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啄木の広場   関連の話題・皆様からのご意見ご感想

2006年1月-

啄木の広場:2005年12月- 2005年以前  


2006-06-27 「石川啄木 ハイネと不思議な符合」池田 功 

2006-06-24 「とらわれない」家風 金田一京助の孫・金田一秀穂さん

2006-06-22 啄木とも親交のあった「藤岡邸を芸術拠点に」奈良県五條市

2006-06-21 岩手公園の改称 論説-岩手日報

2006-06-18 小中高国語教科書掲載の詩歌調査 啄木は7社に

2006-06-13 「小さな啄木生誕120年記念展」美唄郷土史料館

2006-06-04 あんべ光俊さん啄木を歌う

2006-05-30 「啄木と足尾鉱毒と水俣病」田中正造の直訴状を歌に詠む 近藤典彦

2006-05-28 啄木の詩歌を題材に 岩手一先会かな書展

2006-05-28 「妻をめとらば〜晶子と鉄幹〜」石川啄木も登場・名古屋御園座7月公演

2006-05-28 「啄木と出会うみち」 10/15にウオークリーグ

2006-05-24 遊座昭吾さん講演 啄木歌碑建立記念

2006-05-15 盛岡駅前広場 〈盛岡百景〉

2006-05-14  小樽ゆかりの啄木を偲ぶ集い

2006-05-12 「短歌甲子園」全国高校生短歌大会 開催へ

2006-05-09 啄木のふるさとを「レンタサイクル」でじっくりと

2006-05-09 盛岡一高に同窓生が啄木の歌碑

2006-05-05 雑誌「短歌」「歌のことばも使いよう」今野寿美 平成18年5月号

2006-04-27 金田一春彦 直筆の「啄木短歌」も 岩手拓本研究会が作品展

2006-04-24 石川啄木と金田一京助〜京助の“愛”に支えられた啄木〜

2006-04-18 啄木 流転の生涯を「かるた」に

2006-04-15 啄木忌前夜祭でイベント「一握の砂」の調べ

2006-04-14 第95回啄木忌 啄木短歌の川や空は輝いている

2006-04-14 啄木の愛した盛岡弁 〈盛岡ことば入門〉黒澤勉

2006-04-13 「啄木学級」開催 民俗芸能の披露も

2006-04-11 今年度の小樽ガイドブックに啄木登場!

2006-04-10 「新聞」小樽グッズ研究所・第4回--おたる新報--

2006-04-07 「啄木との交流企画展」啄木記念館

2006-04-04 盛岡第一高等学校に啄木歌碑、5月7日除幕式

2006-03-28 啄木の妻を世話したコルバン夫人と直接 接した方々

2006-03-27 盛岡市「住みやすさ」全国総合1位

2006-03-12 啄木の「情けない面」に親近感−岩手大探訪 望月善次氏

2006-03-04 「『平和の日』いわての集い」平和を岩手から全国へ

2006-03-02 小惑星に「奥州」の名(「啄木」という名の小惑星も)

2006-02-28 「啄木の魅力をうたう」コンサート開催

2006-02-21 啄木の生地【北上川】

2006-02-19 深沢紅子の生涯「6 星山月秋」--父と星山月秋と啄木--

2006-02-19 啄木かるた大会、238人参加

2006-02-17 “夜空の流れ星のような生涯” 啄木

2006-02-10 ゴジラの作曲家・伊福部昭さんと 啄木

2006-02-02 国際啄木学会盛岡支部100回記念講演会「謎に似る啄木の生命」

2006-02-02 「一握の砂」の函館が登場する『鉄道の文学紀行』

2006-01-27 啄木かるた大会 参加者募集

2006-01-22 啄木の短歌の情景再現 ろうそくの灯で雪あかり-釧路

2006-01-19 小樽発・読書マガジン「Northern songs」スワン社発行

2006-01-04 啄木が<妖怪記>に登場ーー「くもはち」

2006-01-04 啄木生誕120年・賢治生誕110年 各地で多彩な催し


2006-06-27

 「石川啄木 ハイネと不思議な符合」  池田 功

   時代状況を深く考察

 2003年から二年間、私は在外研究としてドイツのボン大学などで過ごした。広大なキャンパスのライン河近くには、ハイネがこの大学で学んだという記念の石碑が建てられている。
 もし啄木がボン大学や生家などを訪れることができたら、どんなにか感激したことであろうと考えるのであった。

 1856年に59歳で亡くなったハイネのちょうど30年後に、啄木は生まれた。17歳の啄木は詩稿ノートにハイネの英訳の海の詩「SONG」(音)を写しとったり、翌年には書簡でハイネに言及したり、函館から小樽までドイツ商船ヘレーン号に乗った時には、ドイツ人機関長ヘルマンと英語でハイネに言及している。さらに金田一京助からハイネの詩集「Buchder Lieder」(歌の本)を借りてドイツ語で読んだりしており、十代の啄木にとってハイネはゲーテと並ぶ偉大なドイツ文学者であった。

 「明治十四年の政変」により薩長藩閥政府は、ドイツを範とする政治体制、教育制度を導入した。
 中学校中退という負い目を跳ねとばすかのように啄木は、ドイツ語を足かけ六年間に渡って独学している。そういう中でドイツの文学や思想にも目覚め、ハイネの作品を読むことになったのであった。  

 ハイネと啄木が資質的によく似ているということは既に、中野重治、萩原朔太郎などの文学者やハイネや啄木の研究者によって少しは指摘されている。ハイネと啄木が似ているということに驚かれる方もいるかもしれない。何故なら、ハイネは「ローレライ」の詩人であり、恋の喜びや悩みを歌う詩人であるというイメージが日本では定著しているからである。

 しかし、ハイネを少しでも知っている人は、ハイネこそドイツに生まれたユダヤ人としてパリに亡命し、封建的権力と権威と闘った文学者としてのイメージの方が強いであろう。「時代閉塞の現状」という題は、もちろん啄木の評論のものである。ところが何とハイネの本にも記されている。伊東勉訳「ドイツ古典哲学の本質」(岩波文庫)の第三巻の小見出しにである。しかしハイネの原書には小見出しはない。つまり訳者が勝手につけたのである。啄木短歌をドイツ語に翻訳されてもいる故伊東氏が、同じ様な内容が記されているという理由からつけられているのであるが、そのくらいテーマが似ているのである。

 これ以外にも啄木とハイネがよく似ているということを、私は何点にもわたって論証した。
・ジャーナリストや教育者を職業としたり、あるいはそれらをめざしたりした点
・作品に海や海神(ポセイドン)や墓などの言葉を使った共通点
・ナポレオンやスタール夫人への関心の示し方、啄木のエッセイ「林中の譚」とハイネの叙事詩「アッタ・トロル 夏の夜の夢」との、自然を征服しつつある人間や社会の進歩を批判的に見ている点

 また、難解な表現を否定した分かり易い作品により、大衆的な人気を得て広汎な読者を獲得し、そして共に時代状況を深いところでとらえ、将来を見通す示唆的な文章を書くことができたという共通点も指摘することができるであろう。

 しかし、残念ながら啄木がハイネをじっくりと読み影響を受けるということはなかった。
 明治時代のハイネの翻訳はほとんど詩に限定され、その一般的なイメージはあくまでも恋の詩人であったからである。
 もし原書でもっと読むことができていれば、ハイネとの共通性を知ってのめり込んでいった可能性がある。結局、時代や言葉の限界からすれ違ってしまったのだった。 (明治大学教授、国際啄木学会副会長)

(2006-06-19北海道新聞夕刊)


2006-06-24

 金田一京助の孫で言語学者「金田一秀穂さん」 岩手日報  学芸インタビュー

  「とらわれない」家風

 盛岡市でこのほど開かれた岩手情報文化研究会で講師を務めた。講演の冒頭で「岩手、盛岡というのは『父祖の地』という意識があります。テレビに出る時は気楽に仕事しているんですけれども、今はとっても緊張しております」と汗をぬぐった。

 アイヌ語研究で偉大な足跡を残した祖父京助の生まれ故郷、盛岡を訪れたのは3回目という。小学生のころ初めて両親とともに車で訪れたほか、昨年講演に招かれ、久しぶりに盛岡の地を踏んだ。

 京助と、同郷の歌人石川啄木との交友はよく知られている。金を無心する啄木は、家計に多大な負担を強いたとされる。「でも、楽しかったんじゃないですか、京助は。啄木は大変な人ではあっただろうけれども、非常に才能があった。若い時にそういう人と仲良くできたっていうのは幸福だったと思いますねぇ」。

 その京助は秀穂さんが17歳のころ亡くなった。「京助はたこ揚げが大好きだったんですよ。子どものころ、伊豆でたこを揚げてくれたのを覚えてます。でも僕らはちっとも触らせてもらえなくて、本人だけが『こうやって揚げるんだ』とかどんどん揚げて、勝手に遊び終わって帰っちゃうとか、そういう人でした」。

 京助から子の春彦さん(2004年死去)、孫の秀穂さんらに受け継がれている金田一家の気風は「とらわれない」ことだという。研究してもおよそ報われないとされたアイヌ語を選んだ京助は、無類の人の良さもあって研究を結実させた。また現代仮名遣いの導入を進め、反対派と大論争を繰り広げた。

 春彦さんも「言葉は変化するもの。乱れているわけではない」という立場で、研究の一方でジャーナリズムを通じ言葉の知識の普及に力を入れた。象牙の塔にこもらない金田一家の人々からは、常識や枠から解き放たれたおおらかさを感じることができる。

 大学を出た秀穂さんは3年ほど実家にこもり、ひたすら本を読んで過ごしていた。「今で言うニート、ひきこもりです。ただ楽しかった。父春彦は心配はしただろうけれど、何も言わずにじーっと待っていた。いずれ何かするだろうと信じてくれていたんです。ありがたかったなぁと思います」と振り返る。

 日本という国の在り方について「平和で豊かないい国だと思うんですよ。正義とか、イデオロギーとか、宗教とか、そういうものを他者に受け入れさせようとは一切しない国。それがいいんだというのが僕の感じ方です」と「戦略を明確にしない戦略」の有用性を説く。

 だから愛国心という言葉についても「歴史的に国同士が緊張状態にあり、滅亡の恐怖にさらされてきた欧州が発祥。でも日本には侵略されて愛国心という言葉が必要になる場面がなかった」と語る。愛国心という言葉を言い出したのは逆に侵略した時で、心から必要な言葉ではない、借り物の言葉だという。

(2006-06-08THE WEB IWATE NIPPO)


2006-06-22

 啄木とも親交のあった
  「藤岡邸を芸術拠点に」 奈良県五條市

 今春、登録有形文化財に選ばれた「藤岡家住宅」(奈良県五條市近内町)の登録証と鋳物製プレートが届き、伝達式が21日、同市役所で行われた。藤岡家住宅は1998年の台風で屋根瓦が吹き飛ぶなどの被害を受け、現在修復中。管理にあたるNPO法人「うちのの館」(田中修司理事長)は「藤岡邸を文化、芸術の拠点にしたい」と意気込んでいる。

 藤岡家住宅は約1300平方メートルの敷地に、1832年(天保3年)に建設された主屋、1797年(寛政9年)の内蔵、1853年(嘉永6年)の別座敷など、良質な建材を使用した計20の近代和風建築が並び、周辺市民らが保存を呼びかけていた。

