・大根 2
・ダリヤ
・躑躅
・玉蜀黍
大根の花 1宗次郎に おかねが泣きて口説き居り 大根の花白きゆふぐれ 初出「スバル」明治43年11月号 夫の宗次郎に女房のおかねが泣きながらよく生活の苦しさを訴えていた。大根の花が白く咲いている故郷の夕暮れよ。 モデルは渋民の農業沼田惣次郎夫婦で、通称おかねさんと呼ばれた女房のイチが酒飲みの夫をつかまえて泣きながら処世の苦しみを訴えていたある日の光景を歌ったもの。 (「石川啄木必携」 岩城之徳・編) 大根アブラナ科の一〜二年生野菜。中央アジア原産といわれるがまだ定説はない。根は多汁,多肉で大きく白色のものが多いが,紅,紫などのものもある。葉は束生し羽状複葉。晩春1m内外の茎を出し白〜淡紫色の4弁花を総状につける。 日本では古くから栽培され,姿形や生態の異なる多くの品種が発達,周年供給されている。代表的品種は練馬,守口,宮重,四月,春福,桜島,みの早生(わせ),聖護院,四十日,白上りなど。ほかに欧米から導入されたハツカダイコンなどがある。 根はジアスターゼ,ビタミンCを多く含み,おろし,なます,煮物,切干,たくあんなどに重用される。葉にはビタミンAが多い。主産地は北海道,千葉,宮崎,鹿児島など。ダイコンの芽生えはカイワレ(カイワレダイコンとも)と称され,近年,生食用に量産されている。 和名はオオネの音読み。スズシロとも言う。春の七草の一。 花ことば 適応力 (大正10年、土岐哀果、金田一京助らと啄木の故郷を訪ねる) 村の中を歩いていると居酒屋の店先を指さして秋浜君が、「あれです。あの真中のが宗次郎です」一同はほうと立どまって見た。四十くらいの色の黒い顔で、この日も酒を飲んでいたと見えて、酔眼を据えて「何でえ、おめえら!」と、肩肱をいからしてべらんめい口調で睨めかえした。私は少々こわくなって急ぎ足になった。 「宗次郎に おかねが泣きて口説き居り 大根の花白きゆふぐれ」詩人にこう歌われた主人公である。今でも毎日酒ばかり飲んでいるそうであるが、細君もむかしのままのおかねさんで、子供が三四人とかあるとのことであった。 (吉田孤羊「啄木発見」) 一幅の絵のようでもある光景を啄木はなつかしく回想しうたったのですが、一首は同時に望郷歌ともなっています。 (近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」) ・・・夏大根は五月から七月にかけて蒔き、秋にかけて収穫します。白または薄紫色の花をつけて咲きます。この歌を読みますと。その白い花が薄暮に一面に浮いて見える農村の大根畑が、まず背景としてイメージされてきます。白い花を咲かせた大根畑。そして夕暮れ時、この二つがかみ合って作る田園風景は、なんかほんのりと、人の心を妙に揺れさせ、淡い官能を誘います。 (遊座昭吾「啄木秀歌」) &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& 真白なる大根の根の肥ゆる頃 うまれて やがて死にし児のあり 初出「スバル」明治43年12月号 真白に大根の肥えるころに生まれ、そしてまもなく死んだ子供がいる。──それが私のただ一人の男の子なのだ。 下句「肥えて生れてやがて死にし児」。「死にし児のあり」と客観句で結んでいるだけに作者の悲しみの深さが感じられる一首である。 「石川啄木必携」 岩城之徳・編 大根 日本では古くから栽培され,姿形や生態の異なる多くの品種が発達,周年供給されている。代表的品種は練馬,守口,宮重,四月,春福,桜島,みの早生(わせ),聖護院,四十日,白上りなど。ほかに欧米から導入されたハツカダイコンなどがある。 根はジアスターゼ,ビタミンCを多く含み,おろし,なます,煮物,切干,たくあんなどに重用される。葉にはビタミンAが多い。主産地は北海道,千葉,宮崎,鹿児島など。ダイコンの芽生えはカイワレ(カイワレダイコンとも)と称され,近年,生食用に量産されている。 和名はオオネの音読み。スズシロとも言う。春の七草の一。 花ことば 適応力 たとえば、啄木の手紙の文字は、これが明治の文字(書)かな、と思わせる近代を棲まわせている。 「真白なる大根の根のこころよく 肥ゆる頃なり男生まれぬ」というこの手紙は、啄木二十五歳の筆である。・・若い啄木に、書を習った気配はみつからぬ。にもかかわらずこの手紙にみせる書の風姿は尋常ではない。造形のモダンさを心得て、毛筆のかなり高いところを持って、この軽快さと造形のたしかさをみせる啄木は、生まれつき天性の造形感覚をたっぷり持ちあわせていたにちがいない。 ・・でも、その悦びはつかのまであった。二十七日の夜半、真一は死んでしまった。・・ (榊莫山「啄木の書」國文学1998.11) 真っ白な大根は肥えた丈夫そうな嬰児にふさわしい連想を持つ。事実啄木の三人の子の中で、生まれたとき一番大きく、健全であった。