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啄木の広場   関連の話題・皆様からのご意見ご感想

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2004-11-22 節子ゆかりの「コルバン先生の思い出」発行

2004-11-22 「宝徳寺追悼2004」啄木支えた人々

2004-11-22 啄木の手紙も入った来簡集--野村胡堂・あらえびす記念館

2004-11-11 18歳、啄木直筆はがきを発見

2004-11-11 玉山村でタク・スタンプ発行

2004-11-08 歌人・吉井勇をしのぶ「かにかくに祭」

2004-11-06 玉山村で啄木のレリーフ(?)

2004-11-02 国民詩人から国際詩人へ「国際啄木学会 ソウル大会」

2004-10-07 「賢治と啄木」を語る井上ひさしさん

2004-09-24 戦前の「宮古新聞」印刷工場内の写真が見つかる

2004-09-20 啄木と賢治ゆかり「盛岡 啄木・賢治『青春の記憶』探求地図」完成

2004-09-10 映画「情熱の詩人啄木」の主題歌 SP盤で紹介

2004-09-06 「宝徳寺物語」を発刊 伊五沢富雄さん

2004-09-06 啄木が歌に詠んだ<渋民駐在巡査>の資料が小冊子に

2004-09-01 啄木・賢治の青春時代の足跡が地図に

2004-09-01 スポット展示「啄木と一緒に遊ぼうよ」

2004-07-15 第19回岩手日報文学賞  受賞者決まる(詳報)

2004-07-07 望月善次氏 啄木賞受賞(岩手日報文学賞)

2004-06-27 近鉄、オリックス球団合併と啄木

2004-06-20 朝鮮国にくろぐろと---韓国からの便り

2004-06-15 石川啄木と大逆事件「小樽啄木会だより」

2004-06-07 玉山村で啄木祭が開かれる

2004-06-07 啄木「初恋」 奥田良三のペン先から

2004-05-24 小国露堂経営の貸し本屋 写真と書籍リスト見つかる

2004-05-24 渋民駅前に啄木歌碑 全国で156番目

2004-05-24 石川啄木らにちなむ「緑の笛豆本展」

2004-05-24 啄木が釧路に着いた夜の天候、実は雪

2004-05-19 金田一春彦さん(金田一京助氏<啄木・生涯の友人>の子息)死去

2004-05-15 啄木の妻・節子を援助したコルバン夫人について

2004-04-21 講演会「啄木」百年 もりおか啄木・賢治青春館

2004-04-21 旧第九十銀行本店本館 国の重要文化財に

2004-04-14 盛岡で「啄木忌前夜祭」開催

2004-04-09 「啄木忌」最古の写真発見

2004-03-19 石川啄木記念館へどうぞ

2004-03-01 小国露堂の葬儀写真、見つかる

2004-02-13 啄木に社会主義を説いた「小国露堂」を学ぶ

2004-02-08 啄木が、日露戦争について書いたこと

2003-07-27 第18回岩手日報文学賞 受賞者決まる

2003-07-06 銀座に「ホタルの里」・きっかけは石川啄木の歌碑

2003-07-03 啄木の父の「伐採願い」-天井張り替えで発見


2004-11-22

 Mrs. Sophia Ellen Colborne
 
身重の節子の世話をした「コルバン先生の思い出」発行

 房州では、先生をご存知の方も少なくなったので、思い出を収集して記念小冊子を発行した。

目次

 ・思い出の寄稿
 ・お電話でお寄せ頂いた思い出
 ・小説・研究文に登場する先生(節子関係含む)
 ・ローカル史誌の中の先生(節子関係含む)
 ・参考資料

 2004年7月11日発行
 発行所 日本聖公会・横浜教区 南三原聖ルカ教会

(「啄木の息」サイト内のページ---コルバン夫妻と節子


2004-11-22

 啄木支えた人々追悼 宝徳寺

 石川啄木ゆかりの人物を追悼する法要「宝徳寺追悼2004」は11月11日、玉山村の宝徳寺で行われた。

 今年は啄木の渋民尋常高等小教員時代の同僚、秋浜市郎さんとその息子の三郎さんを追悼した。市郎さんは石川一禎(啄木の父)のまたいとこにも当たる関係。三郎さんは啄木の教え子で、啄木の業績を後世に伝えるため尽力した。

 村内や盛岡市、滝沢村から約30人が参列。読経に続いて全員が仏前に焼香した。記念撮影や講演会などが行われたほか、約3000年前の縄文土器や土偶など三郎さんの希少なコレクションが公開された。

(2004-11-12岩手日報) 


2004-11-22

 啄木の手紙も入った来簡集 --野村胡堂・あらえびす記念館

 捕物小説「銭形平次」の作者として知られる紫波町出身の野村胡堂に送られた手紙を集めた「野村胡堂・あらえびす来簡集−明治・大正・昭和を彩る交友録−」が完成した。

 来簡集は「野村胡堂・あらえびす記念館」開館10周年記念に編集した。収められているのは、胡堂に送られた2000通以上の手紙のうち、217人からの238通。1900年ごろから、胡堂が亡くなった1963年までのものだ。

 石川啄木や江戸川乱歩、志賀直哉らの作家のほか、近衛文麿の弟で指揮者の近衛秀麿、民俗学者の柳田国男らからの手紙もある。手紙の全文を掲載し、差出人のプロフィールを紹介しているほか、一部ははがきの写真も載せている。

 1000部印刷。5000円。入手と問い合わせは同記念館(電話019-676-6896)へ。

(2004-11-14毎日新聞)

 

2004-11-11

 18歳、啄木直筆はがきを発見 畠山亨さん宛

 石川啄木が1904年(明治37)に元渋民村(現玉山村)助役の畠山亨さん(1873-1918)に送った直筆はがきが見つかった。作品や書簡の収録された「石川啄木全集」(筑摩書房刊)に存在が記されながらも、所在が不明だったはがきの100年ぶりの登場に、研究者は関心を寄せている。

 はがきは盛岡市の工藤一男さんが保管していた。墨書で、あて名のわきには「六月三日夕 啄木老」と署名があり、1904年6月4日付の陸中好摩郵便局の消印がある。

 啄木と畠山さんは詩歌を通じて交遊があった。はがきで啄木は当時、渋民に滞在していた盛岡中の同級生・田鎖徹郎さんと親しくしていることや、畠山さんに文芸誌「明星」を貸せないことをわびている。

 当時、啄木は18歳。同年始まった日露戦争への意見を岩手日報紙上に発表したほか、「明星」「時代思潮」など数誌に詩を発表。はがきでも「秋には詩が本になる」と、順調な創作ぶりを伝えている。

 工藤さんの父で教員だった愛吉さん(1895−1946)は、渋民小校長時代に畠山さんからはがきを譲られた。少年時代からはがきの存在を知っていたという工藤さんは、愛吉さんの蔵書に挟まれていたはがきを見つけ、保管していた。身の回りの整理を始めたのをきっかけに「研究に役立ててほしい」と、はがきを岩手日報社に持ち込んだ。

 国際啄木学会理事の遊座昭吾さんは「啄木を支え、後に小説『足跡』の登場人物のモデルになる畠山さんだが、人柄を知る資料は意外と少ない。啄木との厚い親交ぶりを伝える資料として興味深い」と話している。

(2004-11-10岩手日報より)


2004-11-11

 玉山村でタク・スタンプ発行---啄木の「啄」に由来

 玉山村商工会と玉山タク・スタンプ会は12月1日から「たまやま共通商品券」を発行する。

 たまやま共通商品券は、石川木の歌碑や岩洞湖、姫神山など同村ゆかりの風景がデザインされている。1枚の額面は500円で、購入から6カ月間有効。

 現時点で村内の全事業所・小売店の7割に当たる約100店が加盟。

 玉山タク・スタンプ会の名称は、啄木の「啄」に由来しスタンプ事業を展開。新たな商品券発行で地元購買力アップに期待する。

(2004-11-10岩手日報より) 


