・私たちは国際化ということを声高に言うが、インドやインドネシア、私のいる台湾では日常が国際化している。中国語、英語、台湾語、そして日本語が普通に交わされている。日本語が世界のことばの一つになっている。
・国際啄木学会も国際化というよりも、啄木を愛する人に積極的に私たちの広場に入っていただいて交流の場を広げていけば、自然に国際化していくのではないかと考えている。
・この9月に国際啄木学会は創立20周年になる。海外の研究者を迎え世界的な意味での啄木の存在を考える場にしたい。
・私は、来春(2010年)に啄木翻訳集出版を予定している。その内容として、日本の短歌を翻訳するときの音数律のことで問題提起したい。
・啄木作品の翻訳状況
1932年、金相回訳「はてしなき議論の後」に始まり、1998年、孫順玉訳『石川啄木詩選』まで8冊ほどが翻訳されている。
・短歌を韓国語に翻訳するときの音数律の問題
今までの韓国における啄木短歌の翻訳は、短歌の五・七・五・七・七調をそのまま韓国語に生かしていた。私は詩の生命は音律・リズムであると思う。だから、日本の短歌の音律が、韓国の詩となるかどうか非常に気にかかった。韓国の定型詩は時調(シジョ)で、3章6句、基本的な音律は3、4調である。
3ー4,3−4(初章)
3ー4,3−4(中章)
3ー5,4−3(終章)
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
例としてこの歌の五人の先生の翻訳をあげてみる。韓国語の翻訳の文字数だけ数えてみれば(意味は分からなくても)5・7・5・7・7になっているのが分かる。(私を除く)全ての人が日本の短歌の五・七・五・七・七調に従って翻訳している。
詳しく意味をみてみると、数合わせのため同じ言葉を繰り返し入れている。そのため不自然なところがある。「一匹」という言葉を増やしたり、「白い白砂浜」と白を繰り返したり、「東海の海」と海を二つにしたり、音数律を合わせるために無理が生じているところもある。
五・七・五・七・七調にするか、韓国語の3、4調にするか迷っている。
・本の題名を『石川啄木作品選集』、または『石川啄木作品選集 悲しき玩具』とするか考えている。
◯ 西脇 巽「節子から光子への手紙をめぐって」
・はじめに
昨年春、青森県の啄木研究家で平成18年に亡くなった川崎むつを氏の遺品の中から、啄木の妻・節子から啄木の妹・光子宛の手紙を筆写したノートが見つかった。これまで公に知られていなかった部分も多く、貴重な研究資料の新たな発見と思われる。資料は全文ではなくて、大学ノート12頁のうちの8頁分で4頁が欠落している。しかしこれまで光子が紹介している文章の3倍くらいの量である。日付は(明治45年)5月21日、節子が啄木の死後房州に滞在中、呉市にいる光子に宛てたもの。
・新しい所見
これまで活字化されてこなかったことが発見されたことで、新しい所見がある。
母・カツの終焉。カツは最後まで(布団を汚したのは二回のみ)知的には衰えることなく肺結核で死没している。節子は湯灌を一人で行い、嫁と姑の軋轢を超越し、無心で対応している様子が読み取れる。
父の品格。頴田島一二郎が「啄木の父について到底のせられないことも書かれていた。」と書いている。この手紙によれば一禎は金銭感覚がかなりルーズであったことが窺い知れる。啄木の金遣いの拙劣なことは親譲りなのである。
空き巣狙い。啄木没後に引っ越しのために荷物を整理していた直後に、空き巣狙いに盗まれてしまったことが記載されている。
不愉快な事件とこの手紙。光子は、この手紙で「節子郁雨不倫論」は間違いない、この手紙が証拠であるとして、不倫論を確立しようとしたのである。
・資料を読んでの私の所感
節子の啄木に対する切々たる情の深さを感ずることはあっても、疚しい心、良心に恥じる心などは全く感じられない。死後、函館に行ってからも、節子の心の動揺は見られないように思われる。