その比喩が、そのままで「うまれて/やがて死にし児」を対照的にきわだたせた表現として、成功している。 (山本健吉「日本の詩歌5 石川啄木」) しかし、夜勤で十二時過ぎに家に戻ると、二分ばかり前に脈が止まった我が子の姿と対面したのです。身体はまだ温かく、医者に注射をしてもらっても、息を吹き返すことはありませんでした。 (啄木記念館「啄木歌ごよみ」 (上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」) &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& 放たれし女のごとく、 わが妻の振舞ふ日なり。 ダリヤを見入る。 初出「悲しき玩具」 いかにも追放された女のように私の妻が悲しげに振舞う日である。私は心さびしくダリアを見つめるのである。 (「石川啄木必携」 岩城之徳・編) ダリアメキシコ原産で同国の国花。高さ1.5〜2メートル。花は夏から秋、径7cm位の頭花をつけ半八重であるが、一重、八重、色もさまざまな品種が多い。 日本では江戸時代以降普及した。1842年オランダ船により渡来し、テンジクボタンと呼ばれた。和名はスウェーデンの植物学者 Dahl の名にちなむ。この花はナポレオンの妃ジョゼフィーヌが一時夢中になり、珍しい品種を集めた。それをねたんだ貴婦人が、愛人を介して花の一つを盗み出させたため、ジョゼフィーヌのダリア熱は冷めた。 花ことば 華麗・移り気・不安定・優雅・威厳・感謝・気紛れ
一人ダリアに見入る啄木に亀裂は充分意識されている。おそらく赤いダリアの花は、妻とは異なる別な女性の暗喩である。 (中山和子「節子という『鏡』」解釈と鑑賞1994.10) ダリアは中南米の原産で、19世紀の初めころからヨーロッパにおいて栽培と品種改良がすすみ天保年間(1830〜1843)には日本に渡来しました。それが漱石の日記にもあるように1910年前後爆発的に人気が出て大きな品評会も行われるようになりました。 (近藤典彦「啄木の歌 新鑑賞50首」國文学1998.11) ・・・この夫婦の情愛のありさまは、・・・「放たれし女」のように振舞う妻の傍らで、ダリヤの花に見入る夫の視線の暗さを指摘したことを想起すれば、その〈暗さ〉の内実にアプローチする詠みのあれこれの考え方を明らかにしているのである。 (上田博「石川啄木・抒情と思想」) &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& わが庭の白き躑躅を 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ 初出「一握の砂」 私の庭の白いつつじを、おぼろ月夜に折っていったことを決して忘れなさいますな。 宝徳寺の裏庭での上野さめ子女教師との忘れがたい思い出を詠めるもの。 (「石川啄木必携」 岩城之徳・編) 躑躅 ツツジ科ツツジ属の低木〜小高木。常緑のものと落葉のものがあり,花の大きさ,色はさまざまで,世界に約850種,日本に40〜50種が自生する。 花の美しいものが多く,古くから栽培されている。分類のむずかしいグループで,円形鱗状毛の有無,花芽の位置,数,花芽の中の花の数,混芽の有無などによって分類されるが,例外も多い。 春から夏にかけ、赤・白・紫・橙色などの大型の合弁花を開く。なおツツジ類の材は緻密(ちみつ)で細工物などにもされる。 静岡県 県花 花ことば 愛の喜び・情熱・節制・伝奇 さめ子と啄木は暇さえあれば、寺と学校とを往復して語り合った。(明治39年)4月、啄木も同校の教員となり、半年後、彼女が栄転するまで、啄木にとって校内唯一の話し相手だった。この歌は往年の彼女の姿を歌ったものである。 啄木は彼女から、小説の素材にするためずいぶんたくさんの世間話を聞き出したらしい。 明治39年8月27日 日記 「上野女史の話より取る」 (吉田孤羊「啄木発見」より要約) その年の五月三〇日に書いている小沢恒一宛書簡に「稿紙乱堆の中、牡丹と白躑躅の花瓶の下にこの文認め申候。目を放てば窓前満庭の翠色、池にのぞめるほうの木の若葉殊更に心も若やぐ趣きに候」とありますから、掲出歌はこの前後の思い出でしょう。 (近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」) この夜のことを、あなた、忘れないでくださいよ、とむすぶところに、ロマン的な香りを放つ物語の色を濃くする。 (上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」) &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ 初出「一握の砂」 しんと静まりかえった札幌の幅広い街の秋の夜の、玉蜀黍の焼けるにおいよ。 