2004-11-08

 歌人・吉井勇をしのぶ「かにかくに祭」

 石川啄木らと文芸雑誌「スバル」を創刊(1909年)した歌人・吉井勇(1886-1960)をしのぶ「かにかくに祭」が11月8日、京都市東山区祇園で営まれた。さわやかな秋晴れの下、華やかに着飾った芸舞妓さんたちが、歌碑に白菊をささげた。

 北白川周辺に住んだ晩年、祇園の花街に通い、「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」という歌を詠んだ。その歌碑が白川がせせらぐ祇園新橋近くに建てられ、同祭を祇園甲部組合が毎年開いている。

(2004-11-08京都新聞より)


2004-11-06

 玉山村で啄木のレリーフ(?) 船越保武作

 昨年春、玉山村にあるいわて銀河鉄道好摩駅の事務室から一枚のレリーフが見つかった。彫刻家舟越保武氏のサインがあり、「啄木に似ている」という理由で、石川啄木記念館に預けられていた。しかし、最近になって、モデルは皇太子時代の今の天皇陛下だったことが、舟越氏の遺族の証言でわかった。レリーフはブロンズ製で、縦21.7cm、横15.8cm。

 東京に住む舟越氏の遺族によると、舟越氏が誰かに頼まれて作ったものだという。同じ玉山村で生まれた啄木に似ているので、近くの啄木記念館に預けられた。

 記念館も、はじめはこのレリーフが啄木かどうかが分からなかった。しかし、調べてみると、ほかにも、同じものがいくつかあることが分かった。

 宮内庁総務課報道室によると、皇族の彫刻などの肖像はほとんど作られていない。「現在の天皇陛下のレリーフがあるというのは聞いたことがなく、大変珍しい」と話している。

(2004-11-05朝日新聞より)


2004-11-02

 国民詩人から国際詩人へ「国際啄木学会 ソウル大会」

 国際啄木学会の第15回ソウル大会は10月10日、韓国ソウル市の中央大学校で開かれた。

 日本・韓国・台湾の日本文学・日本語研究の研究者、学生ら約100人が参加。近藤典彦会長は「この大会を通じて韓国、台湾、日本の研究者の間に一層深い友情が生まれることを願う」とあいさつした。

 ボン大学客員研究員でドイツから参加した池田功氏は、講演でユンドンジュと石川啄木を比較し、閉塞した時代状況の批判やロシアのツルゲーネフの受容の共通性などを指摘した。

 韓国の朴智暎氏の「啄木短歌においての身体と表現の問題」、梁東国氏の「石川啄木と萩原朔太郎」や台湾の高淑玲氏の「啄木の思想の質に関する一考察--啄木における仏教思想の働きをめぐって」の研究発表は、先行研究を踏まえて蓄積された、研究水準の高さを示した。

 日本からの柳沢有一郎氏は、「啄木の死因および『悲しき玩具』冒頭二首の解釈」と題して日記、手紙などの分析から従来から言われてきた「肺結核」ではなく「結核症による衰弱死」という新説を提起。山下多恵子氏の「我ならぬ我--啄木の節子」は、従来の妻・節子像を検証し直し、啄木の思想変遷を踏まえその人生と文学にとっての節子の位置付けを試み、会場からは共感と涙をさそった。

 上田博氏は「『啄木』とは何か。そうして『啄木』はどこに現れるか。」のテーマで講演した。「ローマ字日記」に小説家啄木が現れたと分析、その位置付けと評価をのべ、「作品に立ち戻り、啄木に感動して時代・社会などを調べ、自らの像を結ぼう」と研究姿勢のあり方を問うた。

(2004-10-10岩手日報・2004-10-21しんぶん赤旗より)


2004-10-07

「賢治と啄木」を語る井上ひさしさん プラザおでって講演会

 もりおか啄木・賢治青春館の名誉館長で劇作家の井上ひさしさんの講演「啄木と賢治」が9月26日、盛岡市中ノ橋通のプラザおでってであった。

 井上さんは「啄木との出会いは、母が徴兵逃れだとか、農地解放とかの運動をしていた逃亡者をかくまうために使っていた割り符。その割り符には啄木の歌が記されていて、母は割り符を持つ人をかくまっていた。突然家に来た若い人がしばらく家に滞在していたというのが記憶にある。そんなことで子供心に啄木というのは危険な歌なんだと思った」と、啄木との出会いを振り返った。

 「戦争が終わったころ、熱心な賢治ファンだった小学校の女の先生から賢治の『どんぐりと山猫』を読んでもらった。その時、『山はうるうると盛り上がり』という表現に電流が通ったような感動を覚えた。山の景色を、手に取るように言葉で表現している素晴らしさに、それからすぐに賢治に夢中になった。最初に買った本もそれだった」と啄木と賢治、それぞれの作品との出合いと印象を振り返った。

 「賢治がすごいのはその先見性。昭和の初めという時代に、地球の主人公は人間ではないということを言っていた。人間という1種類の命が肥大していったとき、地球にあるたくさんの命のバランスが崩れ地球はバランスを保とうと牙をむく。今はまさにそういう時代だが、あのころはそういう考えはなかった」と賢治について話した。

 「最近、啄木だったら、賢治だったらどう考えているかなんてことを考えるようになった。啄木の評論『時代閉塞の現状』で啄木が言っていることを借りれば、日本人は今、どこに行けばいいのかを見失っている」と話し、「環境問題、核問題、そしてアジアのゆるやかな連帯をつくりまとめることを日本が世界の人の先頭に立ってやっていかなければならない」と話した。

 「二人は岩手が生んだ不世出の作家。後世につないでいかなければならない。そのためには、われわれがもう一度作品を読み直すことが必要だ。二人の作品を読み続けることで作品は永久の命を持つはずだ」と啄木と賢治作品の読み直しを呼びかけた。

(2004-10-04盛岡タイムスより)


2004-09-24

 戦前の「宮古新聞」印刷工場内の写真が見つかる

      ----啄木と交遊のあった小国露堂が発行----

 啄木に社会主義を説いた宮古出身の新聞人、小国露堂(本名・善平1877〜1952)が戦前、発行した宮古新聞の印刷工場内の写真が見つかった。反権力を貫いた新聞は、裸電球の町工場で作られていた。9月25日から宮古市立図書館で始まる小国露堂展で、ほかの資料とともに公開される。

 宮古新聞の記者として手助けした三男三平の妻千鶴子さん(宮城県在住)が保管していた。旧山口村(現宮古市)鴨崎にあった平屋建ての工場で、着物姿の女性3人が手書きの原稿を見ながら活字棚から活字を拾っているのが写っている。

 2度目の北海道から1927年に宮古に戻った露堂は翌1928年、宮古新聞を復刊した。印刷所は旧宮古町築地にあった東華印刷だったが、1931年8月ごろ、この自前の工場に移った。最初の宮古新聞は啄木と交友のあった北海道から帰った1911年、旬刊で発行された。

 露堂は反政友会を堅持し、山口川切り替え工事にも反対するなど、若いころから「主義主張の人」と称された。しかし、新聞は太平洋戦争開戦直後の1941年12月28日、岩手日報に統合された。

(2004-09-23毎日新聞より)

・小国露堂展 2004年9月25日〜10月3日 宮古市立図書館


2004-09-20

 啄木と賢治ゆかり「盛岡 啄木・賢治『青春の記憶』探求地図」完成

  ----盛岡の市民グループ「文化地層研究会」、9月21日から無料配布----

 盛岡の文化や歴史を調べている市民グループ「文化地層研究会」は、盛岡市内の宮沢賢治と石川啄木のゆかりの地を1枚の地図にまとめた「盛岡 啄木・賢治『青春の記憶』探求地図」の作製を完成させ、披露した。賢治の命日である9月21日から、同市中の橋通の盛岡啄木賢治青春館やプラザおでってなどで無料配布する。

 文化地層研究会は盛岡の歴史再発見の活動をしている市民団体で、これまでに盛岡旧町名マップなどを作ってきた。探求地図はその文学版。

 地図は市内中心部をメインに、盛岡時代の啄木が身を寄せたことがある9カ所、賢治が下宿、滞在したことがある8カ所が一目で分かるようにした。そのほか、2人の碑や2人が通った当時の盛岡中学(現・盛岡一高)の場所や、2人が鐘の音を聞いていたことが分かっている四ツ家天主教会聖堂など100カ所以上の関連スポットを示している。

