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啄木の広場   関連の話題・皆様からのご意見ご感想

2005年1月-

啄木の広場2006年1月- 2005年12月- 2005年1月- 2003年7月- 2002年11月- 2002年2月- 2001年10月- 2001年7月- 2001年3月-  


2005年12月-つづき

2005-12-01 難病乗り越え自費出版--きっかけは啄木

2005-11-08 「ウィーンで観光PR」 啄木のパンフレットも

2005-11-05 啄木の手紙の美しさ「詩人のモダンな造形感覚」榊莫山

2005-10-26 啄木の影響「宮沢賢治」NHKカルチャーアワー

2005-10-24 啄木歌碑の除幕式 --小樽駅前

2005-10-19 「放浪と日本人『寅さん』の源流をさぐる」旅に生きた啄木

2005-10-11 「ARC北上川ガイドブック」出版-啄木と北上川のエピソードも

2005-10-08 啄木と鉄道との意外な関わり「鉄道の日」イベント開催-小樽

2005-09-30 「お墓参りは楽しい」--啄木の墓の前で

2005-09-25 小栗風葉の資料集成を発刊-啄木との親交エピソードも-

2005-09-16 啄木文学の深さ紹介 明大教授 池田氏 ふるさと吉川で講演

2005-09-08 啄木研究家・口語歌人の川崎むつをさん死去

2005-09-01 [啄木歌碑趣意書]小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

2005-08-31 小樽駅前に啄木の歌碑 今秋建立-協賛金募集

2005-08-20 啄木と交友のあった「小国露堂」紹介の冊子発刊

2005-08-10 啄木の臨終をみとった牧水の「若山牧水と延岡〜その生涯と作品展」

2005-08-05 「東の啄木、西の翠渓(純孝の号)」と称された前田純孝の大親友・葛原しげるの日記発見

2005-07-27 「一握の砂」を装丁した--名取春仙の借金を請う手紙見つかる

2005-07-23 岩手日報文学賞授賞式・記念講演会

2005-07-08 啄木賞に木股知史氏 第20回岩手日報文学賞

2005-06-30 「石川啄木の手紙二通の鑑定額!」開運なんでも鑑定団

2005-06-22 全社が石川啄木の短歌を紹介 2006年度教科書

2005-06-22 啄木の下宿もあった明治の南大通の写真発見 釧路市

2005-06-02 啄木ゆかりの校舎を補修 渋民小

2005-06-01 「石川啄木との奇しき縁」2回目---遊座昭吾氏

2005-05-30 啄木のふるさとにレンタサイクル

2005-05-27 「石川啄木との奇しき縁」1回目---遊座昭吾氏

2005-05-18 啄木がうどんを食べた食堂(?)も載った地図発見 -宮古市

2005-05-17 啄木の歌う東海の白砂、釜石海岸だった?

2005-05-14 岩手県・増える修学旅行生

2005-04-27 啄木より宮崎郁雨への手紙を初公開

2005-04-27 啄木、七三分けの大通公園の像に異説

2005-04-15 盛岡で啄木忌前夜祭

2005-04-14 啄木しのび全国からファン 第九十四回啄木忌

2005-04-11 啄木の直筆はがき記念館に寄贈される

2005-04-11 啄木にちなむ問題も 岩手県臨時職員:採用試験

2005-04-06 石川啄木論「うたごころ」で読む短歌

2005-03-13 詩歌の現在「誤解多い啄木像を洗う」

2005-03-02 番田雄太さん初の作品展・口で書く啄木短歌

2005-02-26 日韓併合を憂いた石川啄木の詩を紹介

2005-02-25 啄木風短歌入賞作品決定

2005-01-28 啄木を支えた「佐藤北江」について

2005-01-28 石川啄木の短歌の情景再現

2005-01-23 ことばの旅人----友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

2005-01-14 啄木の歌に詠まれた“なつかしの正月風景”

2005-01-09 渋民小学校の教え子が語る啄木・啄木歌碑に警察の眼


2005-12-01

 難病乗り越え自費出版--きっかけは啄木

 沖縄県糸満市に住む全身性障害者の並里和男さんが難病を乗り越え、このほど、自作の短歌や俳句、小説などを記した作品集「我が青春の譜」を自費出版した。並里さんは「文芸に関心のある人はぜひ読んでほしい」と語り、多くの人に一読を勧めた。

 並里さんは幼少時に難病のライソゾーム病を罹患。以来、言語障害や手足が不自由になるなど身体に障害が現れ、現在は同市の小規模授産施設「たんぽぽ福祉作業所」でパソコンを使った文書の入力作業などに従事している。

 「我が青春の譜」は並里さんが来年1月で還暦を迎えるため、その節目として出版した。文芸に親しむきっかけは中学3年生のころに授業で習った歌人・石川啄木の作品。啄木のその平易ながらも美しさを備えた作風に並里さんは魅せられ、以来、短歌の創作に始まり、俳句や小説まで活動の幅が広がっている。

 タイトル名は「恋愛を題材にした作品が多い」(並里さん)ことから命名。全194ページに、短歌91首、俳句11句、散文詩2篇、作詞15曲、創作昔話「かもからもらった青ズキン」、短編小説「アンスリューム」が収録されている。

 特に短歌は中学生のころから現在までの作品を厳選したもの。恋愛したことや家族の思い出など実際に体験したことをはじめ、イラク戦争やパレスチナ問題などといった社会情勢をテーマにしたものなどバラエティーに富んだ内容になっている。

 並里さんは「区切りとして出版にこぎ着けられてよかった」と笑みを浮かべ、「文芸に興味のある人に読んでほしいし、できれば感想もぜひ教えてほしいです」と語る。

 「我が青春の譜」は定価1100円(税込み)。
 問い合わせは、たんぽぽ福祉作業所098(995)0789(FAX兼用)。

(2005-12-01THE RYUKYU SHIMPO)


2005-12-01

 県啄木祭とともに 川崎むつをさんをしのぶ会

 九月八日に九十八歳で亡くなった青森市の歌人川崎むつをさんをしのぶ「川崎むつをさんとお別れする会」が二十七日、青森市のアラスカで開かれた。

 日常の言葉で生活や心情を詠う口語短歌に生涯没頭し、本県の文学史とともに一世紀を歩んだ川崎さん。会には故人を慕う文学関係者や知人ら約九十人が集い、尽きない思い出を語り合った。

 お別れする会は、川崎さんが創設した県啄木会など県内五つの文学団体が共催し、毎年恒例の県啄木祭と併せて行われた。

 壇上ににこやかな笑顔の遺影が飾られた会場では冒頭、川崎さんと親交のあった同市の舞踏家福士正一さんが、故人にささげる踊りを披露。弘前市の文芸評論家小野正文さんは「『死ぬのはこわくない』と詠った川崎さん、今はどういう気持ちか聞きたい」と遺影に語りかけた。

(2005-11-27Web東奥日報)


2005-11-22

 啄木文庫も移動 函館中央図書館オープン

 道内の図書館が大きく変わる。観光名所・五稜郭の西隣には27日、函館市中央図書館が開館する。来春には新しい帯広市図書館ができる。この二つは道内で2、3番目の規模となり、利用者がずっといたくなるようないろいろな施設を備える。一方、道立図書館は、お金をかけずにサービスを充実する工夫を打ち出している。

 函館市中央図書館は地下1階地上2階の延べ約7700平方メートルと、道内では札幌市中央図書館に次ぐ2番目の広さ。収蔵能力は63万冊で、開館時は37万冊を収蔵する。休館した市立函館図書館本館からアイヌ民族や幕末のペリー来港、函館戦争の関係資料、啄木文庫などが移される。

(2005-11-21asahi.com マイタウン> 北海道)


2005-11-08

「ウィーンで観光PR」 啄木のパンフレットも 盛岡青年会議所

 盛岡青年会議所は、オーストリアの首都ウィーンで開かれた国際青年会議所世界会議で、盛岡地方の文化や観光を世界にPRした。

 同世界会議は10月29日まで6日間開かれた。約100カ国の青年会議所関係者が集まり、日本から約750人、岩手県からは盛岡青年会議所のメンバー9人が出席した。

 夜は各国が文化を紹介する「各国ナイト」が行われた。盛岡のメンバーは、盛岡四大めん(冷めん、じゃじゃめん、わんこそば、盛岡はっと鍋)をポスターでPR。岩手山や石割桜の写真、石川啄木のパンフレットなどを展示した。

 川村理事長は「各国ナイトでは盛岡が一番盛り上がっていた。盛岡を世界にアピールできた」と喜んでいる。

(2005-11-07岩手日報)


2005-11-05

 莫山つれづれ
 「詩人のモダンな造形感覚」 榊莫山(書家)

 まだ書きたき事有之候へ
 ど出勤時間さし迫り候
 まヽ擱筆いたし候 今
 度生れたるは男の子
 にて眞一と命名いたし候
 「一握の砂」が産婆の役を
 つとめたる次第に候 草々
   ◇
 十月の産病院のしめりたる
 長き廊下のゆきかへりかな
   ◇
 十月の朝の空気に新しく息
 吸ひそめし赤坊のあり
   ◇
 真白なる大根の根のこころよく
 肥ゆる頃なり男生まれぬ

   十月十日午前 啄木拝

   (友人・岡山儀七にあてた石川啄木の手紙)

 というこの手紙は、啄木二十五歳の筆である。

 たんたんと、いくぶんせわしげに走るけれど、じつに手なれた動きを示して美しい。造形のモダンさを心得て、生まれつき天性の造形感覚をたっぷり持っていたにちがいない。

 明治の文人といっても、その多くは古典的で権力誇示を匂わせたものばかりだが、この手紙からは、そんな古めかしい匂いはない。

 この手紙をかいた日、啄木は東京本郷弓町に住んでいた。その日、東雲堂と歌集の出版契約ができて、二十円で『一握の砂』の原稿を売っている。啄木の興奮も悦びも、この手紙からこぼれおちてくる。

 が、その悦びはつかのまであった。二十七日の夜半、眞一は死んでしまった。妻の節子は産後の肥立ちがよくなくて、ぶらぶらと薬餌に親しまねばならなかった。

 やがて『一握の砂』の出版が完成したが、その歌集に<一本をとりて亡児眞一に手向く>とかかねばならなかった。さらに<この集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき>と、胸をつまらせる。

 薄倖の詩人・啄木の生涯は、それよりあわただしくページをくってゆく。妻は肺尖カタルで、母は肺結核でともに寝込んでしまう。一家は音をたててくずれてゆくのに、父は、なんと北海道へ逃亡。

 母は死に、翌明治四十五年四月十三日、啄木は死ぬ。冷えのきびしいその朝、啄木の枕元には、妻の節子と長女の京子、そして若山牧水らがいたそうだ。

 啄木の死は、眠るようにしてーーというのだが、なんのなぐさめにもならない。啄木は二十七歳。ああ、あ。

 啄木なきあと、六月、次女が父なきこの世に誕生。妻の節子は、悄然と二人の子をつれて函館へと去ってゆく。が、妻もまもなく啄木のあとを追って、この世を去る。

 いま、啄木と節子は、函館の立待岬に眠っている。その岬に立つ啄木の碑のことは、来年やぐるまの花の咲くころに書くことにする。

(2005-10-16毎日新聞)


2005-10-26

 「宮沢賢治」講師 栗原敦(実践女子大学教授)
     2005年10月22日
     NHKカルチャーアワー 文学探訪  NHKラジオ第2放送

第4回「短歌にはじまる」

・「一握の砂」の影響

 宮沢賢治の文学的活動の最初は短歌制作である。彼が花巻の花城尋常高等小学校を卒業し、岩手県立盛岡中学校に明治42年4月5日入学した。短歌制作開始は明治44年1月、中学2年と推定される。実は前年、盛岡中の先輩に当たる石川啄木の歌集「一握の砂」が刊行され評判をよんだ。おそらくそれに刺激されてのことだったのではないかと思われる。

