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石川啄木 年譜 1909年(23歳)〜1912年(26歳)

1886年 明治19年 0

1896年 明治29年 10

1906年 明治39年 20

1887年 明治20年 1

1897年 明治30年 11

1907年 明治40年 21

1888年 明治21年 2

1898年 明治31年 12

1908年 明治41年 22

1889年 明治22年 3

1899年 明治32年 13

1909年 明治42年 23

1890年 明治23年 4

1900年 明治33年 14

1910年 明治43年 24

1891年 明治24年 5

1901年 明治34年 15

1911年 明治44年 25

1892年 明治25年 6

1902年 明治35年 16

1912年 明治45年 26

1893年 明治26年 7

1903年 明治36年 17

啄木の死後

1894年 明治27年 8

1904年 明治37年 18

1895年 明治28年 9

1905年 明治38年 19

(3・7・8歳は特記なし)

 


石川啄木 年譜


 1909年 明治42年 満23歳   

● 1月1日 『スバル』創刊号発行。(啄木は、発行名義人)。『スバル』の誌名は、森鴎外により、発行所住所は、平出修の法律事務所と同じ。啄木も小説「赤痢」を発表した。
 
○ 1月9日 森鴎外宅での観潮楼歌会にて、斎藤茂吉と会う。歌会で啄木最高19点を獲得。
 
● 2月1日 啄木の編集による『スバル』第二号発行。啄木も自伝小説「足跡(その一)」を非常な抱負をもって発表。紙上で平野万里と短歌論争を行う。
 
○「足跡(その一)」が早稲田文学からけなされ非常にがっかりしてあとを続ける気を失った。
 
○ 2月3日 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。
 
○ 2月7日 東京朝日新聞社に佐藤編集長を訪問。就職について重ねて懇請。考慮する旨の確約を得る。
 
○ 2月24日 佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)
 
● 3月1日 朝日新聞社出社。佐藤編集部長、渋川玄耳(柳次郎)社会部長に会い、校正係としての任務につく。校正係は主任加藤四郎、他に寺崎太三郎、木村益太郎、山田宗助、三品長三郎の四人がいた。
 
○ 3月21日 浅草新片町一に島崎藤村を訪問する。
 
● 4月7日〜6月16日 家族を迎えるまでの苦悩を『ローマ字日記』に記す。
 
○ 4月8日 北原白秋と浅草花街に遊び、末広屋の当時芸者となっていた植木貞子(セン)と一夜を共にする。
 
○ 4月13日 函館の母カツより上京を促す手紙来る。啄木は就職したものの年来の借財のため家族を迎える準備ができず、また文学思想上の煩悶もあって自虐的な生活を送り、浅草花街に遊ぶ。
 
○ 6月2日 節子、函館区立宝尋常高等小学校退職。
 
○ 6月7日 宮崎郁雨に伴われて妻、母、娘函館出発。翌8日、盛岡の堀合家に滞在する。母は途中野辺地に下車、夫一禎の許に赴く。
 
● 6月16日 家族を上野駅に迎える。本郷区本郷弓町2丁目17番地(現文京区本郷2-38-9)の新井こう方(喜之床)二階二間の間借り生活。この日の朝のことを記して「ローマ字日記」は終わる。
 
○ 妻節子、母カツとの確執に苦しむ。「内のお母さんくらいえぢのある人はおそらく天下に二人とあるまいと思ふ。」(7月5日付妹ふき子・孝子宛節子書簡)
 
○ 10月1日 『スバル』第十号に小説「葉書」を発表。
 
● 10月2日 上京後の生活や姑との軋轢、7月以降の肋膜炎の病苦に耐えかねて、妻節子、書き置きをして娘京子とともに盛岡の実家に帰る。宮崎郁雨に嫁ぐ妹ふき子の結婚を手伝うためでもあった。
 
● 10月26日 節子は、金田一京助と恩師の新渡戸仙岳の尽力で帰宅するも、この事件は、啄木に深刻な打撃を与え、文学上の一転機をもたらした。
「私が居ないあとでおつ母さんをいぢめたさうです。そして家事はすべて私がする事になりました。六十三にもなる年よりが何もかもガシヤマスからおもしろくないと云ふておこつたさうです。おつ母さんはもう閉口してよわりきつて居ますから、何も小言なんか云ひません。」(11月2日付妹ふき子宛節子書簡)
「遠い理想をのみを持って自ら現在の生活を直視することのできぬ人は哀れな人です。然し現実に面相接して、其処に一切の人間の可能性を忘却する人も亦憐な人でなければなりません。」(明治44年1月9日大島経男宛啄木書簡)
 