 啄木は中津川べりの小天地発行の家を除くと現在の中央通3丁目から大通、長田町にかけて住まいを選ぶことが多く、賢治は名須川町や北山など寺町を好んでいた。2人の足跡をたどると明治から大正にかけての古き良き盛岡が浮かび上がる。地図上では、ゆかりの場所を、それぞれの作品とつながりの深い「きつつき」と「ふくろう」のイラストで表示、修学旅行生や地元の子供たちにも親しみやすい構成となっている。賢治が初恋をした看護婦が勤務していた岩手病院(現岩手医大)、啄木と妻節子の出会いの場とされる金矢家別邸=中央通3丁目、賢治の詩の舞台となった来来軒などゆかりの地を盛り込んだ。

 同会の高橋智代表が文献を手がかりにベースを作成、近代文学研究家の森義真さん、建築家の渡辺敏男さんが監修した。高橋さんは「啄木賢治ゆかりの地がこれだけ盛岡にあることを知ってもらいたい。どれだけあるか数え切れないほど」と話し、みずから製作した地図の満載ぶりに感動している。旧町名地図をもとに高橋さんがパソコンでデザインし、裏面には啄木・賢治の年表や青春館の建築的解説を付けた。

 森さんは国際啄木学会、宮沢賢治学会で2人を研究している。「全国には150以上の啄木の碑があり盛岡には32の碑があるのに、啄木が住んだことがある9カ所にはない。だから造れという訳ではないが、そこを知らしめたい。9カ所と8カ所は伝聞や風評を入れずに本人か友人が語ったところだけを入れた」と話す。建築家の渡辺さんとともに資料性に配慮しながら監修した。

 大きさはA3サイズ(カラー)で持ち歩きやすい大きさに折りたためる。

::問い合わせ 同会事務局 Tel&Fax 019-624-6740(できるだけFaxで)
           もしくは電子メール ochamochi@aioros.ocn.ne.jp

(2004-09-19毎日新聞 盛岡タイムス 09-22岩手日報 文化地層研究会ページより)

  盛岡 啄木・賢治「青春の記憶」探求地図 文化地層研究会のページ(実際の地図や、その説明がある)


2004-09-10

 映画「情熱の詩人啄木」の主題歌 SP盤で紹介

    ----もりおか啄木・賢治青春館----

 盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館は11日、大正から昭和初期のSPレコードを聴くミニコンサートを開き、石川啄木を取り上げた映画の主題歌「啄木の歌」などを紹介する。盛岡で学生時代を過ごした滋賀県草津市の島村浩さんが、この主題歌のSPレコードを同館に寄贈したのがきっかけ。島村さんは「手元に置くより、多くの人に聴いてほしい」と願っている。

 島村さんが寄贈したレコードは、1936年(昭和11)にテイチクから発売された。A面に日活映画「情熱の詩人啄木」の主題歌「啄木の歌」(作詞島田磬也、作編曲古賀政男)、B面に啄木作詞の「春まだ浅く」(作編曲古賀政男)を収録。演奏時間はどちらも3分程度。

 当時の販売価格は1円。レコード所有がまだ一般化していない時代だった。戦禍を免れ、母親から譲り受けて大切に保管していたが「このまま持っていても、いずれは埋もれてしまう」と手放すことを決めた。

 島村さんにとって盛岡は1940年(昭和15)から2年半の間、岩手大の前身・盛岡高等工業学校に通学した思い出の地。啄木の故郷岩手でレコードを生かす道を探していた。

 コンサートは11日午後3時から。島村さんが贈ったレコードのほか、同館で展示しているレコードの中から啄木作詞の「いつとなく」など5曲を紹介する。

 問い合わせ もりおか啄木・賢治青春館 電話 019-604-8900

(2004-09-10岩手日報より)


2004-09-06

 「宝徳寺物語」を発刊

     --筆者は、祖先が啄木と交流した伊五沢富雄さん--

 玉山村の伊五沢富雄さんは「宝徳寺物語」(編集・ねんりん舎、出版・熊谷印刷 定価1500円)を発刊した。宝徳寺は同村(旧渋民村)にあり、石川啄木ゆかりの寺。「セロクド」の屋号で呼ばれる伊五沢家は宝徳寺の「出入り」を務め、祖先は啄木とも交流があった。

 宝徳寺は1658(万治元)年創建という歴史を持つ。本書では啄木の父一禎が本堂を建立した1890(明治23)年からの宝徳寺に焦点を当てつづっている。

 啄木にとって宝徳寺生活の17年間は何であったか。筆者はペンネーム啄木の誕生を第一にあげる。

 「一禎の住職罷免、啄木自身の文学的挫折、渋民小学校ストライキ、教員免職等にある中で、『啄木』と宣言したのが、宝徳寺内の一室であったことに尽きるのではないか」、「その後の文学者、思想家の『啄木』は宝徳寺で誕生した」と言い切る。

 一禎罷免後、住職は中村義寛を経て再び遊座家になる。1914(大正3)年、遊座芳荀が住職に就き、5年後、芳夫が住職になった。啄木は明治の終わりに死去している。

 この親子の時代で紹介しているエピソードが興味深い。啄木の歌碑第1号「やはらかに…」が22年、村内の北上川河畔に建立された。石は「姫神山麓沢目部落の内藤イツの山から運び出された」という。4キロほど離れた場所に運ぶため、巨大なそりが造られ、200人もの村民が3日がかりの作業だったという。

 石工は石が巨大すぎたため厚さを半分に割って加工した。割られた石を基に製造、建立されたが、「半分にされた石はその近辺に打ち棄てられていた」。処分に困った石工に相談された芳荀和尚は自ら筆をふるい、宝徳寺の境内に「三界萬霊塔」として建てた。

 啄木1号歌碑と萬霊塔は「一卵性双生児なのである」と筆者は言う。

 一禎の宝徳寺住職就任と前住職遊座家の境遇を引き出して言われることは少なくない。筆者は芳荀和尚の行為から「幼い時に石川家によって宝徳寺を追われた遊座家だったが、別に恨みは無く、むしろ啄木を顕彰しようというぐらいの寛容の心さえ読みとれる」としている。

 伊五沢家では富雄さんの4代前、丑松さんが小樽の啄木から1907年(明治40)12月23日付の手紙をもらっている。長さ420センチ、幅20センチの巻紙に163行にわたって書かれている長文だ。

 本書ではこの手紙を紹介。伊五沢家と宝徳寺、啄木との交わりに章を設けている。啄木の小説「道」を掲載しているのは、啄木が代用教員として経験したことがモチーフになり、当時の日戸小の校長が丑松だったことによる。

(2004-09-03盛岡タイムスより)


2004-09-06

 啄木が歌に詠んだ<渋民駐在巡査>の資料が小冊子に

    --宝徳寺とさわらの会が下貼文書を発刊--

 玉山村渋民の宝徳寺と古文書解読サークル同寺さわらの会は、小冊子・盂蘭盆会(うらぼんえ)04「大塚屋襖下貼(ふすましたばり)文書」(B5判、12ページ)を発行した。今回は歌人石川啄木が旧渋民村で幼少を過ごした前後の警察関係資料9枚を筆写。お盆期間中に訪れた檀家へ配布した。

 啄木の「一握の砂」に幼少期を詠んだ「友として遊ぶものなき/性悪の巡査の子等も/あわれなりけり」という歌がある。

 高橋隼之助は渋民駐在巡査として1888年(明治21)から1893年(明治26)まで勤務。明治19年生まれの啄木はこの時期既に渋民村に来ている。啄木は高橋をモデルにこの歌を詠んだとみられる。

 ふすま下張り文書には、高橋が盛岡警察署詰めだった1887年(明治20年)に申請した現在の有給休暇届け「慰労賜暇(しか)願」が紹介されている。

 「明治十八年四月ヨリ十九年三月迄満一ケ年間職務皆勤仕候ニ付過般三週間ノ内十日間七日間再度ニ御許容相成候処残四日間有之候賜暇自今御用多忙ノ際モ不顧出願仕候モ至極恐縮ノ至リニ存候得共難差置用事出来候ニ付き八日ヨリ来ル十一日迄成規ノ通リ慰労賜暇御許容被成下度此暇奉願上候以上」と書かれてあった。

