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啄木の広場   関連の話題・皆様からのご意見ご感想

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2002-10-23 「もりおか啄木・賢治青春館」11月28日に開館 - 岩手日報

2002-07-25 金田一京助博士からの二首 - 角谷 政弘

2002-07-10 第17回岩手日報文学賞 受賞者決まる - 岩手日報

2002-06-25 遊座昭吾先生の講義「1901年・そのとき白堊の群像は」を聴いて

2002-05-21 「詩をポケットに」石川啄木:NHKカルチャーアワーを聴いて

2002-04-08 啄木の育った宝徳寺で「襖絵展」

2002-03-23 帰帆場公園(北上市)に啄木歌碑が建つ - 小天地

2002-03-04 JR上野駅「啄木の歌碑」は待合いコーナーに

2002-02-18 アクセスが増えました? - from つき

2002-02-14 昴 心の花:「身体で感じる」啄木・賢治学会 -

2002-02-07 文学を食べる-2月20日生まれの石川啄木 - yuko 


2002-10-23 「もりおか啄木・賢治青春館」11月28日に開館 岩手日報

 盛岡市中ノ橋通1丁目の旧第九十(くじゅう)銀行の建物を活用する同市の「もりおか啄木・賢治青春館」は11月28日に開館する。同館は、明治時代後期から大正時代にかけて盛岡で青春時代を過ごした石川啄木と宮沢賢治とともに、当時の文化や街並みなどを紹介。歴史的建造物の保存活用と観光拠点としての役割を担う。

 市有形文化財の同館は、同市出身の建築家横浜勉の設計で1910(明治43)年に建てられた。2000年度に調査や設計に着手、2001年度に建築当時を忠実に再現する外装修復工事を行った。4月から内装工事が着々と進んでおり、このほど名称も正式決定した。

 同館は、深沢紅子野の花美術館や上の橋など歩いて観光スポットを巡ることができる一帯の案内表示も行う。

 1階ホールは、啄木と賢治の年表や作品、交友関係などを写真や文章を印刷したパネルで解説するほか、当時の街並みを模型で再現する。元頭取室はDVD映像で啄木や賢治、盛岡の映像を放映する。

 総会室や重役室だった2階は、企画展示室や体験学習室として活用。啄木・賢治関連の企画展などを行う。

 (入館無料 毎月第2火曜日を除き毎日午前10時から午後6時まで開館)


2002-07-25 金田一京助博士からの二首 角谷 政弘

 暑中お見舞いに代えて、昔話を啓上いたします。

 高校二年の折り、どんなおねだりをしたのかいきさつを忘れましたが、金田一京助博士から二首の短冊を頂戴しました。多分、雑誌への特別寄稿を依頼したものでしょう。
 
  「天地のそきへの極み照り渡る
    杉ほきともしび太陽あがる」
 あめつちのはてまで照らす太陽讃美の歌でしょうか。

  「我が道のごとし岩そば踏み分けて
    今日の日仰ぐ神のまにまに」
 自分が辿った人生道は平坦ではなく、岩だらけの道であったが、安らかな日を仰ぐことができたのは神意によるということでしょうか。

 啄木の感性とは違いますな。まァ、博士には余技の範囲ということでしょう。

 三十数年前のことです。
 和歌をよく覚えているのはわけありです。納戸から引っ張りだしてきた市内高校文学連盟の発行誌「群連」の巻頭に転載しておりました。


  暑さの折り、ご自愛ください。


2002-07-10 第17回岩手日報文学賞 受賞者決まる 岩手日報

○ 第17回岩手日報文学賞

 啄木賞  田中 礼氏(京都府)「啄木とその系譜」

 啄木賞  国際啄木学会(会長 上田博氏)「石川啄木事典」

 賢治賞  奥田 弘氏(神奈川県)「宮沢賢治研究資料探索」

 随筆賞  該当作なし 

 岩手日報社主催の第17回岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)の受賞者が決まりました。啄木賞は、京都府八幡市、京都大名誉教授田中礼(ひろし)氏の「啄木とその系譜」(洋々社)、国際啄木学会(会長・上田博立命館大教授、会員175人)編の「石川啄木事典」(おうふう)、賢治賞は神奈川県相模原市、元中学校教諭奥田弘氏の「宮沢賢治研究資料探索」(蒼丘書林)が選ばれました。随筆賞は該当作がありませんでした。