 賢治のあらゆる文学的活動の原点である短歌についてながめる。
 大正10年春のあたりまでが中心で短歌制作は終わりになるが、絶筆2首までいくらかの作品があり、残された短歌の数は800首ほどである。

・絶筆

  方十里稗貫のみかも 稲熟れてみ祭三日 そらはれわたる (稗貫=ひえぬき)

  病のゆえにも くちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし (病=いたつき)

 賢治の歌集が刊行されたことはないが、手書きの歌稿二種が残されている。歌稿の冒頭の余白に、中学1.2年当時を題材にした短歌12首が書きこまれている。啄木歌集の影響によって短歌作りが始まったと考えられることからみれば、やはり、中学1.2年からが短歌制作開始と考えられる。

 当時のことを、後から生涯を懐古する意図をふまえて記憶を新たにして作った作品の書き入れだと推定される。

・啄木の影響を受けた歌

 石川啄木の影響のもとにあることが歴然としている数首をよむ。

 明治44年1月ころ

 賢治  そらいろのへびを見しこそかなしけれ学校の春の遠足なりしが

 啄木  死にしとかこのごろ聞きぬ 恋がたき 才あまりある男なりしが

 明治45年4月ころ

 賢治  なつかしきおもいでありぬ めぐすりのしみたる しろきいたみのおくに

 啄木  手套を脱ぐ手ふと休む 何やらむ こころかすめし思ひ出のあり

(NHKラジオ第2放送 2005年10月〜2006年3月 毎週土曜日 21:30〜22:00)


2005-10-24

 啄木歌碑の除幕式 --小樽駅前

 小樽啄木会(水口忠会長)などがJR小樽駅前に石川啄木の歌碑を建立し、23日、全国から集まったファンら百人余りの前で除幕式を行った。

 同駅(旧中央小樽駅)は、啄木の義兄が駅長を務め、啄木が妻子を残して釧路へ旅立った場所でもある。高さ約二・五メートルの碑には「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌を刻んだ。

 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」という作品の影響で、小樽の啄木人気はいまひとつと言われるが、歌碑建立は市民らの協賛金約百四十万円で実現した。

 建立期成会の安達英明会長は「啄木人気と観光振興の起爆剤になれば」と話している。

(2005-10-24北海道新聞WEB)



2005-10-19

旅に生きた啄木・・など
「放浪と日本人『寅さん』の源流をさぐる」

 津市在住の映画評論家で三重大非常勤講師の吉村英夫さんが「放浪と日本人『寅さん』の源流をさぐる」を刊行した。映画「男はつらいよ」の主人公、車寅次郎を西行や松尾芭蕉、種田山頭火ら日本史上の旅人、放浪者の系譜の中に位置づけたユニークな「寅さん論」だ。

 吉村さんは「男はつらいよ」を中心に、映画に関する著書を数多く執筆してきた。同書は四年半の執筆期間をかけ、これまであまり取り上げることのなかった歴史や文学の分野に挑戦した。

 登場するのは在原業平に始まり、良寛や国定忠治、石川啄木、永井荷風など旅に生きた十九人。それぞれが旅に出た由来や、旅先での心情の変化などを追い、寅さんの生き方と重ね合わせた。

 最後は「定着と放浪」「有用と無用」をキーワードに寅さん論を展開。世の無用者でありながら、旅先で人々に幸せをもたらす「無用の用」を寅さんの魅力の源泉としている。

 吉村さんは「旅や放浪は、人間にとって永遠のテーマの一つ。寅さんファンに限らず、日本人の旅のありようを知ってほしい」と話している。

  「放浪と日本人 」--「寅さん」の源流をさぐる 吉村英夫著
   有楽出版社;実業之日本社 1890円

(2005-10-19中日新聞Chunichi Web Press)


2005-10-11

 ーー啄木と北上川のエピソードもーー

「ARC(あるく)北上川ガイドブック」出版

  北上川の魅力一冊に 仙台の出版社、監修は一関のNPO

 岩手県一関市のNPO法人「北上川流域連携交流会」が企画・監修した「ARC(あるく)北上川ガイドブック」が、仙台市青葉区の出版社「カルダイ社」から出版された。岩手、宮城両県の絶景ポイントや川にまつわる逸話を収録し、カラー写真で北上川の魅力を紹介している。関係者は「ガイドブック片手に気軽に北上川流域を散策してほしい」と話している

 ガイドブックはカルダイ社が取材、編集し、北上川流域連携交流会が監修する形で発行した。北上川源流の岩手県岩手町から、旧北上川河口の石巻市までを17エリアに分け、各地で北上川に詳しい「川の達人」が川の楽しみ方や見どころを紹介。周辺の観光名所なども掲載した。

 岩手県紫波町・矢巾町エリアの項では、今年7月に復元された「小繰舟」を取り上げた。紫波町の市民団体メンバーが、藩制時代に北上川で南部藩の舟運を担っていた小繰舟の歴史や役割、復元事業の経緯を説明。「北上川を愛する人の共有財産にしてほしい」とのメッセージを寄せている。

 このほか、北上川の絶景ポイント100選や、源義経や松尾芭蕉、石川啄木、司馬遼太郎ら歴史上の人物、著名人10人と北上川とのエピソードを集めた特集などもある。

 北上川流域連携交流会の吉田幸助理事長は「川に携わる人たちの生の声を盛り込み、観光ガイドにとどまらない充実した内容となった。川に親しむきっかけにしてほしい」と話している。
 5000部発行し、岩手、宮城両県の書店などで販売中。変型A4判、カラー96ページ。定価840円。連絡先は北上川流域連携交流会 電話-0191-31-6331。

(2005-10-11YAHOO!NEWS東北ニュース)



2005-10-08  (追加部分あり)

  啄木と鉄道との意外な関わり 「鉄道の日」イベント開催 --小樽

 JR北海道では10月14日の鉄道の日を記念して、各種イベントを開催している。小樽エリアでは、小樽歴史ウォーク、小樽ステーションギャラリー「車窓から生まれたものがたり」展、南小樽駅「鉄道の今昔ポスター展」のイベントが行われている。

 10月10日の「小樽歴史ウォーク」では、旧手宮線や小樽交通記念館など、小樽の鉄道の歴史をたどるウォーキングが行われる。

 小樽ステーションギャラリー(小樽駅4番ホーム直結)では、小樽にゆかりのある、石川啄木、小林多喜二などの文学者たちと鉄道との意外な関わり、歴史や写真などが展示されている「車窓から生まれたものがたり」展が、9月17日(土)〜11月13日(日)の間、開催されている。同展には、昔の列車の椅子が飾られ、窓(テレビ)からは、ビデオによって列車からの風景が見られるようになっている。

 1924年に宮沢賢治が修学旅行を引率して小樽を訪れた際のエピソードや、石川啄木の義理の兄が中央小樽駅長を務めていたことなどを、写真パネルなどで紹介している。

(2005-10-05小樽ジャーナル Web OTARU)
(2005-10-07北海道新聞 道央)


2005-09-30

 「お墓参りは楽しい」 --啄木の墓の前で

 作曲家・新井満氏の書いた「お墓参りは楽しい」は、著者が坂本龍馬、ドストエフスキーら18人の墓、阪神大震災などの慰霊碑を訪ねた墓参紀行だ。

 墓参マニアの著者は「墓参りは死者の声に耳を傾け、彼らと対話すること」だと、国内外どこへでも出かけ、墓前では静かに目を閉じ、心を平安に保つ。するとはるか遠くからかすかに死者の声が聞こえてくる。これに問いかけ、対話が始まる。

 石川啄木の墓では「あなたの短歌に曲をつけさせてもらいたい」と申し入れ「妙なことを考えるやつだな。勝手にしろ」と言われた。親交のあった吉行淳之介の墓石に、著者が描いた故人の肖像画を示すと「もっとハンサムだぞ」と抗議されたことも。

 相手は皆、著者が敬愛してやまない人物ばかり。墓参にはつらく悲しいイメージもあるものだが、本書では、あこがれの人との対話を楽しむ著者の弾む気持ちが行間から伝わってくる。それぞれの項には、筆者が撮影した墓石の写真と墓地の案内図付き。

 「お墓参りは楽しい」新井満著 朝日新聞社 1500円

(2005年09月29日YOMIURI ONLINE)


2005-09-25

 小栗風葉の資料集成を発刊

   -石川啄木との親交をしのばせるエピソードも-

 明治から大正時代に活躍した愛知県半田市出身の小説家小栗風葉の研究を続けている市民グループ「小栗風葉をひろめる会」の遠藤一義代表が、風葉の資料集成を発刊した。年譜や掲載作品リストを網羅した内容で、風葉の歩んだ足跡がうかがえる。

 小栗風葉は、半田市の薬種商の長男として生まれた。尾崎紅葉に師事し、約二百七十編の作品を世に送り出した。1905年(明治38)から新聞に連載された長編小説「青春」は話題を集め、風葉の代表作となっている。

 資料集成には、風葉作品を収めた単行本の挿絵など三十六画をカラーで掲載。とりわけ「青春」の春之巻の挿絵は、梶田半古が描いた横向き加減の美人画で名高い。

 年譜には、風葉と田山花袋や国木田独歩、石川啄木らとの親交をしのばせるエピソードも織り込まれている。

 ひろめる会は、1998年に発足。風葉の生誕百三十年にあたる今年、研究の成果をまとめようと遠藤さんが自費出版を決意した。遠藤さんは「今年は生誕百三十年だが、来年は没後八十年。多くの人に風葉を知ってもらう機会をつくりたい」とさらなる意欲をにじませた。

 B5判、142ページで、二百部を発行した。価格は二千円。問い合わせは、遠藤さんへ (電話 0569-26-0456)。

(2005-09-25Chunichi Web Press)

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 参考「啄木の息」石川啄木 年譜より

 1906年 明治39年 満20歳   
● 6月10日 農繁休暇を利用して、父の宝徳寺住職復帰運動のため上京。新詩社に滞在する。その際読んだ、夏目漱石、島崎藤村、小栗風葉等の作品の影響を受けて、帰郷後小説家を目指す。「雲は天才である」(7月脱稿、11月修正)。また「面影」を脱稿。春陽堂の後藤宙外、その後、小山内薫に送るが、いずれも返却。


2005-09-16

 啄木文学の深さ紹介 明大教授 池田氏 ふるさと吉川で講演

 新潟県上越市吉川区吉井出身で、石川啄木の第一線研究者として知られる明治大学政治経済学部教授の池田功さんが8月7日、同区で開かれた公民館教養講座の講師として講演した。6月から10月まで開かれている石川啄木セミナーの一環で、公開講演会として企画された。

 池田さんは「啄木短歌の世界」と題し、波乱に富んだ26歳2カ月の生涯、代表作の「一握の砂」「悲しき玩具」の解説、啄木短歌の影響という3つの視点で話をまとめた。

 影響と受け継がれ方では、谷村新司さんの「昴(すばる)」など現代歌謡曲との関係性や戦前、戦後の教科書の採用作品の変化、現代歌人・俵万智さんと年配歌人の啄木作品の選歌から世代で異なる作品評価の妙を熱弁。出演したテレビ番組ビデオやCD音楽も取り入れながらわかりやすく話していた。

 天才歌人の人間性や新聞社在籍時代の大逆事件を通した上越と縁深い弁護士・平出修とのつながりも説明。国際啄木学会副会長の要職やボン大学客員研究員の経歴から啄木文学の国際的な関心の広がりと深さも紹介していた。

(2005-08-09上越タイムス頸北版)

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(この講座に出席された方がご自分のウェブページに感想をお書きになっていました。快く許可をいただきましたのでご紹介します)

 「啄木短歌の世界」

 私と石川啄木との出会いは教科書でした。体が弱く、貧しかったけれど、日本人の心に残る大きな仕事をした、そんなイメージをいだきました。以来、名前は何度もおめにかかるけれども深い付き合いには発展しませんでした。その啄木についてもう少し知ってみたいと思うようになったのは、昨年、国際啄木学会会長の近藤典彦さんと出会ってからでした。そしてまもなく、同じ学会に吉川区出身の池田功さんが所属し、活躍されていることをある新聞に掲載された論文で知ることになります。