 内容は当時1年間の職務皆勤で翌年3週間の有給休暇「賜暇」がもらえたようで、高橋はこのうち17日間を既に利用した。用事を理由に、同年5月8日から11日までの4日間で消化させてもらえないか申請している。

 ほかに高橋が扱った盗難事件で押収した白足袋などを証拠として差し押さえた物件目録(明治22年11月8日)、馬に飼料を与えようと湯をわかした火が、かまの近くにあった松葉に燃え移って1戸1棟が焼失、男性一人が負傷し、馬が死亡した火災の検視報告(同23年5月5日)などがあった。

 檀家に配布する小冊子の第4弾。江戸時代末期から明治期にかけて造り酒屋だった大塚屋が1968年(昭和43年)の改築時、不要になったふすまを白沢惣助氏が譲り受けた。白沢氏は下張り文書を整理。同寺に今年寄贈した。

 さわらの会の佐々木祐子さんは「警察関係の資料などはなかなか見つからないが、白沢さんが一人で丁寧にはがして分類した。全部見ていないが、関係資料はもう少しありそうで、来年何を紹介するかはお楽しみ」と言う。

 同会の遊座英子さんは「これまで別のふすま下張りから大福帳が出て、当時どんな料理があったか分かった。啄木がいた当時の習俗が鮮明になっており、今後も続けて1冊の本にまとめることができれば」と話している。

(2004-08-17盛岡タイムスより)


2004-09-01

 啄木・賢治の青春時代の足跡が地図に

   --盛岡啄木・賢治『青春の記憶』探求地図-- 文化地層研究会 リンク追加

 盛岡で青春時代を過ごした石川啄木と、宮沢賢治の足跡をたどることができる地図が、盛岡の歴史を探る団体「文化地層研究会」(高橋智代表、会員30人)の手でほぼ完成した。賢治の命日にあたる9月21日以降、「もりおか啄木・賢治青春館」などで無料で配られる予定だ。

 表は啄木と賢治が身を寄せた家、詩碑、ゆかりの地を示してある。2人が目にした当時の主要な建物や、親しんだ岩手山などの眺望地も加えた。

 裏には、啄木が生まれた1886年(明治19)から賢治が没した1933年(昭和8)までの年譜があり、盛岡で過ごした時期が一目でわかる。ゆかりの地の説明や「もりおか啄木・賢治青春館」として使われている旧九十銀行も解説されている。

 きっかけは旧九十銀行が国の重要文化財に決まったことだった。これまで、2人と盛岡とのかかわりだけをまとめた史料はなかった。その2人が盛岡にいた明治後期から大正前期は、電気や鉄道が通り、次々と建造物ができた。「青春時代」が重なる2人と盛岡の歴史をまとめたかったという。高橋代表は、九十銀行の展示や、会員の持っている史料をくまなく読みあさった。2人に関係がありそうな場所は、すべて自分の足で歩いてみた。「新婚の家」だけが強調されてきた啄木が世話になった家は、調べた限り、九つもあった。

 盛り込んだ情報量は、小さな文字が物語る。高橋代表は、「それでも、全体の半分ほどしか掲載できませんでした」と話す。

 宮沢賢治と親交のあった森荘已池氏の親類で、2人の研究をしている森義真さんと、盛岡の歴史的建築物に詳しい盛岡設計同人の渡辺敏男さんに監修してもらった。

 「例えば、四ツ谷教会の鐘の音は当時のままで、2人もその音を聞いていた。この地図を見て、2人がこの街で青春時代を過ごしていたことを再認識し、街の良さを見直して欲しい」と高橋代表。

(2004-08-31朝日新聞岩手版 盛岡市 森 義真さんより)

盛岡 啄木・賢治「青春の記憶」探求地図 文化地層研究会のページ(実際の地図や、その説明がある)


2004-09-01

 スポット展示「啄木と一緒に遊ぼうよ」 石川啄木記念館

 玉山村の石川啄木記念館のスポット展示「啄木と一緒に遊ぼうよ」は9月30日まで同記念館で開かれ、職員の手作り資料が展示されている。

 花が好きだった啄木にちなみ花の写真と関連した短歌を紹介するコーナー、空欄に文字を埋め短歌を完成させるうたパズルなど、ゲーム感覚で楽しめる。

 啄木の歌集「一握の砂」には「秋風のこころよさに」―との有名な章もあり、「芸術の秋のひととき、啄木に親しんで」とアピールする。

(2004-08-27岩手日報)


2004-07-15

 第19回岩手日報文学賞

  -------受賞者決定 7/21贈呈式・記念講演会------ 

 啄木賞 望月 善次氏(盛岡市)
    「啄木短歌の読み方−歌集外短歌評釈一千首とともに」(信山社)

 賢治賞 梅津 時比古氏(横浜市)
    「≪セロ弾きのゴーシュ≫の音楽論−音楽の近代主義を超えて」(東京書籍)

 随筆賞 小賀坂 勝美さん(平泉町)「職人への道」

 
 啄木賞の「啄木短歌の読み方」は、啄木短歌の特質を理論的に考察した第1部と、その理論に基づいて歌集外短歌を評釈した第2部で構成し、前著と合わせ1000首の歌集外短歌を評釈するというこれまで類を見ない研究の成果が示されています。

 賢治賞の「≪セロ弾きのゴーシュ≫の音楽論」は、ゴーシュの楽器、テクニック、音程について独創的な見解を示し、この童話が現代に対する明確な批判を含むと指摘し、近代主義を超えた来るべき演奏の在り方について示唆しました。

 随筆賞の「職人への道」は、表具教室の受講をきっかけに表具師としての修業を始めた筆者が、表具が文化を受け継ぐ器であると気づいて職人の道に誇りを持つようになる過程を、中尊寺経への思いも込めて確かな筆致で描いた作品です。

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啄木賞

「歌作経験生かし読解」 望月 善次氏(もちづき・よしつぐ)

      啄木短歌の読み方−歌集外短歌評釈一千首とともに

 「啄木ゆかりの岩手日報から文学賞を受けることができ、光栄に思う。賞に恥じないよう、一生懸命研究に取り組みたい」と、笑顔の中にさらなる決意を見せる。

 短歌に興味を持ったのは大学時代。専攻を歴史学から国文学に転向するほど、歌作に熱中した。1979年、本県に移り住んだのを機に、以前から興味のあった啄木研究を本格化した。

 啄木の歌集「一握の砂」「悲しき玩具」に収録されなかった短歌は4000首余りといわれる。受賞作と昨年の前著で、そのうち1000首を評釈、啄木研究の新分野を開拓した。検証資料の豊富さと、自らの歌作経験を生かした読解が高く評価された。

 労作の影には、研究者ゆえの苦悩があった。ここ10数年、岩手大教育学部長など各種教育機関の長を務め、管理職としての事務に追われた。今年4月の国立大独立法人化への準備も追い打ちをかけた。「研究に専念できない日々」が続いた。

 「研究にしがみつかなければ、流されてしまう」と痛感し、未踏の分野であった歌集外短歌の分析に力を入れた。膨大な短歌を読解する作業も、苦にならなかった。「啄木が、研究者としての立場に踏みとどまらせてくれた」と感謝する。

 歌集外短歌の評釈は現在も進行中。主要な作品はほぼ網羅したという。「全短歌を評釈し、検索に便利なように体系化したい」と壮大な計画に思いをはせる。

 盛岡支部長を務める国際啄木学会は今年、韓国で大会を開く。啄木研究も国際化が進んでいる。「多様な方法論を展開し、若い人に道を開きたい」と、夢は尽きない。

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 第19回岩手日報文学賞贈呈式
 7月21日午前11時から岩手日報社で行い、望月氏と梅津氏に正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・故舟越保武氏制作)と賞金50万円、随筆賞の小賀坂さんには「エリカ」と賞金10万円が贈られます。

