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啄木行事レポート

啄木学級東京講座

        2005年10月10日 有楽町朝日スクエアにて

始業前

1時間目 - 講演「啄木愛好者の道」講師 佐藤 勝 氏

2時間目 - 対談「啄木直筆資料の魅力」佐藤 勝 氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)

放課後 - 啄木と銀座


○始業前

 やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに

 柳→ふるさと→啄木……深い縁で啄木と繋がる「柳」に本日の会場であるもう一つの縁、柳→銀座を辿ってみた。

 JR新橋駅から徒歩4〜5分、首都高速わき、新橋郵便局をバックにして立っている「銀座柳の碑」を見に行った。

中央の柳の下に「銀座柳の碑」がある
手前左は旧新橋の親柱

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた東京の都市構造上の欠陥を断ち切るために、家屋をすべて石造りとして「銀座煉瓦街」ができた。そこに柳並木が植えられた。しかし、関東大震災で壊滅したり、地下に共同溝を設置するため抜き取られたりした。

 今、銀座に住む人たちの力で柳並木が再生しつつある。柳の三世は盛岡の「啄木新婚の家」にも移植されている。(詳しくはこのページの終りにあります)

 

○1時間目

   講演「啄木愛好者の道」

 講師 佐藤 勝 氏 湘南啄木文庫主宰 

 ●なぜ私は啄木が好きなのか

・私は、啄木が好きになって45〜46年くらいになる。
 
・平成2年「多羅葉」という俳句雑誌に自分史のようなものを連載した。「父さんはどうして啄木が好きなの」という当時高校生と中学生であった二人の息子の疑問に答えるような気持ちで書いた。
 
・私は小さい頃祖母の家で育った。自分を産んでくれた人と一緒ではなかった。ないがしろにされた訳ではないが、「ここは自分の居場所ではない」という記憶がある。
 
・去年の盛岡啄木忌前夜祭で歌人の三枝昂之さんが「啄木の歌は自分の居場所を探し続けているものが多い」と話した。新しい啄木を教えられた気がした。そして、啄木の歌や人生が自分のそれと多く重なることが解ってきた。
 
 
   会場入口のマット
--朝日新聞社は啄木が校正係として勤務した場所--

 

 ●私が出会った啄木愛好者と啄木研究者

「多羅葉」に連載した自分史を記念に自費出版しようとしたところ、武蔵野書房に啄木文献の目録本としての出版を勧められた。こうして「資料 石川啄木 ー啄木の歌と我が歌と」が平成4年に出版された。
 
・私自身は学者ではないが、「啄木が好き」ということで学者と知り合いになれた。「啄木のことを教えてください」ということでいろいろな人と繋がることができた。
 
・だから、全国在住の啄木の好きな人が知り合いにいる。(沖縄だけは在住ではなく沖縄出身だが…)
 
・平成4年の岩手日報社文学賞は、塩浦彰著『啄木浪漫 節子との半生』が選ばれた。選考委員長の岩城之徳先生が選後評で私の本について、次席はないはずなのに「…次席とする」と言ってくれたのを知り身震いした。
 
 
    
妻「私と啄木とどっちが好きなの!」
夫「啄木に決まってるだろう!」
ユーモアを交えた話が続く
 

 ●啄木文献目録作りと啄木賞受賞

・書誌研究家の坂敏弘さんが「…懇切丁寧なところは専門家も見習いたい」と私の本の批評をしてくれた。坂さんの力添えで「啄木文献目録」を作り始めた。
 
・学問的には価値がない文献でも自分で外すことのできないものがあった。そのとき、天理大学の太田登先生が「佐藤さんが好きなものを作ればいい。どれが重要かそうでないかは、利用者が考えるんだから…」と教えてくれた。
 
・文献作りがいやになり「やめよう!」と思ったとき、啄木が「やめるんじゃない!」と直接言いにきた。「お前がやらなくて誰がやるんだい」と田舎ことばで言った。夢の中だったが…。
 
・啄木本人に励まされて「石川啄木文献書誌集大成」ができあがり、平成12年 岩手日報文学賞(啄木賞)を受賞した。
 

表紙も合わせて“三人の啄木”が並ぶ(?!)
 