 池田さんが帰省された機会に、ぜひ講演をしていただこうという動きが短歌愛好者の中から起き、総合事務所の教育文化グループで企画してくださいました。きょうはその講演会でした。テーマは「石川啄木・短歌の世界」、約1時間半にわたる力の入ったいい講演でした。啄木がどんな生涯を送ったのか、『一握の砂』『悲しき玩具』の作品紹介、そして啄木短歌の影響がどう広がっているか、よく整理されていて、分かりやすい話でした。

 正直言うと、啄木と宮沢賢治が同じ岩手県の出身だということもあって、私の記憶の中ではごっちゃになっていました。イメージもほとんど同じでした。それがきょうのお話でやっとすっきりしました。26年の生涯を略年賦、ビデオ映像などで紹介いただいたので、これからはもう混同しないでしょう。きょうの講演によって、初めて知ったことがいくつもあります。まさか谷村新司の『昴』の出だし、「目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開けば…」が彼の『悲しき玩具』から影響を受けているとは思いませんでしたね。いわれてみれば、啄木の作品はいまでも日本の様々な分野に影響を与えています。若いときに残した作品がいつまでも国民の心をとらえている、まさに天才です。その天才が結婚後、妻以外の「女性」に恋心を抱くこともあったという話、これも初めて知ったことですが、とても人間臭さを感じます。

 きょうの講演はどちらかというと啄木の入門講座でした。これで読みかけていた近藤典彦さんの『国家を撃つ者』(同時代社)を読むことができるでしょう。

  「小さな町の幸せ通信」『ホーセの見てある記』8月7日 啄木短歌の世界
   http://www1.ocn.ne.jp/~hose/mitearuki/20058zennhann.htm


2005-09-08

 啄木研究家・口語歌人の川崎むつをさん死去

 98歳で現役の口語歌人として活躍してきた青森市の川崎むつを氏(本名・陸奥男、波止場の会代表)が8日午前1時40分、病気のため同市内の病院で死去した。

 告別式は9日午後5時より、同市ゆうネットセレモニーホールで。

 1906年青森市生まれ。函館商船学校卒。十代から歌作を始め、鳴海要吉の影響で一貫して口語歌の道を歩む。1925年に県内初の口語歌誌「オリオン」を創刊。師の淡谷悠蔵、竹内俊吉らとともに県総合文芸誌「座標」に参加するなど昭和初期に隆盛を極めた県内の文芸運動に名を連ねた。

 東奥日報社員を経て旧満州へ。引き揚げ後は、ライフワークの石川啄木、鳴海要吉研究や青森文学の創刊、県啄木会を創設するなど、本県の文化振興に貢献した。

 歌集に「出帆旗」「川崎むつを撰集1北の川のほとり」などがある。

(2005-09-08Web東奥)


2005-09-01

 [啄木歌碑趣意書]
 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

小樽啄木会 会長 水 口  忠  
建立期成会 会長 安 達 英明  
             

 駅長官舎と石川啄木

 明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

 啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。

 後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。

子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

 

 歌碑建立のお願い

 啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。

 以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。

 これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。

 今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。

 

 建立 啄木歌碑のあらまし

  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地
     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)

  規模  黒に近い中国産御影石

      碑面  150B×90B
      全高  250B
     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)

  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む
      (揮毫については交渉中)

  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会
      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。

 

 協賛金のお願い

 協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。

 締切 2005年9月20日厳守

 連絡先 水口 忠  小樽啄木会会長 電話 0134-52-2775


2005-08-31

 小樽駅前に啄木の歌碑 今秋建立-協賛金募集

 小樽啄木会と歌碑建立期成会は今秋、小樽駅前に新たに石川啄木の歌碑を建てる。啄木ゆかりの地とも言える小樽駅前に歌碑ができることで、新たな観光スポットになりそうだ。

 歌碑が建てられる場所は、駅前広場から三角市場に上る階段脇にある空地。啄木は「小樽日報」の記者として小樽に赴任してきた際、姉のトラの夫で、中央小樽駅(現・小樽駅)駅長の山本千三郎の家に滞在していた。当時、駅長官舎は駅前にあったことから、駅前は全国の啄木ファンが訪れる人気スポットの一つになっている。

 以前、「石川啄木ゆかりの地」と書かれた木柱があったが、十年前に市が駐車場を設置した時に撤去され、目印となるものがなかった。小樽公園、水天宮に続いて、市内では三番目の歌碑となる。今年、10月22〜23日に札幌市で国際啄木学会が開催されるため、これに合わせ10月上旬に披露する予定。

 歌碑は高さ2.5メートル。台座の上に高さ1.5メートルの黒い御影石製の碑面を置く構造。釧路新聞就職のため、小樽に妻子を残して同駅から汽車に乗った時の気持ちを詠んだ「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」という歌が彫られる。

 歌碑の建立には70万円ほど必要で、小樽啄木会は協賛金を集めている。一口一万円で、出資者は碑面の裏に名前が彫られる。問い合わせは水口さん(電)0134-52-2775 へ。

(2005-08-31北海道新聞)


2005-08-20

 啄木と交友のあった「小国露堂」紹介の冊子発刊

 北海道時代に啄木に社会主義を説くなど交遊があった宮古出身の新聞人、小国露堂(本名・善平、1877〜1952)を紹介する冊子が、「小国露堂展実行委員会」(川目英雄委員長)から発刊された。
 同実行委は晩年の啄木に思想的な影響を与えながらほとんど知られていない郷土の先人を全国に発信しようと、昨年9月25日から10月3日まで、宮古市で小国露堂展を開催した。

 冊子はA4判で、42ページ。露堂展に出展した年表や写真、露堂が発行した宮古新聞、書簡、書籍、遺品などの一部のほか、毎日新聞岩手版に2002年秋、12回連載された「漂泊の記者〜小国露堂没後50年」の記事も収録。露堂が戦後、盛岡で貸し本屋を営んでいた時に漢文を教わったという元新聞社員など4人の寄稿文も紹介。露堂展を含む実行委の活動記録なども掲載され、露堂展の記念誌ともなっている。

 露堂展開催にあたり浄財を寄せてくれた団体・個人、後援団体・事業所、同展に足を運んでくれた人たちなどに配布。多少の残部があり、同実行委は希望者には送料負担で応じたいとしている。問い合わせは事務局の三浦章さん(電話0193-63-7205)。

(2005-08-18-毎日新聞Web岩手ニュース)


2005-08-10

 啄木の臨終をみとった牧水
 「若山牧水と延岡〜その生涯と作品展」

 若山牧水の生誕120年を記念し、「若山牧水と延岡〜その生涯と作品展」が6日、延岡市の内藤記念館で開幕した。牧水を物心両面で支えた地元商家の子孫、谷英巳さんが同館に寄託した資料を中心に展示。地元に建つ歌碑を約50枚のパネル写真で巡るコーナーもある。

 旅と酒を愛し、恋の歌人ともいわれる牧水。その魅力を「少年時代」「青春時代」「恋した女性たち」など11のテーマに分けて展示している。

 延岡高等小学校時代の成績表や、早大での北原白秋との出会い、石川啄木の臨終をみとった際の逸話などを紹介。展示資料は、牧水全集未収録の歌「有明の月こそかゝれ観音の峰むらさきに明けむとしつゝ」を書いた色紙、愛用酒器、ラブレターなど257点に上る。

 2005年9月4日まで。(入場無料)

(2005-08-09asahi.com マイタウン 宮崎)


2005-08-05

 「東の啄木、西の翠渓(純孝の号)」と称された前田純孝の大親友
 葛原しげるの日記発見

 「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」の歌い出しで知られる「夕日」など数多くの童謡を手掛けた唱歌作家、葛原しげる(1886-1961)の未発表の日記が、東京都内の遺族宅から見つかった。葛原は兵庫県美方郡浜坂町出身の明治期の歌人、前田純孝(1880-1911)の大親友で、純孝の晩年には、純孝が書いた唱歌を雑誌に発表して原稿料を送り続けた。日記には、友情を深めながら互いの才能を磨き合う青春の日々が記されている。

 これまでに純孝の評伝を三冊出版している作家で歌人の有本倶子さんが調べたところ、葛原が純孝と知り合った東京高等師範学校(現在の筑波大学)在学中を中心に十代から二十代にかけて約十年間書いた、段ボール三箱分の日記を遺族が保管していることが分かった。

 純孝は与謝野鉄幹らとともに短歌雑誌「明星」で活躍し、「東の啄木、西の翠渓(純孝の号)」と称されたが、卒業後に結核で床に伏した。

 雑誌「小学生」を主宰していた葛原は、純孝の作品を積極的に紹介するなど全面的に支援。純孝が三十一歳で世を去った後も遺歌集「翠渓歌集」出版などに尽力した。

 日記では、尊敬と親愛の情を込めて純孝を「翠渓の君」と記し、短歌だけでなく合唱など音楽の才能にも恵まれた純孝の一面も伝える。また、純孝に作品を論評され一喜一憂するなど、純孝の存在感の大きさが分かる。

 有本さんは「彼がいなかったら純孝は世に出なかったと思うほど、葛原の功績は大きい。天才歌人と日本を代表する唱歌作家との交流を、多くの人に知ってほしい」と話し、葛原日記の出版を計画している。 

(2005-08-04神戸新聞WEB NEWS)


2005-07-27

 啄木の「一握の砂」を装丁した----
  名取春仙の借金を請う手紙見つかる

 「昭和の浮世絵師」ともいわれた日本画家、名取春仙画伯(1886-1960)が絵の代金の前借りを知人に請う手紙が南アルプス市で見つかった。春仙の顕彰活動を続けている「惜春会」の名取英樹代表が、自らが所蔵する史料を整理していて、娘の修学旅行の費用などに腐心する手紙の内容に気づいた。

 手紙は和紙3枚に筆で書かれ、封書の宛名に「吉川様」とある。春仙の絵を愛好した東京都港区の銀行員に宛てたもので、日付は7月16日。前後に出された転居のはがきなどから、名取さんは1950年(昭和25年)の手紙と見ている。また、消印がないことから、当時、中学生で目黒区に住んでいた愛娘の良子さんに持たせたのではないか、という。

 手紙は銀行員の父親の肖像画を描き直していることを告げ、前に届けた作は「スケッチ漫画」として保存を願い、「アトよりの作自信アル良作」で「価値充分ノモノ出来マス見込み」と記している。

 さらにこの肖像画の分として「三〇〇〇円」の用立てを願い出て、娘の修学旅行前の振り込みと銀座で開く劇画展の割り前支払いの期日が迫っていることなどを書いている。

 春仙は当時、64歳。この手紙を出した8年後、女優をめざしていた良子さんが肺炎で急逝。不遇の時を過ごした春仙は1960年、港区北青山の良子さんの墓前で、妻と共に服毒自殺を図り、74歳の命を絶つことになる。

 手紙で春仙は、出版界でも不払いが続出し、難渋していると書く。「甚だ以て申憎き条ナレド」「厚かましくもお願い申上げます」「鉄面皮との御立腹も」「山々乍ら不本意」などの表現で、深く恐縮している姿がうかがえる。

 春仙は旧明穂村(南アルプス市)の綿問屋に生まれた。東京朝日新聞では夏目漱石や島崎藤村の連載小説の挿絵を描き、石川啄木の「一握の砂」を装丁するなど、ハイカラな挿絵画家としても活躍した。

 新聞社で同僚だった同じ年生まれの啄木が周囲にしばしば無心の手紙を送ったのは知られるが、春仙が困窮を訴える書簡が見つかったのは初めて。

 「博覧強記で品のよい、穏やかな画家だったと伝えられている。啄木のあっけらかんとした手紙に比べると、ずいぶんつらく、切ない思いで書いたのではないでしょうか」と名取さん。この借金の申し入れがかなったかどうかを知る史料は見つかっていないという。

(2005-07-26 asahi.comマイタウン 山梨)