 受賞記念講演会
 7月21日午後5時から、岩手日報社5階ホールで望月、梅津両氏の記念講演会を行います。(入場無料)
   演題 望月善次「シンフォニーとしての啄木短歌」
      梅津時比古「ゴーシュの名 再論」

(2004-07-07岩手日報より・2004-07-15盛岡市 森 義真さんより)

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2004-07-07

 望月善次氏に啄木賞!  詳細は後日

 望月善次氏(岩手大学教育学部教授)の『啄木短歌の読み方』が、今年の岩手日報文学賞「啄木賞」を受賞しました。

(2004-07-07盛岡市 森 義真さんより)


2004-06-27

 近鉄、オリックス球団合併と啄木

 東京・銀座の並木通りに面してこぢんまりとしたオフィスビルが建つ。その一室にプロ野球・パリーグの連盟事務局がある。この地は昭和の初めまで、瀧山町と呼ばれた。

 詩人、石川啄木の歌集「一握の砂」に収められた歌がある。

  京橋の瀧山町の
  新聞社
  灯ともる頃のいそがしさかな

 啄木は、尋常小学校の代用教員を務めた後、貧窮のなか、函館日日新聞社を皮切りに、新聞社を転々とした。

 上京後、1912(明治45)年に亡くなるまで3年間は、瀧山町にあった朝日新聞社で働いた。忙しさを楽しみ、誇らしく感じていたことが想像される。

 ビルはその社屋跡地にある。先週、近鉄、オリックス球団合併をめぐり緊急理事会が開かれた。100人を超す報道陣でごった返し、ビジネスマンや犬を連れた女性が覗き込んでいた。

(2004-06-23毎日新聞より要約) 


2004-06-20

 朝鮮国にくろぐろと---韓国からの便り

 Jinoさんからのメール(抜粋)

Dear '啄木の息', from South Korea

 '地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く'

 '9月夜の不平の中で'

こんにちは.

  私は韓国で住んでいる今年 25歳の Jinoという青年です.

  偶然に Yahoo Japanのサイトに 石川啄木 詩人を検索する中,「啄木の息」のサイトにやっと触れるようになりました.内容と写真の充実さに感銘をしました.

 石川啄木 詩人に対してはよく分からなかったが 今年 4月に初めて石川啄木の存在と作品世界を勉強しています.このごろまじめな心得を持って詩人 石川啄木を思って意味を称えています.

 私を驚かした事実は 石川啄木 詩人が歴史の激変期を暮しながら,本当の希求, 美しい自然の賛美, 社会問題意識に対して分かった後でした.特に注目した事実は当時韓日併合に対して悲しみを詩で歌った事実です. たとえ私はその頃を経験しない若い世代だが,私のお爺さんの世代に経験した苦痛と悲しみを思えば涙が前を選り分けます. 歴史と現在そして未来の交差点にある今の私にあって石川啄木 詩人の意を思いながら自分自身を反省しています.

 韓国と日本は確かに悲しい歴史を持って生きて行っています.たとえそれは易しく腹中で消すことができない傷だが,この時代を生きて行く一人の人間存在として 何か韓国と日本の平和と共存の意味に対して考えました. 韓国で 石川啄木 詩人の作品は朝鮮戦争後イデオロギーの対立によって 現代韓国文学 史では収容が大変なのが事実でありました.もちろん彼の作品を紹介した本は書店に何冊発行になったが 一般韓国人たちにはそれに対する紹介はまだ荒れ地のようです.

 2002年ワールドカップ開催この後,韓国と日本の交流は量的に驚きべき成果をおさめていると思います. 日本の大衆文化 4次開放の韓国政府の主導で実施されたし,日本では冬ソナタの人気がかなり高いとニュースを通じて入りました.

 たとえ不便なすぎ去った事問題を持っている韓国と日本だが,これからはお互いに正当で真実な心を土台で お互いを眺めることができたら良いということが底意心です.

  現在日本語をよく駆使することができなくて翻訳機を利用しています.文章の連結がこぎれいではない点了解申し上げます.読んでくださってありがとうございます.

 韓国で曇った春の日,Jino拜


2004-06-15

 石川啄木と大逆事件---後藤 捨助 「小樽啄木会だより No.6」

その1
 
1.石川啄木との出会い

 小樽に生まれ育った私は、同じく小樽でその漂泊の旅を、一時的にも過ごした石川啄木を想わずにはいられない。花園町にある当時の啄木の居住の跡は、私も料理屋「た志満」の二階の間として時々利用している。(中略)
 その後も教職につきながら、啄木の短歌を中学校の生徒に教えるために、その教材研究のなかで、啄木に関する理解を深めていった。(後略)

2.大逆事件と文学者たち

 さて、啄木25歳のときに勃発した大逆事件は、明治43年(1910年)6月のことであった。しかし、これは私の考えるところでは、時の明治政府の国家的一大汚点でなくて、何であろうかと思う。まさに理不尽きわまりない国家的犯罪であった。(後略)

その2

1.啄木の人間的、思想的特徴

 優れた歌人であり、石川啄木の研究家でもある碓田のぼるは、その著「石川啄木と『大逆事件』」(1990年,新日本出版社)の中で、「啄木の思想的発展は、一路平坦な道ではなかった」「ジグザグで、しかもあざやかな軌跡をえがいていく螺旋状的な上昇発展こそ、啄木がもつ、きわめて人間的な特徴であり、誠実の証であった」と述べている。(後略)

2.啄木と国家権力の問題

 この大逆事件は「幸徳秋水事件」とも呼ばれ、明治の国家権力が最も野蛮な形で行使された、社会主義者に対する言論抑圧事件であった。首謀者と目された幸徳秋水は、獄中で自らの主義・主張を「陳弁書」に残したが、それは東京の暮れから正月にかけて、極寒の刑務所の中での、それこそ指先の冷たさに筆を三度取り落としながら、必死に社会主義(無政府主義)の正当性を述べたものである。(後略)

(ごとう・すてすけ=日本民主主義文学会=小樽文学舎・啄木会会員) 
 
 (2004-05-15発行
小樽啄木会だよりNo.6 より )


2004-06-07

 玉山村で啄木祭が開かれる 啄木−その故郷〜玉山村制50年〜

 石川啄木をしのぶ啄木祭・テーマ「啄木−その故郷」は6月5日、玉山村文化会館姫神ホールで開かれた。

 約500人が参加。第一部は、女優の佐々木愛さんと、エッセイストの志賀かう子さん、石川啄木記念館学芸員の山本玲子さんが「家族の肖像」と題した座談会を開いた。

 啄木の妻節子について佐々木さんは「節子は啄木と2人きりで過ごした時間はほとんどなかった。しかし当時、自分が本当に好きだった男性と結婚できたことは何よりの幸せだったはず」と解説。志賀さんも「啄木の才能を育てることに力を尽くしたことも、彼女にとっては本望だったに違いない」と説いた。

 第二部は、ニューヨーク在住のギター奏者シロ・エル・アリエーロさんが「啄木、その故郷」と題した演奏を披露した。

(2004-06-06岩手日報より)


2004-06-07

 啄木「初恋」 奥田良三のペン先から

 テノール歌手・奥田良三が歌ったSP録音の「美しき天然」を探していると、「奥田良三懐かしの名唱集」という1枚をさいたま市で見つけた。そこに目的の「美しき天然」があった。

 そして、レコードの歌詞カードにペンで詩が書かれてあった。詩の末尾には「良三」のサインがあった。その詩は、石川啄木の「初恋」だった。

  砂山の砂に/腹這(はらば)い/初恋のいたみを/遠く思い出ずる日

 果たして奥田本人のものか? 「初恋の調べ」と題した、奥田自身の随筆が掲載された新聞の切り抜きも入っており、まず間違いないだろう。「初恋」は奥田が最も愛した曲である。

 (2004-06-03毎日新聞より)


2004-05-24

 小国露堂経営の貸し本屋 写真と書籍リスト見つかる

 北海道時代の啄木に社会主義を説いた宮古出身の小国露堂(1877〜1952)が戦後、盛岡市で三男三平と営んだ貸し本屋の書籍リストと本屋の写真が見つかった。世界の文豪の翻訳小説をはじめ日本の代表的作家の作品が記され、露堂父子の教養人としての側面がうかがわれる。

