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    ・浜薔薇

    ・ひばの木

浜薔薇


    潮かをる北の浜辺の

    砂山のかの浜薔薇よ

    今年も咲けるや


初出「一握の砂」

 潮のかおる北の浜辺の砂山のあの浜なすの花よ。今年も美しく咲いていることであろうか。

 大森浜の海岸の砂山の蔭に咲く浜なすの花に寄せて函館追慕の情を歌ったもので、函館市日の出町の啄木小公園の啄木銅像(昭和33年10月建立)の台石に刻まれている。

 また青森県上北郡野辺地町の愛宕公園の啄木歌碑(昭和37年5月建立)にも刻まれているが、これは啄木の伯父の葛原対月がこの地の曹洞宗常光寺の住職として15年間在職し、啄木の父が明治39年から41年にかけてこの師僧のもとに身を寄せていた由緒による。

「石川啄木必携」 岩城之徳・編


ハマナス(浜薔薇)

 ハマナシともいう。太平洋岸の千葉県以北、および日本海岸の鳥取県以北の海浜の砂地に生えるバラ科の落葉低木。高さ1〜1.5m。地下に伸びるほふく枝によって繁殖し、大群落を作る。枝にはとげを密生し、花枝には短い毛を密布する。

 夏,枝先に径6〜8cm,紅色(まれに白色)の5弁花を開く。広い倒心臓形、強い芳香を放つ。雄しべは黄色で多数花が終わってから、平たい球形の大きな偽果を作る。8〜9月頃きれいに赤く熟し、とげがなく、肉質部は食べられる。甘酸味あり。根の皮は染料となる。

 棘があるため、アイヌの人々は魔よけに戸口に立て、果実は食用、種子をイヨマンテの祭りに用いた。

〔日本名〕「はまなし(浜梨)」の意味で「浜茄子」ではない。浜梨は食べられる丸い果実をナシになぞらえたもので、しかも海浜生であるからである。ハマナスは東北地方の人がシをスと発音するために生じた誤称である。

北海道 道花

花言葉 香り豊か 悲しくそして美しく てりはえる容色 見映えの良さ


「潮かをる北の浜辺の・・・」の歌は、広い意味での大森浜にあった砂山でのことを詠んだものといえる。啄木はまた大森浜で海水浴をしている。1913年(大正2)4月2日付の『函館新聞』に磐幸正(岩崎正=白鯨)が「啄木は泳げなかつたけれども好く海へ入つた。(中略)啄木が初めて潜る事を覚えた時、潜った々々と言って、砂で握つた拳を高く差上げて嬉んだ様が、今でも眼に残つて居る。」と書いている。

(「石川啄木事典」一般項目『大森浜』<株>おうふう)



 北の海の香り、浜辺に咲く可憐な浜薔薇(はまなす)の花の姿が、遠く離れた都会の真中で突然に思い浮かぶのである。感興の中心は二行目の三、四句「砂山のかの浜薔薇よ」にあって、花の放つロマン的な芳香と姿、色彩が内面のスクリーンいっぱいに映し出されて、海辺の光景の中に、恋や人生を熱っぽく語り合った北国に住む若い友人たちの姿が通り過ぎてゆくのである。「北の」「浜辺の」「砂山の」と折り重ねるように接続してゆく調べの快さに、回想する「現在」がまっすぐに「過去」の時空に吸い込まれてゆく内面の有様が暗示される。 

(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)


 啄木が函館の大森浜の砂山に咲く浜薔薇(はまなす)に思いを寄せて詠んだものです。
 明治四十年五月から九月上旬まで、函館に住んでいた啄木は、夏の大森浜を好んで散策し、海水浴もしました。そのときの水泳は生まれて初めてであったことを日記に記しています。また、浜薔薇の鮮やかなピンクの色も目に焼きついたことでしょう。一年後、東京にいて汗まみれになって暮らす啄木は、何度も大森浜が思い出されるのでした。
(啄木記念館「啄木歌ごよみ」)