2005-07-23

 岩手日報文学賞授賞式・記念講演会

 ・第20回岩手日報文学賞の贈呈式

 岩手日報社主催の第20回岩手日報文学賞の贈呈式は、21日盛岡市の同社五階ホールで行われた。啄木賞審査委員長の遊座昭吾国際啄木学会理事、賢治賞同・斎藤文一新潟大名誉教授、岩手日報社の村田源一朗会長、三浦宏社長らが参加した。

 宮沢徳雄常務取締役編集局長が各賞の選考経過を報告。三浦社長が木股、伊藤両氏に正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・故舟越保武氏制作)と賞金50万円、随筆賞の佐々木さんに「エリカ」と賞金10万円、佳作の3人に賞金5万円を贈った。

 三浦社長は「岩手日報文学賞は今年で20回を迎えたが、啄木・賢治の研究成果を広く内外に発信し、県内の文芸振興に寄与してきたと自負しており、それも県民の支援のたまもの。受賞者には今後の研究・執筆のさらなる深まりを期待する」と6人の受賞者をたたえた。

 木股知史氏のひとこと

 「評価いただいた「一握の砂」の注釈は、本文と先行研究があってこその成果。受賞を励みに、今後も謙虚な気持ちで研究を進めたい」

 ・賢治と啄木に新たな視点 記念講演会

 受賞記念講演会は21日、岩手日報社で開かれた。啄木賞を受賞した甲南大文学部教授・木股知史氏と、賢治賞を受賞した石と賢治のミュージアム館長・伊藤良治氏の2人が、約50人の聴衆を前に研究の一端を紹介した。

 木股氏は「注釈の可能性について」と題して講演。石川啄木の歌集「一握の砂」を注釈した狙いについて「歌集が作られた当時の視線を踏まえながら、言葉の意味をより正確にとらえようとした」と語った。

 同歌集の特徴として、短歌を制作年代ごとに分ける編年体ではなく、物語を作るような並べ替えが行われていると指摘。理由を「歌風の違う作品を読者に納得して受け取ってもらうためか、小説家として挫折した啄木が歌集の中で小説を書きたかったのでは」と推察。注釈を通して歌集の新たな一面を紹介した。

(2005-07-22岩手日報)


2005-07-08

 啄木賞に木股知史氏 第20回岩手日報文学賞

   --受賞者決定 贈呈式・受賞記念講演会7/21--

・啄木賞 木股知史氏
 「和歌文学大系77 一握の砂/黄昏に/収穫」(明治書院刊)の中の「一握の砂」

・賢治賞 伊藤良治氏
 「宮澤賢治と東北砕石工場の人々」(国文社刊)

・随筆賞 佐々木真理子氏
 「王様の枝豆」

 啄木賞の「和歌文学大系77」中の「一握の砂」は、歌集「一握の砂」の厳密な校訂や各短歌への精細な脚注・補注、総合的な評価を提示する解説をそれぞれ見事に構成し、近代短歌を代表する歌集たるゆえんを解明した研究です。

 賢治賞の「宮澤賢治と東北砕石工場の人々」は、賢治晩年の「雨ニモマケズ」手帳につながる最も緊迫し、しかし調査、研究が十分になされなかった同工場勤務時代について、膨大な資料や証言を基に集大成し、賢治研究史上、画期的な成果を示しました。

 随筆賞の「王様の枝豆」は、大病で入院し、食事も進まない父親と、看病する筆者とのやりとりを描いた作品で、父親の好物の枝豆を少しでも長く食べさせようとする筆者の愛情が確かな筆致で描かれています。

贈呈式・受賞記念講演会7/21

 贈呈式は21日午前11時から岩手日報社で行い、啄木賞の木股氏と賢治賞の伊藤氏にそれぞれ正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・故舟越保武氏制作)と賞金50万円、随筆賞の佐々木さんに「エリカ」と賞金10万円が贈られます。

 木股、伊藤両氏の受賞記念講演会は21日午後4時半から岩手日報社5階ホールで行います。(入場無料)

木股知史氏の横顔

 石川啄木の歌集「一握の砂」に収められた551首を、丁寧に分析し、短歌同士の立体的なつながりを明らかにすることで同歌集の傑作ぶりを示した。「注釈も研究の一つだと認めてもらえた」と受賞を喜ぶ。

 文学に関心を抱いたのは中学時代。自宅に本が少なかったため、貸本屋によく通った。「お金が無かった分、借りた本はしっかり読んだ」という。最初は漫画や推理小説を読んでいたが、高校から「きびきびとして発想が面白い」と、啄木をはじめとした明治期の文学の魅力に目覚める。

 近代短歌研究の伝統があった立命館大に進学したものの、当時は大学紛争で大学の機能がまひしていた。「せっかく大学に来たのに、勉強していない」と感じ、アルバイトの傍ら膨大な数の本を読んだ。「当時の読書は今でも自分の基礎になっている」と振り返る。

 紛争が落ち着き、ようやく研究を始められたのは大学3年の時。同大には上田博さん(元国際啄木学会会長)ら優秀な先輩がいた。「良い先生もいて、近代文学にのめり込んでいった」と話す。

 研究は、啄木だけにとどまらない。文学者という「点」でなく、啄木、与謝野晶子、吉井勇らを生んだ独創的な明治期の文学という「面」に関心を寄せるためだ。

 「一握の砂」の注釈に取り組み始めたのは、2002年。近藤典彦さん(国際啄木学会会長)らによる先行研究の成熟もあって、精密な研究が可能になった。推測も大胆に取り入れ、一義的でない解説を心掛けた。

 受賞作の執筆で注釈、そして共同研究の面白さも再認識したという。「今後は啄木の小説作品についても考察してみたい」と、表現史の中の啄木研究にさらなる意欲を燃やしている。

(2005-07-06岩手日報)


2005-06-30

 「石川啄木の手紙二通の鑑定額!」開運なんでも鑑定団

  ---2005年6月28日放送 テレビ東京---

 岩手県お宝発掘調査で「石川啄木の手紙」と「宮沢賢治のハガキ」が登場した。

 鑑定依頼人は盛岡市の会社経営者(海外出張中のため代理の社員)で、「石川啄木の手紙は同好の知り合いの人から譲ってもらった」とのこと。

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

石川啄木の紹介

  かにかくに渋民村は恋しかり
  おもひでの山
  おもひでの川

 石川啄木は明治19年に生まれ、16歳で上京、『明星』などで活躍。19歳で結婚。小説家になろうとした。北海道を転々とした後、再び上京。小説は一向に筆が進まず断念。

 短歌は、小説に挫折した啄木が苦渋と自嘲の末にたどり着いた最後のよりどころであった。そのほとんどは、なす術の無いどん底の暮らしの中で即興的に詠まれた。

  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聴きにゆく

 ふるさとに対する限りない愛惜、そして深い絶望。

  石をもて追はるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし

 啄木が焦がれ続けついに手に入れることができなかったもの、それが「ふるさと」と「小説」であった。

鑑定品

 手紙二通は小学校時代の友人、小笠原迷宮 宛。

1 明治39年8月16日

 渋民の代用教員の頃。

 すでに「『おもかげ』一篇は脱稿し、更に長き『雲は天才である』は半分程出来上りたり」と、若き情熱がほとばしっている。

2 明治41年4月17日

 家族を函館に残し再び上京する直前のもの。

 『小生の向ふべき第一の路は、矢張小説の外なしと存居候』

 そこにはまだ挫折の予感は微塵も無い。

鑑定士 扶桑書店店主 東原武文さん

 お父さんが家出、一家離散して北海道で暮らしている頃。その時代「何もうまくいかなくて上京する」と書いている。啄木が極貧に喘いでいるころの貴重な物。

鑑定額

 一通   6,500,000円

 合計   13,000,000円

 

 ちなみに、同時に鑑定した宮沢賢治のハガキ二通(一枚は大正7年頃のハガキ。もう一枚はガリ版刷りの案内状)の鑑定額。

 合計   3,000,000円


2005-06-22

 全社が石川啄木の短歌を紹介 2006年度中学校教科書

 2006年度から改訂となる中学校の新教科書で、岩手県関係の記述が充実している。

 国語は5社のうち全社が石川啄木の短歌を紹介。3社が宮沢賢治の作品、2社が岩手県人連合会の井上ひさし会長の小説「握手」を載せた。

 新教科書は県内各地区の教科書センターで、7月上旬まで公開されている。実際に県内の中学校で使用する教科書は、採択地区の協議会を経て市町村教委が決定する。

(2005-06-22岩手日報)


2005-06-22

 啄木の下宿もあった明治の南大通の写真発見 釧路市

 釧路市は、歌人の石川啄木が過ごした明治時代末期ごろの南大通の全景写真を複写し、郷土資料に加えた。立ち並ぶ商店や住宅の中に、啄木が暮らした関下宿や根室銀行釧路支店、2代目幣舞橋などが写っている。市地域史料室によると、明治期の建物の写真は数多く残されているが、南大通全体を見渡す写真は初めて見つかった。

 現在の浦見町の丘の上から撮影した写真は、市内の男性(58)が所有する父親の遺品。五枚の白黒横写真をつなぎ合わせて額に入れ、1960年代から自宅居間に掲げてあった。

 借り受けた市地域史料室が専門業者に複写を依頼し、原寸より一回り大きい縦13センチ、横90センチに拡大した。

 啄木が勤めた旧釧路新聞社(北海道新聞社の前身の一つ)や、第一番番屋と呼ばれた消防の火の見やぐら、南大通に面した商店などが所狭しと立ち並び、当時は釧路の中心部だった南大通のにぎわいが伝わってくる。

 釧路川対岸の川岸には「鉄道上屋」と呼ばれた大きな屋根の貨物置き場が写っている。建物の状況などから、撮影時期は1911年(明治44)−1913年の間に絞り込まれた。啄木は1908年、記者として釧路に滞在していた。

 市地域史料室は20日からこの写真を市役所玄関の掲示板で公開し、市民などからの情報を集めて建物の名称や、正確な撮影時期の判定などを進めることにしている。

(2005-06-21北海道新聞)


2005-06-02

 啄木ゆかりの校舎を補修 岩手県玉山村渋民

 玉山村の商工会女性部・青年部、建設業組合のボランティアは、渋民の啄木記念館そばの旧渋民小で、同校舎の補修作業を行った。啄木ゆかりの校舎を大切に保存しようと毎年1度実施している。集まった37人は約2時間、校内の障子を張り替えたり、外壁に防腐剤を塗る作業に精を出した。

 張り替えた障子は約60枚。2、3人がかりで汚れた障子紙を丁寧にはがし、乾燥させてから新しい紙を張った。

 同校舎は1884年(明治17)年10月に渋民村渋民の愛宕神社下に建設され、移築・改造を経て1967年に現在の場所に移った。2階建てで総面積は約300平方メートル。啄木は1891年(明治24)から4年間同校で学び、1906年(明治39)4月から1年間代用教員として講義した。

 啄木記念館の嶋千秋館長は「旧渋民小は啄木との縁が深く、玉山村にとって重要な遺産。村民が保存しようと努力してくれることに大変感謝している」と語った。

(2005-05-31岩手日報)


2005-05-30

 啄木のふるさと「渋民駅」にレンタサイクル

     いわて銀河鉄道が3駅でレンタサイクル試行

 IGRいわて銀河鉄道は沿線の金田一温泉、二戸、渋民の三駅で、自転車を貸し出す「レンタサイクル」を試験的に実施している。

 乗客らの要望を受け、IGRが4月29日から始めた。座敷わらし伝説で有名な金田一温泉、景勝地・馬仙峡や九戸城跡で知られる二戸、石川啄木が生まれた玉山村渋民―と、県北有数の観光スポットを抱える三駅が対象となった。

 20日現在、利用者数は金田一温泉駅が一件、二戸駅は十二件、渋民駅が十九件。三駅とも四台すべてが貸し出された日はなく、数は多くない。とはいえ、感想では「坂が多く大変だけど、美しい景色に満足」「歩くよりずっといい」「桃源郷のようだ」など、おおむね好意的。県外からの観光客が中心で、中には高知県や福岡県から足を運んだ人もいた。

