・木股知史
○ 「我を愛する歌」
・1章151首は圧倒的に明治43年につくられた歌が多い。鬱屈を抱えた青年が海辺で漂泊し都市に帰還していくという「わたくし(我)の物語」を歌の連鎖によって表現している。
・物語の主人公としての「わたし」を客観的に見ている視点を感じる。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
・この歌が一般的にセンチメンタリズムと受け取られるのは啄木にとって成功だった。啄木は、苦労人・平凡な人々にこの歌集を読んでほしいと思っていた。この歌集を嫌う人々は大体インテリだ。啄木の意図は明快で、編集によって読者層の選択ができたということができる。
○ <我>の諸相
・素材・対象、気分・心情の二つの面から<我>を見ることができる。ロマンティックで非日常的から日常へともどっていく一人の男の物語が大枠としてある。素材面では「この歌集は苦労人にすすめたい」と啄木は広告文で言っている。
・電車は見ず知らずの人が乗り合わせる公共の場所である。
こみ合へる電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ
客観的な編集によってちぢこまった自分の像が出てくる歌。これも編集によってつくられていく。
・編集による生活者の造形
いつも逢ふ電車の中の小男の 稜ある眼 このごろ気になる
これは『一握の砂』の編集時点で即興的につくられた一つではないか。
・気分はどう表現されているか
しつとりと 水を吸ひたる海綿の 重さに似たる心地おぼゆる
水を吸った海綿のふくれている微妙なバランス、ある心の瞬間を表現している。配列の面でも流れがあるように10首、20首という長いサイクルで気分が交代していくような配列になっている。瞬間の気分・心情をとらえた歌は、<我>の内側を表現する。
・ふるまいそのものとしての<我>
かうしては居られずと思ひ 立ちにしが 戸外に馬の嘶きしまで
この歌い方はユニークである。ふるまいそのものの内側に<我>がある。アクションそのものに含まれている<我>。実存しているが意識は空っぽの、実存的空虚とでもいえる。<我>そのものが空っぽであってもその心の状態が<我>のひとつの究極に出てきていると読み取れる。
○ 権力と個
やとばかり 桂首相に手とられし夢みて覚めぬ 秋の夜の二時
・当時は検閲制度があり、本が出来上がり諸費用は払った上で発売禁止になる。啄木はそれを意識していたと思う。
2.「煙」を読む
・田口道昭
・全体的な主題と構成の問題を中心に発表したい。
○「煙」の歌の分類方法はいろいろあるが自分は以下のように考えてみた。
(1)回想の世界の中の歌
(2)回想の世界と回想する現在の自分を提示する歌
(3)回想への導入となる現在の自分を歌う歌、もしくは、回想という行為について歌う歌
例として155番歌をみる。
かの旅の汽車の車掌が ゆくりなくも 我が中学の友なりしかな
(1)でもあるが(3)の回想への導入の歌という性格もある。
(4)歌の主人公が故郷に帰ってきたときの歌、帰郷歌
○ 回想歌は都市にいる自分との合わせ鏡になっている。
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
過去の回想が中心となりながら十五の心を見つめる現在の自分が対峙されている。
石ひとつ 坂をくだるがごとくにも 我けふの日に到り着きたる
過去の自分と現在の自分との繋がりを示している。「煙」には中学時代の人々や渋民村の人々など他者への関心を示した歌が多い。
「煙」という章は「我を愛する歌」をうけて自分という人間の成り立ちを過去の自分や過去に出会った人々を媒介にして見つめる章というように考えることがで
きる。『一握の砂』という物語の中で「煙」は過去を故郷というひとつの通過点として位置づけられることを意味するのではないかと思う。
○ 章の構成も意識的に行われている。「煙1」は現在の自分が思郷のおもいに駆られる歌に始まって
