・平出洸
・松平盟子
平出
・大逆事件とは何なのか。終戦後までひたすら隠されてきた。いま、ほぼ全容が明らかになってきている。明治41年の刑法第73条に「天皇などに危害を加えるものは死刑にする」(大逆罪)というような条文がある。これに該当するのが大逆事件とよばれる。
・この名前の事件は4件あるが、幸徳秋水の事件が一番有名である。4人くらいの人が明治天皇に爆裂弾をぶつけようと企てたのは事実
だ。爆裂弾を作りその実験に成功もした。しかし、計画しただけで死刑とするのは許されるのだろうか。「加えるとしたる」を最大限に類推解釈をし、これを
きっかけに社会主義者の撲滅を図ろうとしたのだろう。
・社会的背景としては、明治になって日本は農業経済から貨幣経済に移っていこうとしていた。産業革命、日清戦争、日露戦争と続くなかで、日本の経済力、国力が落ちていた。社会主義的なものがはびこると日本は保たないのではないかと。
・幸徳秋水は明治40年2月に議会政治を排し「直接行動論」を説いた。明治41年6月の「赤旗事件」が、幸徳事件の底に流れている。第二次桂内閣になりさらに言論弾圧が激しくなる。
・明治41年11月、幸徳が平民社で大石誠之助や森近運平らと雑談的に話したことが「11月謀議」といわれた。明治42年11月、宮
下太吉が長野県明科で爆裂弾実験に成功する。明治43年3月、幸徳は身体が悪くなり、湯河原温泉へこもる。明治43年5月、管野スガ(幸徳の内妻)、宮
下、古河力作が爆裂弾投擲の順番の抽選をしたとされる。宮下、新村忠雄検挙。
・これらのことに幸徳が関係していないはずはないという当局の考えで、証拠薄弱のまま幸徳も拘束される。はじめ、関係者は7人にすぎ
ないとしていたが、全国的に大謀議をこらしたということにされ、各新聞「大逆事件」として報道した。これを読んだことが啄木の思想に大きな影響を与える。
啄木日記
明治四十四年當用日記補遺
前年(四十三)中重要記事
六月--幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社會主義に関する書籍雑誌を聚む。(略)
思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。社會主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。ただ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり。
「平出 洸 氏」
・明治43年7月、平出修、与謝野寛の依頼で崎久保誓一、高木顕明の弁護を引き受ける。数百人が家宅捜索や尋問を受けた。12月、
26名が起訴され公判開始。平出修は弁護に熱弁を振るう。各被告に良い意味でのショックを与え、平出宛のたくさんの感謝状が残っている。幸徳秋水のもの、
管野スガのものなど。啄木は平出修から逐一裁判の進行を聞いていた。裁判は奔馬のごときスピードで進んだ。証人はすべて却下された。
・明治44年1月9日、幸徳、平出修に書簡を書く。
(幸徳秋水が東京監獄から平出修にあてた書簡)<このページの最後に写真あり>
先頃は熱心な御弁論感激に堪へませんでした。同志一同に代りて深く御礼申上ます。(略)
私の希望する、私の楽しむ、私を感動せしむる文芸は、一たび此美しい夢から醒めて、実際の生活に立返り、深刻に社会の真相を観破した頭脳から迸つた文芸です。(略)
・明治44年1月18日、24名に死刑判決。19日、恩赦として12名を無期懲役に減刑。24日、幸徳以下11名に死刑執行。管野のみ25日死刑執行。
松平
・
きょうは午前中に、平出さんたちと多摩墓地の与謝野夫妻の墓にお参りした。桜の花びらが散る中、二人のことを考えながら広い墓地を歩いた。
「松平 盟子 氏」
・文学者である与謝野寛、晶子と大逆事件との関わりについて述べたい。