 藤岡家は代々、庄屋や村長を務め、現当主の藤岡宇太郎さんの祖父・長和さんは、旧制五條中学から東大へと進み、内務省に入省後は佐賀、和歌山、熊本の官選知事を歴任した

 また、石川啄木らとも親交があり、文化人としても活躍。与謝野寛と晶子の扇面や狩野常信の「富士」、阿波野青敏の句の掛け軸など約20点の貴重な品も所蔵している。

(2006-06-22yomiuri on line 地域 奈良)

藤岡長和

 俳人。奈良県の人。玉骨は号。東大法科卒。内務官僚、各県知事歴任、大日本紡績常務、戦後は南都銀行取締役。俳句は中学時代から始め青畝、虚子に師事、「ホトトギス」「カツラギ」同人。「明星」にも関わる。著書に『玉骨句集』他あり。昭和41年(1966)歿、78才。

(思文閣 美術人名事典 他)


2006-06-21

 岩手公園の改称  論説-岩手日報

  「不来方のお城の草に寝ころびて」

・盛岡市が今年開園100周年を迎える岩手公園の名称を変える方針を示したことから、市内外で賛否をめぐり反響が広がっている。

・改称の狙いは、中心市街地の観光振興も視野に入れ、盛岡城跡である同公園の魅力を広く発信していこうというものだ。

・これに対し、「今なぜ変えるのか分からない」という声が上がっている。

・市は今年を盛岡ブランド元年と位置付け、「もりおか暮らし物語」というキャッチコピーやロゴマークを決めるなどの取り組みを進めている。また、盛岡城は今年2月、日本城郭協会の日本百名城に選ばれた。

・岩手公園という名前では、盛岡市にあり城跡であることが伝わらないとして、新名称には「盛岡」「城跡」などの言葉を盛り込むことが想定される。

 啄木や賢治が作品化

・岩手公園は1906年(明治39)9月に県が開園して以来の名称で、1956年(昭和31)には都市計画決定上の名称となった。

・谷藤裕明盛岡市長は「都市計画決定上の名称までは変えないが、公園の開設者として市が使う名称を変える」としており、実質的な改称を目指している。パンフレットなどで「岩手公園(盛岡城跡)」と表記されることが多かったが、逆に新名称の後に「(岩手公園)」をつけるようにしたいと説明する。

・改称に反対の理由には「長年親しんできたから」「岩手県民の共有財産だから」などが多い。また「観光客を増やす具体策がなければ、名前だけ変えても意味がない」という論がある。

・石川啄木、宮沢賢治との関連を挙げる意見もある。公園内に歌碑がある啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて」と詠んだ歌は開園前が舞台だが、小説「葬列」では「岩手公園とハイカラ化した」と、開園後の変化に触れている。賢治が「川と銀行木のみどり」と情景を描いた文語詩「岩手公園」の詩碑もある。

・文学作品に象徴されるように、公園の名前は人々の思い出と結び付いて記憶され、一世紀にわたり親しまれた重みを尊重すべきだとの主張がある。

 将来ビジョンを示せ

・改称するとしても、親しまれる名前でなければ意味がない。また、公園そのものの将来像が明確でなければ、いい名前をつけてもラベルの張り替えに終わりかねない。

・「これからの100年を見据えた名称を」(谷藤市長)というのであれば、市民、県民がどう利用し、観光客をどう受け入れる公園とするのかビジョンを示すべきだ。

・ここは改称にとどまらず、歴史を踏まえ岩手公園の将来像を大いに議論する契機としたい。

(2006-05-31 THE WEB IWATE NIPPO)


2006-06-18

 小中高国語教科書掲載の詩歌調査   啄木は7社に

 誰のどんな詩歌がどれだけ現在使われている国語教科書に載っているかを日本現代詩歌文学館(北上市本石町)が調べた。

 高校の短歌では与謝野晶子の「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」が11教科書会社中9社が採用し最多。また小学校の詩では草野心平の「春のうた」、阪田寛夫の「夕日がせなかをおしてくる」が5社中4社が掲載していた。

 今の子供たちが最初に出会う詩歌は、どんな詩歌かを知る必要があると考えたのが調査の理由。国語教科書を発行する小学校5社、中学校5社、高校11社の教科書すべてを調べ、約1400の詩歌の一覧表を作った。音楽や社会、道徳の教科書は除き、また作品は明治以降の近現代のものに限った。

 多く掲載された詩歌は別表の通り。すでに評価が定着している著名歌人に寺山修司が肩を並べているのが目につく。与謝野晶子の俵版現代語訳「二十歳とはロングヘアーをなびかせて畏れを知らぬ春のヴィーナス」を掲載の教科書もあった。

 詩では高校が宮沢賢治の「永訣の朝」が8社で最多。中学が高村光太郎の「道程」が3社で最多と、花巻ゆかりの詩人が顔をそろえた。

 調査した文学館の佐藤聡子主任と木村紗矢香学芸員は「掲載意図や学習の狙いまでは調べていないが、教科書には予想以上に詩歌が載っていた。大人にも懐かしい詩や短歌があるのでは」と話している。

 一覧表は文学館で開催中の常設展「教科書で出会う詩歌」の図録別冊として図録と合わせ1000円で販売している。問い合わせは文学館(電話0197・65・1728)へ。

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○高校教科書に多く掲載された詩歌 (数字は掲載出版社数・全11社)

 短歌

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(与謝野晶子) 9
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕(北原白秋)   8
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司) 8
不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)   7
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく(若山牧水)   7
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(斎藤茂吉)  6
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり(釈迢空) 6
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)    6

 俳句

咳をしても一人(尾崎放哉)         8
うしろすがたのしぐれてゆくか(種田山頭火) 8
万緑の中や吾子の歯生え初むる(中村草田男) 8
水枕ガバリと寒い海がある(西東三鬼)    7
谺して山ほととぎすほしいまゝ(杉田久女)  7
いくたびも雪の深さを尋ねけり(正岡子規)  7
芋の露連山影を正うす(飯田蛇笏)      6
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる(加藤楸邨)  6
算術の少年しのび泣けり夏(西東三鬼)    6
しんしんと肺碧きまで海のたび(篠原鳳作)  6
分け入っても分け入っても青い山(種田山頭火)6
海に出て木枯帰るところなし(山口誓子)   6

 詩

永訣の朝(宮沢賢治)      8
二十億光年の孤独(谷川俊太郎) 6
サーカス(中原中也)      6

(2006-06-17毎日新聞岩手ニュース)


2006-06-13 

 「小さな啄木生誕120年記念展」 美唄郷土史料館 

 今年で生誕120年となる歌人、石川啄木(1886〜1912年)の歌集や足跡を紹介する「小さな啄木生誕120年記念展」が美唄市の郷土史料館で開かれている。同史料館の協力員で、国際啄木学会美唄会のメンバー、広岡文太郎さんが10代のころから収集した啄木関連の資料200点余りが展示されている。

 亡くなる2年前に出版された歌集「一握の砂」の初版本、1927年に出版された「啄木全集」、啄木を取り上げた研究誌、1908年に大分県内の女性に送ったはがきなどが展示されている。

 啄木は1907年から1908年にかけて函館、札幌、小樽、釧路の各市に滞在して新聞記者などとして生活を送った。同展では、道内各地に残っている歌碑も写真で紹介している。美唄を歌った短歌とされ、美唄駅近くに建立されている「石狩の美國といへる停車場の柵に乾してありし赤き布片かな」の短歌が刻まれた歌碑について、出来た経緯を紹介するコーナーもある。

 広岡さんは「美唄とのかかわりもあり、この機会にぜひ啄木を知ってほしい」と話している。11日まで。

(2006-06-07毎日新聞)

(*終了しています)


2006-06-04

 あんべ光俊さん啄木を歌う   啄木生誕120周年記念コンサート

 石川啄木の生誕120年を記念したコンサートが、ふるさとの盛岡市玉山区で開かれ、歌手のあんべ光俊さんが啄木の短歌を、オリジナルのメロディーで歌い上げました。

 コンサートは全てあんべさんが構成し、自身のヒットソングの間に「十五の心」、「さばかりの事に死ぬるや」など、啄木の代表的な短歌が散りばめられました。「自分の生き方と重なるところがある」と、啄木に共感するあんべさんは、盛岡中学での青春時代、上京し挫折を味わう時代と、啄木の生涯を歌でつむぎ、およそ600人の観客を魅了しました。

(2006-06-03 IBC NEWS ECHO)


2006-05-30

 「啄木と足尾鉱毒と水俣病」
       田中正造の直訴状を歌に詠む
    近藤典彦(国際啄木学会会長)

   夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

 石川啄木は1886年生まれだから、今年は生誕百二十周年である。

 本紙4月30日付三面に「水俣病 公式確認五十年」の記事が載った。見出しに「国、一度も全容調べず」「多くの被害者を放置」「全員救済は政治の責務」とある。見出しはすぐに足尾鉱毒事件を連想させ、筆者の胸に啄木短歌一首を浮かびあがらせた。

 啄木は盛岡中学四年生の1月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。それも彼一人で詠んだのではなく、かれが主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で彼自身が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだのである。メンバーは十人前後であるらしいから、少なくとも十首以上が詠まれたであろう。鉱毒事件をもっとも早い時期に何人もでたくさんの短歌にしたということになる。

○盛岡中学の回覧雑誌に

 今は所在不明だが「白羊会詠草」という回覧雑誌があった。1902年(明治35)1月に啄木らが出したものである。歌の題はいろいろである。摘菜、行春、古城、藤花、虹、月といった題である。それら風雅な題の中にあって「鉱毒」という題は異様である。つぎの啄木の歌のみが残っていて知られている。

  夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

 わたくしは長い間この歌を評価していなかった。

○私の評価が180度の転換 

 湘南啄木文庫の佐藤勝氏に教わりたいことがあって電話した。そのとき「この歌はつまらないですね」と言ったところ、氏は「民の叫びが届かない、と言いたいのではありませんか」と言われた。一瞬で目から鱗が落ちた。この歌について調べた。その結果わたくしの中でこの歌の評価は180度転換した。

 1901年(明治34)12月10日、田中正造は明治天皇の馬車に近づき、足尾鉱毒問題を直訴しようとして捕まった。当時啄木が読んでいた新聞は岩手日報一紙だったと思われるが、翌日事件を報道した。14日には直訴状の全文を載せた。この作品は直訴状の内容を歌にしたものだったのである。

○正造直訴の3つの核心

 直訴状の内容は三つの核心からなる。

1 足尾銅山における採鉱製銅による鉱毒が渡良瀬川流域とそこの人民を襲い「二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野」となってしまった。

2 流域人民の途方もない苦しみがますますひどくなるのは、政府も地方官庁も被害者を放置しているばかりか抗議するのを弾圧までしているからだ。

3 天皇の力でこれを救済してほしい。

 碓田のぼる氏はかつて、啄木歌の「夕川に葦は枯れたり」は直訴状の「黄茅白葦」をイメージした句ではないか、と言われた(『新日本歌人』99年4月号)。卓見である。「枯れて黄ばんだ茅と白っぽくなった葦が見渡すかぎり広がる」渡良瀬川流域を啄木は上の二句でうたおうとしたのだ。「血にまどふ」は「血まよふ」の意味ではなかった。啄木は「血に」の二文字で悲惨さを表現しようとしたのである。