 ●啄木と共に歩む喜び

・親が子を虐待したというニュースが流れるこの社会。人に対する思いやり、やさしさ、弱い立場の人も安心して暮らせるために、私たちはどうしたらよいか。
 
・啄木の歌には「やさしさ」がある。困っている人に、身近な人が「大丈夫?」と声をかけてあげる。そんな社会が啄木の願った「新しき明日」に繋がるのではないか。私は啄木と出会ったことの幸せをつくづくと感じている。
 
 

作家・高橋克彦作“真景錦絵”「啄木六景之内」

撮影写真にパソコンソフトを使って絵画風に加工したもの
この講座のため特別に製作されて会場を飾った

 

○2時間目 対談

  「啄木直筆資料の魅力」

     佐藤 勝 氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)

佐藤/ 
今日は、記念館で啄木の生の資料にいつも触れている山本さんにたくさんお聞きしたい。
 
記念館が所蔵している啄木の直筆資料の中で一番心打たれるものはなにか。
 
山本/
明治43年10月28日、妹光子に宛てたはがきは読むだけで涙が出てくる。生まれた長男が24日しか生きなかった。はがきの周りを墨で囲っているがその濃淡にも啄木の気持ちが出ている。墨の黒枠は活字にならないが、資料そのものから哀しみが伝わってくる。
 
佐藤/
啄木の資料の魅力はなにか。
 
山本/
啄木の「啄」の字の点(ヽ)のこと。啄木は点のない文字を使っていたときがある。明治37年11月1日金田一京助宛はがきには、点がない。ところが、全集を見ると全部に点がついてしまっている。明治41年10月31日の手紙には、点を入れてくれと注文している。直筆資料を見ると点がないときもあるから、点のない表記でも間違いではない。
 
どういう便せんや封筒を使っているかも魅力である。明治42年10月10日、新渡戸仙岳宛には、原稿用紙を使っている。これとは違うが、朝日新聞社の原稿用紙のときもある。薔薇の透かし模様の封筒を使っているのもある。
 
佐藤/
実物を見ていて一押しはなにか。
 
山本/
明治43年10月10日、岡山儀七宛書簡。生まれた子のことを詠んだ歌三首を載せている。
 
真白なる大根の根のこころよく 肥ゆる頃なり男生れぬ
 
大根の収穫期のふるさとの10月を詠み込んでいる。
この手紙を榊莫山が誉めている。「造形のモダンさを心得て、毛筆のかなり高いところを持って、この軽快さと造形のたしかさをみせる啄木は、生まれつき天性の造形感覚をたっぷり持ちあわせていたにちがいない。」
 

 大好きな啄木のことだから話は尽きない   
 
佐藤/
啄木は友人が多い。26歳で死んだが、500通以上の書簡が残っている。啄木は友だちに信用されていたり、また啄木のほうから友だちに細やかに気をつかっていたのではないか。そうでなければ、あんなに借金はできなかったし、書簡も棄てられてしまっただろう。
 
山本/
啄木が書いた借用証が残っている。明治の頃は口約束で借りることが多かった。それなのに借用証を書いたのは、何時か返そうと思っていたのではないか。また、貸したほうも若者の未来に投資したのではないか。
 
啄木は親交のあった人たちに手紙を送るときは、一人ひとりに合わせて絵葉書などを選んでいる。若菜という名の人には若菜摘みの絵、妹のように可愛がっていた人には、可愛い外国の少女の絵など。
 
佐藤/
玉山村で啄木を感じられる場所はどこか。
 
山本/
啄木が見た風景を見てほしい。鶴飼橋の午後4時、北上川に岩手山の影が映るとき。もっといいのは、北上川に月が映るとき。
 
佐藤/
皆さんも玉山村を訪れて、実際に啄木が書いたものを見て、夕方4時に鶴飼橋に行き「啄木になって」いただきたい。

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冷麺に さんさ踊りも加わって

 企画運営してくださった方々、今年もありがとうございました。
 また、来年を楽しみにしています。

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○放課後

 銀座煉瓦街の建設と柳並木

 かつて銀座には、世界でも珍しい規模の煉瓦街があった。

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど燃えやすい家屋の構造を変えるため、政府は1872年(明治5)の大火で銀座が全焼したことを契機にして家屋をすべて石造りとし「銀座煉瓦街」ができた。1872年から5年かけて当時の国家予算の4%を費やした。

