啄木文学散歩
岩手県:盛岡市
"探求地図"を片手に訪ねる啄木の足跡
--[盛岡啄木・賢治「青春の記憶」探求地図-文化地層研究会編]を見ながら--
●啄木の青春時代を辿って
石川啄木寄寓地(仙北組町 大沢川原小路 新築地 帷子小路 長町 四ッ家町 仁王小路 帷子小路 加賀野磧町)
盛岡駅 金矢家別邸 四ツ家天主教会 金田一京助生誕地 石川啄木歌碑 他
●盛岡あれこれ
●啄木の青春時代を辿って
盛岡駅「もりおか」の文字
出発地は盛岡駅。
駅名は、啄木の歌集や書簡などから集字した文字を掲げている。
No.1 石川啄木寄寓地にある
「石川啄木ゆかりの地」の案内板
啄木は、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)、盛岡中学校(現・盛岡一高)時代の約8年間(7年7か月)と節子との新婚時代約9か月を盛岡で過ごしている。
No.1 石川啄木寄寓地
仙北組町44番戸( 現・仙北2丁目)
伯父工藤常象方
1895年(明治28)4月〜1896年(明治29)早春
このあたりは、啄木が1895年(明治28)、渋民尋常小学校を卒業し、盛岡高等小学校に入学のため盛岡に出て最初に寄宿した母カツの生家、伯父工藤常象宅があったところ。
「明治橋」があったあたり
No.1 石川啄木寄寓地近くの北上川河畔。晴れていれば岩手山が背景に見える。啄木の時代は、現在の橋から約100M下流に、木造で架けられていた。(流れが「瀬」になっているあたり)
No.2 石川啄木寄寓地
大沢川原小路35番戸( 現・開運橋通)
伯母海沼イヱ方
1896年(明治29)1月あるいは2月〜2月あるいは3月
開運橋通り沿いの駐車場付近。
金田一京助氏の家の隣だったとのこと。
No.3 石川啄木寄寓地
新築地3番地( 現・大沢川原3丁目)
従姉海沼ツエ(慶治)方
1896年(明治29)2月あるいは3月〜1900年(明治33)1月
母方の伯母海沼イエと娘ツエ、孫の慶治が住んでいた。イエは、妹のたった一人の男の子である啄木のために出来るだけの援助を惜しまなかった。また慶治は啄木とほぼ同年齢(1歳上)で、良い友だちであった。
以前は啄木遺跡を示す案内板が立っていた。
開運橋から見る北上川
雲がなければ岩手山が正面に見える。
No.3 石川啄木寄寓地から徒歩2〜3分。
金矢家別邸
金矢信子は、啄木とは小学校入学以来の知り合いであり、妻の節子とも盛岡高等小学校および盛岡女学校の同級生であった。 盛岡にあった金矢家別邸で、啄木と節子は幼い恋を育んだ。信子は啄木・節子の恋の目撃者でもある。どうしようもなく啄木に傾いていき、学校をさぼって彼の下宿を訪ねる節子の姿も、信子は間近で見ている。
この辺りは盛岡駅から直線距離で500メートルほどだが、静かなたたずまいである。
No.4 石川啄木寄寓地
帷子小路5番戸( 現・中央通3丁目)
田村叶(サダ)方
1900年(明治33)1月6日〜1901年(明治34)6月
現在は駐車場になっている。
ここに住んでいた時期、将来の妻節子に出会い、新山グループとして交際していた。
No.5 石川啄木寄寓地
長町80番戸( 現・長田町)
田村叶(サダ)方
1901年(明治34)6月11日〜10月
現住所表示では長田町で、本町通りとの交差点近くにある。
四ツ家天主教会
この鐘は啄木も聞いていた。
今も鐘の音は同じだそうだ。
教会の方にお話を伺った。
「20年位前までは人がひもにぶら下がって鳴らしていました。私もやっていましたが、ものすごく力の要る仕事でした。人間のすることだから、時には定刻を忘れてあわてたりもしました。今は電動で12時と6時に鳴らしています」
教会聖堂内部
静まり返ったステンドグラスには、光が当たっていた。
盛岡白百合学園 生誕の地
盛岡女学校は堀合節子の母校である。1948年(昭和23)には白百合学園と改称された。かつて盛岡白百合学園があったことを記念する赤石の碑が建っている。
四ツ家天主教会のすぐ隣で、現在は盛岡中央郵便局が建っているところにある。
No.6 石川啄木寄寓地
四ッ家町27番地( 現・本町通2丁目)
田村叶(サダ)方
1901年(明治34)10月15日〜11月
仁王小学校近くの交差点付近にあった五軒長屋の一角で、
現在は中華料理店になっている所だといわれている。
金田一京助 生誕地
金田一薬局でお話を伺った。
「この薬局と京助さんとは、血は繋がらないが親類筋に当たります。京助さんが生まれた場所はこの店の近くと聞いています」
生誕地の表示板(金田一薬局前)
金田一京助ゆかりの地(生誕地)
「歌人石川啄木とは盛岡高等小学校以来の親友で、生前の啄木一家を何くれとなく支援した」と書かれてある。