 少年時代、啄木と交際のあった歌人、小田島孤舟の三女で戦後、三平の妻となった千鶴子さん(宮城県在住)が保管していた。リストはけい紙に書名、著名、図書番号、整理番号、備考、料金に分類され、1150冊が記載されている。

 150冊を超える翻訳小説。夏目漱石や森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介などのほか、吉川英治などの大衆作家の作品も見える。啄木の詩稿「呼子と口笛」や賀川豊彦の「死線を越えて」、森戸辰男の「社会民主主義のために」などから、露堂の交友関係や思想性がわずかに浮かび上がってくる。作成したのは字体から三平と思われる。

 貸し本屋は発行する宮古新聞の休刊(1941)を経て盛岡市仁王新町(現本町)の三平の住む長屋の一角で、読書家だった露堂の蔵書を元に始め「仁王文庫」と称した。貸し本屋は三平が1970年に亡くなるまで続いた。

(2004-05-21毎日新聞より)


2004-05-24

 渋民駅前に啄木歌碑 全国で156番目

 玉山村渋民駅の駅前公園に、郷土の歌人石川啄木の歌碑が建立された。

 歌碑には、啄木が晩年に古里への郷愁を歌った「なつかしき/故郷にかへる思ひあり、/久し振りにて汽車に乗りにし。」を採用。文字は啄木の直筆ノートから写し取った。石は地元の「姫神小桜」を使い、同村から見える南部片富士がかたどられた。

 工藤村長は「啄木の歌碑はこれで156番目。啄木の里にふさわしい歌碑が除幕された。啄木は今年93回忌。短い生涯とは逆に魅力はますます評価とともに高まっている。わが村の偉人として誇りに思う」と建立を祝った。

(2004-05-17盛岡タイムスより)


2004-05-24

 石川啄木らにちなむ「緑の笛豆本展」 弘前で出版

 手のひらに載る小さな本、豆本を展示した「緑の笛豆本の数々展」が弘前市下白銀町の旧弘前市立図書館で開かれている。

 「緑の笛豆本」は、弘前市の詩人、俳人、蘭繁之さんが1965年に出版を始めた。展示されたのは、374点。

 竹久夢二に関連する豆本22点。石川啄木にちなむもの15点。ガラスケースの中に縦9センチ、横7センチの豆本が並ぶ。

(2004-05-15毎日新聞より)



2004-05-24

 啄木が釧路に着いた夜の天候、実は雪 気象記録調べ、研究家が新説

 石川啄木が釧路に着いた夜は、晴れではなく雪−。釧路市に住む石川啄木研究家の北畠立朴(きたばたけりゅうぼく)さんが、こんな新説を打ち出した。

 啄木は明治末期、夜の釧路駅に到着した時の心境を歌に詠んでいるが、その時の天候は、当時の新聞記事などから「晴れ」とみられていた。

 啄木が釧路に滞在したのは、1908年(明治41)1月21日から4月5日までの76日間。旧釧路新聞(北海道新聞の前身)の記者として活躍した。釧路にまつわる短歌は三十二首あり、よく知られた一首に「さいはての 駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」がある。

 釧路を離れた後、1910年11月に発表されたこの歌の「雪あかり」について、啄木研究家の間では「月の光があったからで、その夜は晴れ」というのが定説だった。1月30日の旧釧路新聞も、21日の天候は「晴れ」となっている。

 北畠さんはこの4月中旬、たまたま訪れた釧路埼灯台(釧路市米町)で明治期の気象記録を見つけ、当時の天候を調べた。それによると21日は午前も午後も「雪」。四時間ごとの雲の量も、午後六時は、空の八割を雲が覆う「八」、午後十時が「九」で、啄木が釧路へ着いた時、月が出ていた可能性は極めて低いことが分かった。北畠さんは「もし月が出ていたら『月あかり』と詠んだかも」と推測する。

(2004-05-08北海道新聞)


2004-05-19 

 金田一春彦さん(金田一京助氏<啄木・生涯の友人>の子息)死去

 国語学者の金田一春彦さんが、5月19日午前11時10分、くも膜下出血のため死去した。91歳だった。

 金田一春彦さんは、アイヌ語研究者の金田一京助氏の長男として、啄木が亡くなった翌年、1913年(大正2)4月3日東京都文京区で生まれた。

 「新明解国語辞典」「明解古語辞典」をはじめ多くの辞典編さんをした。また、1963年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」で脅迫電話の犯人のアクセントから出身地を的中させた。

  金田一京助氏と石川啄木

  •  金田一京助氏(1882〜1971)はアイヌ語研究の第一人者だった。
  •  盛岡高等小学校から盛岡中学校での同窓生・石川啄木は、京助にとって後輩であり、生涯の友人だった。
  •  1908年(明治41)東大卒業後、三省堂の辞書編集室と国学院大学講師を掛け持ちしながら研究を続けた。生活は楽ではなかったが、北海道から上京してきた啄木と下宿をともにし、苦しいなかから、彼の経済面を支援した。
  •  1909年(明治42年)10月には、啄木の妻節子が書き置きをして盛岡の実家に帰ってしまった。金田一京助氏と恩師の新渡戸仙岳の尽力で、節子は啄木のもとへ戻った。
  •  この事件は、啄木に深刻な打撃を与え、文学上の一転機をもたらした。

 



2004-05-15

 啄木の妻・節子を援助したコルバン夫人について
       (‘Colborne’夫人については後述)

 滝口厳太郎さんからのメール

1 2004-05-14 朝

 父、滝口卓治・安房中学3回生がコロバンさんから信仰の基礎を得たと聞いていました。どういう方かあまり良く知らないので、調べて見ました。
 驚いた事に、成瀬政男さんの事が出ていました。父が可愛がった後輩で遠距離通学する成瀬さんを、中学から30分ぐらいの通学路の途中にある、父の家に何度か泊めたと聞いていました。
 後に南三原にコロバンさんが住んだとわかり、コロバンさん・成瀬さん・父の関係とその位置も納得できるものでした。
 
 (成瀬政雄と啄木の妻・節子について---
「心の灯台」〈成瀬博士の歯車物語〉
 

2 2004-05-14 午後

 私は10人兄弟姉妹の6番目で、しかも家族の中で最も父と一緒に生活した期間が少なくあまり父との会話が少なくて情報は少ないのです。

 父・滝口卓治は安房中の3回生1890年生まれ、成瀬さんのほうが多分1〜2年後輩だったと思います。
 白浜から朝4時起きで現在の館山市長須賀228番地にあった父の家の前が成瀬さんの通学路だったと思います。

 父は努力家の成瀬さんを可愛がり、時には長須賀の家に泊めてあげたと聞いています。まじめで努力家の父は多分成瀬さんと気が合い白浜と館山の中間にある南三原に住んだと言われるコロバンさんに英語と信仰共に接点があったと推量しています。

 父は日露戦争の直後ですから、海軍兵学校志望でした。信仰を持つようになり、受洗するようにコロバンさんから言われ、受洗すると軍の学校受験に妨げになると思い受け入れなかったそうで、コロバンさんにその事をなじられた、と聞いています。

 結局近眼のため兵学校に入学できず、一ツ橋に入り、YMCAの寮で福音派のアメリカ人宣教師と出会い、受洗したそうです。
 その後たまたま電車の中で、コロバンさんと出会ったとき、受洗した旨を伝えると、大喜びでハグされたと聞きました。

 父は日米間の海底電線敷設の駐在員としてカリフォルニアに1年滞在し関東大震災の直前に帰国しましたが、父の英語はアメリカ語ではなくイギリス語でしたから、コロバンさんの影響と考えています。
 海底電線の第一報が関東大震災、衛星TVの第一報がケネディー大統領の暗殺と、何か考えさせられる所があります。

 (中略)