 「啄木とその系譜」は、あこがれていた洋行を果たせなかった啄木と西洋近代とのかかわりから新しい啄木像を形成したほか、啄木の遺志を継ぐ歌人の群像に焦点を当てました。

 「石川啄木事典」は、啄木研究90年の成果を総結集し、啄木を多面的にとらえました。作品篇、項目篇、資料篇からなる収録項目は7人の編集委員が厳選し、全国の啄木研究家108人が執筆しました。

 「宮沢賢治研究資料探索」は、長年にわたって丹念に調査した書簡などの資料の研究成果をまとめました。盛岡高等農林学校の木村修三教授が賢治に与えた影響などを初めて指摘しました。

 啄木賞、賢治賞は全国で出版されている関係図書、論文を対象に推薦・公募し、随筆賞は県人を対象に作品を募集したものです。


2002-06-25 「1901年・そのとき白堊の群像は」

 石川啄木の母校・盛岡第一高校の同期会に「遊座昭吾先生(この同期会の方々を当時教えた恩師であり、啄木研究を続けていらっしゃる)がお話しをされるから、ぜひどうぞ・・」とのお誘いがあり、どきどきしながら参加させていただきました。

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「1901年・そのとき白堊の群像は」 講師・遊座昭吾氏


● 世紀越え

  • 現在2000年から2001年へ大事な世紀越えをしたばかりだが、1900年から1901年への世紀越えのとき白堊(盛岡一高の校舎が白いペンキ塗りのハイカラな洋風の建物で、生徒や市民から「白堊城」と呼ばれたことにちなむ)の生徒を1人2人ではなくマスとしてとらえてみる。
     
  • 1901年(明治34年)4月、山村弥久馬校長が県知事に報告書を提出。その第5章に卒業生64人についての記載があり、彼らのその後を辿ってみた。
     医科大学長、大学教授、農林大臣(衆議院議長)、海軍大臣、言語学者・・・。
     
  • その一年下に野村胡堂、もう一年下に中退した石川一(啄木)、そして約10年後に宮沢賢治がいる。
     
  • 時を同じくして東と西に生まれた文学者の作品、「虔十公園林」宮沢賢治と、「木を植えた男」ジャン・ジオノを比較してみると、瓜二つといってよい主人公が登場する。無知・無欲・天真爛漫。
     
  • 戦争の繰りかえしの「世界史」ではなく「文学史」が欲しい。
     
  • 啄木と賢治は岩手から離れることのない、世界的に知られた二人である。
      
  • 石川啄木は彼の歌の中に「渋民」という言葉は1〜2回しか使っていないが、こんなに「ふるさと」を連発した近代歌人はあまりいない。
      
  • こうしてみると、当時の盛岡一高の社会的使命が見えてくる。

● 1901年の石川啄木

  • 啄木は1901年(明治34年)12月3日から翌年1月1日にかけて『岩手日報』に「翠江」の筆名で、友人たちと結成した「白羊会詠草」を発表。啄木短歌で活字となった最初の作品であった。
      
  • 1902年(明治35年)1月11〜12日 啄木は「麦羊子」の名で、「『草わかば』を評す」を『岩手日報』に発表する。 3月11〜18日 「白蘋」の名で、『岩手日報』に文芸時評「寸舌語」を発表する。
      
  • 6月20日 『岩手日報』に書評「『ゴルキイ』を読みて」を「ハノ字」の名で発表する。
      
  • 中央文壇の詩、小説、評論、すべてのジャンルを縦横無尽、11回にわたり12844字。400字詰め原稿用紙にして32枚にもなる文を発表している。
      
  • 岩手日報は15,6歳・中学4年、5年の生徒に新聞の第一面を与え、ずっと半年間にわたって書かせた。

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 現在、遊座先生は「白の肖像」というご本を書いていらっしゃるそうです。新書版のその本の出版をお待ちしています。

 この会に誘ってくださった佐藤泰久さんから「我々が教わったころの遊座先生は38〜40歳だったわけですが、りんとした声は変わっておりませんでした。古文と漢文を教わりましたが、ニコニコして飄々として冗談を飛ばされる先生でした。」というメールをいただきました。

 親しい方の集まりにお呼びくださって感謝します。ありがとうございました。(yuko)