師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因
を起点に過去に入っていく。分類の(3),(2)から(1)の過去の世界の歌にいく。
ストライキ思ひ出でても 今は早や我が血躍らず ひそかに淋し
現在の自分との関わりがはいってくる。
糸きれし紙鳶のごとくに 若き日の心かろくも とびさりしかな
思慕する対象の現実に堪えかねるようにこの歌で幕を閉じていく。思郷から思慕する対象の厳しい現実をうたい、元に帰っていくという流れがあると思う。
○「煙2」は、現在の自分が故郷をおもう歌に始まる。私は、他者への関心を基準にするという見方から210番までを第一グループとしたい。第二グループは211から243まで。第三は244からと考える。245の帰郷歌の先払い的な役目を244が果たしている。
ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋もあたらし
この歌では、物語の主人公が帰省したが、ここには自分の帰る場所がもうない。故郷の姿が甘美なのは故郷から離れた都会だからこそいえる。
○『一握の砂』の中での「煙」の位置づけは「我を愛する歌」の現実から過去の世界の「煙」にしばし沈潜するもそこも安住の場でないことを確認するという流れになっている。
ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
最終歌は故郷の自然を歌い、次の「秋風のこころよさに」の章につながる。
3.「秋風のこころよさに」を読む
・小菅麻起子
・主題 明治四十一年秋に創作した短歌の記念。時の推移を告げる「秋風」のなかで、自己浄化をともなった悲しみに、「こころよ」く浸ることをうたった歌群。
・モチーフ
1.郷愁 2.自己浄化 3.自然回帰・神性 4.古典受容と恋
1. 郷愁(望郷・故郷回帰・幼少時回帰)
石川啄木 ふるさとの空遠みかも 高き屋にひとりのぼりて 愁ひて下る(明治41年10月『明星』)
小泉千堅 ふるさとの秋ふかみかも柿赤き山べ川のべわが眼には見ゆ(明治41年10月『アララギ』)
・この頃に二人は歌会などで会う機会はあったけれど、互いにどう影響を受けたかは定かではない。「ふるさとの空遠みかも」がわずかひらがな4文字を変えるだけで「ふるさとの秋ふかみかも」に変換されて、そのまま何も違和感がないところに興味をおぼえた。
父のごと秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に
「父」「母」は「ふるさと」に換言できる。「家持たぬ児」は、根っこのない存在の自分が強調されている。この歌も歳時記によくとられていて啄木の秋の代表歌になっている。家持たぬ児・さまよひ・旅の子と根のない自分が強調され郷愁にもつながっていくと思う。
2. 自己浄化
かなしきは 秋風ぞかし 稀にのみ湧きし涙の繁に流るる
涙はかなしいのだがそれで自分の心のわだかまりを洗い流し秋風の中で一種のこころよさにつながっていくと読める。
秋立つは水にかも似る 洗はれて 思ひことごと新しくなる
「秋立つ」を水にたとえたところが新鮮で歳時記に多くとられ、この章の中でも啄木の一番の代表歌ともいえる。
3. 自然回帰・神性
ほのかなる朽木の香り そがなかの茸の香りに 秋やや深し
朽木の「木」ということで次ぎに続く三首の「木」の歌の前ふりとしてここにおかれる必然があった。
4. 古典受容と恋
啄木における41年秋の古典文学作品の受容については短歌形成史の上からは重視されているが、今日的視点からは啄木の代表歌としてあまり一般的ではない。
思ふてふこと言はぬ人の おくり来し 忘れな草もいちじろかりし
忘れな草は春・夏に咲く花だが、押し花として入ってきたならば秋としてもおかしくない(大室精一氏の解釈)。
5. 「秋」のモチーフが特には感じられない歌もある。
273、279など。特に283番歌などは、どうしてここに入ったか疑問が残る。
4.「忘れがたき人人」を読む
・河野有時
○ 明治43年10月22日吉野章三宛書簡
