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啄木文学散歩

岩手県:玉山村

宝徳寺・愛宕の森 - 幼・少年時代を過ごした寺・森

石川啄木記念館・渋民小 - 啄木理想の「家」を模した記念館

渋民公園・鶴飼橋 - 啄木歌碑第一号

好摩 - 霧ふかき好摩の原の 停車場の   


 いよいよ啄木の故郷、玉山村を歩き玉山村に泊まった。啄木が心から慕い、心の中で帰郷し、歌を作ったふるさと。

宝徳寺・愛宕の森

宝徳寺

 啄木は(1886年)明治19年2月20日に南岩手郡日戸村に生まれた。その翌年の3月、一家はこの宝徳寺に引っ越しをした。ここで1歳から、渋民尋常小学校卒業までを過ごした。(1895年)明治28年4月盛岡市の盛岡高等小学校に入学し、盛岡市の伯父のもとに移り住む。考えてみれば、9歳で父母の家を離れ、他人のところで暮らしたのだ。

明治二十年(1887)の春、石川一禎は隣村北岩手郡渋民村(現・岩手郡玉山村渋民)曹洞宗万年山宝徳寺の十五世住職となった。・・・この寺は、鬱蒼たる杉・ひばの木に覆われた境内をもち、西方に向かって建っている。その西方に奥羽山脈が連なり、岩手山の雄姿が仰がれ、近くを北上川が流れている。・・・啄木が生涯ふるさととして愛し続けたのは、この村のことである。

(遊座昭吾「石川啄木入門」『渋民・盛岡時代の石川啄木』)


啄木が1歳の時から住んだ宝徳寺の案内板

 宝徳寺は数年前に来たときとは違って、新しい本堂になっていた。啄木が育った部屋はまだそのまま残されていると案内板に書いてあった。裏へ回ってみたが他の建物に遮られて昔の部屋は見えなかった。地元の方の大きな葬儀が行われていて、新築の本堂は花に囲まれていた。

愛宕の森   

 愛宕展望台の歌碑は姫神小桜と呼ばれる花崗岩で出来ていて、ゴマ斑に薄い桃色。啄木はこの森を「生命(いのち)の森」と呼んでいた。薄暗い森の道を歩くと、舗装に慣れてしまった足の裏が、土の弾力を味わっていた。

 新しき明日の来たるを信ずといふ 
 自分の言葉に 
 嘘はなけれど──

 文字は歌稿ノートの啄木自筆。言葉とは裏腹に、漢字とひらがなの配分がきれいで、ためらいのない文字。

石川啄木記念館・渋民小  


啄木理想の「家」を模した記念館

 場所は、鉄道に遠からぬ、
 心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
 西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、
 高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
 広き階段とバルコンと明るき書斎・・・

 (詩稿ノート『呼子と口笛』「家」)

 石川啄木記念館は1970年(昭和45年)に開館し、現在の建物は1986年(昭和61年)啄木生誕100年を記念して建てられた。
 内部には、明治35年製造のオルガンが展示されてある。啄木がよく弾いたという。49鍵、4オクターブ、リードの震えが聞こえてきそうだった。

<鍵盤の柔らかな肌/木彫の袖も懐かし/小型オルガン yuko>

<冴え冴えと/この音に合わせ歌いしか/渋民小のジャコビン闘士 yuko>

 小さな英和辞典は、よく使い込まれ小口に石川一の文字が見えた。 

間借りした齋藤家

 明治39年3月から40年5月まで、渋民小学校代用教員時代に6畳一間を借りた。二階に啄木の住んだ部屋がある。階段は古びていて足をかければ落ちそう。屋根の上には小鬼百合の群生。今を盛りに咲いていた。その向こうに岩手山が見えた。

ちょっと珍しい写真
啄木の間借りしていた齋藤家の屋根に満開のコオニユリ
 

旧渋民小学校

 啄木が代用教員をしていたときそのままに移築されていた。男子用囲炉裏、女子用囲炉裏と分かれてあった。奥の囲炉裏は教員用かと思っていたら啄木の「雲は天才である」の中に、校長一家が宿直室に住み着いて子供を育てながらこの囲炉裏を使っていたとあった。二階廊下の板の隙間から下が覗ける。冬は寒かったのだろう。

啄木像 生誕110年を記念して中村晋也作

左側が啄木の母校・渋民尋常小学校 右側が間借りした齋藤家

三月七日
・・一昨日も昨日も今日も、高等科の児等が遊びに来た。一体自分はよく小児らに親まれる性と見える。そして自分も小児らと遊ぶのが非常に楽しい。・・

四月十一日。── 十六日。
・・自分は今迄無論教育といふ事について何の経験も持って居ない。然し教育の事に一種の興味を以て居たのは、一年二年の短かい間ではない。・・自分はもともともと詩人であるのだ。・・自分が教壇の人と成るのが単に読本や算術や体操を教へたいのではなくて、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい為めであるのだ。