親に反対されて結婚した夫婦は、何かがあっても親に救いを求めには行けない。なぜなら「だからあんな人物と結婚するな!と言ったじゃないか」と自分たちの結婚を否定されるから。
啄木が郁雨に対して義絶してしまった理由。郁雨が、節子が自分の病気を伝えた手紙に「それなら実家へ帰って静養したら・・・」と唆したことが啄木の逆鱗に触れてしまったためである。啄木は、節子を実家に行かせたくなかっただけである。それでなければ、いくら節子が謝ったからと言っても、三日で仲直りして元の夫婦仲に戻る、なんてことは不自然である。
・これらについては、9月の「国際啄木学会 創立20周年記念大会」において更に解明を試みたい。
・発表要旨
『悲しき玩具』の編集意識に関する研究は『一握の砂』に比較して進展していないように思われる。要因の一つは『悲しき玩具』の底本(元資料)が「歌稿ノート」であり、その「歌稿ノート」に対する考察がほとんど進展していないことにあると思われる。そこで『悲しき玩具』歌稿ノートに焦点を絞り、付されている「中点」に着目しながら新しい視点からの考察を試みたい。
・『悲しき玩具』歌稿ノートの配列意識
歌稿ノートの現物は近代文学館にある。現物を見るときは手袋を使っているが、かなり傷んでいて心配である。
二種類の復刻ノートがある。『肉筆版 悲しき玩具』(書物展望社・昭和11年)は、薦められない。余白の取り方を間違えている。白黒印刷のため青黒朱色とある中点の違いが出ていない。薄い中点をフリーハンドで入れているのでコピーが写らずミスがある。
『悲しき玩具 直筆ノート』(盛岡啄木会・昭和49年)は、お薦め。こちらでないと意味をなさない。
・段階区分と中点の色
第一段階→黒(3~68番歌)
この歌群は『一握の砂』と全く同じ編集方針である。近藤典彦氏が発見したように、ページの見開き四首配列でないと理解できない。
諸雑誌でまず発表し、それを推敲し直して歌稿ノートに清書していく。従って極めて繊細な配列構成をしている。
第二段階・前期→朱(69~98番歌)
第一段階とは全く逆で、最初に歌稿ノートに記入され、それが推敲されて諸雑誌に出る。この段階では歌稿ノートは単なる歌メモにしかすぎない。雑誌のほうでは極めて繊細な配列意識をもってくる。中点は朱色に変えた。これは、啄木が一目見て第一段階と推敲の順が逆になったことがわかるようにした。
第二段階・後期→中点なし(99~114番歌)
推敲の前後があまりはっきりしない。藤沢説では「最初の寄稿歌によって浄書」と書かれている。ところがこれは、推敲の前後が全く逆だと思う。歌稿ノート→「創作」という流れだということを論証した。
後期には中点がない。中点がないことは啄木の緻密さを表している。中点は何のために打つか。区別するためである。すべての歌が転載されているから、全部同じ部類なら打つ必要がない。だから中点がない。一つの例外もない。
第三段階→青と黒(115~130番歌)
「雑誌「精神修養」掲載が初出の歌」に、青の中点を打つ。それ以外は黒。
119番歌は推敲か別歌か
A 限りなき心ぼそさよ!/目をとぢて/胸の痛みをこらへてある日!
「精神修養」(明治44年4月号)
B ■廻診の医者の遅さよ!/痛みある胸に手をおきて/かたく眼をとづ。
『悲しき玩具』歌稿ノート(■は空白を表す)
C 廻診の医者の遅さよ!/■痛みある胸に手をおきて、/■かたく眼を閉づ。
「新日本」(明治44年7月号)
従来の研究書では、全てAを初出と記している。しかし、大室説では、Aは類想の「別歌」とみる。歌稿ノートの中点が黒であることから、啄木自身も「別歌」と認識していることが判明する。この考えは大変重要である。
色区分のある中点が存在することは、啄木が後に歌集全体の編集を意図していたことの明確な論拠のひとつになると思われる。
第四段階→(最初の一首のみ)黒 以下は中点なし(131~177番歌)
第五段階(178~194番歌)
第五段階17首の浄書については、誰の筆になるか。啄木説・節子説・光子説とある。