○田中・幸徳・啄木を繋ぐ

 知られるとおりこの直訴状は田中正造が骨子を示し、幸徳秋水が書いたものであった。田中・幸徳・啄木がここでつながったのである。直訴状の三大内容は、冒頭にあげた「水俣病」記事の三つの見出しに通じている。啄木短歌・足尾鉱毒事件・水俣病もまたつながっていたのである。

(2006-05-26しんぶん赤旗)


2006-05-28

 啄木の詩歌を題材に 岩手一先会かな書展

  第5回岩手一先会かな書展が、盛岡市内丸の県民会館展示室で29日まで開かれている。石川啄木の生誕120年を記念。啄木詩歌を題材にした作品を発表し、来場者の関心を集めている。

  岩手一先会は、毎年研究課題を設けて書展を開いており、今年は会員約80人から約150点の作品が寄せられた。

  「石川啄木のうたを書こう」の研究課題に沿った作品は78点。湯澤会長は「近代の詩人を取り上げたのは初めて。以前から啄木の歌を書いている人もあり、岩手の人に愛されている詩人だと実感した」、「空間に美を感じる、そこに何かを想像するというのは日本の書の特徴だと思う。何でもメールでやり取りできる時代だからこそ、日本人の心でもある書はなくしてはならないと思う」と話す。

  研究した啄木については「啄木の原稿を見るとバランスがよくて美しく、文字の上手な人だったと感じた。何かに秀でた人は素晴らしい感性を持っていると思った」と話していた。

 入場は無料。

(2006-05-27morioka-times)


2006-05-28

 「妻をめとらば〜晶子と鉄幹〜」石川啄木、平塚雷鳥、北原白秋らも登場
          名古屋御園座7月公演

 藤山直美が、名古屋・御園座の7月公演「妻をめとらば〜晶子と鉄幹〜」で、歌人・与謝野晶子の人生を描く。

 文士が主人公だけにお固いイメージも浮かぶが「晶子は、子育てをして、夫婦げんかしたからこそ五感が磨かれ、いい作品が描けたんだと思う。そういう部分を描いて、ワーッと楽しんでもらいたい」と藤山。彼女らしさ全開の芝居が期待できそうだ。

 晶子といえば、歌集「みだれ髪」に代表されるように、情熱的な恋心を持った女性を想像される方も多いはず。しかし、今回の舞台で表現するのは、12人の子どもを産み育てた“人間・与謝野晶子”。「本当は『子どものおしめを替えたり、洗濯したりで“みだれ髪”』みたいな生活してはった人」と、藤山は今回の晶子像をジョークで紹介。

 夫・鉄幹役は、香川照之。

 石川啄木を岡本健一、平塚雷鳥を田中美里、北原白秋を太川陽介が演じるなど、文学史を彩る文士も登場。数々の賞に輝くマキノ氏、宮田氏と芸達者な面々によって、明治から大正にかけての青春グラフィティが生き生きと描かれそうだ。

(マキノノゾミ・鈴木哲也脚本/宮田慶子演出、7月1−25日)

(2006-05-28The Chunichi Shimbun)


2006-05-28

 「啄木と出会うみち」 10/15にウオークリーグ

 岩手路ウオークリーグは、平成十六年に日本ウオーキング協会が選定した「美しい日本の歩きたくなる道五百選」に県内の十一コースが選ばれたことから、昨年から行われており、今年が二周目となる。四月二十三日の北上市の「桜の名所北上展勝地のみち」でスタートし、盛岡市の「渋民村・啄木と出会うみち」(十月十五日)まで続く。

 2006年10月15日(日)500選コース名「渋民村・啄木と出会うみち」 盛岡市ウオーキング協会

 集合場所  いわて銀河鉄道渋民駅
 集合時刻  9時15分
 参加費  300円

(2006-05-25美しい日本の歩きたくなるみち500選 決定コース 2006-05-15岩手日日ニュース)


2006-05-24

 遊座昭吾さん講演 啄木歌碑建立記念- 盛岡一高

 盛岡一高で、白堊同窓会有志から石川啄木の歌碑が寄贈された5月7日、刻まれた短歌についての講演会が開かれた。啄木研究家の遊座昭吾さんが講師を担当し「盛岡の中學校の 露臺の 欄干に最一度我を倚らしめ」について解説した。

 1910年(明治43)、東京朝日新聞社編集部で校閲の仕事をしているとき、短歌5首を発表。その中で初めて同歌が活字になった。同年11月、文芸誌「スバル」で再び掲載。12月に刊行した処女歌集「一握の砂」には、3行書きの形で収録した。同歌では、助詞の「の」が3つ使われている。盛岡、中学校、露臺、欄干の4つの名詞が、大きなものからだんだんと小さくなるように、整然と順序よく並んでいる。

 盛岡は岩手山、姫神山、南昌山、早池峰山の4つの山々と、北上川、中津川の清流に望む土地。その盛岡の東から西にかけて、内丸大路があり、ひときわ目立つ洋風2階建ての白亜城、盛岡中学がある。その2つを組み合わせて「盛岡の中学校の」ラインができている。

 中学校の校舎の正面2階に張り出した、屋根のない手すりの付いた露臺を1行で独立させたのは、シンボルだから。盛岡からひときわ目立つ中学校、そして象徴的な露臺へ。啄木の視点は移っている。そのイメージを最初の2行で示している。

 続く「欄干に〜」は、啄木の願いを込めたつぶやきのように思える。10年は啄木にとって、息つく間もない忙しい生活状況。その中で突然起こったように見える痛切な盛岡中学への思いは、実は1906年12月に文芸雑誌「明星」に発表された小説「葬列」の中で語られている。啄木と盛岡中学との運命的なつながりを感じると説明した。

 遊座さんは1964年(昭和39)に同校に教員として赴任。今回寄贈の中心となった、1968年の卒業生に授業をした。

 講演後は「40何年ぶりで校舎に来て、教室で授業をさせてもらった。わたしをはるかに超えるような人になった、あのときの若い連中にご静聴いただいてありがたく思っている」と涙ぐんだ。

(2006-05-10盛岡タイムス)


2006-05-15

 盛岡駅前広場 〈盛岡百景〉64 

 現在見られる盛岡駅や駅前の景観は、1982年の東北新幹線開業を契機とした駅舎と駅前の整備が基本。駅舎の壁面に掲げられた駅名標の「もりおか」と「啄木」の文字は石川啄木の遺した筆跡から取った。

  まだ地方色が濃かっただろう駅前に1962年、啄木50回忌を記念して盛岡市と盛岡啄木会が歌碑を建立している。25トンもの重さは啄木歌碑の中でも最大級という。「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」の歌が刻まれた。東北新幹線工事のため、1973年に市立図書館構内に移されたが、駅前広場の完成に合わせ1982年に駅前に戻された。

  啄木顕彰を確認したら駅前広場を眺めてみよう。整備は盛岡市と旧国鉄との共同事業。地方都市に景観の個性が薄らぐ中、杜(もり)と水の都盛岡を表現しようと「水と緑」をテーマとした。

  杜を表現した木では啄木歌碑のそばに盛岡の珍木シダレカツラが植えられている。水の象徴は人工滝。高さ6メートル、幅10メートルの岩盤に彫られた線で水は多様な流線を描く。落下した先にはみかげ石のサケ6匹が流れにあらがって躍る。市内の中心部でサケのそ上が見られる盛岡を表現した「滝川と鮭(さけ)」は盛岡の美術家、柵山龍司さんによる。

  高速交通化と情報化の進展で多くのターミナル駅頭は没個性となり、全国に似たような景観を生み出した。高速交通時代への本格的な到来は、北国のターミナル駅の風情をのみ込み、今や盛岡駅にも駅頭からの景色にも、郷土の生んだ漂白の歌人、啄木が詠んだ望郷のイメージはない。

(2006-05-15morioka-times)


2006-05-14

 小樽ゆかりの啄木を偲ぶ集い

 小樽ゆかりの石川啄木を偲ぶ「第94回小樽啄木忌の集い」が、5月13日開かれた。今回は、小樽市立文学館での講演とJR小樽駅前の啄木歌碑前での詩吟で啄木を偲んだ。小樽啄木会(水口忠会長)の主催。約80名が参加し、今年は札幌からの参加者が多かったという。

 小樽は、啄木が「小樽日報」の記者として、活躍したことで知られている。たったの100日という短い間だったが、小樽の街にちなんだ歌を作り、3つの歌碑が小樽公園・水天宮・JR小樽駅前に建てられている。

 文学館で行われた講演では、おたる新報編集長の新谷保人氏が、演題「小樽のかたみ」のおもしろさとして 「啄木が小樽日報で書いた記事をまとめた『小樽のかたみ』から、啄木が小樽日報でどんな記事を書いたのか」を語った。

 昨年10月に小樽駅前に誕生した第3の啄木歌碑前では、山田猿岳師範が詩吟を朗詠した。「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の詩とともに、参加者は啄木を偲んだ。

 水口会長は 「天候に恵まれてよかった。今回は、札幌からの参加者が半分くらいで、定着してきたのかなと思っています。来年は新聞100周年なので、少し変わった形で 『小樽啄木忌の集い』を行いたいと考えています」と啄木碑を見つめていた。

(2006-05-14小樽ジャーナルWeb Otaru)


2006-05-12

 「短歌甲子園」全国高校生短歌大会 開催へ

 盛岡市は今年8月、同市出身の歌人石川啄木の生誕120年記念事業として、第1回全国高校生短歌大会「短歌甲子園」を開く。11日の実行委員会で開催内容がほぼ固まった。

 高校生3人を4チームとし、全国から参加者を募集。書類審査となる一次予選では、1人3首、1チーム9首で短歌を提出してもらい、上位24チーム以内の本大会出場チームを決める。

 ほかにも、観客が出場できるオープン参加の催しや個人戦も行う。

 全国大会は8月18日に開会式、19日に予選リーグ、20日に決勝トーナメントが行われる。本大会では、啄木新婚の家や岩手公園など、啄木ゆかりの場所を散策してから、創作に取り組むという趣向。交流会としてわんこそば大会も開かれる。

 ほかに同市の啄木関連4施設の共同企画「ザ・啄木展」を8月下旬から11月上旬に開催。盛岡を首都圏にPRする7月の「盛岡デー・イン・東京」でもミニ啄木賢治展を行う。

 1次予選は参加無料。全国大会は参加費1万円で、宿泊が必要なチームには補助が出る。参加申し込みは6月24日まで。問い合わせや申し込みは、市ブランド推進室((電)019・651・4111)へ。

(2006-05-11時事通信・THE WEB IWATE NIPPO 2006-05-12読売新聞)


2006-05-12

 「とーふー」の冊子発行  啄木がよく買った豆腐

 豆腐の消費量日本一の盛岡市で活動している「南部盛岡とうふの会」が、豆腐にまつわる話をまとめた冊子「とーふー」を発行した。豆腐について詠んだ句や石川啄木、宮沢賢治にまつわる話などを収め豆腐尽くしの作りに仕上がっている。