 予約は一カ月前から受け付ける。

 問い合わせ 金田一温泉駅-0195-27-2288 二戸駅-0195-23-8670 渋民駅-019-683-2224

(2005-05-30デーリー東北新聞社)


2005-05-27

 「石川啄木との奇しき縁」1回目---遊座昭吾氏

   2005年5月25日 04:05〜
      NHK第一 ラジオ深夜便-心の時代

 遊座昭吾氏は、岩手県玉山村渋民の万年山宝徳寺に生まれ育ち、法政大学文学部を卒業後、岩手日報社、岩手県立福岡高校、岩手県立盛岡第一高校、盛岡大学教授を経て、国際啄木学会会長も務められた。 

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 石川啄木は万年山宝徳寺に、1887年(明治20)から1895年(明治28)まで住んでいた。
 住職は、第14世-遊座徳英(祖父)、15世-石川一禎、16世-遊座芳筍(父)、17世-遊座芳夫(兄)、18世-遊座芳章(甥)と移り変わる。

 14世住職が早世したとき、普通なら子どもが大きくなるのを待つ。しかし、どういう訳か石川一禎(啄木の父)が住職を継いだ。遊座家は住み慣れた宝徳寺を去り、一家離散となった。そのため祖母は大変苦労した。

 16世-遊座芳筍(父)が寺を継いだとき祖母はホッとしただろう。その頃、啄木は亡くなっていたが全国の啄木ファンがここを訪ねてきた。父はファンとともに啄木について話す。祖母は「そんなことしなくていい、お茶なんか出さなくていいのよ」と口ぐせのように言っていた。小さいながらも私はその言葉を聞きながら育った。父は父、祖母は祖母、どっちのことも私には分かった。

 17世-遊座芳夫(兄)の時代になると父の思いを継ぎ、宝徳寺を中心とした啄木のことを皆に伝えたいと考えた。境内に啄木の歌碑を造った。また、歴代の住職の墓のうち、15世-石川一禎の卵塔がなかったので、東京に住む啄木の遺族にお願いし函館から分骨してもらい墓を造った。このことで石川家と遊座家にまつわる因縁がすーっと溶けたように感じた。

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 ふるさとの寺の畔の
  ひばの木の
 いただきに来て啼きし閑古鳥!

 歌碑にはこの歌が刻んである。境内に高くそびえるひばの木、宝徳寺を象徴した木に閑古鳥が来て鳴く。1歳から18歳までの青春期に聞いた懐かしい閑古鳥の声。この歌が「悲しき玩具」に収められ、そして次の歌がある。

 今日もまた胸に痛みあり。
  死ぬならば、
  ふるさとに行きて死なむと思ふ。

 歌集に中に、この歌の後には「ふるさと」という言葉は出てこない。最後の「ふるさと」で宝徳寺を歌ってくれた。啄木はこの寺を心の支えにしていたんだという意味に、私は読み取りたい。同じこの寺で育った私にしかわからないかもしれないが。

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 少年期になってくると、この家が啄木の住んだところだと分かってくる。大学では近松門左衛門をテーマに研究した。しかし、なぜかある時期から宝徳寺を背景として啄木文学を読み取るというようになってきた。30歳のとき「啄木短歌の考察」という啄木関係の初めての学術論文を書いた。

 ジャーナリストが魅力的だと思い、岩手日報社に入社した。新聞社の人から岩手県立福岡高校を紹介され国語教師となった。夏休みになると福岡から宝徳寺の家に帰る。すると、岩城之徳(国際啄木学会初代会長)の本がある。母に聞くと「えらい大学の先生がしょっちゅうここへ来て私の話を聞き、本を出すと送ってくる。それが何冊もある」と言った。
 そのとき母の目は「なんでお前は日本文学をやっていて、啄木と因縁のあるここに住んでいて、啄木に目を向けないのか」と言っているように私には見えた。それが母から私への信号だった。

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 十年経ち、盛岡第一高校へ行くようになった。そこで、図書館長を命ぜられた。盛岡中学創立以来の「文書、図書の整理をせよ」との命令で、夏休み、埃まみれになり一人で整理をした。明治、大正、昭和…、科学、物理…と振り分け、山を作っていった。

 そのときに、啄木の資料を発見した。啄木が盛岡中学5年のとき成績が悪かったとわかっているが、その事実はわからなかった。啄木一学期の試験結果が出てきた。
 啄木が退学したことはわかっているが、いつ退学したかわからなかった。「十月二十七日 退学願許可す」。持ち回り会議によって退学許可するという資料が出てきて、初めて退学年月日がわかった。
 そういうことでだんだん啄木から離れなくなっていった。

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 父、兄は寺を切らさずに続けていくことが大事と、糸の如く繋いできた。私は寺のことは出来ないが私なりに啄木を捉えて見たい、啄木の内面に近づいてみたい。それをなにか形に残したいと思っている。

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 国際啄木学会の会長になった時、その年の学会を渋民でやった。これは、やろうとしてできるものではない。縁だと思う。

 啄木が使っていた部屋は寺で一番いい部屋だ。ふつうなら子どもの入るところではない。一禎が与えたのではなく、啄木が占拠したのではないか。
 私もそうだった。大学が休みになって帰ってくると、渋民の高校生がこの部屋に集まってきた。

 部屋は啄木の頃から改築されたが、寸法も全く同じである。あるところは元の材料を使うほど檀家の人々は配慮した。啄木という詩人がここで青春を送り、ペンネーム・啄木を作ったのもここだということが檀家の人にはわかっているからだ。


2005-06-01

 「石川啄木との奇しき縁」2回目---遊座昭吾氏

   2005年5月26日 04:05〜
      NHK第一 ラジオ深夜便-心の時代

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 啄木は盛岡に住んでいるとき「小天地」を発行(1906年 明治39)した。しかし、代用教員をするために渋民に帰り齋藤家に寄寓した。

 なぜ、齋藤家を借りたかというと、齋藤家の方々が宝徳寺時代の一禎を知っていて彼に尽くしたいと母屋を貸したのではないかと思う。そして、自分たちは奥に住んだ。当時としては格子を持ち二階まである齋藤家は、豊かな農家だった。啄木と節子は街道に面した二階に住み、階下に父母妹が住んだ。

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 昭和46年(1971)、私は『啄木と渋民』という本を発行した。物理学者の湯川秀樹さんが啄木ファンだと知っていたので、それを献本したかった。しかし、有名な先生なので遠慮していた。
 ある日の新聞に、雑誌の広告が載った。湯川さんが世界の天才を連載していた雑誌だった。そのときの号に「天才論 石川啄木」が発表された。
 本屋で雑誌を見てみると私の名前まで載っていた。ノーベル物理学賞を受賞された湯川さんが私の本を読んでくださり、その一部を参考にしながらまとめてくださったのだ。

 翌年、湯川さんは雑誌に発表した「天才論」をまとめて、『天才の世界』を刊行された。

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 そうしたある日、湯川さんが岩手大学付属小学校の記念講演に来られたことを偶然知った。小学校に電話すると、「講演会は席もいっぱいで無理です」しかし、「ただ今、湯川夫妻は啄木記念館にいます」と教えてくれた。

 すぐ湯川氏の『天才の世界』と私の『啄木と渋民』を持ってタクシーで記念館に駆けつけた。湯川氏に二冊を差し出すと「あー、あんたか」と言って私の肩をたたいてくれた。

 湯川氏とスミ夫人を、記念館隣に移築された齋藤家にご案内した。
 湯川さんは「二階にのぼってみる」と言った。古くなって危険な階段を「上ってみなければ実感がわかん」と言う。皆で止めようとするのも聞かず、上った。上に着くと「そうか、わかった」と満足そうな表情だった。

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 湯川さんは啄木のどの歌に惹かれたかをお聞きした。

 いのちなき砂のかなしさよ
 さらさらと
 握れば指のあひだより落つ

 湯川さんは素粒子というものを掴もうとしていた。握ったつもりの理論が指の間から何度も抜けてしまう。その苦労の道を啄木が歌っていた。人生の実感を見事に歌いきっていた。

 去年、スミ夫人から歌集を贈っていただいた。大物理学者と巡り合いこういうことができるのも、啄木という詩人がしてくれたのだ。

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 啄木は、1909年(明治42)朝日新聞社編集長である盛岡中学の先輩を頼り、校正係として採用された。

 そして、社会部長の渋川玄耳と出会う。渋川は時折朝日新聞に載る啄木の歌を見て「自己発展をする手段を考えてみたまえ。私は協力するぞ」と言った。啄木は今までの歌を集め原稿をまとめていった。

 また、渋川は東京朝日新聞の「朝日歌壇」の選者を啄木にやらせた。24歳の啄木に-----。その頃、啄木の歌は明星などに断片的に出ていたが、まだまだ若かった。天下のジャーナリスト・渋川社会部長が「啄木の歌は今の時代に合うリズムだ」と抜擢した。

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 翌年発行された歌集「一握の砂」序文は、渋川玄耳(藪野椋十)が書いている。

 高きより飛びおりるごとき心もて
 この一生を
 終るすべなきか

 こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて死なむと思ふ

 渋川は、こういう歌の持つ世界に関心を持ったのではないか。序文の「此ア面白い、-----面白く言ひまはしたものぢゃ」という言葉に代表されると思う。

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 啄木は26歳2カ月、青年のまっただ中で亡くなる。
 節子はその一年後に亡くなる。亡くなる間際、紙に「-------森(鴎外)さん、夏目(漱石)さんによろしくお願いします」と書く。この二人は節子にも大事な人だったのではないか。

 鴎外の興味深い手紙がある。日露戦争に軍医として行き、戦地から明治38年7月28日、妹にあてた手紙。「秘」と書いて四角で囲み、読んだら捨てるようにと指示している。「島崎藤村、国語は十分とは言えぬ。与謝野鉄幹、与謝野晶子----(否定的な言葉を書き)。-----ここにひとつのおかしいことがある。新体詩の大家よりもうまいのが出てきた。石川啄木、平野万里だ。------」
 後に、自分の家に歌詠みを集めて歌会を開く鴎外だが、まだ少年だった啄木の詩に目をつけていた。

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 国際啄木学会は1990年に初の大会を開催した。それまで、啄木研究は盛んだったが啄木研究の学会は無かった。岩城之徳さんが初代の会長になり、私が第二代の会長になった。その1996年に、渋民で大会が開かれた。

 啄木研究は日本だけでなく国際性を持っている。啄木作品は各国語に翻訳されていて研究者もいる。フランス、ドイツ、ロシアの翻訳や研究は、日本の学者の思いよりもピタッとくるものがある。

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 盛岡の中学校の
 露台の
 欄干に最一度我を倚らしめ

 2006年は啄木生誕120年になる。

 啄木と私との縁は、万年山宝徳寺のあの空間でしょうか。


2005-05-18

 啄木がうどんを食べた食堂(?)も載った地図発見 -宮古市

 宮古市鍬ケ崎の大正末期から昭和初期にかけての住宅地図が、同市鍬ケ崎上町の非営利組織「NPO街かどボランティア」代表の山口和子さん方から見つかった。水産加工の五十集(いさば)屋や料亭なども記され、往時のにぎわいを今に伝える。

 縦約60センチ、横約70センチで、縮尺2000分の1。「大正末より昭和五年までの鍬ケ崎市街図」と手書きされている。旧鍬ケ崎町と旧宮古町が合併した1924年ごろから1930年にかけて作製された正規の地図を、建築や設計業を営んだ父二郎さんが書き写したものらしい。

 宮古港沿いに細長く開けた市街地が描かれ、漁業会社や商店、個人宅などが記入されている。宮古随一を誇った料亭「旭屋」、遊郭「大正楼」、映画館「有楽座」のほか当時、宮古と宮城県の塩釜を結んだ定期航路「三陸汽船」の桟橋も見える。啄木が1908年、釧路新聞を退職して上京の途中、うどんを食べたと思われる食堂「賛成屋」も。

(2005-05-17毎日新聞)