2002-05-21 「詩をポケットに」を聴いて

        :「無言の仕草へ」石川啄木 1

        :「何人といえども読み得る人はあるまい」石川啄木 2

 NHKカルチャーアワー「文学と風土」というラジオ番組で、詩人の吉増剛造氏が啄木について語りました。吉増さんは、啄木の言葉の中に入っていこうとして、オーラの浮き立つ場面に逢ったそうです。

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吉増氏の話

 萩原朔太郎、西脇順三郎などは、残された作者自身の声を頼りに詩の宇宙の底へ辿っていったが、啄木にはその声が残っていない。

  • 類例のない苛烈な裸形の・・・石川啄木という人の生涯と残された言葉に入っていこうとして、何処にいまも生きて感じられる戸口があるかと、「一握の砂」を五感の道を澄ますように精読していて、不図、啄木の仕草が働き、心と体のオーラが浮き立つ場面に出逢っていました。
  • 啄木だけが辿り得た、まったくの閉塞・・それがローマ字日記です。

 ローマ字日記が何故書かれたか

  • 本郷森川町、蓋平館別荘三階、夜うつむいて忍び泣いている石川啄木の気息が伝って来るようです。北原白秋の「邪宗門」を受け取った、啄木の心の乱れが「ローマ字日記」の扉を開いたであろうことは、ほぼ間違いない。
  • どうぞ、読むのではなく、なぞって筆写するように、 啄木さんが英習字をやるようにペンを動かして、洋書のにおいを嗅ぎながら、海の香りを憧れながら書いていた筆跡を、筆触を真似するようにしてこの「みえない言語」の声に耳を澄ましてみて下さい。

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ラジオを聴いた感想

 啄木の立った場所、見た景色、吸った空気に触れる旅をすることが、啄木に近づく道ならば、吉増さんの話すように「息をのむほどに美しい(ローマ字日記の)原稿を筆写して」みることの重大さがわかります。
 さっそく一文字一文字、大学ノートに写してみました。自分の書き癖を消して、ひたすらテキストを見ながら書きました。
 ほんの一部分の模写ですが、心の底がシーンとなった気がしました。「大文字のM」「小文字のo」が特にきれいです。これだけ文字を美しく揃えて書くためには、平静な心でなくてはなりません。ちょっと心が揺れると文字は整わなくなってしまいます。ローマ字は、荒ぶる感情を押さえ込みます。
 (yuko)


2002-04-08 啄木の育った宝徳寺で「襖絵展」

 啄木が1歳のときから少年時代を過ごした、岩手県玉山村渋民の宝徳寺は91回目の啄木忌の4月13日、同寺で「襖(ふすま)絵展」を開く。

 同寺は2000年11月の宝徳寺新築を機に、啄木の父一禎が1890(明治23)年に再建した本堂のふすまの下張り調査を実施。12枚のふすま絵と大量の下張り文書が現れ、昨年はふすま絵4枚を展示した。

 今回展示するのは、沼田北村の作品「松桜図」や下張り文書など。2枚のふすま絵を張り合わせた縦180センチ、横225センチの作品は、深い緑色の松と淡いピンク色の桜が描かれている。

 下張り文書は、当時高価だった和紙の代わりに使用された。1889年の市町村制施行により、土地台帳の原本や戸籍原本など保存年限が終わった資料が払い下げられたと考えられている。

 会員で岩手古文書学会の佐々木祐子さんは「天才歌人啄木は突然生まれたのではなく、素晴らしいふすま絵に囲まれて育った。渋民の暮らしがあって、啄木がいる。当時の渋民の暮らしを自分の目で見て知ってほしい」と多くの来場を期待している。

 地元の言い伝えによれば、本堂の襖には、盛岡藩のお抱え絵師・川口月嶺の弟子に当たる沼田北村の虎や花の絵が描かれていたが、大正の末から昭和の初めにかけて、襖の破れがひどくなり張り替えたときに、沼田北村の生家の求めに応じて返却したという。一禎代には張り替えをしなかったので、啄木の成長を見守り続けた襖絵であった。