 明治40年のひと夏を函館で過ごしたあなたは、よく大森浜を散策したものでした。そのとき、あなたは浪にばかり気をとられていると思ったのですが、そうではなかったのですね。しっかりとハマナスの花も見ていたのですね。

 そしていつのまにか海と共に思い出す花になっていたのでしょう。

(山本玲子「拝啓啄木さま」)


「砂山」これは函館の大森浜にあった砂山です。海に沿って約1500メートルにわたって起伏し、幅は最大約375メートル、高さは最高21〜2メートルの砂丘をイメージしてください。(略)

 しかし今大森浜に行ってもあの巨大な砂山の姿はかき消されています。(略)砂山はどこへ行ったのでしょう。
 都市の高層建築や舗装道路やダムに化けたのでしょうか。啄木の「砂山」の歌々は近代化の波がやがてかき消すであろう砂山のモニュメントとなっています。

(近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」)


 海岸の砂地に自生する浜薔薇は、夏には紅色の五弁の、しかも香りの良い花を咲かせます。山国に生まれた啄木にとっては、この海辺に咲く浜薔薇に、異常なまでに心ひかれていってものと想像されます。

 かつて北海道の函館の大森浜の海辺に見たあの紅色の海の花は、今年も香りを漂わせて咲いているだろうか-----と、漂泊の北海道時代を、今東京の地にあって回想しているのです。

 鼻を突く磯の香り、浜薔薇の花の香り、そして北の海の色、砂山の浜薔薇の花の紅色、すべて嗅覚や視覚を存分に働かせて、啄木は北海道の漂泊時代を、そこにめぐり会った人びとを、大事なものとして、悲しくも美しくうたうのです。

(遊座昭吾「啄木秀歌」)


 石川啄木が明治37年9月29日初めて野辺地町をたずね「・・・野辺地が浜に下車して、咲き残る浜茄子の花を摘み 赤きその実を漁童と味わいなどして・・・・」と友人へ報じている。

 天才詩人の琴線にふれたつぶらな浜薔薇の実は今も十符が浦の潮風にさゆれている。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)



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ひばの木


     ふるさとの寺の畔の

      ひばの木の

     いただきに来て啼きし閑古鳥!


初出「新日本」明治44年7月号

 ああ、故郷の寺のそばのひばの木のいただきに来て鳴いた閑古鳥の懐かしいことよ。

 本林勝夫氏は、「閑古鳥」の歌4首を「啄木最終期の歌の中でも傑作として注目される」としている。

「石川啄木必携」 岩城之徳・編


ひば  

 翌檜(アスナロ)ともいう。ヒノキ科の常緑高木。本州〜九州の山地にはえる。葉はやや質厚く,大きな鱗状をなし,小枝や細枝に交互対生し,表面は緑色,裏面は周囲だけを残して他は雪白色をなす。

 雌雄同株。4〜5月開花する。球果はほぼ球形で,種鱗の先端に角が出る。天然林では木曽地方、造林では能登半島は輪島塗の木地が有名。材は建築,器具,土木,橋梁に,樹は庭木とする。樹皮は火縄または縄となる。

 ヒノキに似ているが,材質が多少劣るので「明日はヒノキになろう」という願いから,この名があるといわれる。

 球果が球形で角のほとんどない変種をヒノキアスナロ(ヒバとも。石川県能登の方言ではアテ)といい,北海道南部〜本州中部に分布する。日本三大美林として知られる青森のヒバ林は本種。しろび、あて、あすひ、あすはひのき、ともいう。