 父母の墓は安房高校と八幡神社の間にある鶴が谷の基督教墓地にあります。
 
3 2004-05-14 夜

 理工系の道を歩み、文学には疎いもので、文豪石川啄木のご家族が房州でコロバンさんとお近いあいだにあったことは全く知りませんでした。

 記載させていただくだけで光栄です。
 コロバンさんの播かれた種が何十倍にもなっているわけですから。
 感謝を持って。

 ---滝口厳太郎

(メールは以上です)

Colborneの名前について
滝口さんは『コロバン』と書いてくださいましたが、「啄木の息」では『房州での一般呼称に従い』(粕谷常吉編「房州に光を掲げた人々」)コルバンと表記しました。
 
コルバン夫人
・1912年(明治45年)4月13日石川啄木死去。
・5月2日、妊娠8カ月の妻節子は、5才4カ月の長女京子をつれて千葉県安房郡北条町へ療養に行く。
・節子親子が間借りしたのは、片山かのという方の離れだった。
・部屋代・医療費・一日に3合の牛乳・昼のスープ等を負担したのがコルバン夫人であった。
*もっと詳しいページ---コルバン夫妻と節子


2004-04-21

 講演会「啄木」百年 もりおか啄木・賢治青春館

 「啄木」百年展−ペンネームの変遷にみる石川啄木の青春一企画展に合わせて4月18日、講演会が開かれた。

 元国際啄木学会会長の遊座昭吾さんが講演。百年を迎えた啄木のペンネームの変遷や名前の由来を、啄木の詩や文学活動などを紹介しながら解説。市民ら約70人が聴講した。

 遊座さんは、啄木が旧制盛岡中学在学中から使い始めたペンネーム「翠江(すいこう)」「麦羊子(ばくようし)」「白蘋(はくひん)」「ハノ字」「啄木」について解説。ハノ字の由来は「麦羊子、白蘋、本名の一(はじめ)など、最初の字が『ハ』の音で始まったからだと考えられる」と説明。

 ペンネームを何度も変えた理由は「名前とは親が子どもに与える最初の愛情。画家が自分を愛して自画像を書くのと同じく、啄木はそれだけ自分を愛していたと考えられる」と説いた。

(2004年4月21日岩手日報より)


2004-04-21

 旧第九十銀行本店本館 出雲大社などとともに国の重要文化財に

 盛岡市中ノ橋通の旧第九十銀行本店本館が、国の重要文化財に指定されることになった。1910年(明治43)にれんが造りの美しいロマネスク風の近代洋風建築として建てられた。2002年11月から「もりおか啄木・賢治青春館」として盛岡の観光拠点になっている。 建物は、左右対称で壁に黄褐色の化粧タイルをはり、派手な装飾を抑えた落ち着いた外観。

 出雲大社の社殿や鳥居などの建造物と新潟市の信濃川にかかる万代橋など全国で計10件の建造物が、新たに指定され、保存が図られることになった。

(2004-04-17NHKニュース・岩手日報、2004-04-16読売新聞)


2004-04-14

 盛岡で「啄木忌前夜祭」開催 国際啄木学会盛岡支部主催

 4月12日「啄木忌前夜祭」が、盛岡市のプラザおでってで開かれた。

 望月善次盛岡支部長が「啄木の名の下に、県外、海外からも多くの人が集まってくれるのはうれしい」とあいさつ。
 石川啄木作詞・古賀政男作曲「春まだ浅く」のチェロ演奏に続き、岩手大職員の崔華月(ツイ・ハユエ)さん(中国)、同大専任講師のジェームズ・ホールさん(アメリカ)、岩手大学大学院生のバリ・ザバール(中国)さんと、河京希(ハ・キョンヒ)さん(韓国)らが「外国人から見た啄木」と題して研究発表した。

 また、歌人の小泉とし夫さん、三枝昂之さんが講演。約80人が参加した。


2004-04-09

 「啄木忌」最古の写真発見 5回忌に当たる1916年(大正5)撮影

 4月13日の石川啄木の93回目の命日を前に「啄木忌」の最も古い写真が見付かった。写真の発見で、啄木忌は啄木の恩師富田小一郎氏が中心になって開かれていたことが初めて分かった。

 発見された写真は、啄木の死から4年後で5回忌に当たる1916年(大正5)と、10回忌の1921年(大正10)の4月13日に撮影された2枚。小一郎氏の長男の妻で、2002年に亡くなった富田定さんの遺品から、小一郎氏の孫の戸田洋子さんが発見した。

 1916年の写真は、啄木とゆかりのある盛岡市の龍谷寺での集合写真。小一郎氏が中央に座っている。
 1921年の写真は、盛岡市内の願教寺で撮影された。小一郎氏が中央に立ち、袴や学生服の若者が周辺に座っている。写真の台紙には「願教寺において追悼会にて啄木十周年」と書かれている。

 小一郎氏は、啄木の盛岡中学時代の担任で

  よく叱る師ありき/鬚の似たるより山羊と名づけて/口真似もしき

と啄木が歌ったことでも知られている。啄木の才能を評価していた小一郎氏が主催して啄木忌が始まり、現在までつながっていることがうかがわれる。

 写真は4月13日から石川啄木記念館で一般公開される予定。(4月8日毎日新聞より)

今年の啄木忌
4月12日(月) 18:00〜 「復活啄木忌前夜祭」
会場 おでってホール(盛岡市中ノ橋通1-1-10)

4月13日(火)「93回啄木忌法要」
会場 宝徳寺(玉山村渋民)


2004-03-19

 啄木を知らない人も知る人も 石川啄木記念館へどうぞ

 啄木をよく知らない入館者のために、約40分で啄木の主な功績を学ぶ講座を開催している。要予約で1人100円。講座終了後は修了証書が手渡される。

 昨年7月から啄木に精通する上級者を対象とした「スポット展」も始めた。現在、開催中の「啄木とスバル」は、文芸雑誌「スバル」の編集兼発行人となった啄木の活動を取り上げている。

入館料 450円(高校、大学生320円、小、中学生200円、小学2年生以下無料)
問合せ先 石川啄木記念館
〒028−4132
岩手県岩手郡玉山村大字渋民字渋民9番地 TEL 019-683-2315

アクセス
・JR渋民駅から徒歩25分。
・JR盛岡駅東口から岩手県北バス「沼宮内」行き、またはJRバス「白樺号」(久慈行き)で「啄木記念館前」で下車。

(2004年3月17日毎日新聞より)


2004-03-01

 小国露堂の葬儀写真、見つかる

 石川啄木の晩年の思想形成に影響を与えたとされる小国露堂(1877〜1952)の葬儀の写真が見つかった。
 露堂は1952年2月4日、同居していた盛岡市の三男三平宅で腎不全のため74歳で死去した。三男三平が遺骨を宮古市に運び、二男俊平が喪主となって葬儀を営んだ。

 写真は2枚で、露堂の長女セツの娘の菊地禮子さん(水沢市)宅から見つかった。宮古市向町の俊平宅から本町を経て沢田の常安寺に向かう葬列の写真と、50人ほどの参列者が境内に並んだ整列写真だ。

 葬列は露堂の右腕として新聞を発行した長男民平の妻シエが塔婆を持ち、セツの夫で和菓子店「盛岡屋」を経営し宮古新聞を支援した市郎、位牌(いはい)を手にした俊平、遺骨を抱いた三平らが続いている。
 整列写真には身内のほか、宮古新聞の記者だった田代多平らの姿が見える。
 (2004年3月1日毎日新聞より)


2004-02-13

 啄木に社会主義を説いた「小国露堂」を学ぶ---2004年2月11日 宮古市

 北海道時代に交友があった石川啄木に社会主義を説いた宮古出身の新聞記者、小国露堂(1877-1952)の生涯を学ぶ露堂講座が宮古市で開かれた。
 毎日新聞釜石通信部の鬼山親芳記者が講演した。露堂は啄木の晩年の思想形成に影響を与えたとされながら、ほとんど知られていない。
 岩手版連載を契機に研究を始めた鬼山記者は新しく見つかった資料や関係者の証言などを基に講演。北海道の漂泊時代から郷里に戻って宮古新聞を復刊し、反権力の論陣を張った波乱の生涯を今によみがえらせた。