区画整然として幅の広い街路、そうした近代的な都市としての札幌の印象と、・・・秋の味覚の玉蜀黍の醤油をつけて焼くひなびた北国の生活のにおいが、「しんとして」「秋の夜」という語に生かされている。 「石川啄木必携」 岩城之徳・編 玉蜀黍 南米アンデス山麓原産のイネ科の一年草。大正初年に渡来し広く栽培される。高さ2〜3mで茎は太く円筒形。茎頂の穂は、雄花の集合。イネ科には珍しい、雄花と雌花が別々につく雌雄異花で、画期的な品種改良に貢献した。雄花の受精機能を低下させた株に通常の株を並べて植え、風媒で異株間受精させることでよりすぐれた種子を得る。 成熟した種実の色は白,黄〜赤,赤褐,濃褐,暗紫など種々あり,中央がくぼんだ歯形や球形のものが多い。品種は馬歯(デントコーン),硬粒(フリントコーン),軟粒,甘味(スイートコーン),爆裂(ポップコーン),もちなどに大別。 一般に温暖適雨の地を好む。種実はデンプンを多量に含み,甘味種は未熟種子を生食とするほか,乾燥種子は製粉してコーンフレークス,コーンミール,パンや菓子の原料とする。 しかしトウモロコシは食用作物というよりむしろ飼料作物としてきわめて重要であり,農耕飼料として利用されるほか,青刈飼料として全世界的に栽培される。世界の畜産を支える作物ともいえる。胚からはトウモロコシ油(コーンオイル)がとれ食用,油脂工業用とする。 雌花の花柱を日干しにしたものが、利尿薬として使われている。 花言葉 財宝・富・豊富・同意 詩集『あこがれ』には、「匂ひ」という言葉が数多く使われているが、・・・具体的で現実的な匂いでない場合が多かった。 ・・・ところが『一握の砂』では、現実的な匂いとなった。・・・故郷と関係した匂いとしては、とりわけ焼いた食べ物のイメージが連想されたようである。 札幌を詠んだ中に「玉蜀黍の焼くるにほひ」があり、又、『一握の砂』以外では「蜜柑の皮の焼くるがごときにほひ」という表現があり、匂いの中では焼いて香ばしいものが一番好ましかったようである。 (『石川啄木事典』「匂い」の項より抜粋) ・・・札幌の「しんとして幅広き街」に「秋の夜」が訪れます。北海道では「とうもろこし」といわず「とうきび」といいますが、札幌の風物詩「とうきびうり」はすでに当時からありました ただ、今とちがって当時のとうきび売りは焼くときタレを用いませんでした。したがって「焼くるにほひ」はとうきびの実そのものの焼けてはじめるこうばしいにおいです。このにおいをイメージして読んではじめて歌の世界=1907年(明40)秋の札幌の街に立てるのです。 (近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」) 「札幌市中央区大通公園の啄木像と歌碑」 北海道内では三基目の啄木ブロンズ像が建てられた。・・最初の計画では右手にとうもろこしを持った啄木像になるはずであったが、いろいろな事情からはずすことになった。 (浅沼秀政「啄木文学碑紀行」) ・・この歌には鑑賞すべき大事なポイントが二つあると思われます。 日記に記した「路幅広く人少な」い街を、「しんとして幅広き街」と表現している点、そして、秋の夜の「玉蜀黍のにほひ」と押さえ、北海道のもつ風土の匂いをうたっている点です。 さらにその二つのポイントを押さえているのは「しんとして」ということばと、「焼くるにほひ」という、ともに静けさと鼻をつく匂いの感覚的情緒です。特にも玉蜀黍に醤油をつけて、それを焼いて食べる北海道独特の味わい方に、啄木はふるさとで食べた玉蜀黍の味をふまえた上で、強く心ひかれ、その匂いに詠嘆しているのです。 (遊座昭吾「啄木秀歌」) 札幌の秋の夜を詠んだものです。明治四十年九月に札幌に到着した啄木は、その印象を「木立の都なり、秋風の郷なり、路幅広く人少なく」と日記に記しています。また「詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり」とも記しています。 そんな啄木にとって、トウモロコシに醤油をつけて焼いたこうばしい香りも印象的だったことでしょう。間もなく、啄木は新聞社の校正係として意欲的に仕事に取り組みました。 (啄木記念館「啄木歌ごよみ」) 匂いもまた季節の表情である。どこかしらん、「玉蜀黍の焼く」匂いが漂い流れてきたのである。芳しいあのにおいが。匂いもまた土地の表情であるが、「辺土」に流離ってきた人のこころにしみ入るがごとき匂いは、人のこころの表情で、その土地に生活し、通り過ぎて行った人もまた、その土地に彩を添えるのである。 「玉蜀黍の焼くるにほい」は、「しんとした幅広き街」の豊かな表情であって「にほひ」によって喚起され、深められる旅情がある。 (上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」) |