 縦横約18センチ、36ページ。県の地産地消推進事業の補助金と会員らの寄付で1000部発行した。

 毎年10月2日に同会が開いている「とうふ祭り」の講演などを中心にまとめた。盛岡市職員が作詞作曲した「イーナ豆腐盛岡」の歌から始まり、同市南大通にある「豆腐買地蔵尊」の名の由来など、内容は多彩。啄木が晩年、頻繁に豆腐を買っていたことや、賢治が友人の森荘已池に豆腐汁をごちそうした話なども。

 冊子は希望者に配布する。

 郵送 「南部盛岡とうふの会」事務局
    020-0111 盛岡市黒石野2の5の2
    80円切手を添える

 ファクス019・661・2327)

 (2006-05-11毎日新聞岩手ニュース)


2006-05-09

 啄木のふるさとを「レンタサイクル」でじっくりと

 IGR いわて銀河鉄道の渋民、好摩、二戸、金田一温泉の4駅は、自転車を貸し出す「レンタサイクル」の本年度のサービスを始めた。

 レンタサイクルは昨年、好摩を除く3駅で実施。1日800−1000円で借りることができ、旅行客らを中心に約350人が利用。「自分のペースで、じっくりと楽しむことができた」「自転車ならではの旅ができ、いい運動にもなった」などと好評だった。

 今年からサービスを開始した好摩駅の沼田力駅員主任は「石川啄木が生まれ育った玉山を時間をかけて味わってほしい」と利用を呼び掛ける。

 本年度の貸し出しは11月末までで、使用料は渋民・好摩駅は1時間300円、4時間500円、1日1000円。二戸・金田一温泉駅は1時間200円、4時間400円、1日800円。受付時に身分証明書の提示が必要だ。

(2006-05-09THE WEB IWATE NIPPO)


2006-05-09

 盛岡一高に同窓生が啄木の歌碑

  今年で生誕120年となる歌人・石川啄木の歌碑が啄木の母校盛岡一高の正門横に建立され、その除幕式が7日に行なわれた。歌碑の建立は啄木の生まれ故郷旧玉山村と啄木の母校がある盛岡市が合併したのを機に盛岡一高の同窓生有志が行なったもの。同校を1968年(昭和43)に卒業した同窓会「43会」の有志約80人。啄木研究家で、43会の恩師でもある遊座昭吾さんが、1996年の同窓会で宮沢賢治と啄木について講演したのをきっかけに、「校内に賢治の詩碑があるのに、啄木の歌碑がないのはおかしい」と、計画が持ち上がった。

 除幕式には盛岡一高の同窓生や啄木ファンらが出席、自身も盛岡一高の卒業生である盛岡市の谷藤裕明市長や在校生らの手で歌碑にかけられていた幕が下ろされた。

 この歌碑には「一握の砂」におさめられている

 「盛岡の中學校の 露臺の 欄干に最一度我を倚らしめ」
   (露臺=バルコン 欄干=てすり 最一度=もいちど 倚らしめ=よらしめ)

という一首が刻まれている。

 歌碑を前にした同窓生たちは「これで在校生たちの心にも先輩である啄木の精神が受け継がれることでしょう」と目を細めていた。 式終了後、啄木研究家の遊座昭吾さんによる碑面の歌についての講演も行われた。

 歌碑は、直径1.7メートルの円形をした赤御影、高さ40センチの台座にはこの歌の英訳も記されている。制作した岩手町の彫刻家片桐宏典さんは「自分の世界を持っていたが、志半ばで倒れた啄木を表現するために円形におうとつを残した」と話した。関係者らは在校生が先輩の偉業にふれる機会になると期待しており、啄木の史跡巡りの新たなスポットとしても話題を呼びそうだ。

(2006-05-07 IBC NEWS ECHO、2006-05-08読売新聞・朝日新聞・岩手日報・毎日新聞 ほか)


2006-05-05

 雑誌「短歌」平成18年5月号 角川書店
  わかりやすい文法講座
 新連載「歌のことばも使いよう」今野寿美 
                           

(抜粋)
 たとえば、ちょっと口語のイメージを抱かせる石川啄木の歌。たいへん読みやすい印象によって親しまれているが、実際には啄木の歌に純粋な口語が用いられている例は数えるほどしかない。むしろ基本は文語である。

 気の変る人に仕へて/つくづくと/わが世がいやになりにけるかな
                          石川啄木『一握の砂』

 口語的に発想しながら文語を採用した表現、それが啄木調なのだ。「いやになる」という現実認識を「なりにけるかな」と詠嘆してみせ、読者の共感を得てしまう手際はさすがだ。

(注:ほかの啄木の歌も取り上げていらっしゃいます---管理者)


2006-04-27

 金田一春彦 直筆の「啄木短歌」も
               岩手拓本研究会が作品展

 岩手拓本研究会の拓本展は、盛岡市玉山区芋田のカフェ・レストラン・ラックスで開かれている。岩手県ゆかりの人物や文人の詩、碑文の拓本14点が展示されている。

金田一春彦直筆の拓本は谷藤聰夫さんが1994年、東京都上野広小路裏で採拓した珍しいもの。石川啄木の短歌「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と、上野駅の昔の様子を刻んだものも合わせて採拓している。

 浅沼エミ子さんは二戸市の福岡中学校にある田中舘愛橘の訓「人の行く道は野もこえ谷も越江」と、盛岡市内の国道4号沿いにある啄木の「茨島の松の並木の街道をわれと行きし少女才をたのみき」を出展している。皆川孝夫さんは2004年10月に採拓した玉山区稲荷山頂・夜更森公園の啄木の歌を紹介している。

 作品展は2006年5月13日まで。

*カフェ・レストラン・ラックス
  国道4号沿線の姫神ホールから北へ約1キロ先の西側
  営業時間は午前10時〜午後9時(毎週月曜午後2時以降は休み)

(2006-04-27MORIOKA TIMES WEB NEWS)


2006-04-24

 第16回文化サロン  2006年4月20日 盛岡市 地域交流ひろば
 「石川啄木と金田一京助〜京助の“愛”に支えられた啄木〜」

ゲストスピーカー 森 義真氏    

石川啄木の生涯

1.短歌 4,000首。俳句は10句だけ

 文語から口語になっていく時代に啄木の短歌はわかりやすく、かなりの貢献をしたといえる。また、わかりやすいだけでなくすべての日本人の心のインデックスになっている。そして今でも新しい。

2.文学ジャンル

・小説15、評論、日記多岐にわたる。
・処女歌集「一握の砂」
・512通の書簡について
   受信人は106名。 No,1宮崎郁雨72通・No,2金田一京助44通

3.文学的生涯

・原稿料をもらっていたということもあり決して薄幸ではなく恵まれていたのではないかと思う。
・「あこがれ」は盛岡高等小学校の同級生小田島真平の紹介で得た300円で出版(明治38年5月)
・「小天地」は啄木の友人大信田落花の援助で発行(明治38年9月)
・中央文壇に列なる文豪との出会い。与謝野鉄幹、上田敏、森鴎外、佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、森鴎外などなど。

4.恵まれた交友関係

・朝日新聞に就職したのも盛岡市出身佐藤北江の厚意。
・金田一京助をはじめ宮崎郁雨や若山牧水などから献身的なまでの援助を受けていた。
・啄木には底知れぬ魅力があったといえる。

金田一京助の生涯

・生誕地は今の仁王小学校近くの金田一薬局があるところ。
・祖父は二戸市金田一村南部家の御用商人大豆屋福助。
・父は、盛岡銀行、盛岡電気の取締役、岩手軽便鉄道の社長になった事業家であり和算家の金田一勝定。「白い紙に墨で字を書く学問をやれ」と誰も手をつけていないアイヌ語の研究をすることを喜び、北海道や樺太に行く京助に大金を援助したという。
・京助は東京帝国大学在学中に上田万作の講義に啓発され言語学科を選択し、アイヌ語研究を志す。
・卒業後、三省堂の辞典校正係になりその後、国学院大学の講師として就職し、東京帝国大学や早稲田大学の講師も兼ねた。
・口承文学「ユーカラ」の筆録と研究のためにアイヌ人に同居してもらい「ユーカラ集」を出す。また『国語音韻論』など国学分野でも顕著な研究をし、『明解国語辞典』などの編集も手がけた。
・啄木没後は、啄木関係の著作を発表し、啄木歌碑の建設や顕彰のため力を尽くした。

京助にとっての1912年(明治45年・大正元年)

・啄木が亡くなった1912年、その年は京助にとって良くも悪くも大変な年だった。
・前年生まれた長女郁子の死。親友原抱琴(原敬の甥)の死。父久米之助の死。三省堂の解散。拓殖博覧会(上野)開催。開催期間中フリーパスを得てそこに来ているアイヌ人に付きっ切りで学ぶ。

啄木と京助

・京助は啄木との初めての出会いを「最初の印象」として書き残している。京助高等小学校4年生、啄木は新入生。見たところ6つか7つの子供と見違えそうな可愛らしい啄木に「このでんびこ」と云うと奮然とかかってきて「赤ん坊のような子だが、馬鹿にできない手ごわい子だな」と思ったという。
・啄木は、及川古志郎のような海軍の軍人になるのを望んでいたというが、京助から明星を全部借り一気に読み文学に深い関心をもつようになった。

・啄木は明治35年17歳の秋中学を退学して、文学をもって名を成すべく上京。が数ヶ月で帰郷。その後堀合節子と婚約し自立のためにも詩集刊行を考え再度上京。東京帝国大学在学中の京助の下宿、赤心館を訪問する。
・その後啄木は堀合節子と結婚し、翌年生まれた長女に京助の京をとり京子と名づける。
・啄木は明治40年に北海道に移住したが、明治41年には3度目の上京をし再び京助のいる赤心館に同宿。啄木は下宿代を払えず京助が見かねて払い、2人して蓋平館別館に移りすむ。

・明治42年京助は啄木の紹介で生粋の江戸っ子の林静江と結婚する。その年啄木は東京朝日新聞社校正係となり、妻子と母も上京してきた。啄木は生活に困窮し、たびたび京助に借金をし妻の静江に嫌われるようになる。
・明治43年啄木の長男真一生まれるが死亡。12月、歌集『一握の砂』を発行。そこには、「宮崎郁雨君、金田一京助君、この集を両君に捧ぐ」とあるが、その頃京助と啄木との交流はうまくいっていなかった。
・明治45年3月啄木の母死亡。4月13日啄木死亡(享年27歳)。亡くなる前に啄木は京助に来てもらっている。
 京助『想い出の記』には、
  いろいろの事はありしも 死ぬ時はやっぱりわたしを呼びし啄木 
・死ぬ数日前、啄木晩年の親友土岐善麿の尽力で出版の契約をし20円の稿料を受け取り、没後同年6月歌集『悲しき玩具』が発行される。

・1年後の5月、追うように節子逝く。
・その後京助は、啄木の顕彰のため力を尽くした。
・啄木の作品は、時代の先駆性を感じさせるものが多く、それでいて日本人の心の奥にあるのノスタルジアを呼び起こしてくれる。 
・アイヌ語ユーカリという前人未踏の学問を切り開くという愛情と根気と努力の金田一京助なくして石川啄木なしともいえる。
・母性愛のような愛を啄木にそそいでいた。
・京助にとって啄木は夢の代行者でもあったのだろう。