 1877年(明治10)頃、柳並木が植えられ、銀座の象徴となった。

 啄木と銀座煉瓦街

 1909年(明治42)2月3日、啄木は盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に履歴書を送り、就職の依頼をする。3月1日 東京銀座の朝日新聞社出社。校正係としての任務につく。

 銀座は啄木にとって、1912年(明治45)4月13日、26歳でこの世を去るまでの3年間の職場だった。

 啄木が歌った煉瓦

赤煉瓦遠くつづける高塀の
むらさきに見えて
春の日ながし 
          (初出「新天地」明治41.12)

赤煉瓦ひろく敷きたる大道の殊にさびしき真昼時かな
          (初出「明星」明治41.11)

春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦造に
やはらかに降る
          (初出「東京朝日新聞」明治43.5.16)

よごれたる煉瓦の壁に
降りて融け降りては融くる
春の雪かな

          (初出「東京朝日新聞」明治43.3.18)

 

 銀座煉瓦街は関東大震災により倒壊した。1988年(昭和63)に金春通り会の敷地内から、長年探し求めていた煉瓦街の遺構の一部が発見された。その一部で1993年(平成5)「銀座金春通り煉瓦遺構の碑」が史跡として建立された。

○ 柳から銀杏へ

 1923年(大正12)関東大震災で柳も壊滅した。その後、並木は銀杏に植え替えられた。

 しかし、柳の風情を惜しむ声は強く1929年(昭和4)には西条八十作詞、中山晋平作曲、
“昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨”
の「東京行進曲」が一世を風靡した。

 

 

 銀座柳の碑 ♪植えてうれしい銀座の柳♪

 1931年(昭和6)柳並木が復活、翌年には西条、中山コンビが“パリのマロニエ銀座の柳”の「銀座の柳」の歌を作った。
“植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り”
の歌詞と楽譜の入った碑が立っている。JR新橋駅から徒歩4〜5分、首都高速わきにあり新橋郵便局をバックにしている。

 1945年(昭和20)の空襲により8割の柳が焼失した。1968年(昭和43)、柳並木は信号や標識の邪魔になることや、地下に共同溝を設置するための工事などで全て抜きとられた。

○ よみがえった柳

 1984年(昭和59)5月11日、朝日新聞が目黒区内に残る銀座の柳の記事を紹介した。この記事により、銀座の柳が3本、日野の建設省苗圃に残っていたことを知った銀座に住む勝又さん椎葉さんたちが、柳を元に戻すための努力を始めた。苦労の末、地元銀座に剪定した枝を移植した。1985年(昭和60)に「二世」としてよみがえり、何年もかけて少しずつ植樹。また、東京銀座だけではなく、群馬、山口、京都、長野などにも植樹した。

 1999年(平成11)西銀座通りが東京都のシンボルロードとして、歩道の拡張と共に御影石舗装を施し一新されたことを機に、並木を柳に代え、銀座の象徴を果たした。

 2002年(平成14)6月、銀座の朝日新聞社跡にある啄木の歌碑の前で、柳が銀座の商店会から盛岡市長に寄贈された。石川啄木が当時の銀座・滝山町の朝日新聞で働いた縁であった。贈られたうちの一本は、石川啄木新婚の家にある。

 今では外堀通りや銀座柳通り、御門通りなどの一部で風になびく柳の姿を見ることができる。

 

御門通り博品館前
「パリのマロニエ、銀座の柳」と歌われた柳並木

 


 主要参考資料 

・東京都公文書館所蔵資料紹介 銀座煉瓦街関係書類
 http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/machi_shima_page2.htm

・中央区観光協会 銀座エリア 
 http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/ginza/ginza_06.html

・「銀座の柳」復活の歴史
 http://www.tokyochuo.net/news/press/past_data/kiji2003/07_28/04.html

・銀座コンシェルジュ 銀座学入門 銀座ストーリー
 http://www.ginza.jp/story/index.html

・「石川啄木歌集全歌鑑賞」上田博 おうふう 2001

「資料 石川啄木 ー啄木の歌と我が歌と」佐藤勝 武蔵野書房 1992

・「石川啄木事典」国際啄木学会編 おうふう 2001

 

  

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