2002-03-23 帰帆場公園(北上市)に啄木歌碑が建つ  

★★ 小天地   

       わが戀を
       はじめて友にうち明けし夜のことなど
       思ひ出づる日
                    啄木   

 「北上市と啄木」を結びつけるようなソースは何もないが、啄木に「わが戀」を初めて打ち明けたとされる人物がこの北上市出身の小沢恒一(ユニオン会のメンバーの一人)であったということのようである。平成十四年三月二十一日、北上市幸町の帰帆場(きはんじょう)公園に啄木歌碑第一号が建てられた。「北上市に文学歌碑を建てる会」が歌碑を建て、歌詞には冒頭の歌詞が刻まれているという。
 わが恋の相手とされる人物は言うまでもなく、後に妻となった節子である。伊東圭一郎著「人間啄木」(岩手日報社)では啄木が内緒といいつつも「君だけには教えてあげよう」と言っては、幾人かの仲間たちに相手のことを吐露していたようなことが記載されていた。封建制の強い時代であったから「中学生の分際で女をつくるとは生意気な」などと周囲の先輩たちにビンタをくらいそうな時代であったから、やはり気心の知れた人にしか話せなかったのであろうが、本人にしてみれば、話さずにはいられなかったのかも知れない。
 昭和二十五年一月二十日発行の「久遠の青年啄木」(小沢恒一著)によれば、帷子(かたびら)小路の田村叶宅(啄木は姉の家に下宿していた)に遊びに行った時、堀合節子と相思の間にあることを私に打ち明け、「この問題は至極真面目なことであると考へたから、ユニオン会にさへも私の口からは決して話したことはなかった。」と述懐されている。やはり、「内緒の話ですが、」と言いながらも、啄木が他のユニオン会のメンバーたちに自ら情報を漏らしていたようである。
 「ユニオン会」というのは級長の阿部修一郎、副級長の小野弘吉、文学好きで後に早稲田大の教授となった小沢恒一、朝日新聞社顧問の伊東圭一郎と啄木を含めた5人の仲間たちで構成された学修会である。
 「ユニオンりーダー第四リーダー」はニューヨーク・シカゴ発行で、明治30年代には上級学校を志願する生徒に人気の高い教科書であった。ユニオン会は啄木が三年次に五年生が使うこの教科書を持ち回りで読み合う会という主旨で、啄木が提案して発足させた。この会は次第にテーマが広がり、人生論や社会問題までも論議するようになっていった。かの「岩手日報」を呉服町の小野弘吉の家の前で売って、「足尾の鉱毒事件」の被災者へ義捐金を贈ったりしたのも、ユニオン会が核となっていたようである。(「啄木の息」でもyukoさんが話されていた)
 後に、啄木の不誠実さが原因で、発足人自身が除名されたというのも皮肉であるが、啄木没後の昭和二十五年の八月十六日、除名解消式「絶交解消式」が啄木の故郷・渋民で営まれていたことも興味深い。

 啄木が愛用した時代の「ユニオンリーダーV」は、現在、岩手県立盛岡第一高等学校の「白堊記念館」(創立百周年事業で建てられた記念館で、現在の校舎の左側・岩大側に建っている。木造の第二白亜校舎がモデルにされた建物)

岩手日報 2002-3-22
◎ 碑文は啄木の歌集「一握の砂」初版本の書体で高さ1.6メートル、幅2.5メートルの宮城産自然石に彫った。
◎ 著書「久遠の青年啄木」で故小澤氏は中学3年だった1901(明治34)年ごろのことと記している。啄木も翌年11月14日の日記に「兄(故小澤氏)が2人の恋に与えた同情の深さは、やがて兄に対する感謝の深さなり。愁思に耐え難く北上市の兄を訪れ、友の胸の温かさを知った(要約)」と書き残した。
 孫の実さんは「祖父は啄木から打ち明けられたことをずっと秘密にしていたという。立派な文学碑で環境も良く、感謝している」と語った。


2002-03-04 JR上野駅「啄木の歌碑」は待合いコーナーに 装いを一新  

 東京の「北の玄関口」といわれたJR上野駅が2月22日、装いを一新した。暗く雑然としたイメージだった駅舎が、外観は古いたたずまいを残しながらも、天井には外光を採り入れる半透明ガラス窓を取り付け、明るく開放的になる。