啄木碑

・全国には160基ほどある。
・1922年渋民鶴塚に啄木歌碑第1号が建つ
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸邊目に見ゆ
  泣けどごとくに  啄木
・第2基目 函館市立待岬の墓歌碑
・第3基目 盛岡市天満宮

◎写真入りの詳しい記事はこちら
 いわてシニアネット

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*ゲストスピーカー・森 義真さんより
 当日は、強い風と雨の悪天候にもかかわらず、定員(50名)をはるかにオーバーして71名の方々が参加されました。急遽、会場後ろのキャビネットを動かして机とイスを運んだり、資料を増刷したり、と事務局の方は大わらわのご様子でした。


2006-04-18

 啄木 流転の生涯を「かるた」に

 盛岡市桜城児童センター前館長の及川陸男さんは、石川啄木生誕120年を記念し、子どもが親しめる「啄木かるた25首」を作製した。漢字に仮名を振り、字を大きくしたほか、作品の背景や内容をイメージしやすい絵を付けた。及川さんは「かるたを通し、啄木の心情に触れてほしい」と家庭や学校、地域など多彩な活用を期待している。

 かるたは啄木の短歌の中から、故郷への思いを歌ったり、地名などが詠み込まれ啄木がたどった流転の生涯の足取りが分かる作品などを取り上げた。

 取り札は読み札の2倍のはがき大で字を大きく、漢字や旧仮名遣いには仮名を振った。同センター児童厚生員森和子さんの水彩画が添えられ、歌に詠まれた当時の生活や、啄木の心情など作品への理解を助けている。

 同かるたの原版は、3月に同センターで開催したひなまつりに合わせて作製。当日参加した子どものほか高齢者にも「使いやすい」と好評だった。

 今年は啄木生誕120年、啄木の故郷・玉山村が盛岡市と合併した記念の年でもあることから、市内の多くの子どもたちに啄木に親しんでほしいと印刷した。

 及川さんは「啄木と同じ山河を見て育つ盛岡の子どもには啄木の作品に触れてほしい。反響を見ながらシリーズ化も検討したい。家族の中での会話のきっかけになれば」と幅広い活用を願う。

 かるたは100セット作製。地元の桜城小と啄木ゆかりの下橋中に5セットずつ寄贈した。残部は希望者に提供する。問い合わせは及川さん(ファクス兼019・624・1887)へ。

(2006-04-16THE WEB IWATE NIPPO)

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*4月20日 8:45 IBC岩手放送のラジオに、作成者の及川さんと森さんが出演予定。


2006-04-15

 啄木忌前夜祭でイベント
   「一握の砂」の調べ パネルディスカッション 講演

  第3回啄木忌前夜祭(国際啄木学会盛岡支部主催)が12日、盛岡市中ノ橋通1丁目のプラザおでってで開かれた。啄木の命日を前に、会場ではテノールの演奏やパネルディスカッション、講演などが行われた。

  第1部「啄木を歌う」で舞台に立ったのは、秋田県在住のテノール歌手、森田純司さんと、盛岡市在住のピアニスト、平井良子さん。故越谷達之助氏が、啄木の歌集「一握の砂」から抜粋した歌曲集「啄木によせて歌へる」(全15曲)の中から、6曲を選曲。啄木の心情に寄り添いながら、切々と歌い上げた。

  第2部のパネルディスカッションのテーマは「若者たちは、啄木をどう見ているか」。同学会盛岡支部長で、岩大教授の望月善次さんがコーディネーターを務め、県内の大学に通う3人の学生が参加した。

  中国の精華大大学院からの留学生、王福萍さんは「啄木は文学的才能に恵まれながら、多くの作品を出版できないまま生涯を終えた。挫折の多い人生だからこそ、素晴らしい作品を書くことができたのでは」と分析。

  岩大4年の結城奈津子さんは啄木の印象について「短歌と人物の印象がまったく違う人。現実生活では自己中心的ととらえられがちだが、短歌を読むと感性の鋭さと寂しさが伝わってくる。自分の内面を伝えるのが苦手で、他人に言えないことを短歌の中で表現していたのでは」と考察した。

  盛岡大2年の阿部正樹さんは、啄木の印象的な短歌として「ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」を選んだ。「望郷の念として有名な歌だが、それよりも孤独感を感じる。古里の渋民村には帰れない事情があり、東京にもなじめない。居場所がなかった啄木は、上野の停車場で古里のなまりを聞いて、渋民の自然を思い出し、やすらいだと思う」と話した。

  第2部「私の啄木」では会場を訪れた人たちが意見交換を行い、第3部では岩手医大の黒澤勉教授が「啄木と盛岡弁」と題して講演した。

(2006-04--14盛岡タイムスWEB)


2006-04-14

 第95回啄木忌 啄木短歌の川や空は輝いている

 石川啄木の命日にあたる13日、盛岡市玉山区のお寺で啄木忌の法要が営まれた。生誕120年のことしも多くのファンが訪れた。玉山区渋民の宝徳寺は、啄木が幼少時代を過ごしたところ。啄木祭実行委員会(嵯峨忠雄委員長)の主催。嵯峨委員長は「ことしは啄木生誕120年で、啄木のふるさと玉山が盛岡市と合併した記念の年でもある。節目の年を啄木顕彰の新たなスタートと位置づけ、さらなる取り組みを進めよう」とあいさつした。今年で95回となる啄木忌にはおよそ90人の啄木ファンが参列し、1人ずつ焼香をして若くして亡くなった啄木を偲んだ。

 そして、地元のコーラスグループが、啄木が東京の新聞社に勤めていたころ詠んだ歌に曲をつけた「ふるさとの山はありがたきかな」を合唱した。啄木は、生活に密着した詩や短歌をつくり今なお多くのファンに愛されている。

 法要に続き、国際啄木学会理事の望月善次岩手大教育学部教授が「啄木短歌の魅力」と題して講話。「啄木の短歌に出てくる川や空は宮沢賢治の短歌と比べて明るく輝いている」とその魅力を語っていた。

 またきょうは、寺の新築の時に見つかった当時の本堂のふすま絵のうち松が描かれた2枚のふすまが公開された。このほか当時の着物などもあわせて展示され、訪れた人は啄木の暮らしぶりに思いを馳せていた。

(2006-04-13 IBC NEWS ECHO、2006-04-14THE WEB IWATE NIPPO)


2006-04-14

 啄木の愛した盛岡弁 〈盛岡ことば入門〉290 黒澤勉

  二〇三、脱線余話−啄木の愛した盛岡弁

・ 四月十三日は啄木の命日です。盛岡は啄木にとって「第二の故郷」でした。「第一の故郷」はもちろん渋民村で、明治十九年、日戸村の常光寺に生まれ、渋民村の宝徳寺に育った啄木は、渋民尋常小学校を主席で卒業、十歳(数え年)にして盛岡に出て、市立盛岡高等小学校に学び、明治三十一年、十三歳で盛岡中学校に進学、同校を五年生で退学するまで約七年間をこの盛岡で過ごしました。

・ 生まれ育った故郷を離れて遊学する。その遊学の地は「第二の故郷」であり、青春の思い出の息づく懐かしい土地となります。

・ 啄木はその後、二十歳にして堀合節子と結婚、一家五人(両親、妹を含めて)で借家住まいして九カ月を盛岡で過ごしています。『葬列』という小説は、詩集『あこがれ』を出版すべく上京し、久しぶりで盛岡に帰り、新婚生活を始めたころの啄木の思いが、主人公の立花浩一に託して語られています。

・ 故郷の良さというものは、そこにずっと住みついている時(あるいは人)よりも、離れてみて一層感じられるもののようです。啄木の望郷の歌も、東京での苦しい生活の中で奔流のように浮かび上がってきた故郷の人や自然にまつわる思い出であり、学校、生活でありました。

・ 啄木は盛岡の夜の静けさが好きでした。また、盛岡の秋の静けさ、寂しさが好きでした。さらにまた盛岡の雨の寂しさが好きでした。そしてこの三つを合わせた「雨降る秋の夜の盛岡」−そこにいうにいわれぬ深い情緒を感じとったようです。

・「盛岡は、その人間、その言語、一切よく雨に適している」とも書いています。雨が好きだというのも、そのしめやかな雨の音にひきつけられたからです。啄木は「耳の詩人」であり、田舎で育った人間らしく、静けさや寂しさを愛する人で、その静けさの中に点滅する音に心ひかれたようです。静けさの中の人間味、温かさにひかれたといってもよいかもしれません。

・ 昔の盛岡には、さまざまな物売りの声が聞こえていました。「豆腐ァ」と独特の調子で叫んで歩く豆腐売りの声を聞いた立花は、これこそ「自分が不幸にもまる五年の間忘れていた『盛岡の声』ではないか」とも書いています。

・「誠に優美な調子」をもつ盛岡弁。それを啄木は思い起こして、「理髪床」における男女の会話として次のような言葉を『葬列』の中で記しています。(拗音(ようおん)や促音などすべて大文字で記していますので、読むときは注意が必要です)

  女「アノナハーン、アエヅダケアガナハーン、昨日スアレー、彼ノ人アナーハン」

  男「フンフン、オ前ハンモ行タケスカ。フン、真ニソダチナハン。アレガラナハン、家サ来ルズギモ面白ガタンチエ。ホリヤ、ホリヤ、大変ダタンステア」

・ わかったような、わからないような、具体性の乏しい短い会話ですが、啄木はここには「深い深い意味」がこめられていて、その「意味」と「優美な調子」を聞き分けることができるなら、恐らくその人は「大小説家」もしくは「大探偵の資格」ある人だと、例によって大げさなことを書いています。

・ 啄木が盛岡弁のこの会話を書いてから百年あまり、今やどれほどの人がこういう話し方をしているでしょうか。若い人の中には、こんな盛岡弁聞いたこともない、などと思う人もいるかもしれません。これを素材に幾つか設問を作ってみましたので考えてみてください。

  問一、この会話は『葬列』と題する小説の中のものですが、『葬列』を盛岡弁で何と言いますか、「葬列が来る」を盛岡弁で言ってください。

  問二、漢字の部分に盛岡弁で読みを記しなさい。

  問三、この会話を共通語に翻訳しなさい。

 ……

  (岩手医大教養部教授)

(2006-04-12 盛岡タイムス)


2006-04-13

 「啄木学級」開催 民俗芸能の披露も

    盛岡ブランド 東京に売り込め

 盛岡市は、7月上旬の数日間を「盛岡デー」と銘打ち、東京・新宿駅西口で市のPRイベントを行う。市は旧玉山村と合併した2006年を「盛岡ブランド元年」と位置づけており、魅力あるまちづくりを首都圏の人たちに伝える。

 イベントは、新宿駅西口の高層ビル群へと続く通路脇の一角を主会場に、7月3日から5日にかけて開く予定。8月上旬に行われる「盛岡さんさ踊り」の実演や、南部鉄器など伝統品の展示販売を計画している。

 さらに、主会場近くのビルを副会場に、この期間と相前後して、今年生誕120周年を迎えた石川啄木をテーマに、ファンの著名人と研究家が対談する「啄木学級」が開かれるほか、民俗芸能の披露もある。

 盛岡市は、1月に旧玉山村と合併したことに合わせて、まちの魅力を盛り込んだ「盛岡ブランド宣言」を発表した。特産品や伝統芸能ばかりでなく、サケが上る川や、柔らかな響きの盛岡弁など、街並みや暮らしに価値を見いだそうとしている。そうした活動を通して、多くの人に盛岡を訪ねてもらい、ゆくゆくは定住者の増加につなげて、人口減に一定の歯止めをかける狙いもある。市によると、まち自体をブランド化していこうとする取り組みは、全国でも珍しいという。

(2006-4-13YOMIURI ONLINE 岩手)


2006-04-11

 今年度の小樽ガイドブックに啄木登場!

