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啄木文学散歩

北海道:岩見沢〜旭川 1


 1907年(明治40)、「石をもて追はるるごとく…」渋民を出た啄木は、北海道での新生活を決意し、函館へ行く。函館区立弥生尋常小学校代用教員在職のまま函館日日新聞社遊軍記者となった直後、函館大火に遇う。その後、札幌、小樽と転々とする。

 『釧路新聞』社勤務が決定し、1908年(明治41)1月19日、小樽駅を出発(午前11時40分小樽駅発)した。途中、岩見沢駅で下車(午後3時25分頃岩見沢駅着)、当時岩見沢駅長の山本千三郎(啄木の姉トラの夫)宅に一泊する。翌日(20日)岩見沢駅発(午前10時半)旭川へと向かう。

 

 

 *101年後の2009年、啄木の後を追って岩見沢-北村牧場-美唄-砂川-旭川を訪ねた。


 

1 岩見沢駅と啄木(このページ)

2 北村牧場の歌碑

3 美唄駅前の啄木歌碑

4 砂川市・滝川公園の啄木歌碑

5 旭川


1 岩見沢駅と啄木

 ○ 2009年3月完成の岩見沢駅舎

  

「岩見沢駅前のメタセコイヤ」

・石炭の原木といわれ「生きた化石」として注目されているメタセコイヤ。かつての産炭地、空知地方の歴史を象徴する樹として、1997年駅前広場に移植された。

  

「岩見沢駅の北側通り」
海道らしい真っ直ぐな道が続く

釧路新聞

 雪中行
 ……
小樽より釧路まで……
       石川啄木

(第一信) 岩見沢にて
 一月十九日。雪。

(略)

 雪は何時しか晴れて居る。空一面に渋い顔を披いた灰色の雪が大地を圧して、右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎を点綴した冬の大原野は、漫(そぞ)ろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる。鉄の如き人生の苦痛と、熱火の如き革命の思想とを育て上げた、荒涼とも壮大とも云ひ様なき北欧の大自然は、幻の如く自分の目に浮んだ。不図したら、猟銃を肩にしたツルゲネーフが、人の好ささうな、髯の長い、巨人の如く背の高い露西亜の百姓と共に、此処いらを彷徨(うろつ)いて居はせぬかといふ様な心地がする。

(略)

 程なく岩見沢に下車して、車夫を呼ぶと橇牽(そりひき)が来た。今朝家を出た時の如く、不景気な橇に賃して四時頃此姉が家に着いた。途中目についたのは、雪の深いことと地に達する氷柱(つらら)のあつた事、凍れるビールを暖炉(ストーブ)に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰(あまつ)さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。自分は今、眠りたいと云ふ外に何の希望も持つて居ない。眠りたい、眠りたい……実際モウ眠くなつたから、此第一信の筆を擱く事にする。(午後九時半)

[「釧路新聞」明治四十一年一月二十四日]

(「石川啄木全集 第八巻」筑摩書房 1986年)

  

「岩見沢駅複合駅舎」

・2000年、漏電による火災で焼失した駅舎が公共施設と合築して、今年(2009年)3月に完成した。まるで美術館のようにおしゃれな建物で、下側の赤いレンガには1口1500円を募金した方の名前が刻印されている。

  • 【後のニュース】 2009年11月6日、日本産業デザイン振興会は2009年度のグッドデザイン大賞の選出式典を開催し、大賞(内閣総理大臣賞)を「岩見沢複合駅舎」に決定した。

  

 

 

  「赤レンガには募金した人の名」

 

 

「岩見沢駅の跨線橋」

新しくできた南北自由通路から駅の跨線橋を見る。駅
員の方の話では、啄木の義理の兄・山本千三郎さんが
駅長だった時代もこの場所が跨線橋だったとのこと。

   

  ○ 義兄は岩見沢駅長・山本千三郎

・駅員の方に石川啄木の義理の兄(山本千三郎)のことをお聞きしたところ「岩見沢駅100年のあゆみ」という本を見せてくださった。その中に二代目駅長・山本千三郎についての記述があった。

 

国有後のあゆみ」

[ 二代目山本千三郎 就任 明治40.11.5 在任期間 2.4 ]

「詩人石川啄木の姉、サダさんと結婚した山本千三郎は、明治40年11月5日、岩見沢駅長に就任す。その翌年11月9日、啄木は岩見沢に下車し駅長宅に一泊す。…(山本千三郎は)昭和20年76才没」

 

・千三郎が高知駅長時代に啄木の父・一禎や親族で撮った写真、明治39年頃の岩見沢駅の写真なども掲載されていた。

  

「岩見沢駅100年のあゆみ」

   

○ 啄木も見た(?)炭礦鉄道会社工場

 

  

「岩見沢レールセンター」 

北海道旅客鉄道株式会社(岩見沢レールセンター)を
岩見沢駅側より見る。

 

・「1906年(明治39)岩見沢に於ける炭礦鉄道会社工場 」の写真をネット上で見つけた。明治大正期北海道写真目録(明治大正期の北海道・目録編)で、北大附属図書館が管理している。その写真と現在の工場を比較してみると同じ建物が残っていると思われる。

・啄木が岩見沢に着いたのは1908年(明治41)だから、雪の中にこの建物を見たかもしれない。

   

「レンガ造りの美しい建物」

・日本建築学会により、建築学的に貴重な建物2000棟を集めた『日本近代建築総覧』に掲載されている。明治20年ころの建築といわれているが詳細は不明とのこと。現在も事務所や工場として使われていて、窓ガラスの向こうに働く人たちが見えた。

  

 

「北海道炭礦鉄道会社の社紋」

・外壁の高いところに組み込まれた社紋・五稜星形は風雨にさらされ風格がある。北海道唯一のレールセンターとして現在も製造、技術開発が行われていて技術史の面からも貴重な文化財だそうだ。

 

凍れるビールを暖炉に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。(雪中行より)

 

・啄木21歳、トラ29歳、千三郎37歳。よき姉とよき義兄をもった啄木が、ビールを飲みお腹いっぱい食べ風呂に入って暖まりくつろいでいる様子が伝わってくる。

 

 (第二信) 旭川にて

 一月二十日。曇。
 午前十時半岩見沢発二番の旭川行に乗つた。(
雪中行より)

 


 (2009-夏)

 

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