中に収めたる「忘れがたき人々」百数十首は皆北海曽遊回顧の歌、思ひ切つた楽屋落に候へば、四方八方より(或はこの手紙をよむ人よりも)抗議も出づべきかとひそかに心配いたし居候、……
「楽屋落」ということばがこの章のひとつのキーワードになる。モデルがあったり、啄木も含めて誰かが透かし見える歌というものを考えるのは非常に難しい作業だと思う。
○ 「女房が……」チャールズ・フォックスよどみなき対話はすこし関西なまり
(今野寿美『龍笛』(2004.06)「相思樹-2002年4月国際啄木学会台湾大会」より)
この歌を理解するために「チャールズ・フォックス」に対する情報はどれくらい必要か。全く知らなければこの歌を理解できないかどう
か。いづれこの歌に注釈が出たとき、それが歌の鑑賞を豊かにしていくかはわからない。そんなに知らなくてもいいのではないかと個人的には思う。
○ 「楽屋落」が「落」として機能するには、例えば寄席なら高座で「楽屋落」と気づかない客を目の前にしたとき初めてそれが「楽屋落」として機能する。限られた内輪で全員が事情を知っているときに全員がそれと気づくようなありかたは「楽屋落」とは言わない。
この章は「楽屋落」だというのは、モデルがあって「わかる人にはわかるだろう」、同時に「多くのわからない人がいるだろう」ことが
前提にならないと「楽屋落」ということばは出てこない気がする。この章の世界がそれぞれのモデルが誰かということに拡散していくのではなく、我の物語にす
くいとられていくような理解によって読み進められていくべきだと思う。
○ 潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや
この歌は、結句「今年も咲けるや」に回想している現在の姿が映し出されることでよく知られる。回想される過去は「かつてあったが今はない」か、「今はないがかつてあった」か、そのどちらに比重がかかっているか、重心の取り方が回想歌の魅力だといっておきたい。
「かの」を「例の」といいまわせば「楽屋落」が成立するかもしれない。限定された「かの●●」ということで今から遠く離れたものであることを表現している。
○ いつなりけむ 夢にふと聴きてうれしかり その声もあはれ長く聴かざり
『一握の砂』で啄木は、「聴」と「聞」をわりと正しく使い分けている。「聞」はあまりいいことを聞かない。「聴」は智恵子の声とか
美しいものとか心安らぐことを聴くときに使う。この歌は重層的な時間で構成されている。実際に声を聴いたとき、夢にその声を聴いたとき、おもいを馳せてい
るときの三つの時間がここに読み取られる。
○ 「今」という語の使い方は、「心の奥底にある澱のように沈殿する記憶を今も抱え込んで生きている」と歌いながら歌集は次の「手套を脱ぐ時」へとつながる。
5.編集意識から「手套を脱ぐ時」を読む
・大室精一
○表現内容に関連して
(A)明治43年10月22日吉野章三宛書簡によれば、「我を愛する歌」と「手套を脱ぐ時」は他の章のように明解なテーマを持たない。そのため把握が難しいと思われる。
(B)木股知史『一握の砂/黄昏に/収穫』の補注で詳しい説明をしている。
「我を愛する歌」の章が、<我>への愛惜という求心性を特徴としていたのに対し、本章では、さまざまな事象における<我>の意識の変幻の瞬間をとらえるという特性を見出すことができるのではないか。
○編集意識に関連して
(C)近藤典彦『『一握の砂』の研究』では、【「手套を脱ぐ時」はパッチワーク仕立ての章なのである】としている。
{D)章末歌の認定
真一挽歌がなかったらどの歌が最後を飾ったのか。541番歌か、543番歌か。
(E)冒頭歌
手套を脱ぐ手ふと休む/何やらむ/こころかすめし思ひ出のあり
この歌がこの章の内容を極めて絶妙に表現している。この歌がもともと啄木の歌の中でどう変化していったか。
・東京毎日新聞(明治43年4月8日)柿の色づく頃
褐色の皮の手袋脱ぐ時にふと君が手を思ひ出にけり
「君」は橘智恵子のことをイメージして発想された。
・「創作」(明治43年5月号)手を眺めつつ
手套を脱ぐ手ふと休む何やらむ心かすめし思出のあり