No.7 石川啄木寄寓地
仁王小路30番戸( 現・中央通3丁目)
田村叶(サダ)方
1901年(明治34)11月〜1902年(明治35)10月末
現在の中央通りから桜城小学校に向かう道沿いにあったようだが、
はっきりとは確認されていない。
「仁王小路」由来の説明板
「『河北』と称される中津川北部は『仁王村』であった。仁王小路という地名もこのことから起こったものだろう」と書かれている。
No.8 石川啄木寄寓地(啄木新婚の家)
帷子小路8番戸( 現・中央通3丁目)
石川一禎方
1905年(明治38)6月4日〜25日
写真右上の表示に「啄木新婚の家」とある。
左側の大きな屋根の家に住んでいた。
かつては茅葺きの武家屋敷だった。
新婚の家の庭 銀座の柳三世
啄木は東京銀座の朝日新聞に校正係として働いていた。その時、啄木も目にしたであろう「銀座の柳」を銀座の人々から贈られ、ここに植樹した。
父母と妹が同居した「新婚の家」
「花婿のいない結婚式」が行われたのは、奥の八畳間であり、隣が、啄木と節子の部屋「我が四畳半」の舞台である。啄木が、この家に来たのは明治38年6月4日。25日には、加賀野磧町に転居した。わずか3週間住んだだけ・・。
堀合節子実家
「堀合家」のあったところは、現在道路になっているという。
この辺りの道路の中に1間ほど出たところらしい。
「新婚の家」から50メートルほどの距離である。
No.9 石川啄木寄寓地
加賀野磧町4番戸
「小天地」発行所跡
1905年(明治38)6月25日〜1906年3月4日
1905年9月5日『小天地』〈主幹・編集人石川啄木、発行人石川一禎〉を発行。岩野泡鳴、与謝野鉄幹、正宗白鳥、綱島梁川、小山内薫、平野万里、新渡戸仙岳等の作品を掲載、啄木自身も長詩三編・長歌(小天地巻頭詩)・短歌などを、節子も短歌を発表した。「・・地方の雑誌としては、寄書家に多くの知名の士を有する点や、体裁の整っている点や、主幹啄木の新詩に一種の特色あって誦するに足る点など、侮り難い前途を有してゐるらしく思はれる」と後藤宙外が評価している。
現在は「啄木」という名の入った集合住宅になっている。
中央通・岩手銀行本店前の歌碑
盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
啄木当時の盛岡中学校は、現在の岩手銀行本店の場所にあった。
中央通・岩手医科大学附属循環器医療センター前の歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず
歌に詠まれた「図書庫」は土蔵造りだった。
1917年(大正6)盛岡中学校は上田に移転したが「図書庫」は、この場所に保存されていた。
1969年(昭和44)宮古市がこれを譲り受け、宮古市山口に移築し「寄生木記念館」として開館した。
岩手公園(不来方城跡)の歌碑
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
「百回通信」のなかで啄木は「二年に進みて丁級に入る。時に十四歳。漸く悪戯の味を知りて、友を侮り、師を恐れず。時に教室の窓より、又は其背後の扉より脱れ出でて、独り古城趾の草に眠る。欠席の多き事と師の下口を取る事級中随一たり。」と当時を回想している。
大通・丸藤菓子店前の少年啄木像
新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどーーー
1902年(明治35)10月30日 啄木は文学で身を立てるべく渋民を出発し上京する。
「かくて我が進路は開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。雲は高くして巖峯の巓に浮び秋装悲みをこめて故郷の山水歩々にして相へだゝる。・・・」と日記に記す。
資料:盛岡における啄木居住地
時代
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当時の住所・寄宿先
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現住所表示
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期間(定説)
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学生時代
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仙北町組町四十四番戸 工藤常象方 |
仙北二丁目 |
