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2005年12月-

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2005-12-31 啄木の下宿した「喜多床 135年史」−−記念冊子を制作

2005-12-06 原ひさ子さん死去…啄木の妻が当たり役


2005-12-31

 啄木の下宿した喜多床 135年史−−記念冊子を制作

 文京区本郷で創業し、夏目漱石や伊藤博文ら、文人や政財界の著名人が通ったことで知られる理髪店「喜多床」=渋谷区=が来年で創業135周年となるのを前に、歴史をつづった冊子「喜多床 百三十五年史」を作った。

 喜多床は1871(明治4)年、現在の文京区本郷、加賀藩前田邸(現在の東京大)の正門前に、当時珍しい洋風3階建ての店構えで創業。男性がまげを落とし始めた年で、前田家で髪結い方をしていた武士の中邨(なかむら)喜太郎(旧姓舩越(ふなこし)喜景)が、前田家に出入りしていたフランス人から西洋風の散髪技術を学んだ。

 2代目から舩越姓をとり景輝、3代目景一、現在は4代目一哉さん(69)と娘の5代目千代さん(41)が経営。創業地の本郷では内田百ケン、尾崎紅葉、芥川龍之介ら多くの文豪が通い、数々の作品にも登場した。石川啄木は一時期、2階で下宿していたという。

 区画整理に伴い1920(大正9)年、千代田区丸の内の政財界人が集まるビルに出店。伊藤博文、近衛文麿、渋沢栄一らが通う。後に別ビルに移り、1975年に出店した渋谷区渋谷2の15の1、渋谷クロスタワー地下1階で現在に至る。落ち着いた店構えは変わらない。他県から通う人、代々通う人と常連客は500〜600人だ。

 冊子には著名人のエピソードも盛り込まれた。2代目景輝は、夏目漱石が来店した時、良いお天気ですと言い、大きなお世話だとしかられた。「理髪店というのは、ああいう方は頭を休めにいらっしゃるところなんです」(景輝)

 5代目の千代さんは24歳でOLを辞め、家業を継いだ。せっかちな千代さんに4代目一哉さんが言う。「せかせかやるな。心も頭も休ませてあげなさい」。整髪後、ソファーで休んでいく人も多い。

 常連客の整髪に病室に呼ばれることもある。千代さんは「最後の最後まで必要とされる。別れは悲しいけれど、いい仕事だなあと思うんです」。

 冊子は2000部作り、常連客に分けるほか、希望者に郵送代140円分の切手を送付の上で郵送する。問い合わせは喜多床(FAX 03-3499-0306)。

(2005-12-20毎日新聞)


2005-12-30

 「ケータイ livedoor」で「短歌なふたり」の配信を開始

 株式会社ライブドアの携帯端末向けポータルサイト「ケータイ livedoor」にて、「livedoor 小説」第二弾となる「短歌なふたり」の連載を開始いたしました。

□「短歌なふたり」あらすじ
 日本人の父を持ち、カナダ人の母を持つ、イタリア育ちのハーフ、国友克夫19歳。
 短歌結社「ばれん」に所属する歌人、伊賀寛介25歳。過去に「石川啄木短歌大賞」を受賞したこともあるグラフィックデザイナー。

 そんな何もかもが違うふたりが、短歌という世界で初めて出会った!

 短歌をまったく知らなかった初心者なのに、心に響く短歌を詠んだ克夫が気になる寛介。そして短歌界の有名人であり、プレイボーイでもある寛介のようになりたいと考える克夫。短歌を通じて知り合ったふたりは、それぞれの考えや思いに基づいて行動するのだが、なぜかあらぬ方向へ進み始め・・・。

□「短歌なふたり」概要

「短歌なふたり」は、国友克夫と伊賀寛介のふたりを主人公とした小説です。物語は克夫と寛介の視点から描かれ、第1話・第3話といった奇数話を「僕パート」として、国友克夫の視点から描いた「短歌なチェリーボーイ」を。第2話・第4話といった偶数話を「俺パート」として、伊賀寛介の視点から描いた「短歌なプレイボーイ」の物語が進んでいく形式となっております

 また、「短歌なふたり」というメインタイトルにもあるとおり、この物語は短歌の世界を中心として進んでいきます。

 そんなあまり知られていない「短歌」の世界を描くのは、歌人として短歌を詠むだけでなく、歌詞や脚本、エッセイなどを手がける枡野浩一氏と、ブログ歌人でもありゴーストライターも務める佐々木あらら氏のふたりです。