 上野駅は、天井が高いコンコースと奥にある車止めでとぎれた線路で、珍しいヨーロッパの終着駅風の造りになっている。関東大震災で焼失した旧駅舎に替わって、1932年に完成した。しかし、1991年6月の新幹線上野―東京間の開通で通過駅となったことから、同駅周辺の沈滞化が指摘され2年前から防災やバリアフリー化のための改装工事が続いていた。

 正面玄関口には、コンコースに2階まで吹き抜けのイベント空間 「ガレリア」を設置。絵画展やコンサートができるスペースを設けたほか、54店舗が入るショッピングストリートを備えている。バリアフリー化を進め、エレベーター8基、エスカレーター24基を構内各所に新設した。インターネットが無料で使えるスペース、授乳室や女性専用の化粧室もある。

 改札内に設けられる待合コーナーには

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

と刻まれた石川啄木の歌碑、天井からつるされたオブジェ「故郷の星」などが並べられる。


2002-02-18 「アクセスが増えました?」

★★ from つき

 今日もホームページに寄ってみたら、なんだかアクセス数がかなり増えてきているような。。。気のせいかな?!

 この前の「啄木の広場」で、紹介されていた「白堊応援団30」のサイトにも行ってみたら、yukoさんの投稿と、「啄木の息」のURLがあって、オッと驚きました。だんだん輪が広がっているんですねえ。ああいう掲示板にすると、いろんな人の生の声がどんどん入ってきますね。でも、マイペースな感じの啄木の息もイイカナ。

 私の会社のホームページを、社内の人間で作り直そう!ということで、プロジェクトチームを作ってやっているけれど(注:私はメンバーではない)、かなり大変そうです。やったことのない私にはよく分からないけれど、yukoさんはかなりの技術を身につけているのでは?

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☆☆ yuko

 ジミ〜なページにいつもお立ち寄りくださって感謝します。

 アクセスは初めのころ、全くといっていいほどありませんでした。アップロードさえすれば、世界中から雨・アラレ・雪・雪崩とつないでくださるのかと‥‥シロウトはこんな夢みたいなことを考え‥‥そんな天変地異は起こるはずもなく、ほとんど更新もせず…何ヶ月も過ぎていったのです。

 現在、ページを開設して、1年と5カ月です。ぽつぽつとアクセス数が重なり、たま〜にメールもいただきます。貴重な資料をたくさん送ってくださる方や、ご自分のHPでこのページのCMをしてくださる方もいらっしゃいます。感謝多謝です。

 つきさんのご指摘のように本当にマイペースです。原稿が消えたり、コンピュータが何日もダウンしたり、数限りないハプニングも(真っ青になり)楽しんでいます。技術はありませんが、「シンプル・イズ・ザ・ベスト」and「ハート」でいきます。また、お待ちしています。


《 啄木の母校盛岡第一高校同期会のHP「白堊応援団30」の掲示板にわたしの投稿が載り、掲示板の館長がお返事をくださいました。啄木を身近に感じている方々が、他では聞けないお話をたくさんしてくださいます。詳しくは、こちらのページへ http://6505.teacup.com/hakua/bbs 》 

2001-02-14 「昴 心の花 そして啄木」

☆☆ yuko

● みなさまのお便りの中に、八甲田山のことがありましたが、明治35年、満15歳の啄木は、友人等と『岩手日報』の号外「青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件」を売り、足尾銅山義援金としたそうです。    

● 啄木の歌と谷村新司さんの歌

  昴−すばる− 谷村新司  
   目を閉じて何も見えず
   哀しくて目を開ければ
   荒れ野に向かう道より
   他に見るものはなし
  
     呼吸をすれば胸の中
     木枯らしは吹き続ける     
     されど我が胸は熱く
     夢を追い続けるなり
   

  「悲しき玩具」 石川啄木
     眼閉づれど
     心にうかぶ何もなし。
      さびしくもまた眼をあけるかな。

     呼吸すれば、
     胸の中にて鳴る音あり。
      凩よりもさびしきその音!    