 小国露堂展の企画
 
 宮古地方最初の新聞を発行した新聞人で、石川啄木に社会主義を説いた小国露堂の企画展の準備が進められている。
 計画によれば、露堂に関する各種資料の展示、露堂に関する研究家や縁の人物による講座やトークショー、露堂と啄木の新聞記者時代の釧路文学旅行、報告書の作成などが予定されている。資料の展示は今年の9月から10月にかけて宮古広域での巡回展を計画。
   
  小国露堂と石川啄木について
 
 小国露堂は岩手県宮古町の出で、啄木とは同県人である。啄木より九歳年長であった。地方新聞の発行に失敗して北海道に渡り、記者生活をしていた時に啄木と縁が出来たのである。
 函館の大火で函館日々新聞の職を失った啄木を、自分の勤める札幌北門新報社へ入社させたのは、露堂の尽力による。
 露堂は、北海道で各種新聞に携わり北辺の記者として活躍。明治44年9月に宮古最初の新聞「宮古新聞」を発行した。

(2004年2月12日毎日新聞・月刊みやこわが町2月News・ 西広島タイムスWEBサイト1977.11.28・他・より)


2004-02-08

 啄木が、日露戦争について書いたこと

 100年前の今日、1904年2月8日、日露戦争が始まった。
 

 『18歳の石川啄木は岩手日報にこう書く。「今や挙国翕然(きふぜん)として、民(たみ)百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る。戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである」……』
 
 
 『非戦を掲げる幸徳秋水らの平民新聞にはこうある。「不忠と呼ぶ可也(かなり)、国賊と呼ぶ可也、若し戦争に謳歌せず、軍人に阿諛(あゆ)せざるを以て、不忠と名(なづ)くべくんば、我等は甘んじて不忠たらん」……』
 

 トルストイが英タイムズ紙に日露戦争批判を寄稿した。7年後、啄木は訳文を筆写し、以下のことを書いた。

 
 『「予も亦無雑作に戦争を是認し、且つ好む『日本人』の一人であつた」「今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられてゐる」……』
  

 (『』内、2004年2月8日 朝日新聞《天声人語》より)


2003-07-27

 第18回岩手日報文学賞 受賞者決まる

 賢治賞 三上 満氏(東京)   「明日(あした)への銀河鉄道 わが心の宮沢賢治」(新日本出版社)

 随筆賞 澤藤 範次郎氏(金ケ崎)「細野女剣舞」

 啄木賞 該当作なし

 岩手日報社主催の第18回岩手日報文学賞の受賞者が決まりました。賢治賞は、東京都豊島区の三上満氏の「明日(あした)への銀河鉄道 わが心の宮沢賢治」(新日本出版社)が選ばれ、啄木賞は該当作がありませんでした。随筆賞は、金ケ崎町の澤藤範次郎氏の「細野女剣舞」と決まりました。

 「明日への銀河鉄道」は、賢治のように身を呈して敗れた者の側に立ち、苦悩を背負った人の真言は真の勇気をもたらすと指摘し、賢治を多面的にとらえています。さらに賢治の生涯と文学が現代に問いかける意義を探っています。

 「細野女剣舞」は、女剣舞の様子が鮮やかに目に浮かぶ優れた描写力で、面作り職人の跳ね人(踊り手)たちへの思いと女剣舞の誕生の由来を巧みに描いた作品です。

 村田社長は「三上さんが賢治の心情に一体化しようとして書かれた研究は心に響いた。啄木賞は残念な結果となったが、随筆賞の澤藤さんの作品は格調高く、独自の美学も感じられた。佳作の3編もいずれも胸を揺さぶられた」と受賞者をたたえた。


2003-07-06 

 銀座に「ホタルの里」・きっかけは石川啄木の歌碑 

  -7月10日〜14日公開 「ホタル500匹」は玉山村から新幹線に乗って-

 銀座にほど近い港区新橋1丁目の親水公園「銀座・新橋ミニパーク」に今月、「ホタルの里」がお目見えする。銀座名物の柳の木が昨年、岩手県に寄贈され、そのお礼にと同県出身者らが企画した。公園に小屋をつくり、岩手から運んだホタルが500匹放たれる。

 きっかけは、港区で貴金属会社を経営する斎藤昭彦さんが、朝日新聞社社屋跡地(銀座6丁目)にある石川啄木の歌碑を見かけた1年半ほど前にさかのぼる。

    京橋の瀧山町の

    新聞社

    灯ともる頃のいそがしさかな

 啄木が、勤務していた朝日新聞社の様子を詠んだ歌だ。

 斎藤さんは、啄木が生まれた岩手県渋民村が後に合併してできた玉山村出身。「みちのく盛岡ふるさと大使」も務めている。

 銀座の象徴となっている柳の木を昨年6月、中央区から盛岡市に寄贈し、盛岡市中心部にある「啄木新婚の家」に植樹された。

 その「お返し」をと、「銀座柳の碑」のある小公園(港区新橋1丁目)に「ホタルの里」を作ることになった。公園管理者の国土交通省東京国道事務所の許可も得られる見通しだ。

 小屋は約40平方メートル。室内は水がためてあり、空調設備を備え、ホタルが生息しやすいようにする。約5メートルの見物用のコースも用意する。ホタルは7月9日夜、玉山村住民が捕獲、10日朝一番の新幹線で運ばれ、同日から14日までの日中、室内を暗くして一般公開される予定だ。

 ここで産卵されたホタルの卵は、玉山村に再び運ばれ同村で育てる。来年は小屋を再び設置して、玉山村で孵化したホタルを東京に「里帰り」させる計画も持ち上がっている。

 岩手県人会連合会の事務局長も務める斎藤さんは「銀座のみなさんにホタルで自然に親しみを感じてもらいたいですね」と話していた。


2003-07-03

 啄木の父「伐採願い」の文書-天井張り替えで発見

  -啄木が幼い頃を過ごした宝徳寺再建にかかわる文書-

 岩手県玉山村の石川啄木記念館は、石川啄木の父・一禎が同村宝徳寺建築に当たって境内の立木の伐採を郡役所に願い出た文書が見つかったと発表した。

 今年(2003年)4月3日、盛岡市松尾町の晴山表具店の居間天井張り替え作業中に、店主・嘉宏さんの父・宏さんが「一禎」と書かれた和紙を見つけた。同店は1918年(大正7年)に建てられ、役所から民間に払い下げられた紙を天井やふすまの下張り用に使っていた。和紙は、6畳間の天井に目張りとしてはられていた。

 文書は宏さんが石川啄木記念館に持ち込み。同館学芸員の山本玲子さん、盛岡大文学部長の門屋光昭さんが調査を進めてきた。

 当時の岩手郡役所などの内部資料でB4判和紙3枚に墨書したもの。そのうちの2枚に、1889年(明治22)当時焼失していた渋民村(現玉山村)宝徳寺の本堂建て替えのため、住職だった啄木の父一禎が、伐採許可を願い出たことが記されている。

 1月19日付「境内の立木419本のうち、27本を建築用に伐採したい」と記されていた。

 役所側は「風致ヲ害スルカ如キ事モ無」と伐採を許可したらしい。 

 石川啄木記念館は「本堂再建のための財源として、木は売却されたのではないか」と話している。啄木が幼い頃を過ごした宝徳寺境内の立ち木伐採であり、短歌にも詠んだ同寺の歴史を伝える興味深い資料だ。

 山本さんは「当時地元で評判が悪かったと伝えられる一禎が、正式な手順で本堂を再建していたことが分かる資料」「今までの研究の裏づけの一つとなる」と話している。

 見つかった文書は同館に寄贈され、秋に公開を予定している。

立木の本数について
「境内の立木419本のうち、27本を建築用に伐採したい」
この部分の立木の本数が新聞によって違っています。
これについて、晴山表具店の店主・嘉宏さんに教えていただきました。

『父親が寄贈した資料のコピーを撮っていましたので確認したところ、27本と書いております。
以下、原文の一部抜粋です。
 
立木四百拾九本有之其内廿七本伐採スル儀ニテ風致ヲ害スルカ如キ事モ無之候間
 
以上のようになっています。
ただし、「風」の字だけは昔の漢字です。』

 

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