   表紙を開いたとたんに啄木が!

    想像してごらん
    石造りの倉庫の前を
    ほら、啄木が歩いてる

   小樽啄木会ページ


2006-04-10

 「新聞」 小樽グッズ研究所・第4回  --おたる新報--

*北海道地方新聞所在目録

 北門新報、魁新聞、小樽タイムス、小樽商業新報、北海日曜新聞、北洋新聞、小樽日報、………

(略)

 これ、みんな小樽で発行されていた新聞。ただし、明治〜大正〜昭和50年までに発行されていた地方新聞である。(略)

*小樽日報

 その中には、わが坂の街小樽新聞社が『おたる新報』命名の手本とした「小樽日報」の名前も見える。

 ご存じ、石川啄木が明治四十年小樽で新聞記者をやっていた有名な新聞。そして、啄木や野口雨情(童謡『赤い靴』の作者)が記事を書いていたことによって日本文学史上でも名高い新聞である。

 にもかかわらず、その現物が残っているのは、北大附属図書館所蔵の『小樽日報・第三号(明治40年10月24日発行)』ただ一部のみということでも有名な新聞でもある。本当に、世界中探しても、これ一部のみ。もしも、小樽の倉庫や古い建物の片隅からでも「小樽日報」が出てきたら、学界を揺るがす大事件、大発見になることは疑いない。

 来年は、そんな啄木が小樽日報社に来て、ちょうど百年。さまざまな記念イベントが企画されているので、判明次第、『おたる新報』でもどんどん取り上げていく予定だ。

*小樽新聞・北海タイムス

 「小樽日報」は短命な新聞だった。啄木たちが創刊号を発行したのが明治40年の10月。その後、啄木は釧路に移り、さらに東京へ舞い戻るのが翌明治41年4月の春。東京へ帰る途中、啄木は函館〜小樽にも寄った。啄木が「小樽日報」廃刊の報を聞くのは、この小樽再訪の時である。わずか半年にも満たない寿命の新聞…これでは、小樽を語る歴史資料としての価値は低い。

 通常、小樽の郷土史を調べたり学術論文を書いたりする際には、「小樽新聞」や「北海タイムス」が使われることが多い。明治〜大正〜昭和の長い時間の幅を休むことなく時を刻む時計のように新聞発行が続けられていることが歴史資料としての価値を高めている。

(2006年3月 第113号 おたる新報


2006-04-07

 「啄木との交流企画展」 啄木記念館

 盛岡市玉山区渋民の石川啄木記念館(嶋千秋館長)は、同館の喫茶店だったスペースを利用し、啄木と親交のあった人物の歌やはがきなどを紹介するミニ企画展を開いている。

 展示品は、同記念館の収蔵庫に眠っていたり、国際啄木学会初代会長の故岩城之徳さんから寄贈を受けたもので、中にはまだ一般に公開されていないものもある。

 現在は啄木と親交の深かった金田一京助、読売新聞の記者で啄木が尊敬していた土岐善麿、啄木の義理の弟に当たる宮崎郁雨の歌や掛け軸が展示されている。

 展示を企画した学芸員の山本玲子さんは「啄木とかかわりのあった人物を知ることで、より深い啄木の人物像が見えてくる」と来場を呼び掛けている。

 ミニ企画展は3月中旬にスタート。約3カ月おきに内容を変更する。

(2006-04-06THE WEB IWATE NIPPO)


2006-04-04

 盛岡第一高等学校に啄木歌碑、5月7日除幕式

     盛岡の中学校の
     露台の
     欄干に最一度我を倚らしめ

       歌碑の材料は、歌碑の碑面がインド産の赤御影、
       下の基壇は通称姫神石(姫神山で取れるゴマ石)と
       啄木に相応しい石でできています。

 母校(岩手県立盛岡第一高等学校)に啄木歌碑が建立されることになりました。歌碑のデザインを手掛けた若松信行氏に、経緯と除幕式の日程をお伺いしました。

<経緯>

 10年程前、我が母校に賢治の歌碑はあるが、何故啄木の歌碑はないのだろうという疑問を呈する者がいました。以来母校に啄木の歌碑建立を夢見る仲間の意志が次第に強くなり、2006年5月7日、いよいよそれが実現する運びとなりました。遊座昭吾先生の指導を受け、碑に刻まれる一首は、「一握の砂」より「盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我を倚らしめ」となりました。

 同窓会有志一同、啄木生誕120年、さらに玉山村と盛岡市の合併のこの年にこの歌碑を母校に寄贈できることを光栄に思っています。

<除幕式>

 2006年5月7日、10:30より盛岡一高正門付近にて除幕式を行う予定です。同窓生や啄木ファンの方々、そして在校生も参加する明るく和やかな式にしたいと考えています。連休帰省の方々の参加大歓迎です。

 なお、式終了後、校舎にて遊座昭吾先生の「盛岡の中学校のバルコンの……。」と題したレクチャーがあります。

(2006年3月 在京白堊会報 第20号<啄木の母校・盛岡一高同窓会>)
 在京疾風会の佐藤泰久さんより情報をいただきました。


2006-03-28

 啄木の妻を世話した
  コルバン夫人と直接 接した方々

  南房総市(市は、2006年3月20日に誕生した)南三原聖ルカ教会、一月の愛餐会にて

 ミセス・コルバン先生のことなど話がはずみました。コルバン先生に直接接した方々は、現在お二人だけになり、85歳と95歳になられ元気で過ごされています。そして今年はコルバン先生が南三原に宣教を開始して八十周年の記念の年を迎えます。

(日本聖公会横浜区報2006年4月号)

--コルバン夫人
 啄木亡き後、妻節子はキリスト教伝道の傍ら結核療養者の世話をしていたコルバン夫人を頼って房州に向かった。啄木の妹光子のキリスト者としての縁だった。コルバン夫人はイギリス人で、医学博士であり外科医であった夫の医療伝導に付き従って来日した。夫人とはわずか1カ月の付き合いに終わった。

(詳しくは---コルバン夫妻と節子


2006-03-27

 盛岡市「住みやすさ」全国総合1位

 時事通信社が実施した2005年度の都市版「くらしと環境に関する世論調査」で、盛岡市が2年連続で「住みやすさ」全国1位となった。

 世論調査は、都道府県庁所在地など全国49都市の20歳以上男女各400人を対象に郵送方式で実施。生活環境や利便性、安全面など18項目について質問し、各項目の満足度を集計して「住みやすさ指数」を計算した。

 盛岡市は「空気、海や川の水のきれいさ」の満足度が全国1位だった。「美しい町並みや伝統的な行事」「子どもの遊び場の安全」は、いずれも2位に入り、市民の満足度の高さが示された。

 また災害に対する安全性や環境衛生の良さ、治安の良さ、人情の厚さなど計9項目で上位5位以内に入った。

 「住みやすさ」の2位は宮崎市、3位は山口市で、盛岡市を含む上位3都市は前年と同じ顔触れとなった。

(2006-03-17THE WEB IWATE NIPPO ウェブもりおか)


2006-03-12

 啄木の「情けない面」に親近感

   【ひと紀行】−岩手大探訪 望月善次氏

 今年は県ゆかりの石川啄木の生誕120年、宮沢賢治の生誕110年にあたる。岩手大の教員たちは啄木や賢治の研究を続けながら、その作品の奥深さにますます魅了されている。

 教育学部教授の望月善次は、国際啄木学会の理事と盛岡支部長を務める。研究室に入ると、歌人・石川啄木に関する本が棚いっぱいに並んでいた。

 山梨県出身。短歌を趣味にしていた母の影響で、短歌を詠み始め、東京都内の大学では短歌サークルに所属した。就職した都立高校でも日本一の歌人を目指して創作を続けた。教壇に立ちながら大学院に通い、教師教育論をテーマにして修士号の学位を取り、担当教授が紹介してくれた岩手大講師の職に転じた。

 岩手に来て、県ゆかりの啄木の研究にも力を入れるようになった。短歌、詩、小説と幅広い分野で優れた才能を発揮した啄木に「情けない面」があるのを知って親近感を覚えた。望月も大学時代、2年留年した経験があり、「できない者の気持ちが分かる」からだ。

 特に、処女歌集「一握の砂」にある「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」が気に入っている。立身出世がとりわけ重んじられた明治時代、友が一定の地位を得ているように見えるなか、妻と過ごす日常を大切にする気持ちを詠んだ歌だという。

 そんな啄木も本当に情けないと思った話題は決して外には出さない。在籍した中学校の職員会議の記録によると、啄木はカンニングが原因で中退していたことが分かるが、この話は作品に登場しない。望月は「社会的な地位の高い寺に生まれたため、誇り高かったのだろう」と分析する。

 月に2回ほどの啄木学会の研究会で、望月は参加者に短歌を詠むよう呼びかける。作り手側に立った見方ができるからだ。研究を続けるうち、歌を詠むよりも研究する時間が長くなったが、「啄木の歌も自分なりの見解を持って批評できれば、作品を一層楽しめる」と語る。

(2006-03-12 YOMIURI ONLINE 岩手)


2006-03-04

 「『平和の日』いわての集い」
        ---平和を岩手から全国へ---

 日本ペンクラブ、県、盛岡市主催の第22回「平和の日」いわての集いが3日、盛岡市の県民会館で開かれた。同クラブ会長で作家の井上ひさしさんのほか、高橋克彦さん、浅田次郎さん、女優の宮沢りえさんらがリレートークを繰り広げた。約1800人の聴衆は岩手から発信する「平和」の意味をかみしめた。

 同日は国際ペンが定めた「平和の日」。リレートークは「平和の日に想う」をテーマに展開。盛岡在住の作家高橋克彦さんと、秋田県出身の作家西木正明さんは「風土」をテーマに語り合った。自然環境が厳しい岩手と、気候が比較的穏やかで米どころとして知られる秋田の風土を対比させ、「岩手は我慢強い人が多い」「秋田は見えっ張りで貯蓄率も低い」と指摘。また、のんびりとした風土の秋田からプロレタリア作家の小林多喜二が出たのとは逆に、冷害に苦しんできた岩手から童話作家の宮沢賢治が出たとして、風土とは逆の傾向の作家が生まれていることも紹介した。

 浅田次郎さんと立松和平さんは、宮沢賢治の作品に触れ「賢治はファンタジー作品を残した偉大さがある。『日本文学』から離れたインターナショナルな美学を感じる」と評した。

 シンガーソングライターで作家の新井満さんと音楽家の森ミドリさんは「ことば」をテーマに対談。森さんは自作の「わたしの岩手山」を弾き語り、新井さんは石川啄木の短歌に自分で曲をつけた歌を披露した。