・寛と紀州との関係は深い。寛は旅行が好きで、弟子と一緒によく出かけている。明治39年11月、伊勢、紀伊へ旅行。新宮に滞在したときに大石誠之助(医者)を紹介される。本に掲載されている誠之助の写真を見ると、畳の上に靴履きで座り中国服のようなものを着ている。
・明治42年8月、熊野夏期講演会に招かれる。明治43年2月、牧師・沖野岩三郎、大
石誠之助の協力をえて冊子「サンセット」創刊。誠之助の検挙により五号で廃刊。五号のうちの三号に寛は短歌を発表。誠之助の深く関わる雑誌に寛は歌を発表
している。文学を通しての関わりが誠之助と寛の間に深くなっているのがわかる。
・沖野が誠之助の検挙にあたり寛から平出修を紹介されて、平出は弁護に当たることになる。
平出
・与謝野寛「啄木君の思ひ出」(昭和3・11 改造社『石川啄木全集』月報)に ……私は君に「平出君の所へ行つて大逆事件の内容を聞かせて貰ひ給へ」と云つた。
・寛は啄木と大逆事件の平出を結びつけたのは自分だといっているがちょっと眉唾の感じがする。いずれにせよ寛は一枚噛んではいただろう。
・啄木は、大逆事件に関連する作品「所謂今度の事」を朝日新聞に載せようとしたが載せてもらえなかった。
・啄木作品『呼子と口笛』の「古びたる鞄をあけて」に出てくる「わが友」は平出修ではないか、「そは美しとにもあらぬ若き女」は管野スガではないかといわれている。
次代閉塞の現状を奈何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな 啄木(『創作』明治43年10月)
地図の上朝鮮國にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く 啄木(同)
・啄木は平出修からいろいろ話を聞いて大逆事件というものを考えた。かなりの研究者は「啄木は天才で無政府主義をすぐに取り入れて研究していった」といっている。しかし私は次ぎの歌が啄木の本音かなと思っている。
わが抱く思想はすべて/金なきに因するごとし/秋の風吹く 啄木(『一握の砂』)
松平
・晶子は寛と結婚し、毎年の如く子を産む。1910年3月、双子を産むが一人は死産。これが大逆事件と関わってくる。晶子は産むごと
にお産が重くなる。『みだれ髪』では「乳房」ということばを出して世の中をびっくりさせ、『青海波』では出産を詠む。これまでの短歌の世界では詠むべきこ
とではないと無言の境界線があった。晶子はそれを破り、心に叫びたいことを歌にしていいんだとしらしめた。
蛇の子に胎を裂かるる蛇の母そを冷くも時の見つむる
産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の柩(東京日日新聞 明治44・3・8)
・「大逆囚」ということばをはっきりと出している。処刑されてまだ二か月経っていないときにである。
生きてまた帰らじとするわが車刑場に似る病院の門(東京日日新聞 明治44・3・4)
・「お産で生きてまた帰ることはないくらい苦しんで唸っている私の車は刑場に似る門に入っていくのだ」と歌う。
・晶子の随筆「産褥の記」(明治44・4 評論集『一隅』所収)
漸く産後の痛みが治つたので、うとうとと眠らうとして見たが、目を瞑ると種種の厭な幻覚に襲はれて、此正月に大逆罪で死刑になつ
た、自分の逢つた事もない、大石誠之助さんの柩などが枕許に並ぶ。目を開けると直ぐ消えて仕舞ふ。疲れ切つて居る體は眠くて堪らないけれど、強ひて目を瞑
ると、死んだ赤ん坊らしいものが繊い指で頻に目蓋を剥かうとする。」
・晶子の幻覚に、大石誠之助が出てくる。与謝野家と大石家の関わりは深いことがわかる。
対談 第2部
「近代の思想家 朝河貫一と吉野作造」
・西川恵
・奥村裕一
西川
・大逆事件とは直接関係ないが明治の終わりから大正期にかけての思想家ということで、朝河貫一と吉野作造を取りあげる。この二人には類似点があり、当時の知識人の特徴をもっていた。
奥村
・吉野作造は、大正デモクラシーの理論的支柱のひとりであった。1878年(明治11)生まれで、与謝野晶子も同年生まれだった。