2005-05-17

 啄木の歌う東海の白砂、釜石海岸だった

 歌集「一握の砂」の冒頭で石川啄木が「東海の小島の磯の白砂に」と歌った砂浜ははたしてどこなのか。

 この砂浜について調査を続けるアマチュア女性研究家が山田町にいる。内田ミサホさん、87歳。15歳で「一握の砂」に魅せられた。内田さんがまとめた解釈は、「この白砂は釜石海岸」という内容。啄木の研究者による啄木文庫(関西啄木懇話会誌)に内田さんが寄稿し、このほど掲載された。

 内田さんの寄稿文のタイトルは「東海歌の原風景 『旅之跡』から見えてくるもの」。上下の2回に分けて、34号と35号に掲載された。

 寄稿文によると、「東海歌」とは、歌集「一握の砂」の「東海の小島の磯の白砂に」で始まる第1歌から、「死ぬことをやめて帰りきたれり」で終わる第10歌までを指す。「東海」は、大雑把に太平洋側を示すというのが一般的な解釈だ。

 これに対して、内田さんは寄稿文で、啄木が盛岡中学(現盛岡1高)3年生の夏に担任の先生らと共に南三陸を旅した点に注目した。啄木は当時14歳。1900年7月21日、一行は高田町(現陸前高田市)に到着。4日後に釜石町(現釜石市)に着いた。

 同町ではいとこの工藤大助氏を頼り、約2週間滞在したという。内田さんによると、「東海歌」のカギを握るのは、この工藤氏宅の滞在としている。

 釜石海岸は、現在の大渡町から東前町にかけての約3キロ。啄木が滞在した1900年夏当時は砂浜だった。内田さんが調べたところ、工藤宅は浜辺まで徒歩で10分ほどのところだった。啄木は、毎日のように通ったとしても不思議ではない。

 また、内田さんの聞き取り調査では、工藤氏は護身用にピストルを所持し「泥棒を撃退した」などの武勇伝を残している。当然、啄木もその話を聞き知っていた、と思われ、第4番歌「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の」のヒントになったのではないか、とみる。

 一方で、「東海」がどこなのかについては、諸説あり、啄木研究者の西脇巽さんの著書「石川啄木 東海歌の謎」(同時代社)によると、主なものだけでも数種類あり、主に啄木の足跡をもとにしている。

 このなかで内田さんが関心を寄せたのが、東京工芸大学元教授(電子工学専攻)で啄木研究家でもある川田淳一郎氏の「三陸説」。同氏は、啄木が生活した土地近くの海岸の砂を分析、「白砂」が見られる南三陸の海岸を有力視している。函館山周辺などは、砂地が黒褐色だという。

 啄木研究家の上田博・立命館大学教授は「着眼が面白い。三陸の旅で、釜石は、啄木が一番長く滞在していた場所なのに、これまで、あまり重視されていなかった。内田さんの投稿がきっかけとなって、多くの研究者が関心を持つようになるのではないか」と話している。

(2005-05-16 asahi.com MY TOWN 岩手)


2005-05-14

 岩手県・増える修学旅行生

 修学旅行シーズン。岩手県を訪れる学校は徐々に増加している。

 県観光協会によると、2004年に県外から修学旅行で訪れた学校は、観光スポットを訪れた生徒の所属校をその都度数える集計で延べ2222校。少子化の影響で生徒が減少する一方、学校数は過去10年で最も少なかった1999年の延べ2005校から回復傾向を示している。

 盛岡市は昨年、石川啄木や宮沢賢治ゆかりの地、文化財、歴史的建造物をまとめたガイドマップを2万部作製。モデルコースや所要時間、バス路線図まできめ細かく掲載し学校などに配布した。

 景気低迷やレジャーの多様化、分散化が進む中で、修学旅行は一定の規模と継続性が見込め、経済効果が大きい。

 同協会の青木拓専務理事は「修学旅行で思い出をつくった子どもたちが将来、家族や友達を連れてリピーターになってくれる。粘り強く岩手の魅力をアピールしたい」と意気込む。

(2005-05-14岩手日報社)


2005-04-27

 啄木より宮崎郁雨(義弟)への手紙を初公開 函館市文学館

 函館市文学館は、函館ゆかりの歌人石川啄木が、義弟の宮崎郁雨にあてた書簡などを公開した。「死ぬときは函館へ…」という一節で有名な書簡も同館として初めて公開したほか、啄木が晩年に知人に書いたはがきの複製も新たに製作し展示している。

 同館は啄木の直筆資料の展示コーナーを設け、年に二度、展示替えしている。今回は石川啄木と、啄木を物心両面で支えた宮崎郁雨をテーマに、啄木が郁雨にあてた書簡三通と、函館の文芸団体「苜蓿社」の郁雨ら同人と撮った写真、直筆の原稿の五点を公開した。書簡は郁雨が生前に市立函館図書館に寄託し、同館に保存されていた。

 書簡は1907年(明治40)から1910年(明治43)にかけ、函館と札幌、東京から郁雨にあてて書かれた。特に東京在住の1910年12月21日に書かれた手紙は、「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」という有名な一節で知られる。

 一方、はがきの複製が、常設展に加わった。啄木が死去する4カ月前の1912年(明治45)正月に、病床から書かれた年賀状だ。自由律俳句の創始者として知られる荻原藤吉(井泉水(せいせんすい))にあて、「秋になったら直るだろうと思ったのが、秋になってもちっとも直らず…」などと記している。直筆は神奈川近代文学館(横浜市)にあり、複製はこの一点だけという。

 展示は、2005年10月19日まで。

(2005-04-24北海道新聞)


2005-04-27

 啄木、七三分けの大通公園の像に異説

 札幌・大通公園にある有名な石川啄木像の髪形について、渡島管内八雲町の啄木研究家が異説を唱えている。彫刻の頭部は七三に分けたふさふさの髪に覆われているが「啄木が札幌の新聞社に勤めていた1907年(明治40)には丸刈りだったはず」というのだ。

 指摘しているのは、やくも啄木会会長として啄木を研究している長江隆一さん。「上京するまで道内を転々としていた約一年間は髪を短くしていたはずです」

 詩人野口雨情が、啄木との出会いを回想した随筆「札幌時代の石川啄木」に「『知ってる人かい、きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていってしまった。(中略)頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である、女中がどこかの寺の坊さんと思ったのも無理はない」とある。また、札幌を離れ四カ月後に着任した「釧路新聞」時代、豆粒大のはげが目立つようになったことから「豆ランプ」のあだ名がついたという。

 この彫刻は、啄木没後70年を記念して1981年に建立された。ブロンズ製で高さは約2メートル。作者は、羊ケ丘展望台の「丘の上のクラーク像」で知られる札幌の坂坦道(さかたんどう)さん(1920-1998)。

 先ごろ大通公園を歩いていて気がついたという長江さんは「彫刻家の責任というよりは、違う年代の写真を資料として渡されたのではないか」とみる。なお、道内の啄木像としては函館・大森海岸にある、故本郷新さんの彫刻も名高いが、こちらは丸刈りになっている。

(2005-04-15北海道新聞)


2005-04-15

 盛岡で啄木忌前夜祭開かれる

 4月13日の石川啄木の命日に先立つ第2回「啄木忌前夜祭」(国際啄木学会盛岡支部主催)は12日、岩手大で約50人が参加して開かれた。

 望月善次同支部長は「啄木は世界的に読まれているが、やはり啄木を語る本場は盛岡。この場所で皆さんと啄木を考えられ、うれしい」とあいさつした。

 今年は啄木が節子と結婚して100周年にあたる。それを記念して、同日は長岡工業高専非常勤講師の山下多恵子さん(雫石町出身で新潟県十日町市在住)が「我ならぬ我―啄木の節子」のテーマで話した。『我ならぬ我』は、啄木が旧煙山村長も務めた盛岡高等小の1年先輩小笠原謙吉にあてた1906(明治39)年1月18日付書簡『なんとなれば、恋人は我ならぬ我ならば也』から取られた。

  啄木が節子のことを言ったもので、書簡では節子との恋愛は自分の人生と文学にとって重要な存在と語り、山下さんは「どれだけ近い存在かということを我ならぬ我と表現している」と解説。啄木はわが半身という言葉も使っているという。

  一方、節子の思いは1902年11月4日付書簡『恋人は云ふ、理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり』から「啄木に求めたのは詩人だった。彼女の中にも啄木のような常識の壁を簡単に乗り越えるような面が根付いていた気がする。無謀なことも魅力的なものとみて、啄木の行いの中に詩人を見て誇りに思ったのだろう」と分析。「啄木は節子の中に打てば響く理想の女性を見た」と語った。

 1905年、2人は結婚する。啄木が東京から節子や家族の待つ盛岡に戻らず仙台に立ち寄り行方不明になる花婿欠席結婚式がよく知られる。山下さんは「節子は啄木が出席しなかったことに動じなかったと考えられる。このときから節子は待つ女、たじろがない女になった」と言う。

  放浪の啄木は、盛岡から渋民村、北海道でも転々とし、東京に行った。「啄木はいつも先に行き、節子は将来呼んでくれると待っていた」。啄木は代用教員も記者も自ら仕掛けて辞め、いられないようにしたと分析。その背景を「自分のやりたいことは文学なのに、自分は家族の関係で束縛と犠牲の中にあると認めざるを得ず、もはや夢見る詩人ではなくなった」生活環境に求めた。

  節子は啄木の死後、自らも病に侵され、しかも身重の体で啄木の残した原稿に目を通し、出版のため整理。節子と、受け継いだ土岐善麿の「尽力によってわたしたちが目に触れられる。特に日記は節子の整理があって残された。啄木の魅力を倍加させたのは日記であり、啄木の日記を焼けない節子の愛があった」と、節子を評価した。

  節子像として「従来言われている啄木の犠牲になったというのではなく、揺さぶりを掛けながら啄木と一緒に人生を歩んだ人だった。啄木の妻であることを最大限に生きた人であり、啄木の我ならぬ我だった」と述べた。

 青森保健生活協同組合八甲田病院名誉院長の西脇巽さん(青森市)が「啄木節子の夫婦仲」と題して講演。2人の啄木研究者が、妻との関係から見る啄木論を展開した。集まった啄木ファンは、啄木と節子の生き方に改めて思いをめぐらせた。

(2005-04-13 IBCニュースエコー、岩手日報 2005-04-15盛岡タイムス)


2005-04-14

 啄木しのび全国からファン 第九十四回啄木忌

 玉山村出身の歌人、石川啄木をしのぶ第九十四回啄木忌が4月13日、渋民の宝徳寺で行われた。 啄木祭実行委員会の主催。県内をはじめ、広島県や沖縄県など遠方から約70人の啄木ファンが焼香に訪れた。嵯峨委員長のあいさつの後、1人1人が焼香をし、手を合わせた。地元コーラスグループが「さいはての町に」を披露し、ふるさとの歌人をしのんだ。

 法要に続き、国際啄木学会理事の遊座昭吾さんの講話も行われ、啄木のエピソードなどに参加者は熱心に聞き入った。

 宝徳寺内では、啄木忌にあわせ、2000年の本堂新築時に見つかったふすま絵や、ふすまの下張りに使った古文書などを公開した。ふすま絵は、啄木の父、一禎氏が宝徳寺の住職だった時代に、玉山村の絵師の沼田北村によって描かれたもの。啄木は18歳で就職のために上京した。

 しぶたみ啄木会の吉田光夫会長は「来年は啄木生誕120年の節目の年になるので盛大に行いたい」と話していた。

  啄木祭関連事業として、第21回短歌大会が5月1日、第47回俳句大会が同8日にいずれも玉山村文化会館で開かれる。啄木祭は6月4日に同文化会館姫神ホールで開かれる。

(2005-04-13,14 岩手日報、朝日新聞、盛岡タイムス )


