啄木の広場 関連の話題・皆様からのご意見ご感想 2002年2月- 啄木の広場:2005年1月- 2003年7月- 2002年11月- 2002年2月- 2001年10月- 2001年7月- 2001年3月- 2002-10-23 「もりおか啄木・賢治青春館」11月28日に開館 - 岩手日報 2002-07-25 金田一京助博士からの二首 - 角谷 政弘 2002-07-10 第17回岩手日報文学賞 受賞者決まる - 岩手日報 2002-06-25 遊座昭吾先生の講義「1901年・そのとき白堊の群像は」を聴いて 2002-05-21 「詩をポケットに」石川啄木:NHKカルチャーアワーを聴いて 2002-04-08 啄木の育った宝徳寺で「襖絵展」 2002-03-23 帰帆場公園(北上市)に啄木歌碑が建つ - 小天地 2002-03-04 JR上野駅「啄木の歌碑」は待合いコーナーに 2002-02-18 アクセスが増えました? - from つき 2002-02-14 昴 心の花:「身体で感じる」啄木・賢治学会 - 星 2002-02-07 文学を食べる-2月20日生まれの石川啄木 - yuko 2002-10-23 「もりおか啄木・賢治青春館」11月28日に開館 岩手日報 盛岡市中ノ橋通1丁目の旧第九十(くじゅう)銀行の建物を活用する同市の「もりおか啄木・賢治青春館」は11月28日に開館する。同館は、明治時代後期から大正時代にかけて盛岡で青春時代を過ごした石川啄木と宮沢賢治とともに、当時の文化や街並みなどを紹介。歴史的建造物の保存活用と観光拠点としての役割を担う。 市有形文化財の同館は、同市出身の建築家横浜勉の設計で1910(明治43)年に建てられた。2000年度に調査や設計に着手、2001年度に建築当時を忠実に再現する外装修復工事を行った。4月から内装工事が着々と進んでおり、このほど名称も正式決定した。 同館は、深沢紅子野の花美術館や上の橋など歩いて観光スポットを巡ることができる一帯の案内表示も行う。 1階ホールは、啄木と賢治の年表や作品、交友関係などを写真や文章を印刷したパネルで解説するほか、当時の街並みを模型で再現する。元頭取室はDVD映像で啄木や賢治、盛岡の映像を放映する。 総会室や重役室だった2階は、企画展示室や体験学習室として活用。啄木・賢治関連の企画展などを行う。 (入館無料 毎月第2火曜日を除き毎日午前10時から午後6時まで開館) 2002-07-25 金田一京助博士からの二首 角谷 政弘 暑中お見舞いに代えて、昔話を啓上いたします。 高校二年の折り、どんなおねだりをしたのかいきさつを忘れましたが、金田一京助博士から二首の短冊を頂戴しました。多分、雑誌への特別寄稿を依頼したものでしょう。 2002-07-10 第17回岩手日報文学賞 受賞者決まる 岩手日報 ○ 第17回岩手日報文学賞 啄木賞 田中 礼氏(京都府)「啄木とその系譜」 啄木賞 国際啄木学会(会長 上田博氏)「石川啄木事典」 賢治賞 奥田 弘氏(神奈川県)「宮沢賢治研究資料探索」 随筆賞 該当作なし 岩手日報社主催の第17回岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)の受賞者が決まりました。啄木賞は、京都府八幡市、京都大名誉教授田中礼(ひろし)氏の「啄木とその系譜」(洋々社)、国際啄木学会(会長・上田博立命館大教授、会員175人)編の「石川啄木事典」(おうふう)、賢治賞は神奈川県相模原市、元中学校教諭奥田弘氏の「宮沢賢治研究資料探索」(蒼丘書林)が選ばれました。随筆賞は該当作がありませんでした。 「啄木とその系譜」は、あこがれていた洋行を果たせなかった啄木と西洋近代とのかかわりから新しい啄木像を形成したほか、啄木の遺志を継ぐ歌人の群像に焦点を当てました。 「石川啄木事典」は、啄木研究90年の成果を総結集し、啄木を多面的にとらえました。作品篇、項目篇、資料篇からなる収録項目は7人の編集委員が厳選し、全国の啄木研究家108人が執筆しました。 「宮沢賢治研究資料探索」は、長年にわたって丹念に調査した書簡などの資料の研究成果をまとめました。盛岡高等農林学校の木村修三教授が賢治に与えた影響などを初めて指摘しました。 啄木賞、賢治賞は全国で出版されている関係図書、論文を対象に推薦・公募し、随筆賞は県人を対象に作品を募集したものです。 2002-06-25 「1901年・そのとき白堊の群像は」 石川啄木の母校・盛岡第一高校の同期会に「遊座昭吾先生(この同期会の方々を当時教えた恩師であり、啄木研究を続けていらっしゃる)がお話しをされるから、ぜひどうぞ・・」とのお誘いがあり、どきどきしながら参加させていただきました。 「1901年・そのとき白堊の群像は」 講師・遊座昭吾氏
● 1901年の石川啄木
