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啄木文学散歩

北海道:岩見沢〜旭川 5


1 岩見沢駅と啄木

2 北村牧場の啄木歌碑

3 美唄駅前の啄木歌碑

4 砂川市・滝川公園の啄木歌碑

5 旭川(このページ)

 


 

5 旭川

  

「JR旭川駅」

夜になると時計にも下の雪印にも明かりがともる

 

・1908年(明治41)1月20日、石川啄木は、釧路に向かう途中、旭川駅前の宮城屋旅店に宿を取り、一泊する。

「旭川駅前の西武デパート」

写真の右下部が旭川駅舎

  

   

  西武デパートB館の角

 中心に立っている細い柱が
 「啄木宿泊の地」の標柱
 右手が駅前広場になる

   

雪中行  石川啄木

(第二信) 旭川にて
 一月二十日。曇。

雪中行
(第二信) 旭川にて
(略)

 旭川に下車して、停車場前の宮越屋旅店に投じた。帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。

 日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあつて、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなつて居る。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢ひ、北海旭新聞社に立寄つた。旭川は札幌の小さいのだと能(よ)く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。

(略)

 湯に這入つた。薄暗くて立ち罩(こ)めた湯気の濛々(もうもう)たる中で、「旭川は数年にして屹度札幌を凌駕(りようが)する様になるよ」と気焔を吐いて居る男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上つてるでせう」と其人が答へた。甚*(注)(どんな)人であつたかは、見る事が出来ずに了つた。

 夜に入つて東泉先生も札幌から来られた。広い十畳間に黄銅の火鉢が大きい。旭川はアイヌ語でチウベツ(忠別)と云ふさうな、チウは日の出、ベツは川、日の出る方から来る川と云ふ意味なさうで、旭川はその意訳だと先生が話された。

(略)

(九時半宮越屋楼上にて)

(「石川啄木全集 第八巻」筑摩書房 1986年)

(*注 甚のあとに一文字入りますが漢字配当外のため表記できません)

  

 

     「石川啄木宿泊の地」旭川市開基100年

      旭川市宮下8丁目左
     西武B館エレベーター入口植込

       

○ 啄木が宮越屋旅店で詠んだ歌

名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿屋安けし
我が家のごと

伴なりしかの代議士の
口あける青き寐顔を
かなしと思ひき

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊りし宿屋の
茶のぬるさかな

 

 

「緑橋通 雪国の信号機は縦型」

 

○ 啄木が宮越屋旅店より出した書簡

 

   一月二十日旭川より 岩崎正宛

昨日小樽発、白石社長氏と共に釧路に向ふ途にあり、

今夜旭川に一泊、昨夜は岩見沢に一夜を明かせり、雪に埋れたる北海道を横断するも亦快なるかな、

  二十日夜

                旭川宮越屋にて 石川啄木

 岩崎正様

…………

   一月二十日旭川より 宮崎大四郎宛

君が三ヶ月日に焼けた旭川!

明朝六時半釧路に向ふ、

二十日夜

             旭川宮越屋にて 石川啄木

宮崎大四郎様

 

 

「札幌に似て一直線の道」

「旭川は札幌の小さいのだと能く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。」(雪中行より)

 

      

「旭川で見つけた不思議な箱」

“一握の撒砂”って! ナニ?
下の絵は「啄木鳥」?

 

   

   「一握の撒砂とは」

“あなたの思いやりを多くの人へ”

きれいな空気をもとめてスパイクタイヤをやめたら路面がツルツルになりました。ここにある砂をあなた自身のため、そしてここを歩く多くの人たちのためにまきましょう。そんな思いやりとふれあいの場になることを願ってこの砂を「一握の撒砂」と名付けました。

 

 

 


* 釧路へ、そして東京へ

 21歳(1カ月後に22歳)の啄木はこうして旭川を発ち釧路へ向かった。76日間の釧路新聞記者生活のあと「文学的運命を極度まで試験する決心」で横浜行きの船に乗った。

 北海道へも、ふるさと渋民へも二度と帰ることのない旅だった。

【啄木文学散歩 北海道:岩見沢〜旭川 おわり】


(2009-夏)   

 

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