ここでは智恵子だけでなく「心かすめし思出」の歌々を集めていく。「創作」の歌群のひとつひとつが『一握の砂』のどの歌に対応するかを書き出してみた。
そうすると思い出の一コマがいろいろな人に分散していき、残された歌が「手套を脱ぐ時」だった。特定のテーマではなくなってしまう。そのために「手套を脱
ぐ時」の場合はパッチワークが必要になる。
冒頭歌の表現世界は「手を眺めつつ」→「手套を脱ぐ時」と変わっていった。明治41年「暇ナ時」→「仕事の後」→『一握の砂』・
「手套を脱ぐ時」という流れがあってそこから特定のテーマの歌をつくって抜き出していく。今井素子は「この歌集の基礎、啄木自身の意図するところは1章と
5章にあった」と述べている。啄木の発想の原点という意味で極めて重要なとらえ方だと思う。
(F)つなぎ歌
春の雪 銀座の裏の三階の煉瓦造に やはらかに降る
啄木を代表する叙景歌。これは実景ではない。
春の雪滝山町の三階の煉瓦造によこさまに降る
例えば、上の歌「よこさまに降る」が初めに作られた。しかし、歌集のなかの前後の歌の関係から推敲されて「やはらかに降る」となり別歌に作り替えた。
これがなぜパッチワークと結びつくか。この章は他の章のように明解なテーマがない。単に収めただけでは歌の集合体になってしまう。そこにパッチワークを入れていく。
春・若い女・酒場・女の記憶・夏・音・秋・冬・海・汽車の旅・酒・秋・夜・深夜の街・妻出産・公園・真一挽歌
例えば「春」の中でみてもただ並べるのではなく、全く違う機会につくられた歌を作りかえまでして、配列構成をしている。そのことによって歌群の世界がつくられていく。そこに啄木の表現手法のすばらしさがある。
(G)「真一挽歌 推敲の前後」の問題
10年位前まで、真一挽歌は『一握の砂』が前で、雑誌掲載歌(明治43年11月号と12月号)が後と一般的に考えられていた。私は
平成8年にそれが逆ではないかという論文を発表した。今では、雑誌掲載歌が最初に発想され、それを推敲し8首の歌群としてまとめ『一握の砂』に載ったとい
うことになっていると思う。
近藤典彦氏が「初版本で調べる」ということを発表されたときに感動し、その夜、岩城先生の本にページを全部記入した。そして、末尾歌が全部右ページ1首目
で終わっていることを発見した。これは歌数を決めるときに重要なことで、「真一誕生歌」は7首だったが、右ページ1首目で終わらせるためにもう1首つくっ
て8首にし「真一挽歌」とした。
*討論
<望月善次>
・啄木は見立ての名人、あるものを違う価値として再発見する。例えば蛸壷を床の間の飾りとするというような……。従って、最初の歌の解明だけでは『一握の砂』はとても読めない。
・真一の歌はテーマと外れているのに『一握の砂』に組み込んでしまった、という問題がある。
・『一握の砂』の文芸的なテクニックの問題からいうと、詩や小説から養ったテクニックについても考えなければいけない。
・啄木は、短歌を軽蔑し捨てていたからこそ歌の可能性を開くことができた。
・木股、田口、小菅発表は、多くは編集の問題になる。編集だから、最初の文脈を変え、当然作品も変えている。
<太田登>
・「かの」という指示語の多用はもう偏愛である。それが表現の上でどのように奥行きをもたらしているか。「かの」はごまかしとしても使えるが、むしろリアリティを持たせるという別の面もある。
・「秋風のこころよさに」の章から「忘れがたき人人」の章へと、どうつなげていくか。
・『一握の砂』を認めない人の多くは、啄木短歌の感傷性を甘ったるい品質の低いものとしている。また、思想や社会を歌った歌が『一握の砂』から外されているのはなぜか。
・三行書きの発想はどうだったのか。
<木股知史>
・編集の見立てでいうと、わたしの身近な人たちは短歌も小説も「曇っていても、晴れにする」というように適当に編集し直していると聞く。
・三枝さんの本に「生活のこまごましたことを詠うのが近代短歌の本体だ」とあり、そのマジックが啄木の『一握の砂』をメインカレントにしてくれた。
<田口道昭>