2005-04-11

 啄木の直筆はがき寄贈される 石川啄木記念館に

 盛岡市城西町の工藤一男さんが保管していた石川啄木(当時18歳)の直筆はがきが4月9日、玉山村の石川啄木記念館に寄贈された。このはがきは「石川啄木全集」(筑摩書房刊)に存在が記されながらも所在不明だったが、2004年秋、100年ぶりに見つかった。記念館では当時の啄木の意欲的な創作ぶりを伝える資料として、はがきを展示し、啄木研究者に広く公開する予定だ。

 はがきは、啄木が1904年(明治37)に渋民村(現玉山村)元助役の畠山亨さん(1873-1918年、号・東川)に送ったもの。嶋館長は「この時期のはがきは少ない。特に畠山さんあてのはがきは、記念館で初めての所蔵になる」と感謝した。

 はがきを鑑定した国際啄木学会理事遊座昭吾さんが同席した。遊座さんは「啄木の資料はこれからも発見される可能性がある。この寄贈を機に、個人所蔵資料の発掘・公開が進んでほしい」と期待する。

 工藤さんは「渋民出身なので、地元で活用されればうれしい」と話していた。

 啄木と畠山さんは、詩歌を通じて交遊があった。啄木は後に畠山さんを小説「漂白」「足跡」登場人物のモデルにしており、親交は厚かった。

 工藤さんの父で教員だった愛吉さん(1895-1946年)は、渋民小校長時代に畠山さんからはがきを譲られた。昨年秋、工藤さんは身の回りの整理を始めたのをきっかけに、はがきを岩手日報社に寄託していた。

(2005-04-10岩手日報)


2005-04-11

 啄木にちなむ問題も 岩手県臨時職員:採用試験

 県が初めて筆記試験を導入して2月に実施した臨時職員の採用試験に、採用人数212人に対して2倍を超える536人の応募があった。人事課は当初、筆記の導入で応募者が減少する可能性があると考えていた。しかし今年度から優秀な人材は最長3年間まで続けて勤務できるよう制度を変えて募集したことで、意欲ある人や長期間の勤務を望む人が集まったとみられる。

 筆記は5者択一が30問。時事問題と国語、数学などの一般常識を出題。県内の市町村合併事情を問うものや石川啄木にちなんだ出題もされ、岩手の話題に興味があるかも重視した。合格ラインは6割程度で、筆記通過者は面接を受けた。

(2005-04-07毎日新聞)


2005-04-06

 中央大学文学部2004年度ベスト卒論(2005年3月卒)
 石川啄木論ー「うたごころ」で読む短歌ー

 橋本恵美             

◇◇目次◇◇

第一章 啄木概要
(1)啄木の生涯
(2)『一握の砂』について
(3)近代短歌の黎明

第二章 『一握の砂』からの解釈

(1)恋の歌の音(おと)読み

 啄木はよく「青春詩人」と称される。それは心をめぐる思いの瞬間をみずみずしく詩に込める技術や、作品や評論を通して民衆や政治に熱い視線を投げかける社会主義的青年像などからうかがえる。特に啄木の恋愛にまつわる短歌は誰もが通るであろう青春の甘さと苦さを歌というものに瞬間化しており、巧みな技法と共に賞讃されている。

(2)「音」の歌のしらべ

 本論では『一握の砂』の中の「聴覚を用いた歌」、「繰り返し効果」などによるリズム感の表れる歌を見ていきたい。視覚、心境に次いで多い「音」の歌は約六十首ある。無意識のうちに計算されたであろうその緻密な図式のトリックを、「音」の読みを通して確信に変えていきたい。

 〔1〕擬音の効果

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

 平仮名の擬音で始まる歌を続けて抜粋した。「しらしらと」の歌において、冒頭で視覚を刺激しつつ音のイメージを持つ「しらしら」は、通常の擬音・擬態語としては使われていない。元は「しらじら(白白)」で、いかにも白いさまを意味する語であろう。それを敢えて例外読みの「しらしら」と音のイメージを優先させたところに啄木の音へのこだわりが感じられる。

 〔2〕臨場感を呼ぶ「音」
 〔3〕歌への哀愁

第三章 現代においての短歌と〈うた〉

(1)現代における短歌
(2)西洋音楽からの「うた」の受容
(3)現代の“吟遊詩人”による試み

第四章 啄木思想における〈うた〉現代の生き方にも通じて

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 論文全文
  石川啄木論ー「うたごころ」で読む短歌ー橋本恵美


2005-03-13

 詩歌の現在「誤解多い啄木像を洗う」

 硬質な叙情と明晰な知性で活躍する詩人中村稔さんの詩業を総括するような著書が昨年から多く出された。昭和10年代の不安定な時代の中で文学と法律を志す人の精神状態を客観的に描いた『私の昭和史』はもちろんだが、その陰で「関心のおもむくままに詩歌俳句の世界に遊んだ」という「雑多な文章」を集めた詩歌批評集『私の詩歌逍遥』(青土社)に、私の興味はより多く注がれた。

 青春期に作品を暗唱するほどに魅せられた詩歌人が、ある時期、色あせるのではなく、むしろ作品に接することに羞恥を感じて遠ざけたくなることがある。石川啄木や中原中也、立原道造らがその典型的な例だが、読者が年齢を経てくると、再びその魅力に取りつかれることがある。『私の詩歌逍遥』の中の「啄木の魅力」(2000年に行われた講演のための原稿)を読んでそんな思いを強くした。

 石川啄木は、多く誤解にみちた詩歌人である、と中村さんは言う。誰にでも知られた<東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる>に代表されるようにただ感傷的で望郷の思いを表現した作家と多くの人に思われる。だが、よく作品に目を通していくと決してそれだけではない。<東海の小島の磯の>の作品にしても啄木の流離と漂泊の思いが込められ、決して悪い歌ではないという。

 もう一つ、面白いことをこの著書から私は知った。生前刊行されたただ一つの歌集である『一握の砂』は、典型的な青春歌集と思っていたのが、実はそうではなかった。啄木は自らの歌集の広告文に次のように書いている。「其身動く能はずして、其心早く一切の束縛より放たれたる著者の痛苦の声、是也。著者の歌は従来の青年男女の間に限られたる明治新短歌の領域を拡張して、広く読者を中年の人々に求む」。つまり『一握の砂』は、「人生の辛酸をなめた中年の人々に読んでいただきたい歌集」(中村さん)なのだ。何十年を経て啄木に接して得る私の感慨はあながち間違いではなかった。

 中村さんの啄木再評価の圧巻は、わずか26年の生涯のうちの最晩年の4年間に、家族や社会の在り様に透徹した目を注ぎ、狂気の淵をさまよいながら、「日常の瑣末を材料にして、人生の真の姿をつかみとっていく新しさ」と述べるところだ。<気弱なる斥候のごとく/おそれつつ/深夜の街を一人散歩す><高山のいただきに登り/なにがなしに帽子をふりて/下りきしかな>などの作品を最も好きな歌に挙げ、精神の葛藤の末に得た、日常の瑣末で、しかも一見無意味と思われることを題材にした作品に啄木の新しさを発見する。瑣末で無意味と見えることに真実が存在することを啄木は教えたのだ。

 さらに詩人、歌人とは何かについても啄木は深く問うている。死が近づくにつれ啄木は、詩人や歌詠みには何ら特権はなく、一にも二にも人間であり、普通人であらねばならないと考えていたという中村さんの指摘にも、私は共感した。

 また、今月になって出た『中村稔著作集第3巻・短詩型文学論』(青土社)の「第2章 子規と啄木」でさらに詳しい啄木像に触れることができる。(酒井佐忠・毎日新聞専門編集委員)

(2005-03-10毎日新聞)


2005-03-02

  番田雄太さん(16歳)初の作品展 口で書く啄木短歌

      「番田雄太君書道作品展 啄木との出会い、そして未来」

 松園養護学校で書道と出会い、石川啄木を愛し、その作品に啄木を取り上げてきた番田雄太さん(16歳、現在青山養護学校高等部在籍)の作品展(アクセシブル盛岡主催)が、盛岡市上厨川のイオン盛岡ショッピングセンターイオンホールで始まった。石川啄木の短歌を書いた作品30点を展示。

 番田さんは4歳の時に交通事故に遭い、一命は取りとめたが脊椎(せきつい)損傷で首から下のまひが残った。12歳で書道と出合い、口で1字ずつ書き上げる。「肢体不自由児・者の美術展」で文部科学大臣奨励賞、全国盲・聾・養護学校文化祭で全国病弱養護学校長会長賞を受賞するなど高い評価を受けている。

 母親の幸子さんは「それまでは『手も動かないし生きていても役に立たない』と弱音を吐くこともあったが、書道を始めてから前向きになった」と雄太さんの変化を実感しているという。

 番田さんは「多くの人が見に来てくれて驚いている。次の目標は啄木の一握の砂を全部書くこと」と次を見据えていた。

(2005-02-28岩手日報 2005-03-02毎日新聞)

期 間 2005年2月28日(月)〜3月7日(月)
場 所 イオン盛岡ショッピングセンター・イオンホール
協力費 500円 (高校生以下は無料)
事務局 TEL 019-659-7717 


2005-02-26

 日韓併合を憂いた石川啄木の詩を紹介

     日韓交流に貢献の2氏に韓国から勲章や表彰状

 在日韓国民団島根県地方本部常任顧問の朴熙澤氏に対する韓国政府の牡丹章(勲二等)と、前同県日韓親善協会連合会長の故渡辺常弘氏への韓国大統領表彰の伝達式が25日、松江市内であり、関係者が日韓親善に努めた両氏の功績をたたえると同時に、竹島の領有権をめぐるあつれきを乗り越え、同県と韓国・慶尚北道の交流を深め合うことを誓った。

 式では、金演権・駐広島韓国総領事が「両国の友好親善が続くよう、願いが込められている」と述べた。

 澄田信義島根県知事は「慶尚北道との多岐にわたる交流は、両氏の情熱と尽力のたまもの」と感謝した。

 これを受け、朴氏は韓国民の対日感情について、1910年の日韓併合を憂いた石川啄木の詩を紹介し、抑圧された歴史を持つ民族の思いを代弁する一方、「両国関係に何かあれば沸き立つのは(自国の)指導者の誤りで国を失った憤怒と悲嘆。日本への怨嗟ではない」とも強調した。

(2005-02-25山陰中央新報)


2005-02-25      

 啄木風短歌の入賞作品決まる

 盛岡観光コンベンション協会の第8回啄木風短歌の入賞・入選作品が決まった。  啄木風短歌は全国公募しているもので、三行詩の形式を取った作品が特徴。国内外から2382首(1147人)の応募があり、規定に満たないものを除いた1984首から審査が行われた。

 啄木賞 

 (一席)ダリの絵の 街ゆく如し激震に 空かたむきて時計は止まり 大平寛一

 (二席)故郷より送られて来し ラ・フランスの 形母恋うこころに似たる 網谷千代子 

 (三席)焼きたてのパンのようだね ほくほくと 封書の重み確かめている 奥山真由美  

 節子賞

     除夜の鐘 遠くに聞きてナースらも 代る代るに蕎麦すすりをり 富川法道

 審査委員会から「震災の街の様子をダリの絵と重ねてよく表現している。『空かたむきて』も現実感のある表現だ」と評価された。

 大平さんは「震災後に見た光景をありのままに書いた。今後も自分なりに悲しみや喜び、魚沼の自然を歌にしていきたい」と喜びを語った。 

(2005-02-19盛岡タイムス 2005-02-21岩手日報)


2005-01-28

 啄木を支えた「佐藤北江」について

        講演 森 義真氏(近代文学研究家)

 盛岡市の先人記念館で1月22日、シリーズ講座「盛岡の先人たち」があった。近代文学研究家の森義真さんが「『新聞人・佐藤北江とその周辺』−啄木・胡堂・圭一郎・一民など」と題して、講演。東京朝日新聞(現・朝日新聞)の名編集長として明治を生き、同郷の啄木らを支えた北江の生きざまに迫った。 

