotta.

 Tie-ko san !  nan to ii Namae daro!  Ano sitoyaka na, sosite karoyaka na, ika ni mo wakai Onna rasii Aruki-buri !  Sawayaka na Koe !  Hutari no Hanasi wo sita no wa tatta ni-do da.

明治42年4月9日  

 おとといきたときはなんとも思わなかった、智恵子さんのハガキを見ていると、なぜかたまらないほど恋しくなってきた。‘人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから 会いたい!’ そう思った。

 智恵子さん! なんといい名前だろう!
あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!
ふたりの話をしたのは、たった二度だ。 

(「ローマ字日記」 石川啄木)

 

 

「真直ぐ立てる碑」

 

       石川啄木

石狩の空知郡の

牧場のお嫁さんより送り来し

バタかな 

   ー 悲しき玩具より ー

 

 

 ○  啄木と智恵子

橘智恵子は札幌のリンゴ園の長女として生まれた。函館区立彌生尋常高等小学校の訓導として赴任したときに、代用教員の啄木と出合った。夏休みとか啄木の欠勤とか函館大火とかがあり二人で話したと言えるのは、啄木日記によると退職届を出した日とその翌日の二回だけだった。

 

九月十一日

 午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきけり。

九月十二日

 空はれて高く、秋の心何となく樹々の間に流れたり。この日となりて、予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。
 朝のうちに学校の方の予が責任ある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き名残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。

(丁未日誌 明治40年)

・この二回のみが啄木と智恵子の‘ふれあい’だった。

 

橘智恵子

 啄木の片恋であるとか、架空の恋だといった記述を多く目にするが、彼女の隠された部分を見れば、啄木への清純な思慕があったように思われる。啄木へ送った手紙には、「お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから」と書かれていた。新婚の女性が関心のない男にこのような事を書く必要があるだろうか。啄木との精神的な愛をつなぎ止めておきたいという彼女の心情を読みとることができる 。

(『石川啄木事典』おうふう 第二部 項目篇 橘智恵子)

 

 

【近代女性のイメージ】

橘智恵子

「美しくほのかな恋」

 橘智恵子は当時にあってすぐれて近代的な女性でありました。

 二人の間には、啄木の「片恋(かたおもい)」とか啄木の「架空の恋」といってかたづけることのできない、美しい慕情が交流していました。

 ひとつ。二人の相手に対していだく慕情には性的なものが昇華されています。これは近代に特徴的な恋の一つの形・・・。

 ふたつ。女性の勤めうる数少ない近代的職場(小学校)で芽生えた、そこで働く女性への恋であったこと。

 みっつ。妻子ありの男性が職場の同僚を好きになるというのは、近代的というか現代的というか、これまた非常に新しい形でした。しかも女性の側からもほのかに慕情を寄せていたのですから……。

 よっつ。啄木が函館を去ってのち二人の間を媒介していたのは、近代的郵便制度でした。「言ひやらば」は「手紙で言ってやると」の意味です。

  死ぬまでに一度会はむと
  言ひやらば
  君もかすかにうなづくらむか

(『啄木短歌に時代を読む』近藤典彦 吉川弘文館)

「手前右が碑。奥に並ぶのが
北村牧場の建物だと思われる」

 

 ○ 牧場主の妻・智恵子

・若くして北村牧場を継いだ北村勤は、1910年(明治43)5月、20歳(翌月21歳になる)の智恵子と結婚した。それから12年、33歳で亡くなるまでの若い牧場主のお嫁さんの毎日はどんなだったのだろう。

・大都会札幌で育った智恵子は、当時としては珍しい高学歴の教員経験者だった。札幌-岩見沢間は30数km、今なら道央道ですぐに行ける距離だ。岩見沢は豪雪地帯としても有名だ。最近48年間(2009年の資料)の平均降雪量でも札幌の1.5倍ある。石狩川を汽船で遡ってお嫁に来た智恵子だった、12年の間に里帰りなどできたのだろうか。

・12年間に6人の子を産み育てた、それだけでも大仕事なのに、牧場主の妻としての仕事にどのように関わっていたかとても興味が持てる。雪国は冬に訪れなければ厳しさも楽しさもわからない。時代を100年遡ることもできない。しかし、岩見沢に来て遙か広がる土地と美しい緑に囲まれてみると、智恵子のご親族の方々がいろいろな思いを持ちながら「鹿子百合の碑」を建ててくださった心の広さに触れた気がする。

 


 ○ 啄木が智恵子を詠める歌 22首

   『一握の砂』第四章 


 

 「忘れがたき人人」

 二

いつなりけむ
夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり

*プロローグ、橘智恵子の声の訪れ。この節の歌はすべて、智恵子に捧げられている。

 

頬(ほ)の寒き
流離(りうり)の旅の人として
路(みち)問(と)ふほどのこと言ひしのみ

*以下八首は函館時代の智恵子を回想する歌。

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

ひややかに清き大理石(なめいし)に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ

世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳(ひとみ)の
今も目にあり

 

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

真白(ましろ)なるラムプの笠の
瑕(きず)のごと
流離の記憶消しがたきかな

函館のかの焼跡(やけあと)を去りし夜(よ)の
こころ残りを
今も残しつ

人がいふ
鬢(びん)のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし

 

馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ

*以下十二首は札幌に住む智恵子を東京にいて想う歌。

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり

忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる
忘れかねつも

病むと聞き
癒(い)えしと聞きて
四百里(しひやくり)のこなたに我はうつつなかりし

 

君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ

*「街」は東京の街。智恵子が東京の街にいるはずはないのに、似た姿を見てさえ、啄木は胸を躍らせる。

かの声を最一度(もいちど)聴かば
すっきりと
胸や霽(は)れむと今朝も思へる

いそがしき生活(くらし)のなかの
時折のこの物おもひ
誰(たれ)のためぞも

しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ

 

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ

わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな

石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ

 

長き文(ふみ)
三年(みとせ)のうちに三度(みたび)来(き)ぬ
我の書きしは四度(よたび)にかあらむ

*エピローグ。夢の中の声の訪れよりもたしかな手紙の訪れが三度あったことを確認してこの節を結ぶ。


*注は、『一握の砂』石川啄木 著 近藤典彦 編 朝日新聞出版(文庫)より 


(2009-夏)

 

 

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