○ユーザーからの短歌を募集します

 「短歌なふたり」は、短歌を題材とした小説ということで、作中に多くの短歌作品が詠まれることになります。この作中に詠まれる短歌を、読者から応募し、優秀な作品については、物語の中で主人公が詠む短歌として発表いたします。

□枡野浩一氏 プロフィール
1968年東京生まれ。歌人。広告会社コピーライター、音楽ライターなどを経て、1997年の短歌集『てのりくじら』(実業之日本社)で歌人デビュー、同書は異例のロングセラーに。活動の幅は短歌にとどまらず、作詞、現代詩、批評、エッセイ、脚本、小説など多岐にわたる。

□佐々木あらら氏 プロフィール
1974年東京生まれ。東京大学中退後、パズル作家・大学研究員・専門学校講師などの経歴を経て、現在、自称「ブログ歌人」。2004年、自らのブログで短歌を発表し始めると、たちまち人気を集め、プロの書き手からも熱く支持される。

(2005-12-26News2UNet )


2005-12-30

 啄木生誕の地--玉山村 閉村式

 来年、盛岡市と合併する玉山村の閉村式が行われた。啄木生誕の地として知られる玉山村は、50年余りの村の歴史に幕を閉じる事になる。

 盛岡市の北に位置し、人口 13800人の玉山村は、来年1月10日に盛岡市と合併する。12月23日、玉山村文化会館で行われた閉村式には、周辺の市町村長をはじめ450人の村民が参加した。式では、工藤村長の式辞に続いて、歴代村長や議長に、村の発展に尽くしたとして感謝状が贈られた。そして、村の歴史を伝えるビデオテープが流されるとハンカチで目頭を抑える人の姿も見られた。

 合併後の新盛岡市は人口30万人の中核市となり発展が期待されるが、啄木の詩にも登場する姫神山や県立自然公園の岩洞湖と三陸海岸を結ぶ観光ルートなどの再開発が望まれる。

 玉山村は1954年、渋民村、玉山・薮川組合村が合併して誕生。翌年に巻堀村を編入した。農業を基幹産業とし、歌人石川啄木の古里として知られる。

(2005-12-23ニュースエコー 岩手放送 2005-12-24岩手日報)


2005-12-20

 講演「啄木と賢治からみた酒」藤原隆男氏(富士大学大学院教授)

   2005年12月18日 もりおか啄木・賢治青春館 企画展 基調報告 

(啄木側をピックアップしました)

1 啄木の飲酒遍歴

   渋民、釧路、東京

2 啄木からみた酒−−−「パンの会」についてーーー

 :パンの会(明治41年12月〜明治45年春頃)

 :パンの会の会場

   両国橋手前「第一やまと」、日本橋「三州屋」、日比谷公園「松本楼」、…

 :メンバー

   木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、石川啄木、山本鼎、---

 :啄木とパンの会

・啄木の日記に記載されたパンの会

   明治41.12.12、明治41.12.24、明治42.2.27、…

・パンの会の歌

空に真赤な雲のいろ。/瓶に真赤な酒の色。/なんでこの身が悲しかろ。/空に真赤な雲のいろ。

(白秋が啄木にパンの会の案内のハガキに書いて送った歌であると言われる)

・啄木は自分の雑誌が欲しいから、『樹木と果実』を計画する。

・白秋評:「彼の貧苦が、私たちパンの会の狂ひょう時代に於ける彼の諸友から彼自らを遠ざからしめて了った。彼は負けずぎらひであった。」
(「狂ひょう」の「ひょう」の文字は、「風」へんに「火」を3つ書く)

・吉田弧羊評:「啄木もこの会に参加してただ1回出席したが、恐らく会費の関係からであったろう、・・」

・吉井勇評:「昴」を編集しながら啄木のほんとうの飲み仲間。いかに金がないときでも、颯爽と詩や小説を談じていた。酒は嫌いではなかった。

(盛岡市 森 義真さんからいただいたレジュメをもとに、管理者がまとめました)

「啄木・賢治にみる酒展」 もりおか啄木・賢治青春館


2005-12-20

 「啄木・賢治にみる酒展」 盛岡で企画展

 盛岡市中ノ橋通1丁目のもりおか啄木・賢治青春館は、企画展「啄木・賢治にみる酒展」を同館2階で開いている。酒をテーマに看板などを展示し、啄木、賢治と酒とのかかわりを紹介している。

 啄木、賢治の酒にまつわるエピソードをパネルや資料で紹介。啄木は東京の文化人にあこがれてビールを愛飲し、賢治は飲酒もしたが、ある時期からは禁酒を励行するようになったことなどが紹介されている。