・啄木は1首の独立性をそんなに強調せず全体の構成を考えながら作っていたと感じる。
・「煙」から「秋風のこころよさに」へのつながりは、帰郷歌の最後が「ふるさとの山はありがたきかな」となって、人が登場しなくて故郷の自然ということから「秋風のこころよさに」につながると思っている。
<小菅麻起子>
・
「秋風のこころよさに」のタイトルそのものが古典和歌の伝統を継承していると思う。古典和歌から啄木までをみてみると、「春と秋の歌」が「夏と冬の歌」に
勝っている。『一握の砂』の当時の広告には「……広く読者を中年の人々に求む」とある。人生の秋にもかかっているのかなという気がする。
<河野有時>
・「秋風のこころよさに」と「忘れがたき人人」の繋がりは難しい。「ふるさと」ということで連続しているものがあるとすれば、北海道は今いる都市でもふるさとでもない場所でありそれが歌われている。そのことがこの歌集のよみをかなり膨らませている。
・啄木の歌がセンチメンタルだというが、センチメンタリズムの何がいけないのか。センチメンタリズムでないものは何か、対義語は何か。良い悪いの物差し自体も検討しなければいけないと思う。
<大室精一>
・真一挽歌の意味は何か。我々が『一握の砂』を読むときに真一挽歌8首で歌集が終わることは大きな意味を持つ。この8首は波瀾万丈の啄木の生涯を象徴するエピローグになっている。
・河野さんが今回書かれた「亡児追悼---『一握の砂』の終幕」(「国文学」2010
年9月号)で、「末尾の亡児追悼挽歌八首は特別な事情により思いがけず付加された配色の異なる小世界と評すべきでないことは言うまでもないだろう」と述べ
ている。結果として重要な歌群であり、啄木の編集意図として認めるべきではないかということだと思うのだが。
<河野有時>
・大きな編集意図があってこの8首が付け加えられたという見方もある。しかし、私は『一握の砂』は551首でできている、終わりの8首を除いた543首が『一握の砂』だと思っていない。残りの8首が少し違うというのは抵抗がある。
<木股知史>
・思想詠が外されたという問題。「ことさらに燈火を消して/まぢまぢと思ひてゐしは/
わけもなきこと」の歌の元の形は「ことさらに燈火を消してまぢまぢと革命の日を思ひ続くる」であった。啄木がこのように作りかえたのは現実逃避ではなく検
閲を考慮したのだと思う。啄木は、普通の生活者の生きている空間を豊かにつくることが、大逆事件を起こす国に対抗する実質的な作業になると、たぶん考え
た。
<太田登>
残った問題点を二つ。
1.三行書きの発想について
土
岐哀果は、「創作」明治43年5月号に初めてローマ字三行書きをした。啄木はその隣のページに16首掲載している。啄木は三行書きに触発されたがそれを寝
かせた。明治43年9月、スイッチが入り「九月の夜の不平」で三行書きをした。土岐哀果は明治43年11月「創作」に三行書きにさらに句読点や行の上げ下
げの歌をつくっている。啄木はそれを見ているのに採用せず『悲しき玩具』まで見送っていたのはなぜか。
2.『一握の砂』の刊行時期について
「創作」明治43年12月号表紙の広告に『一握の砂』は出ている。しかし、巻末にそ
の年に出た別の歌集のコメントは全てあるが『一握の砂』のコメントはない。従って、11月下旬にはまだ刊行されていなかったといえる。私は、11月20日
過ぎまで編集作業はずれこんでいることを認めるべきだと思っている。
・『一握の砂』は啄木のドラマとして多くの人に読み継がれてきた。次の100年後にこの歌集を残せるようにしたい。
*シンポジウム閉会あいさつ 池田功
『一握の砂』刊行100年、現在は十数カ国語に翻訳されている。徹底討論という形で章ごとに担当し討論をしたのは啄木学会20年間の歴史の中でも初めてのことだった。
今年初めて柳澤有一郎さんと権藤愛順さんの論文が「国際啄木学会若手研究者奨励賞」に決定した。これからも対象になる方はどんどん論文を書いてほしい。
*研究発表
「大矢正修と与謝野鉄幹---啄木以前の都市と郷土」
・塩浦彰
1、大矢正修と鉄幹『明星』の時代
