啄木文学散歩
北海道:釧路市
●さいはての釧路駅
●1〜4 歌碑めぐり(含 幣舞橋)
釧路は霧の街。太陽があると思っているうちに港の向こうからサーッと音立てるように濃霧がやってきました。そして、大雨。キャッツアイのように変わる天気のなか、そこここの啄木像や歌碑は濡れて乾き、また雨粒をキラキラさせていました。
啄木は、1908年(明治41)1月21日から4月5日までの76日間釧路に滞在し、22歳の若い記者として釧路新聞の三面主任を任されました。実質的には編集長格として活躍し、月給は25円でした。「釧路詞壇」を設け、政治評論「雲間寸観」も連載しました。
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- 「港文館2階から見る啄木像」
- 釧路川の船をバックに立つ(本郷 新 制作)
川向こうのフィッシャーマンズワーフも薄く見える
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釧路市にお住まいの啄木研究家・北畠立朴さんの冊子によりますと、釧路市は2006年6月1日現在、盛岡市に次いで全国第二位・26基の啄木歌碑数を誇っています。
霧の向こうに見え隠れする啄木の姿を追いながら、美しい街を歩きました
(2005年10月11日、阿寒町と合併、阿寒町の歌碑1基を含めて 26基。ちなみに2006年1月10日、盛岡市は玉山村と合併し 68基、全国一位)
明治四十一年日誌
一月二十一日
午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。空知川の岸に添うて上る。此辺が所謂最も北海道的な所だ。
石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき大景である。汽車は??(注)たる路を下つて、午后三時半帯広町を通過、九時半此釧路に着。
停車場から十町許り、迎へに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡つた。浦見町の佐藤氏宅に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴。
(1908年・啄木の日記)
*注「??」は漢字二字
・「委」に「しんにょう」と、「施の偏」に「しんにょう」
・読み「いい」
・意味「くねくねと曲がり斜めにゆくさま」
歌碑めぐりの「1〜25」の数字は、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)によります。
● さいはての釧路駅
「釧路駅前 SL動輪のモニュメント」
明治41年1月21日の夜9時半です。釧路駅に降り立った啄木は、その時の情景を見て「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んでいます。
当時の釧路駅は現在の釧路駅より約500m南西に位置していました。ただ、この時の釧路駅は中心部から離れた郊外にあり、人家の灯りもあまりなく、夜の暗さや1月の寒さと相まって、最果ての町に来たという印象が強かったのではないでしょうか。
(釧路観光ガイド「啄木くしろ76日物語」北畠立朴)
「改札とプラットホームの境にガラス戸」
これは雪国仕様?
(明治41年)当時釧路町は人口15,000人、現在の北大通を中心に、ようやく橋北地方に賑やかな町並みができつつあったころ…。
(「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)
「啄木の顔と歌が描かれた“啄木バス”」
路線名も“たくぼく線”
● 1〜4 歌碑めぐり(含 幣舞橋)
1 釧路停車場跡 交流ブラザさいわい前
釧路観光協会の「石川啄木文学コース」マップで見ると、この歌碑だけが釧路川の北側にある。ほかは全部、南側になる。
右に見える案内プレートに「明治34年(1901)釧路に鉄道開通。啄木が「さいはての駅に下り立ち」とうたったのはこの場所である」と表示されている。
浪淘沙
ながくも聲をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
所在地 釧路市幸町9-1
建立 1983年(昭和58)8月5日
○ 幣舞橋
「“くしろがわ”の表示板と幣舞橋」
啄木は開通間もない鉄道で小樽から釧路駅に着き、出迎えの佐藤国司の案内でこの幣舞橋を渡った。雪が五寸ほど積っていたという。
(「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)
「2代目幣舞橋」
啄木が渡ったのは初代の木橋
3代目からはコンクリになり
現在は5代目が架かっている
「幣舞橋 四季の像」
右側は霞む花時計
2 南大通二丁目
「“くしろ・歴史の散歩道”の歌碑」
同じ意匠で計4基ある
北の海鯨追ふ子等大いなる流氷来るをみては喜ぶ
所在地 釧路市南大通2-2
建立 1994年(平成6)1月31日
3 釧路市南大通 朝日生命前
小奴碑
明治四十一年日誌
2月22日
“釧路実業新報”の創刊祝いで鶤寅へ。
小蝶に小奴に春吉、小奴のカッポレは見事であった。
2月24日
鶤寅亭へ飲みにゆく。小奴が来た。散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。
小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ。
(啄木日記)
啄木が東京に行ってからの1908年(明治41)12月1日、小奴は前月結婚した夫・逸身豊之輔と上京し啄木を蓋平館に訪ねた。
後年、母の経営していた近江屋旅館を継承し、近江ジンと名を改めた。この碑は、近江屋旅館のあった場所に建てられた。近江屋旅館は昭和37年11月に閉めた。1890年(明治23)生まれの小奴は、1965年(昭和40)2月17日、東京多摩の老人ホームで亡くなった。享年 74歳。
碑文
明治四十一年一月二十一日石川啄木妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに
当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり
小奴といひし女の
やはらかき
耳朶なども忘れがたかり
舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒の酔ひにたふるるまでも
漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴また啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり
七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす
昭和四十一年十一月
所在地 釧路市南大通り3-2
建立 1966年(昭和41)11月27日
4 釧路新聞社跡 シェルスタンド内
1983年(昭和58)「石川啄木文学コース」が設置された。そのとき建てられた六基のうちの一つ。ガソリンスタンドの一隅、売り物のタイヤの隣にがんばって建っていた。
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友
所在地 釧路市大町2-2 釧路新聞社跡付近
建立 1983年(昭和58)8月5日
「起きて見ると、夜具の襟が息で真白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シャボン箱に手が喰付いた。
日景主筆が来た。共に出社する。愈々今日から釧路新聞の記者なのだ。
昨日迄に移転を了した新社屋は、煉瓦造で美しい。
(明治41.1.22 啄木日記)
主要参考資料
・「全国の啄木碑」北畠立朴 冊子 2006.6.1
・「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三 釧路新書 2005
・「啄木と釧路-心ときめく76日間」編集石川啄木記念館 1996
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983
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