 啄木と金田一京助が東京の日比谷 松本楼で注文したビールとカレーを実際の食器やテーブルクロスを使って再現している。啄木が上京して半年後の明治41年10月4日の日誌に「松本楼でビールを飲み乍ら晩餐をとって、また散歩して、夕間暮、電車旅行をやらうぢやないか」とあるくだりを引用した。また、昭和初期のビールや日本酒の看板を展示し雰囲気をつくっている。

 青春館の新田学芸委員は「啄木は、芸妓たちとの交流が華やかな釧路時代は単身赴任だった。浮かれた時期に現実へと目を覚まさせるのは節子の手紙だった」と話している。

(2005-12-16盛岡タイムス・読売新聞岩手版、2005-12-17岩手日報)

「啄木・賢治にみる酒展」 もりおか啄木・賢治青春館


2005-12-09

 啄木ゆかりの釧路と函館、互いに訪問の旅

 歌人石川啄木生誕百二十年の来年、啄木が青春を過ごした釧路と函館のゆかりの地を互いの市民が訪ねる旅を、釧路と函館の北海道新聞支社とJTB支店が企画している。数多くの歌や新聞記事を残した啄木の足跡を探るユニークな旅となりそうだ。

 函館発着の釧路行きツアーは、啄木が一九○八年(明治四十一年)に来釧した一月二十一日をはさむ二十−二十二日の二泊三日。記者として働いた旧釧路新聞社(北海道新聞の前身)の復元社屋や下宿先跡に立つ歌碑など釧路市南大通周辺を、北畠立朴・国際啄木学会評議員の案内で散策。北畠氏の講演「啄木が心引かれた女性たち」を聞く。

 釧路発着の函館ツアーは同月二十七−二十九日。函館市内で啄木一族の墓や青柳町の下宿跡、代用教員を務めた旧弥生尋常小(現弥生小)、函館市文学館を歩くほか、日本近代文学会会員で啄木研究家の桜井健治さんによる講演「啄木の墓」を受講する。

 費用は一人五万千−六万五百円。

 問い合わせはJTB釧路支店(電)0154-22-9181
     または、同函館支店(電)0138-56-1711へ。

(2005-12-09北海道新聞 文化・芸能 Web)


2005-12-08

 啄木小公園、バリアフリー化 --函館--

 函館市日乃出町の啄木小公園で、園内のバリアフリー化など市のリニューアル工事が本格的に始まった。来春の観光シーズンに向け、本年度内に整備を終える。

 公園は国道278号(通称・漁火通)沿いで、函館空港や湯の川温泉街と函館山方面の中間にあり、多くの観光客が立ち寄る函館観光の顔の一つ。しかし、段差があり車いすでの散策が難しいほか、1977年の完成後は、大掛かりな改修は一度も行われなかったため、老朽化も進んでいる。

 バリアフリー対応では、公園入り口やあずまや周囲の段差を解消し、直径約20センチの玉石が埋め込まれた石川啄木の像への通路は、アスファルトに細かな玉砂利を埋め込む舗装に変更。情緒を残しながら、車いす利用者にも配慮する。

 植え込みには啄木の歌集にも登場するハマナス約500本を植え、あずまやの柱や屋根の修理も行う。また、漁火通からの景観を損なうとして不評だった駐車場に立つ公園の紹介、観光案内図など三枚の看板は、眺望を妨げない位置に移す。

 観光客の少ない冬場を選んだ整備で、11月中旬から一部工事に着手したが、植栽などは冬場は難しいため、オープンは来年4月になる。市土木部は「来春には、きれいな公園に生まれ変わります」と話している。

(2005-12-08北海道新聞 道南 Web)


2005-12-06

 原ひさ子さん死去…啄木の妻が当たり役 96歳

 品のあるおばあさん役で、テレビ、映画で活躍した女優の原ひさ子さんが4日、心不全のため亡くなった。96歳だった。

 1933年、前進座に入り、新橋演舞場の「牛を喰う」の町娘役で初舞台。「石川啄木の妻」の啄木の妻を当たり役とした。映画は1935年「街の入墨者」が初出演。戦後は「或る夜の殿様」「月がとっても青いから」「第五福竜丸」などに出演した。

 70、80年代に入っても「悪魔の手毬唄」「黒い雨」など出演作が続き、テレビドラマやCMでも優しい笑顔をふりまいた。最年長現役女優として、80歳を超えても、映画「バトルヒーター」「ワンダフルライフ」に助演し、元気なところを見せた。今年公開された「サヨナラCOLOR」にも出演した。

(2005-12-06YOMIURI ONLINE)

 

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