○四月二十四日。── 二十八日。
・・英語の時間は自分の最も愉快な時間である。生徒は皆多少自分の言葉を解しうるからだ。自分の呼吸を彼等の胸深く吹き込むの喜びは、頭の貧しい人の到底しりうる所でない。・・余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。・・

(明治三十九年 渋民日記)

 渋民日記を読んでいると、《自分の心の呼吸を子供たちの胸の奥に吹き込みたい》・《胸奥に吹き込む喜び》という啄木の強い教育理念が、伝わってくる。啄木は生徒にとって魅力的な先生であったに違いない。

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 (P.S.「啄木の息」という、このページのタイトルは、まるで渋民日記を知っていたみたいですが・・・、付けるときは、まだ全く読んでいなかったのです。『ヨカッタナ!』と思います。)

渋民公園・鶴飼橋

渋民公園

 啄木歌碑、第一号。 ぐっと後ろに反り返って胸を張った姿は、どこか啄木に似ている。200人もの村人が参加して3日かけて石を運び、1922年(大正11年)4月13日に、除幕式を迎えた。 

やはらかに柳あをめる

北上の岸邊目に見ゆ

泣けとごとくに

鶴飼橋

 鶴飼橋は、啄木がとても愛した吊り橋。『あこがれ』には、「鶴飼橋に立ちて」の詩がある。

  鶴飼橋に立ちて

(橋はわがふる里渋民の村、北上の流に架したる吊り橋なり。岩手山の眺望を以て郷人賞し措かず。春暁夏暮いつをいつとも別ち難き趣あれど、我は殊更に月ある夜を好み、友を訪ふてのかへるさなど、幾度かここに低回微吟の興を擅にしけむ。)

   ・・・

   尊ときやはらぎ破らじとか

   夜の水遠くも音沈みぬ。

   そよぐは無限の生の吐息、

   心臓のひびきを欄につたへ、

   月とし語れば、ここよ永久の

   詩の領朽ちざる鶴飼橋。

   ・・・

鶴飼橋に向かう階段の両側は、レッドクローバーの群生。

いま、花盛り。

好摩

夜更けの森園地

 東北本線好摩駅は、啄木が旅をするときに利用した。 その駅から、ほど近い高台に夜更けの森園地がある。1992年(平成4年)に、この歌碑は建てられた。

公園の木の間に

小鳥あそべるを

ながめてしばし憩ひけるかな

 稲荷山

 この碑からすぐ裏手、稲荷山への坂道は木の階段になっていて、柔らかい感触が足になじむ。巻堀中学校、好摩駅、そして町並みが、よく見える。木の間がくれにちらちらと渋民公園側も見える。啄木がいた当時の好摩駅周辺は、一面原野だったそうだ。

 上り詰めるたところに、姫神山の麓から切り出された高さ2メートル幅3メートルの御影石でできた歌碑がある。台石には岩手山の火山岩が使われている。巨大な原稿用紙にも見える石碑の、左上に書かれた光子の文字は趣深い。


啄木の妹 三浦光子書による歌碑 昭和三十五年六月十二日建立

  霧ふかき好摩の原の

  停車場の

  朝の虫こそすずろなりけれ

In The Field At Koma In The Deepest Fog

Insects' Voice Of The Most Lavish Rythm

Ringing Throuth The Morning Stop

好摩小学校

 好摩小学校創立四十周年を記念して啄木庭園を造成し、1990年(平成2年)11月、歌碑と啄木像を建立。

  

 像の下には「石川啄木」と彫られてある。

 歌碑には「霧ふかき好摩の原の/停車場の/朝の虫こそすずろなりけれ」と妹光子の書である。

好摩駅前広場

 改札口を出て右側の線路に沿った広場に、ベゴニアの花とアイビーに囲まれて石碑がある。1989年(平成元年)11月建立。


ふるさとの停車場路の

川ばたの

胡桃の下に小石拾へり

 「妹は先に老爺元吉と共に好摩に至りてあり。二時四十分頃二人は下り列車に乗りつ。刻一刻に予と故郷とは相遠かれり。」

 明治四十年五月四日の日記にこう記して北海道に旅立った啄木は、生きて再び故郷の土を踏むことはなかった。帰ろうとして遂に帰れなかった故郷に寄せた熱い切ない思いは、おびただしい望郷歌として『一握の砂』『悲しき玩具』に美しく結晶している。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)


(2001-秋)    

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