  北江(本名は真一)(1868〜1914)は、盛岡市生まれ。1880年に開校したばかりの岩手中学(現・盛岡一高)に入学するが、1882年に中退。1884年、巌手新聞(現・岩手日報)への入社を手始めに新聞の世界に身を投じ、1887年に自由党機関紙のめざまし新聞に入社。翌年、めざまし新聞が買収され、東京朝日新聞と改称、創刊されると北江も同紙に移り1894年に編集長。1909年3月、石川啄木を校正係として採用した。

  森さんは「仙台、秋田を経由する計画だった東北本線工事を北江は仙台、岩手経由にすべきとした論説記事を書いた。これは入社1年にも満たない17歳の時の記事。この論説が世論をつくり政治家を動かし今の東北本線がある」。「北江は古里盛岡ではほとんど知られていないが、郷土愛を持ち続け故郷の後輩の面倒を見た人だ。北上川を意味するペンネーム、北江からもそれが分かる」と述べた。

  生活に窮し同郷というだけで面識もない北江に職を求めた啄木との関係について「啄木の大恩人としかいいようがない。創作活動にのめり込むとたびたび会社を休む。そんな啄木への苦情を止めたのも北江。ここで首だったら啄木の人生は終りだった。啄木は東京朝日新聞入社後の1910年、初歌集・一握の砂を刊行するなど、啄木の素地が結実したのは北江のおかげとも言える」と北江と啄木の関係について述べた。

  「闘病生活を送る啄木を何度も見舞い、会社を解雇せずに啄木の妻に夫の給与を前貸しするなどの配慮もしていたようだ。啄木も自身の長男に北江の本名である真一と名付けており、どれだけ北江を信頼していたかが分かる。啄木の死後、友人の奔走で歌集『悲しき玩具』が出版されたが啄木がもし生きていれば北江への感謝をつづったとわたしは信じている」と啄木を物心両面で支えた北江を語った。

(2005-01-23毎日新聞 2005-01-25日盛岡タイムス 2005-01-28朝日新聞)


2005-01-28

 石川啄木の短歌の情景再現

 北海道釧路市で1月21日、明治時代の歌人石川啄木が釧路駅に降り立った時に詠んだ短歌の情景を再現しようと、アイスキャンドルを飾るイベント「雪あかりの町・くしろ」が行われた。

 啄木は記者として旧釧路新聞社に入社し1908年1月21日、釧路駅に到着した。その際、「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」と詠んだ。

 暗くなった同日午後5時ごろ、啄木の資料が展示してある「港文館」や、啄木が下宿していた南大通の周辺に置かれた約1000個のキャンドルに灯がともされ、柔らかな光が道を照らした。


2005-01-23

 ことばの旅人

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひ来て
  妻としたしむ

             石川啄木「一握の砂」

○ふるさとに愛憎ゆき交う

 岩手県玉山村渋民の宝徳寺がそっくり建て替えられたのは、3年前。白木の柱は輝くばかりにつややかである。ただ、本堂と庫裏(くり)を結ぶ8畳ふた間続きの部屋だけは、解体前の旧材を多く使って、以前の姿に復元されている。石川啄木は、幼時から少年期の十数年をこの部屋で過ごした。

 障子を繰ると裏庭があり、奥に杉木立が見える。息子の啄木に金を用立てるため、住職だった父親が檀家(だんか)に無断で伐採したといい伝えられる林だ。父親はこの後、本山への上納金を滞納、住職を解任されて寺を去る。故郷に経済的な基盤と帰るべき場所を失い、啄木の貧窮の流離が始まった。

  石をもて追はるるごとく/ふるさとを出(い)でしかなしみ/消ゆる時なし

 啄木が故郷を愛し抜いた詩人であることは疑いようがない。ふるさとの山を歌い、川を歌い、東北弁の訛(なま)りを聞くために上野駅に出かけもした。

 啄木は、生きているうちは故郷に迎えられなかった。宝徳寺の啄木の部屋の復元には、新築するより費用がかさんだ。だが、「かまわないから元通りに」というのが、今の檀家の総意だった。

○「朝日」啄木を発見

 東京朝日新聞の校正係・石川一(はじめ)は、給料の前借りはしょっちゅうで、通勤の電車賃がないといっては休み、体調が悪いといっては欠勤。それがときに何日も続く。そのくせ、よその新聞に、内職で記事を書いているらしい。一は啄木の本名である。

 社会部長が見かねて編集長に苦情をいうと、「まあまあ放っておいてくれたまえ」との答えだった。社会部長の意見が通り、このとき石川校正係がクビになっていたら、啄木の名歌の数々は世に出なかった可能性がある。と同時に、たぐいまれな才能を石もて追い出したという汚名を、朝日新聞は100年にわたって被ったに違いない。

 社会部長の忠告をきっぱり退けた編集長は佐藤北江といい、啄木を採用した当人である。岩手出身で、啄木にとっては旧盛岡中学の先輩でもあった。しかし、以前から面識があったわけではない。生活に窮した啄木が、同郷の縁だけでいきなり求職の手紙を送りつけ、「私が佐藤!」「私が石川!」「ハハハハ」というわずか2分間の面談を経て、入社が決まったのだった。

  手が白く/且つ大なりき/非凡なる人といはるる男に会ひしに

 北江に初めて対面した印象である。

○森鴎外に出した喜びの手紙

 啄木の初任給は、25円プラス夜勤が月に5回で5円。合計30円だった。当時の米価は10キロ約1円なので、大ざっぱに、1円を5000円と換算すれば、15万円になる。

 朝日新聞社史編修センターの記録では、啄木が入社した1909年3月前後の社員の月給は、主筆が170円プラス交際費100円、経済部長140円、北江編集長130円、社会部長120円。夏目金之助(漱石)200円、長谷川辰之助(二葉亭四迷)100円。このころ大学卒の初任給を30円と定めてもいる。啄木は朝日入社を喜び、北原白秋と黒ビールを飲んで前祝い、森鴎外に「一生奉公したい」と手紙を書いている。

 そんな啄木の前に、先にクビを進言した社会部長がまた現れた。名前を明かしておくと、渋川玄耳という。啄木の2年前に35歳で入社した信念のジャーナリストで、従来の短歌欄を陳腐だと廃止、有名な歌人たちの自薦を頑として退け、その末に、「一風変わった無名の歌人にやらせるのも面白い」と啄木を選者に起用してしまった。1910年9月から今日も続く「朝日歌壇」がそれである。選者の報酬、月に8円追加。

○大胆に率直に詠み続けた歌

  実務には役に立たざるうた人と/我を見る人に/金借りにけり

 啄木の歌の魅力を表現した文章として、「一握の砂」の序文ほど的確なものはないと思われる。「そうじゃ、そんなことがある、こういうような想いは、俺にもある。……昔から今までの歌に、こんな事をすなおに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌というものは一向にこれない」。薮野椋十とある筆者は、玄耳のことである。啄木の方から序文を頼んだらしい。

 銀座・並木通りに、人の背丈に足りないほどの金属製の歌碑が立っている。表に啄木の顔のレリーフ、裏にキツツキの像。

  京橋の滝山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな

 啄木が勤めていた朝日新聞はここにあった。わずか3年の勤務だったが、在籍中に「一握の砂」と「悲しき玩具」にある歌を作り、朝日社員として死んだ。

(2005-01-22朝日新聞 be on Saturday「ことばの旅人」)

 

2005-01-14 

 エッセイ特集-なつかしの正月風景

「今年はよいことが」 佐藤通雅

 何となく、/今年はよいことあるごとし。/元日の朝、晴れて風なし。

石川啄木『悲しき玩具』  

 私が幼少年期をすごしたのは、岩手県前沢という小さな町。テレビはまだない。したがって紅白歌合戦もない。それなのに、正月は一年でとびっきりわくわくする日だった。

 まず、大晦日から元旦にかけて、若者組の元朝参りがある。白ふんどし一本の若者たちが、水ごりをして、雪の上をわらじばきで走ってくる。当時は多雪期で、冬になるとたちまち根雪になった。(中略)

 どうということもない正月なのに、なぜあんなにわくわくしていたのだろう。石川啄木は『悲しき玩具』に正月の日の歌をいくつも載せている。掲出歌もそのひとつだが、<いつしかに正月も過ぎて、/わが生活が/またもとの道にはまり来れり。>というのもある。晴れ晴れした正月がすぎて、またただの日常がはじまるというときのかったるさは、子どもにとってもおなじだ。

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「明治は遠く」 大阪 泰

 戸の面には羽子突く音す。/笑ふ声す。/去年の正月にかへれるごとし。

石川啄木『悲しき玩具』  

 啄木は明治四十四年正月、つまり亡くなる前年に珍しく十数首の正月詠を残している。その中の三首目が右(上の歌)で、四首目にはよく知られた、

  何となく、
  今年はよい事あるごとし。
  元日の朝、晴れて風なし。 

の歌が続く。(中略)

 さて啄木が終焉の地、小石川久堅町七十四番に越すのがこの年の八月だから「羽根突く」歌は現在の本郷三丁目にほど近い喜之床の二階二部屋を借りていた頃で、この路地の風景と見ていい。「本郷もかねやすまでは江戸のうち」が今も残る三丁目の交差点からも近いが、三階建のアライ理髪店がそれで木造は犬山明治村に移る。

(総合雑誌『短歌』 2005年1月号 角川書店)


2005-01-09

 ・渋民小学校の教え子が語る啄木
 ・啄木歌碑に警察の眼
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 歌集『静寂』
 山村叙情 -------啄木調からアララギ派へ------
      秋浜三郎

 もう六十年以上もむかしのことになる。渋民小学校高等科二年生のころ、のちの啄木、石川一先生から課外の授業で英語の発音や、綴りかたを教わった。そのとき短歌の手ほどきなどもうけた。

 課外授業には高等科一、二年の男女生徒が四十人ぐらい集まった。課外授業では先生の講談調の英雄豪傑の話が多かった。たとえば源義経の終末や、伊達政宗、西郷南州などだったが、ときには女子生徒のおねだりで孝女白菊の哀切きわまりない悲話もあった。みんなは時間のたつのも忘れて涙を流し、こぶしをにぎっては「もっと、もっと」とその続きをねだったものであった。

 私は渋民に啄木歌碑の建ったあくる年の大正十二年四月、浄法寺町岡本小学校に赴任した。その前後に私の短歌創作は再燃する。そして東京の土岐哀果先生に歌稿を見てもらい、三行短歌を勉強した。
(後略)

 
 歌集『静寂』
 編集あとがき抄

 啄木歌碑に警察の眼が光って来た。こんにちではとても想像のできないことである。

 さて建碑いらい20余年、ちょうど第二次大戦下の昭和18年春、北上川の浸蝕で碑の下方の崖ぶちが崩れて、歌碑は今にも河底に転落しそうな危険が迫ってきた。戦争も激化してくるとふしぎなものである。人間の頭脳の回転が逆回りするのだろう。啄木は反戦論者だ、啄木歌碑など北上川に落してしまえ、そんな声がどこからともなく起こってきたのであった。啄木歌碑、空前の受難であった。

 このとき秋浜三郎さんは奮起した。当時彼は奥中山で教鞭をとっていたが渋民村の青年会長、移転改修を村びとに提案し約50メートル下流地点の鶴塚へ移転を決意したのであった。当時私は岩手日報のかけ出し記者だった。私は後藤清郎社長をかついで矢面に立ってもらい世論に訴えて、この運動をバックアップしたのであった。

 移転工事費は約一千円、「決戦の初夏、望郷詩人のために」と募金趣意表を印刷してくばった。募金先は盛岡啄木会松本政治、東京啄木会吉田孤羊、岩手文化協会(会長高橋康文)菊地暁輝。工事は村内の新田喜七郎という人に請負わせて進められた。

 移転、竣工式は昭和18年6月6日、現地鶴塚の碑前でおこなわれた。河畔に緑風がそよぎ閑古鳥がのどかに鳴いていた。(後略)

昭和46年爽秋9月
  虫の音すずろなる朝 盛岡啄木会 松本政治

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岩手県玉山村宝徳寺 宝徳寺「さわらの会」発行
宝徳寺追悼2004「秋浜市郎・三郎」2004年11月11日 レジュメより

 

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