1895(明治28).4〜 |
同
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大沢川原小路三十五番戸 海沼イエ方 |
開運橋通 |
1896(明治29).1あるいは2〜 |
同
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新築地三番地 海沼ツエ方 |
大沢川原三丁目 |
1896(明治29).2あるいは3〜 |
同
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帷子小路五番戸 田村叶 方 |
中央通三丁目 |
1900(明治33).1.6〜 |
同
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長町八十番戸 田村叶 方 |
長田町 |
1901(明治34)6.11〜 |
同
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四ッ家町二十七番地 田村叶 方 |
本町通二丁目 |
1901(明治34).10.15〜 |
同
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仁王小路三十番戸 田村叶 方 |
中央通二〜三丁目 |
1901(明治34).11.25
〜1902(明治35).10 |
新婚時代
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帷子小路八番戸 |
中央通三丁目 |
1905(明治38).6.4〜 |
同
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加賀野第二地割久保田百六番地 |
加賀野一丁目 |
1905(明治38).6.257
〜1906(明治39).3 |
「もりおかの啄木碑」No.26 森 義真/1995-03-29盛岡タイムス
- 主要参考資料
・盛岡啄木・賢治「青春の記憶」探求地図/文化地層研究会編/2004
http://www2u.biglobe.ne.jp/~taka-34/TKMap/oshirase.htm
・「もりおかの啄木碑」No.26 森 義真/1995-03-29盛岡タイムス
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政/株式会社白ゆり/1996
- ・「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子/盛岡タイムス2002〜2004
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盛岡あれこれ
- ○ 美しい地図を片手に歩くのは、わたしのように他所から盛岡を訪ねる人にとっては楽しいことでした。でも、こちらに住む方に道を尋ねたとき「エッ! ここに啄木が住んでいたの。毎日通っているけど全然知らなかった!」とお話しするのを聞きました。
- 『この地図は、この土地の人にとっても、本当に楽しいことが詰まっているのではないかしら……』と気づきました。
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- ○「ゆかりの地は、ここです!」というはっきりした表示がもっと欲しいと思いました。個人の家などではご迷惑をお掛けしてしまうかもしれませんし、難しい問題もあると思いますが…。
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○ 啄木が最後に盛岡で暮らしてから、もうじき100年になります。毎年毎年、道路も、建物も、住所表示もみんな変わっていきます。今回訪れた所でも大規模工事をしているところがありました。すっかり変わってしまった色々を、ここまできっちりと地図の中に落としていくのはどんなにか大変だったことでしょう。作製してくださった方々の“心の熱さ”が伝わってきました。
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文化地層研究会の『盛岡啄木・賢治「青春の記憶」探求地図』に大変お世話になりました。
とりわけ、森義真さんからは種々の資料とこのために撮った写真もいただき、各所に使わせていただきました。お礼申し上げます。ありがとうございました。
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