大矢正修は明治元年、新潟の名主の家に生まれた。与謝野鉄幹は明治6年生まれ、父母ともに京都育ち、幼少年期、父が学僧であった影響で洋学・漢学・国学のミックスで育つ。二人とも、漢学を学びながら国学を伝統として国語・国文学の教養を深めていった。
鉄幹は、明治32年に東京新詩社を創立し、機関誌『明星』を発行する。正修は明治33年9月、自宅に新詩社の支部をおいた。『明星』に短歌109首が掲載され越後関係者では群を抜いていた。
正修を含めて郷土で地域共同体を支える責任を持つ人々は、文学を趣味として集う共同
体が醸し出すエネルギーによって富国強兵の苦しい現実を打開する方向を見いだそうとする人々であったのではないか。物心両面から郷土の人々の支持を拡大し
つつ、あくまで東京から発信する文学運動に全てをかけようとしたのが鉄幹で、彼と郷土の青年たちとの幸福な出会いがそこにあったのだと思う。
2、平出修と啄木---『スバル』の時代
『スバル』所載の小説作品数を確定すると、創作186篇、翻訳31篇である。その小
説の中で、農村を<場>としているものは9篇あるが、実質的に「農民小説」と言えるものは啄木作品、特に「赤痢」のみである。「赤痢」の登場人物<お由>
は悪女として描かれているがそれは当時の農村のひとつのエネルギーであった。
「赤痢」が平出修の「夜烏」に非常に大きく影響している。「夜烏」に出てくる小作人の女房は<お由>の発展である。大逆事件のあと平出修が「夜烏」を書いたのは、小作人の女房を通じて言いたかった抑圧された言論の問題を述べたかったのだ。
「啄木短歌の受容における窪田空穂の存在」
・太田登
1. 啄木短歌受容は<生活派>を起源として、大正2年(1913)に刊行された『啄木歌集』にはじまる。
2. 空穂の歌論と啄木の短歌観
啄木は「一利己主義者と友人との対話」で「おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。」といっている。
窪田空穂は「自己の心持を愛し、執着し、それを大切に押へ」ることによって歌が生ま
れてくるという短歌発想である。この考えは啄木のそれとみごとに重なる。気分や趣向という心の表層部分ではなく心の深くしみとおる内部に到達しえたのは、
明治の末から大正にかけて、空穂と啄木だけではないか。
啄木がこうした空穂歌論から学んだかどうか。啄木の言説の中に空穂に関するものはない。国際啄木学会の出している『石川啄木事典』に窪田空穂の項目はない。これは残念である。
3. 空穂の存在が啄木短歌の受容にもたらしたもの
空穂は、大正3年6月「国民文学」創刊号で「みなさんに読んでほしい歌集の第一は啄木である」ということを述べている。
空穂の作品 大正4年5月『濁れる川』
啄木の歌よみつぎつほほ笑みてあればいつしか悲しくなりぬ
たぶん『悲しき玩具』のことかと思われ、空穂が啄木の本の熱心な愛読者であった証拠となる。空穂の短歌観・歌論と実作は乖離していない。内部生活をどこまで詠みこめるかというところで渡辺順三も含めて、空穂と啄木とはかなり近いところにあった。
空穂の『濁れる川』の作品世界には人生における実感を見据えていく方法で、「時代的
には、すでに散文の自然主義の一つのファクターを深化し、空穂みずからの資質や態度と一体化させていくのである。(篠弘「空穂短歌にみられる人間批評」昭
和60年11月)」。これは、そのままそっくり啄木の側に当てはめることが可能である。自然主義のファクターを啄木も深化させていた。空穂→啄木→順三と
いうラインがつながる。
啄木短歌は、アララギ短歌、モダニズム短歌を含めて広がっていった。
*大会閉会挨拶 チャールズ・E・フォックス
『一握の砂』は素晴らしいもので啄木は大きな意義ある歌集を出した。今回はその原点を考える新しい出発点になった。なんとかして21世紀の人たちに啄木の価値を伝えていきたい。大会成功のために先生方や学生たちが力を出してくれたことに感謝する。
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