P.S. なお、話題の「君が花」は、筑摩書房「石川啄木全集 第二巻 詩集」 P.52に載っています。ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますのに、勝手なことを書き、大変失礼しました。

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我々は「身体(実生活)で感じる」啄木・賢治学会です。

★★ 白堊博物館長 星

(「啄木の息」は)素晴らしいホームページですね。きめ細かい取材で、特に加賀野の家は、私の住んでいたあたりで(山崎(風かほる盛岡)も近所です)、はじめて知りました。仁王小路は有名ですが……

 「白堊博物館」においで頂きアリガドガンス(ありがとうございます)。私も小学生の頃から授業などで知った、石川一(はじめ)先輩の悲しくも美しい白堊校(盛岡中学・一高)在学中とその後の創作生活や作品を身近なものとしてとらえ、影響をうけました。まさかその後同じ学校に入学するとは思わなかったのでした。

 もう一人の哀しき巨星宮沢賢治先輩と併せて、さらに盛岡の気候風土(日本一の低温地帯です)、白堊校の雰囲気(昭和30年当時までは旧制中学のままのようでした)が、実生活のなかに「啄木」が生きていました。中学での彼の生活は自由奔放で休止を休止とも思わないところがあったらしく。それがもとで隘路色な軋轢が生じ退学となったようです。「エヅ(彼奴)は不良だからカデネ(仲間でない)」という同窓生も多いのですが、我が校は「いったん入学したら白堊会」という考えがあり、退学、在学中病死、戦死、転校などでも卒業生名簿に入れることになっております。

 私の頃には石川家の本家筋の者が入学してきました。「代返」が好きで本人は真面目なのですが他人の代わりに返事をして叱られてました。また啄木さんの親友金田一先生の甥も同級生です。一方では宮沢賢治先輩のいとこが同級生の母親だったり、日本一小さい県庁所在地ですからすぐ誰と誰の知り合いとか親戚とかになり、知られざる逸話が伝わったりして、ますます親近感を覚えます。ちなみに先日逝去された彫刻家の船越先輩もお嬢さんが同級生です。
 というわけで、私たちは同郷人として、先輩としてとらえていて実生活のなかでからだで歌や文章、感情を感じていたような気がします。その場に自分も一緒に居あわせたような感覚です。
  
 これからもたまには(「白堊応援団30」を)お訪ねください。


2002-02-07 文学を食べに行きました-2月生まれの石川啄木 

-生誕記念菓子企画展を見に行って- yuko  

 銀座の源吉兆庵ギャラリーで、啄木の企画展が開催されています。啄木の書簡、発行された詩集、歌集の展示などを通し、啄木の生涯を紹介しています。わたしも伺いましたのでお伝えします。 

 自筆で見る手紙、特に筆で書いた手紙は、勢いがあって若さや力強さを感じます。それもそのはず、明治37年と言えば、啄木18歳のとき。
 1904年(明治37年)9月12日『阿部泥牛宛の手紙』の説明文に
「封筒にはバラの透かしがはいっていて、おしゃれでバラの花が好きだった啄木の一面も窺うことができる。」と書かれてあります。封筒は巻紙とつなげて表装してあり、ジーッと見ると封筒の裏の折り返し部分にバラの花が薄く見えました。
 明治42年金田一京助宛になるとドンドン文字が練れていっているようです。

記念菓子は、ビスケットとゆべし。

ビスケット 明治41年3月15日寒さ厳しい釧路の夜。啄木は友人達と歌留多で遊んだあと海へ行く。

「・・波止場の先の荷揚場へ行った。十五夜近い月が皎々と照って、ヒタヒタ寄せくる波の音が云ふ許りなくなつかしい。・・自分らは、ビスケットを囓って、“自然”だと連呼した。
 月が明るい。港は静かだ。知人岬の下の岩に氷交りの波がかかると、金剛石の如く光る。・・“三月十五日は忘れまい”と一人が云ひ出した。・・かくて此三人を“ビスケット会”と名づけた。“毎月十五日には、お互何処に居ても必ずビスケットを食ふことにしませう”・・」
(明治四十一年日誌 三月十五日)

ゆべし 啄木の妹・光子の思い出にある。ただ一人の男の子であるため、姉や妹より啄木ばかりかわいがっていた両親。

「兄の我儘は、夜中でもユベシ饅頭が欲しいと言ひ出すと、きかないで家中を起してしまふのです。やむなく起き出してそれをつくつてやるといふ塩梅です。どんな寒い時であらうと、それが夜半であらうと、この調子でした。」
(三浦光子「悲しき兄啄木」)
  
  • 企画展は、2月27日まで。JRなら新橋駅が近いです。
  • 源吉兆庵 (03)3569-2360

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