・与謝野家と吉野作造の関係をみてみると、晶子の夫・寛の兄は住職で、その息子が作造の学生時代の弟子だった。その弟子が作造の二女と結婚するという姻戚関係もある。晶子と作造は生涯三回会っている。晶子は作造の亡くなったときに追悼文を書いている。
「奥村 裕一 氏」
・吉野作造はどんなことを言っていたか。1910年、大逆事件のころ作造は欧米留学を3年間し、ヨーロッパの民主主義に感銘を受ける。
・1916年(大正5)、中央公論に「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」という100ページくらいの分厚い評論を書き、民本主義(天皇主権のもとでの人民による人民のための政府)の提唱をした。(与謝野晶子の追悼文によると民本主義ということばは聖徳太子の言ったことだと書いてある。)
・作造は他人に言われて意見を変えたり揺れる人だが、基本の幅は変わっていない。私は、ガチガチの理論家より幅広い人ともいえる作造を好きだ。
西川
・朝河貫一は、あまり世に知られていない。
・1873年福島県安達郡二本松町に生まれる。貫一の名は論語、「吾ガ道、一ヲ以テ之ヲ貫ク」から命名された。虚弱体質だった。1893年、本郷教会(吉野作造と同じ)で洗礼を受け、キリスト教徒となる。このときの牧師を終生の恩人と呼ぶ。
・1895年、アメリカ留学を志す。貧しかったため、さまざまな人間のつながりのお蔭で学費宿舎無料という条件をもらい米国に向かう。彼がいかに魅力的な青年だったか偲ばれる。
「西川 恵 氏」
・1902年、エール大学で博士号授与される。1904年、「日露衝突」(英文)を英米で刊行。爆発的に売れて、米国人世論を日本に引きつける役割をはたした。
・1906年、エール大学と米国議会図書館より日本に関する文献収集を依頼されて一時帰国した。今日、エール大学と米国議会図書館に膨大な日本の図書がある。この土台は朝河貫一が作った。
・1909年「日本の禍機」(実業之日本社)を出版。この名前は坪内逍遙が付けた。日
本が日露戦争後、大きく国策を変えていくことに対して鋭く分析し批判した。当時、日本人でこれだけの国際政治を分析した人間がいたというのは驚きだ。伊藤
博文がハルビンで暗殺されたとき、鞄の中に「日本の禍機」が入っていた。実は二人は面識があった。伊藤博文がどういう思いでこの本を読んだか想像がふくら
む。
・朝河の最大の業績は、1929年「入来文書」の完成にある。鹿児島県の入来村に伝えられた武家社会の記録。日本の地域共同体の構成と成り立ちを研究した。
・1939年、「ドイツは敗れるだろう」「ヒットラーは自殺するだろう」ということを予告する。1944年には、将来、日本に大きな発展の来たるべきことを名言。予言者ではないが現実を分析して未来を見た。こういう知識人がいたということはもっと知られるべきであろう。
奥村・西川
吉野作造と朝河貫一の似ているところ
・政府から離れ、醒めた目で見る。民衆の立場でものを見る。
・二人とも外国に行っている。相対化する視線を持ち、視野の広い立場からものごとを見る。宮城県、福島県の片田舎に育ち、東京へ行き、外国へ行く。
・二人とも二十歳前後でキリスト教に入信し、神父さんなど直に外国人と交わることが出来た。明治の時代、キリスト教は単なる信仰だけではなく、外国人たちの思想や経験から学ぶものがあったのではないか。
吉野作造のことば(いまも生きていることば)
官吏という身分にいると、どういうものか、人間らしい当然の考え方が出来ぬものと見える。
いつの世でも役人が一時の利便を謀るに急いで社会百年の進歩を犠牲にして平然たるには困ったものである。
朝河貫一の視点
アメリカにいたためか、物事は良い方向に流れていくという考えを持っていた。1930年代、世界の中心がヨーロッパからアメリカに移る時期。まさに世界の
中心にいたからこそ、世界が見えたのかもしれない。また、アメリカにいながら、日本という視点も忘れなかった。