現在、遊座先生は「白の肖像」というご本を書いていらっしゃるそうです。新書版のその本の出版をお待ちしています。 この会に誘ってくださった佐藤泰久さんから「我々が教わったころの遊座先生は38〜40歳だったわけですが、りんとした声は変わっておりませんでした。古文と漢文を教わりましたが、ニコニコして飄々として冗談を飛ばされる先生でした。」というメールをいただきました。 親しい方の集まりにお呼びくださって感謝します。ありがとうございました。(yuko) 2002-05-21 「詩をポケットに」を聴いて :「無言の仕草へ」石川啄木 1 :「何人といえども読み得る人はあるまい」石川啄木 2 NHKカルチャーアワー「文学と風土」というラジオ番組で、詩人の吉増剛造氏が啄木について語りました。吉増さんは、啄木の言葉の中に入っていこうとして、オーラの浮き立つ場面に逢ったそうです。 吉増氏の話 萩原朔太郎、西脇順三郎などは、残された作者自身の声を頼りに詩の宇宙の底へ辿っていったが、啄木にはその声が残っていない。
ローマ字日記が何故書かれたか
ラジオを聴いた感想 啄木の立った場所、見た景色、吸った空気に触れる旅をすることが、啄木に近づく道ならば、吉増さんの話すように「息をのむほどに美しい(ローマ字日記の)原稿を筆写して」みることの重大さがわかります。 2002-04-08 啄木の育った宝徳寺で「襖絵展」 啄木が1歳のときから少年時代を過ごした、岩手県玉山村渋民の宝徳寺は91回目の啄木忌の4月13日、同寺で「襖(ふすま)絵展」を開く。 同寺は2000年11月の宝徳寺新築を機に、啄木の父一禎が1890(明治23)年に再建した本堂のふすまの下張り調査を実施。12枚のふすま絵と大量の下張り文書が現れ、昨年はふすま絵4枚を展示した。 今回展示するのは、沼田北村の作品「松桜図」や下張り文書など。2枚のふすま絵を張り合わせた縦180センチ、横225センチの作品は、深い緑色の松と淡いピンク色の桜が描かれている。 下張り文書は、当時高価だった和紙の代わりに使用された。1889年の市町村制施行により、土地台帳の原本や戸籍原本など保存年限が終わった資料が払い下げられたと考えられている。 会員で岩手古文書学会の佐々木祐子さんは「天才歌人啄木は突然生まれたのではなく、素晴らしいふすま絵に囲まれて育った。渋民の暮らしがあって、啄木がいる。当時の渋民の暮らしを自分の目で見て知ってほしい」と多くの来場を期待している。 地元の言い伝えによれば、本堂の襖には、盛岡藩のお抱え絵師・川口月嶺の弟子に当たる沼田北村の虎や花の絵が描かれていたが、大正の末から昭和の初めにかけて、襖の破れがひどくなり張り替えたときに、沼田北村の生家の求めに応じて返却したという。一禎代には張り替えをしなかったので、啄木の成長を見守り続けた襖絵であった。 2002-03-23 帰帆場公園(北上市)に啄木歌碑が建つ ★★ 小天地 わが戀を 「北上市と啄木」を結びつけるようなソースは何もないが、啄木に「わが戀」を初めて打ち明けたとされる人物がこの北上市出身の小沢恒一(ユニオン会のメンバーの一人)であったということのようである。平成十四年三月二十一日、北上市幸町の帰帆場(きはんじょう)公園に啄木歌碑第一号が建てられた。「北上市に文学歌碑を建てる会」が歌碑を建て、歌詞には冒頭の歌詞が刻まれているという。 啄木が愛用した時代の「ユニオンリーダーV」は、現在、岩手県立盛岡第一高等学校の「白堊記念館」(創立百周年事業で建てられた記念館で、現在の校舎の左側・岩大側に建っている。木造の第二白亜校舎がモデルにされた建物)
2002-03-04 JR上野駅「啄木の歌碑」は待合いコーナーに 装いを一新 東京の「北の玄関口」といわれたJR上野駅が2月22日、装いを一新した。暗く雑然としたイメージだった駅舎が、外観は古いたたずまいを残しながらも、天井には外光を採り入れる半透明ガラス窓を取り付け、明るく開放的になる。 上野駅は、天井が高いコンコースと奥にある車止めでとぎれた線路で、珍しいヨーロッパの終着駅風の造りになっている。関東大震災で焼失した旧駅舎に替わって、1932年に完成した。しかし、1991年6月の新幹線上野―東京間の開通で通過駅となったことから、同駅周辺の沈滞化が指摘され2年前から防災やバリアフリー化のための改装工事が続いていた。 正面玄関口には、コンコースに2階まで吹き抜けのイベント空間 「ガレリア」を設置。絵画展やコンサートができるスペースを設けたほか、54店舗が入るショッピングストリートを備えている。バリアフリー化を進め、エレベーター8基、エスカレーター24基を構内各所に新設した。インターネットが無料で使えるスペース、授乳室や女性専用の化粧室もある。 改札内に設けられる待合コーナーには