 井上ひさしさんは、原爆により亡くなった人たちの写真をみながら「あの人たちは何かいいたかったことがあるに違いない」と思いつつ「父と暮せば」を書いたと発言。宮沢りえさんは「何が平和か何が幸せか忘れてしまう瞬間があるけれど、こうして笑っていられることが当たり前でなく幸せなことだと感じたい」と語った。 

(2006-03-04毎日新聞・岩手日報・ asahi.com・しんぶん赤旗)

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<盛岡市 森 義真さんより>

 本日、日本ペンクラブの「平和の日」いわての集い、というイベントに参加しました。

 至るところに「啄木・賢治」が登場したのはもちろん、様々な観点からの岩手論、平和論が飛び出して、大変有意義なおもしろい催しでした。

*リレートーク <高橋克彦&西木正明><浅田次郎&立松和平><森ミドリ&新井満><井上ひさし&宮沢りえ>

 啄木についても、いろいろな発言などがありましたが、出色は芥川賞作家・新井満の歌でした。彼の著書『お墓参りは楽しい』にも記述されていますが、立待岬の墓の前での啄木との会話を再現したのに続いて、森ミドリのピアノ伴奏で、歌いました。

 正確なタイトルは言わなかったと思いますが、石川啄木作詞 新井満作曲 で五木ひろしがレコードを出した歌とのことです。ただし、千枚も売れず、五木ひろしの出したレコードの最悪販売曲だったようです。東海の・・・、潮かほる・・・、いのちなき砂の・・・、大といふ字を百あまり・・・、頬につたふ・・・ を一つの歌に仕上げたものでした。

    -----------*------------------*------------


2006-03-02

 小惑星に「Oshu(奥州)」の名
     (----Takubokuという名の小惑星もある----)

 彗星発見の第一人者として知られる高知市のアマチュア天文家、関勉さんが13年前に発見した小惑星に「奥州」の名が付くことになった。岩手県水沢市など5市町村が合併して誕生した奥州市の民間団体が関さんに講演を依頼したところ、快諾したうえ関さんから申し出があった。

 小惑星「奥州」は地球から約5億キロにあり、太陽から地球までの距離の2.41倍の長さを平均半径にして3.75年かけ太陽を1周している。明るさは地球と近い時は17等星、遠い時は19等星。1メートルの望遠鏡があれば日没直後にうお座の方向に見られる。

 岩手県ゆかりの名がついた小惑星には▽啄木▽高野長英▽アテルイ▽水沢▽八幡平▽岩手山▽早池峰などがある。

(2006-03-01毎日新聞 朝日新聞)

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 小惑星「啄木」について

番号    4672
小惑星名  Takuboku
日本語読み たくぼく(啄木)
クラス   A
由来    石川啄木(詩人)
発見者   上田 清二 金田 宏
発見地   北海道 釧路
発見    1988年4月17日


2006-02-28

 「啄木の魅力をうたう」コンサート開催

 石川啄木生誕120周年記念「啄木の魅力をうたう」コンサートは2月25日、東京・築地の浜離宮朝日ホールで開かれた。新宿の歌声喫茶「ともしび」で歌い続けているソプラノの小川邦美子さんとバリトンの吉田正勝さんが出演した。

 プログラムは、啄木の短歌に越谷達之助が曲を付けた歌曲集「啄木によせて歌える」を中心に「やはらかに」「不来方の」「初恋」「ダリヤ」「はたらけど」など約30曲。生誕120周年について啄木記念館の山本さんは「啄木は26歳でこの世を去ったが、今も人々の心の中に生きている。これからもずっと生き続けるだろう」と約500人の聴衆にあいさつした。

 ゲストの映画監督神山征二郎さんは「啄木は生き急いだというより、30年ぐらいが自分の一生だと思い定めて生きていたのではないか」と指摘。宮沢賢治生誕100年の1996年に「宮澤賢治 その愛」を撮った神山監督は「20年前から啄木の映画を作りたいと考えていた。来年には脚本に着手したい」と熱い思いを語った。

(2006-02-26THE WEB IWATE NIPPO)


2006-02-21

 啄木の生地【北上川】

 石川啄木が幼少期を過ごした盛岡市玉山区渋民を歩くと、産直店兼食堂「啄木の駅」の文字が目に止まった。店主の飯田保子さんが、「こんなものがあるのよ」と啄木の短歌が書かれた手ぬぐいを見せてくれた。

 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川

 本のようにたたんである生地を広げると、「一握の砂」から故郷を回想した歌が現れた。岩手山やその手前に広がる水田の絵も付いている。

 手ぬぐいは、前店主の花坂品子さんが発案した。約40年前に「風土を感じ取れる土産物を渡したい」と、知人からヒントを得て作った。・・・

 今月20日は啄木の誕生日。生誕120周年の節目の年だ。花坂さんに啄木の魅力を聞いてみた。「歌を読んでみると、故郷を愛していたことが伝わってくるんです。愛した理由は、この辺を歩いてみれば分かりますよ」・・・

(2006-02-19 YOMIURI ONLINE 地域>岩手)


2006-02-19

 野の花 深沢紅子の生涯 「6 星山月秋」

 --父と星山月秋と啄木--

 紅子はエッセーの中で「星山さんのこと」に触れて、「啄木の何かにかならず書いてあるはずの人で」あり、「父が存命中もっと興味をもって、ものをきいておけばよかったと、おしまれてならないことが沢山ある」と結ぶ。

 父は星山をしのび「思い出の記(原題・思出の記)」を1927(昭和2)年に執筆している。

 店主の名は星山安之助、歌人の石川啄木と交流のあったひとである。生前、紅子の父と啄木、星山の三人で内丸大手先の料亭・花芳久で一夜歓談中、月が出て、啄木ははだしで庭へ降り立って眺めていたことがあるという。父と啄木の会食は、このときの一度だけだった。

 星山は盛岡のひとで、杜陵短歌会、杜陵吟社で活躍。啄木編集の「小天地」には俳号月秋の名で「夏秋雑章」と題し、「巡礼が水呑んで居る花野哉」など13句が掲載されている。

 紅子の父より4歳下であった。古書に親しみ、自らもまた俳句をたのしみ、絲郎(晩年・痴郎とも)の号を持つ父は、その縁で月秋と知りあったもののようである。

 ・・・・・

 涙ながらに語る病床の星山を、紅子の父は毎日のように見舞った。

 いよいよ今日明日のいのちとみた父は、たまたま巡教中の老師に臨床講話をしてもらった。星山は「心から法悦に咽びつつ領解を陳べ」た。

 星山は翌日、合掌し、浄土へと旅立って行った。

(2006-02-18asahi.comマイタウン>岩手)

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「野の花 深沢紅子の生涯」

 筆者の堀沢光儀さんは1937年、久慈市生まれ。1969年に「にがい米」で第12回日本農民文学賞受賞。著書には「冬の苺」(河北新報社)、「岩手のメルヘン」「中津川」(ともに岩手日報社)など。

 主人公となる深沢紅子さんは、1903(明治36)年、盛岡市に生まれた。12歳ごろから絵を学び始め、盛岡高等女学校を卒業後、東京女子美術学校に入学した。22歳で二科展に「花」「台の上の花」を初出品し、女性で唯一の入選を果たした。

 終戦後、しばらくは盛岡に戻って美術指導にあたり、1951年に盛岡短期大学美術工芸科が創立されると教授として就任した。1993年、90歳で亡くなりました。


2006-02-19

 啄木かるた大会、238人参加

 石川啄木生誕120周年記念事業の啄木かるた大会は18日、盛岡市玉山区渋民の渋民公民館で行われた。合併後初めての大会にはこれまでで最も多い238人が参加、旧盛岡市と玉山区の住民が一緒にかるたを楽しみ、地元出身の歌人に親しんだ。

 3人1組の小学生の部に54チーム、中学生の部に23チームが参加。個人戦で行う一般の部に7人が参加した。旧盛岡市の小中学校からは4校、18チームが参加した。

 石川啄木記念館の嶋千秋館長が「旧盛岡市の皆さんも玉山区の住民と一緒に盛り上がり、友達になってください」とあいさつした。

 啄木の短歌が書かれた「啄木かるた」を使用し、予選リーグと決勝トーナメントで争った。

 同記念館の山本玲子学芸員が上の句を読み上げると、子どもたちは「はい」と素早く反応し、札に手を伸ばした。あちこちでかるたを取り合う熱戦が繰り広げられた。

(2006-02-18THE WEB IWATE NIPPO)


2006-02-17

 “夜空の流れ星のような生涯” 啄木 (YOMIURU ONLINE 編集手帳)

 生計の窮迫した石川啄木は郷里の岩手県渋民村を引き払い、職を求めて北海道に渡った・・・

 21歳の春である・・・

 日記の記述がいかにも啄木らしい。「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地に留まること一か年二か月なりき、と後の史家は書くならむ」。一家離散の憂き目に遭いつつ、昂然と胸を張っている・・・

 薬代も払えない貧窮のなかで世を去るのは一家離散の日記から5年後、26歳の時である・・・

 はかなく消えて、残像はいつまでも美しい。夜空の流れ星のような生涯だった。

(2006-02-17 YOMIURU ONLINE 編集手帳)


2006-02-10

 ゴジラの作曲家・伊福部昭さんと 啄木

 映画「ゴジラ」「ビルマの竪琴」「座頭市」などの音楽を手掛けた、作曲家の伊福部昭(いふくべ・あきら)さんが2月8日死去した。91歳。北海道釧路町幣舞の出身。通夜は13日、告別式は14日。

 《石川啄木と親しかった芸妓・小奴(近江ジン)の養子になったかも知れないことが書かれてあるページを見つけました》

ーー「伊福部 昭の肖像」ページよりーー

「伝統の重みに」

伊福部昭は大正3年(1914)5月31日、釧路の幣舞{ぬさまい}で父・利三、母キワの間で生まれた。

伊福部利三は慶応3年(1867)生まれ。当時、釧路町の警察署長であった。その後、父の転勤にともない、根室・網走・札幌・音更へと移動している。開拓地においては警察署長は名士であった。兄が2人、姉が3人の末子である。

話によれば、利三は南大通り三丁目二番の近江屋旅館で(現在、朝日生命南営業所がある場所である)呑んでいる時に女主人・近江ジンに向かい、「こんど生まれた子を養子にやる」と約束してしまったことがあるそうだ。この人は石川啄木が在釧時代に思いを寄せた芸者・小奴である。近江屋旅館は昭和37年11月に閉めてしまったが、もし、約束どおり養子に出されていたら、伊福部昭氏は近江屋主人として釧路市に在住していたに違いない。

http://64.233.179.104/search?q=cache:OXC6BWlISL0J:www.kushiro.or.jp
/shumi/ifukube/a002.html+啄木 伊福部昭&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1

《「キャッシュ」だけが有効でした》


2006-02-02

 国際啄木学会盛岡支部100回記念講演会

 「謎に似る啄木の生命(いのち)─2006年の断想」

  国際啄木学会盛岡支部(望月善次支部長)の月例研究会100回記念講演会が28日、盛岡市上田の岩大教育学部で開かれた。県内外から約50人が会場を訪れた。

  月例研究会は啄木の古里、玉山村(現盛岡市)渋民での大会開催を機に、1996年11月にスタート。以降ほぼ毎月、研究者たちがそれぞれの切り口から啄木の作品や人間像に迫ってきた。