花言葉  変わらぬ友情・不死・不滅


 故郷の寺・玉山村の宝徳寺は、啄木の父・一禎が十五世住職を勤めたところです。その寺で、啄木は約十八年間過ごしました。啄木が書斎に使った部屋は現在も残っています。

 中学を退学した啄木は、書斎にいて文学への道を模索していました。そんな時、啄木鳥の音に心慰められ、ペンネーム「啄木」となったと言われています。また、寺のヒバの木にやってくる閑古鳥つまりカッコウの声を聞き、その声は啄木の耳から永遠に消えることはなかったのです。

(啄木記念館「啄木歌ごよみ」)


 寺の入り口の両側に、十本ばかりの小さな杉の木が行儀よく並んでいる。二三間入ると、左右に二本、おとな二人で手を廻しても届かないほどの檜の木があった。「ふるさとの寺の畔の・・・」と歌われた檜の木がこれだなと思った。今、季節が季節なだけに、耳を聾するばかり啼いているのは、閑古鳥ならなくに油蝉である。

(吉田孤羊「啄木発見」)


 万年山を背にした禅寺宝徳寺−−啄木石川一の幼少年期の「ゆりかご」であった。山鳩、鴬、啄木鳥、そうして閑古鳥(郭公)が飛来し、四季の草花の咲き乱れる野山。

 境内のひばの木(現在この木は樹齢三百年をこす27メートル余の老木)に啼く閑古鳥は、詩人啄木の至福の時のシンボルとして、故郷を追われたその後の流転の人生の折々に、夢幻の内に飛来し、傷心を癒したのである。

(上田博監修「啄木歌集カラーアルバム」)



 「寺の畔のひばの木」に来て啼く「閑古鳥」を、梢高くに仰ぎ見た幼き時の思いが蘇ってくるのである。

 「わが生、わが詩、不滅のしるしぞと、/静かに我は、友なる鳥の如、/無限の生の進みに歌ひつづけむ。」(詩「閑古鳥」)高熱と全身の痛み一色に塗抹される、意識の深い洞の中へ、閑古鳥は慰めの声を響かせたのである。

(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)


(宝徳寺の)境内に左右対称にひばの木が二本、高くそびえており、遠くからでも宝徳寺の所在がわかるほどでした。・・その高いひばの木のてっぺんに、夏を告げる閑古鳥がやってきて、烈しく、声かぎりに鳴きます。するとその閑古鳥の声が、静かな万年山の裏山にこだまし、ほんとうになんともいえぬ音の交響曲を作ります。

・・かつて十代の啄木は、その閑古鳥を「詩人の思ひとこしへ生くる如、不滅のいのち持つらし、この声も。」と讃えています。閑古鳥の声に、永遠のいのちの響きを感じとった年少の詩人啄木は、今、故郷から離れた異郷の東京にあって、そのときのことを大事に回想するのです。

(遊座昭吾「啄木秀歌」)


 啄木一族鎮魂の願いをこめて宝徳寺境内にこの歌碑(「ふるさとの寺の畔の・・ 」)を建立した・・・。啄木が遊んだ境内の池のほとりで除幕式が執り行われた。なお「ひば」は「さわら」の別名であり、「閑古鳥」はカッコウのことである。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)


(宝徳寺の)池のそばに大きなサワラの木がある。村の保存樹で梢が点を突くように高く鋭く、遠くからでもよく目立つ。

・・・境内に樹木は多いが、歌に詠まれているそれらしいヒバの木は見当たらない。(寺の奥さんに)聞くと「ヒバというのは裏庭のイチイの木(キャラともいう)とのことです。ヒバに似ているので、そう呼んでいたのでしょう」とのことであった。

(及川和哉「啄木と古里」)


 今もなお耳朶にのこる郭公の声を思いながら、そこに育った幼少年期を追想しているのである。

 「ふるさとの」「寺の」「畔の」「ひばの木の」と調子をとりながら第三行で一気に「いただきに来て啼きし閑古鳥!」と詠みすえた手法に注意したい。その調べがそのままに高朗な郭公の声を伝えているおもむきである。

(本林勝夫「『悲しき玩具』鑑賞」)

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