と刻まれた石川啄木の歌碑、天井からつるされたオブジェ「故郷の星」などが並べられる。 2002-02-18 「アクセスが増えました?」 今日もホームページに寄ってみたら、なんだかアクセス数がかなり増えてきているような。。。気のせいかな?! ☆☆ yuko ジミ〜なページにいつもお立ち寄りくださって感謝します。 アクセスは初めのころ、全くといっていいほどありませんでした。アップロードさえすれば、世界中から雨・アラレ・雪・雪崩とつないでくださるのかと‥‥シロウトはこんな夢みたいなことを考え‥‥そんな天変地異は起こるはずもなく、ほとんど更新もせず…何ヶ月も過ぎていったのです。 現在、ページを開設して、1年と5カ月です。ぽつぽつとアクセス数が重なり、たま〜にメールもいただきます。貴重な資料をたくさん送ってくださる方や、ご自分のHPでこのページのCMをしてくださる方もいらっしゃいます。感謝多謝です。 つきさんのご指摘のように本当にマイペースです。原稿が消えたり、コンピュータが何日もダウンしたり、数限りないハプニングも(真っ青になり)楽しんでいます。技術はありませんが、「シンプル・イズ・ザ・ベスト」and「ハート」でいきます。また、お待ちしています。 《 啄木の母校盛岡第一高校同期会のHP「白堊応援団30」の掲示板にわたしの投稿が載り、掲示板の館長がお返事をくださいました。啄木を身近に感じている方々が、他では聞けないお話をたくさんしてくださいます。詳しくは、こちらのページへ http://6505.teacup.com/hakua/bbs 》 2001-02-14 「昴 心の花 そして啄木」 ☆☆ yuko ● みなさまのお便りの中に、八甲田山のことがありましたが、明治35年、満15歳の啄木は、友人等と『岩手日報』の号外「青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件」を売り、足尾銅山義援金としたそうです。 ● 啄木の歌と谷村新司さんの歌 昴−すばる− 谷村新司 「悲しき玩具」 石川啄木 呼吸すれば、 P.S. なお、話題の「君が花」は、筑摩書房「石川啄木全集 第二巻 詩集」 P.52に載っています。ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますのに、勝手なことを書き、大変失礼しました。 我々は「身体(実生活)で感じる」啄木・賢治学会です。 ★★ 白堊博物館長 星 (「啄木の息」は)素晴らしいホームページですね。きめ細かい取材で、特に加賀野の家は、私の住んでいたあたりで(山崎(風かほる盛岡)も近所です)、はじめて知りました。仁王小路は有名ですが…… 「白堊博物館」においで頂きアリガドガンス(ありがとうございます)。私も小学生の頃から授業などで知った、石川一(はじめ)先輩の悲しくも美しい白堊校(盛岡中学・一高)在学中とその後の創作生活や作品を身近なものとしてとらえ、影響をうけました。まさかその後同じ学校に入学するとは思わなかったのでした。 もう一人の哀しき巨星宮沢賢治先輩と併せて、さらに盛岡の気候風土(日本一の低温地帯です)、白堊校の雰囲気(昭和30年当時までは旧制中学のままのようでした)が、実生活のなかに「啄木」が生きていました。中学での彼の生活は自由奔放で休止を休止とも思わないところがあったらしく。それがもとで隘路色な軋轢が生じ退学となったようです。「エヅ(彼奴)は不良だからカデネ(仲間でない)」という同窓生も多いのですが、我が校は「いったん入学したら白堊会」という考えがあり、退学、在学中病死、戦死、転校などでも卒業生名簿に入れることになっております。 私の頃には石川家の本家筋の者が入学してきました。「代返」が好きで本人は真面目なのですが他人の代わりに返事をして叱られてました。また啄木さんの親友金田一先生の甥も同級生です。一方では宮沢賢治先輩のいとこが同級生の母親だったり、日本一小さい県庁所在地ですからすぐ誰と誰の知り合いとか親戚とかになり、知られざる逸話が伝わったりして、ますます親近感を覚えます。ちなみに先日逝去された彫刻家の船越先輩もお嬢さんが同級生です。 2002-02-07 文学を食べに行きました-2月生まれの石川啄木 -生誕記念菓子企画展を見に行って- yuko 銀座の源吉兆庵ギャラリーで、啄木の企画展が開催されています。啄木の書簡、発行された詩集、歌集の展示などを通し、啄木の生涯を紹介しています。わたしも伺いましたのでお伝えします。 自筆で見る手紙、特に筆で書いた手紙は、勢いがあって若さや力強さを感じます。それもそのはず、明治37年と言えば、啄木18歳のとき。 記念菓子は、ビスケットとゆべし。 ●ビスケット 明治41年3月15日寒さ厳しい釧路の夜。啄木は友人達と歌留多で遊んだあと海へ行く。
●ゆべし 啄木の妹・光子の思い出にある。ただ一人の男の子であるため、姉や妹より啄木ばかりかわいがっていた両親。
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