  望月支部長は「本講演会は月例研究会が100回を過ぎたことと、ちょうど盛岡市と玉山村が合併し、われらが渋民が玉山区になったことを記念して企画した。現在の会員の条件は『啄木を愛すること』。自分もそうだと思う人はぜひ学会に入ってほしい」とあいさつした。

  学会元会長の遊座昭吾さんが「謎に似る啄木の生命(いのち)−2006年の断想」と題して講演。啄木の短歌「師も友も知らで責めにき/謎に似る/わが学業のおこたりの因(もと)」を取り上げて、謎に挑んだ。

  勉強嫌いでもなく、学業の大事さも知っていた啄木少年。渋民尋常小時代は神童と呼ばれ、盛岡高等小でも力を示したが、周りの教諭や友人からは理解されなかった。

  理由もわからずに自分をとがめていることを「知らで責めにき」と表現。「先生や生徒より、自分自身がわからない。だから『謎に似る〜』となる。軽々しく謎解きはできないが、文学者石川啄木の命の謎の原点がここにあると思う」と話した。

  このほか、同盛岡支部の元支部長の浦田敬三さんが「啄木をめぐるふるさとの人々−研究の足跡をたどりながら」と題して講演した。

(2006-01-30盛岡タイムス)


2006-02-02 

「一握の砂」で歌った函館が登場する
 『鉄道の文学紀行』 茂吉の夜汽車、中也の停車場

 啄木が「一握の砂」で歌った函館、尾崎紅葉「金色夜叉」の熱海。元高校教師が、文学とゆかりのある鉄道と駅を訪ね歩く。中原中也の生家があるJR山口線・湯田温泉駅に立ち寄り、始発駅「小郡」が「新山口」に変わったのは、いささか淋(さび)しいと感じるなど、繊細な感受性がいい。

 函館から豊後竹田まで十二の駅に、近代文学の足跡を訪ねる。

・函館駅ー茂吉記念館前駅―今泉駅―二本松駅―犬吠駅―熱海駅―信濃追分駅―替佐駅―桑名駅―湯田温泉駅―宇和島駅―豊後竹田駅

(函館駅―啄木『一握の砂』から辻仁成『海峡の光』まで)

『鉄道の文学紀行』 茂吉の夜汽車、中也の停車場

 佐藤喜一著 中央公論新社 2006年1月 819円


2006-01-27

 啄木かるた大会 参加者募集

 生誕120年の記念事業、啄木かるた大会(啄木祭実行委主催)は2月18日、盛岡市玉山区渋民の渋民公民館で開かれる。今回で4回目。同実行委は参加者を募集している。

 一般個人戦の部と、団体戦(3人1組)は小学生低学年の部、高学年の部、中学生の部の3部門で競う。参加費は無料。専用の申込用紙に必要事項を記入し、郵送かファクスする。締め切りは2月15日。

 申込用紙は石川啄木記念館、渋民公民館、市内の小中学校、市役所1階、玉山総合事務所などに置かれている。

 申し込み、問い合わせは石川啄木記念館(019-683-2315)へ。

(2006-01-27THE WEB IWATE NIPPO)


2006-01-22

 啄木の短歌の情景再現 ろうそくの灯で雪あかり- 釧路

 明治時代の歌人、石川啄木が北海道の釧路駅に降り立った時に詠んだ短歌の情景をろうそくの灯で再現するイベント「啄木・雪あかりの町・くしろ」が21日夜、釧路市内で行われた。

 釧路市職員の有志らが企画し、ことしで3回目。石川啄木は1908年1月21日に釧路駅に到着し、旧釧路新聞社に記者として入社した。駅に着いた際に「さいはての 駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んだ。

 市民約四百人が牛乳パックを使って自宅の冷凍庫で作った、自家製アイスキャンドル千百個を、啄木の下宿先跡周辺の南大通から米町間約千三百メートルの路上に並べた。

 地元商店街も協力して市民に甘酒などが配られ、ラーメンの屋台や喫茶が臨時営業、百人一首大会なども行われた。

 一方、特別講座は、啄木木研究家北畠立朴(りゅうぼく)さんの案内で、地元から参加の三十三人と、函館の八人が、旧釧路停車場(釧路駅)跡の歌碑などを見学した。夜には北畠さんが「啄木木が心引かれた女性たち」と題して講演した。
(提供)

(2006-01-22日経新聞Web・1/24北海道新聞)


2006-01-19

 小樽発・読書マガジン
 
「Northern songs」 スワン社発行

目次・・・2005年12月号

・「小樽日報・第三号」コピー <一部分>

・石川啄木「小樽のかたみ」抄 <おたるの青空 第23回>
  片割月忍びの道行 (明治40年10月15日・初号)
  手宮駅員の自殺未遂 (明治40年10月24日・第3号)
  お嬢様派出所を狙ふ (明治40年11月7日・第15号)
  出没自在の美人 (明治40年11月26日・第30号)
  天下一品怪美人の艶書 (明治40年11月27日・第31号〜12月5日・第38号)

・小樽遺産・啄木「小樽のかたみ」 (新谷保人)
・読書会BBS 2005年11月〜12月

<「啄木の息」管理人コメント>

 啄木が記者として記事を書いた「小樽日報」は、明治四十年十月廿四日(木曜日)発行のものしか残っていない。そのコピーが載っている。

 「紀元二千五百六十七年 陰暦九月十八日 ひのえうま」などと右からの文字が並び、確かにその時代だと思う。一方、上部には「OCTOBER 24, 1907. THE OTARU NIPPO」とタイトルがあり、対比が面白い。

 「小樽のかたみ」は啄木が小樽日報記事を切り抜いて作ったスクラップブックである。その中から、『「Northern songs」では、どの記事を取り上げていくのか』と啄木全集を傍にしながら興味津々で読んだ。

 特に「今号掲載記事の解読」は、“そういう読み方があるの!” と、たくさんの見方を教えてもらった。

*お読みになりたい方は・・・・

・「Northern songs」「SWAN」について、復刻のリクエスト受付中。
・バラ売り、可。1部、200円(送料共)。
・メール、ハガキ等で連絡をいただければ、専用郵便振替用紙と共に郵送。

詳しくはこちらで
 おたるの図書館 http://www.swan2001.jp/index.html


2006-01-12

 岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)終了

   「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」を創設

 岩手日報社は、ことし創刊130周年を迎えるのを記念して「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」を創設します。歌人・石川啄木、詩人・宮沢賢治をはぐくんだ本県の文芸風土を継承し、一層の発展を期して県民を対象に随筆作品を公募します。募集要項はまとまり次第、お知らせします。

 20年にわたって実施してきた岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)は昨年の20回をもって終了します。

(2006-01-01THE WEB IWATE NIPPO)


2006-01-04

 啄木が<妖怪記>に登場ーーー「くもはち」

 大ヒットホラー漫画「黒鷺死体宅急便」大塚英志+山崎峰水の黄金コンビが送る、新感覚妖怪コミックス!

・くもはち  正体不明の売れない妖怪小説家。義眼の右目に不思議な力が?
・むじな   くもはちと組む挿絵画家。本物の「のっぺら坊」である
・松岡國男  河童殺しの事件を調べる法制局参事官。妙に歴史や神話に詳しい
・田山花袋  病弱な文学少女に魅せられてしまった中年小説家
・石川啄木  酒飲みで女に付きまとわれる歌人                                                    

くもはち」 偽八雲妖怪記 

 大塚英志/原作 山崎峰水/漫画
 角川書店 角川コミックス・エース 2005年 580円

<「啄木の息」管理人コメント>

第三話 「一つ目と白骨」

 出版社に短歌を売りにいった啄木が「もっと赤裸々な告白調の小説なら出版してあげられるが……」と社の人に断られるところから登場する。浅草十二階の見える街を歩き、「植木貞子」が登場し、朝日新聞社も大逆事件も少しだが描かれている。

 同名で単行本も出ている。「くもはち」大塚 英志  角川書店


2006-01-04

 啄木生誕120年・賢治生誕110年 各地で多彩な催し

 2006年は岩手県が生んだ2人の詩人・玉山村出身の石川啄木の生誕120周年、花巻市出身の宮澤賢治の生誕110年に当たる。10歳違いの啄木と賢治が青春時代を過ごした盛岡市で多彩なイベントが企画されているほか、同市と玉山村との合併を控え、新たな啄木の里としての事業も予定されている。

 東京では、映画「宮澤賢治−その愛」を手がけた神山征二郎監督をゲストに迎えて「啄木の魅力を歌う」コンサートが開かれるなど、全国で顕彰の動きが広まっている。啄木・賢治のさまざまな魅力に触れる年になりそうだ。

 盛岡市の盛岡ブランド推進計画の素案(観光分野・個別推進事業)によると、2006年度は、啄木関連施設合同展「明治の盛岡と石川啄木」の開催をはじめ、「宮沢賢治写し絵劇場・注文の多い料理店」の全国展開の実現に向けて準備を進めている。素案には、啄木生誕120年を記念し、「短歌甲子園」(全国高校生短歌大会)の立ち上げも挙げられている。

  今年夏から開催予定の啄木関連施設合同展では、新生盛岡市の4館が各館の特徴を生かした展示にしようと構想を練っている。

  盛岡市本宮の市先人記念館(吉丸蓉子館長)では、啄木と金田一京介を中心に、周辺の資料などからそれぞれの人物像に迫る予定。

  同市中ノ橋通1丁目の盛岡てがみ館(八木橋哲男館長)では、啄木の同時代の作家や近現代の著名人の手紙、原稿などから啄木に寄せられた思いを探ろうとしている。

  同市中ノ橋通1丁目のもりおか啄木・賢治青春館(中村光紀館長)では、明治の盛岡にスポットを当てる。会場全体を使い、当時の盛岡を再現しようという試み。

  盛岡市と合併する玉山村の石川啄木記念館(嶋千秋館長)では、啄木周辺の女性たちを取り上げ、女性たちがモデルになった小説や歌などを紹介しながら人間啄木を見詰める。そのほか、各館の独自企画として、もりおか啄木・賢治青春館では4月−5月に「児玉房子ガラス絵展−賢治世界」を予定。児玉さんは遠野市在住の画家で、絵本「ガラス絵の宮沢賢治」シリーズの原画を手がけている。

  11月には「拓本で見る宮沢賢治」、2007年1月−2月には本県のデザイナーによる啄木・賢治のポスター展を予定している。

  玉山村では、これまで啄木祭実行委員会が主催してきた啄木祭、短歌大会、俳句大会(5月−6月)を合併後も例年通り実施する予定。講師に作家の浅田次郎氏、井上ひさし氏らを迎えて好評だった「啄木学級」は、7月に東京、10月に渋民尋常高等小学校校舎(啄木記念館わき)で開催予定になっている。 

  啄木ゆかりの東京でも記念事業が開催される。石川啄木生誕120周年記念「啄木の魅力をうたう」小川邦美子コンサート(ともしび音楽企画主催)は、東京都の浜離宮朝日ホールで2月25日に開催。石川啄木記念館学芸員の山本玲子さんが解説を務める。特別ゲストの神山監督は、啄木映画の実現を熱望している長年の啄木ファン。同コンサートは、内容や構成を変えて全国の学校や地域での公演が可能で、全国展開も期待される。

(2006-01-04盛岡タイムス)

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