○ 10月26日 宮崎郁雨が節子の妹ふき子と結婚。
 
○ 11月30日 『東京毎日新聞』に評論「食ふべき詩」を連載(7回)する。
 
○ 12月20日 父一禎、野辺地から上京し一家5人となる。
 
○ この年の文筆活動は、前半が小説。後半が感想・評論を主とし、年末には、「夏の街の恐怖」、「事ありげな春の夕暮」などの長詩を残した。

 1910年 明治43年 満24歳   

● 1月1日 『スバル』第二年一号発行(発行名義人は、江南文三に変わる。)
 
○ 1月19日 夜、森鴎外を自宅に訪問する。「夜石川啄木来て新聞社の為めに宮中選歌の事を問ふ。答へず。」(「鴎外日記」)
 
○ 2月 「松太郎と或る空家」「彼の日記の一節」を含む創作ノートを作る。
 
○ 3月下旬、前年の11月から携わっていた『二葉亭全集』第一巻の校正終わる。
 
● 4月4日 東京朝日新聞社・社会部長渋川柳次郎(玄耳)の勧めにより、処女歌集の編集を始める。
 
○ 4月5日 東京朝日新聞社・学芸部の西村真次が富山房での『学生』編集のため退社することになり、『二葉亭全集』の引継ぎを西村から依頼される。
 
○ 4月7日 池辺三山主筆から正式に『二葉亭全集』の引継ぎを命ぜられる。
 
○ 4月11日 歌集『仕事の後』(歌数255首)の編集終了。
 
○ 4月12日 『仕事の後』の原稿を持参して春陽堂を訪ね、出版依頼するも、数日後戻された。
 
○ 4月16日 義兄山本千三郎、北海道鉄道管理局手宮駅長に就任。
 
○ 5月1日 橘智恵子、北村牧場の北村謹と結婚。
 
○ 5月10日 『二葉亭全集』第一巻(朝日新聞社刊)発行。
 
○ 5月から6月にかけて、最後の小説でもある「我等の一団と彼」を執筆した。(生前未発表)
 
○ 6月3日 新聞各社が、幸徳秋水が、湯河原の温泉宿から拘引されたことを伝える。
 
● 6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」報道し、全国民を驚愕させる。啄木も衝撃を受け、社会主義思想に関心を持ち、多量の社会主義文献を読み、次年の日記の「前年のまとめ」の項に、「六月ー幸徳秋水等の陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。」と記したごとく、思想上の転機となる。[啄木自身も、6月21日〜7月末にかけて、「林中の鳥」の匿名で、「所謂今度の事」を書き上げ、東京朝日新聞の夜間編集主任であった弓削田精一に掲載を依頼したが、掲載されなかった。]
 
○ 7月1日 入院中の夏目漱石を訪ね、二葉亭の「けふり」について指導を受ける。
 
○ 7月5日 再度漱石を訪ね指導を受ける。資料として「SMOKE」所収の『ツルゲーネフ全集』第五巻を借用する。
 
○ 7月20日〜9月10日 名古屋の聖使女学院に在学中の妹光子、暑中休暇で上京。啄木宅に滞在。
 
○ 8月22日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に、「自己主義の思想としての自然主義」を発表。啄木は、これへの反論として、同月下旬、評論「時代閉塞の現状」を書き上げるが掲載されなかった。
 
● 9月15日 渋川柳次郎の厚意により、新設の『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(啄木選歌は、翌年2月28日まで。82回。投稿者183名。総歌数568首)
 
○ 9月22日 『報知新聞』(夕刊)に「大審院の特別裁判、社会主義者の審理」の記事を掲載し、幸徳秋水等の事件が、「内乱罪」「大逆事件」のいずれかであることを示す。
 同日、ロンドンの 『THE TIMES』 は『報知新聞』の記事を紹介しながら、「日本の天皇への叛乱計画が報道される」として、幸徳秋水等の事件が、「大逆事件」であることを初めて報じた。
 
○ 9月30日 岩手県岩手郡渋民村大字渋民第一三地割二四番地から、東京市本郷区弓町二丁目一八番地への転籍を本郷区役所に届け出る。
 
● 10月4日 東雲堂と歌集出版契約。(原稿料20円。うち10円を同日受け取る。)長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生。妻節子、産後不調。
 
● 10月9日 東雲堂主人西村辰五郎(陽吉)に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。(原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。)
 
● 10月27日 長男真一死去
 
● 10月29日 真一葬儀。(浅草、了源寺)法名は「法夢孩児位」。
 
○ 10月から、家計維持のため三日に一度ずつ夜勤をする。
 
○ 11月8日 伯父の葛原対月死去。一禎は盛岡へ弔問に赴く。
 
○ 11月9日 幸徳秋水等の公判開始決定。
 
● 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。序文藪野椋十(渋川柳次郎)、表紙絵名取春僊。歌数551首。定価60銭。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。
 
○ 12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の第一回公判が開かれる。
 
○ 12月 身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。


 1911年 明治44年 満25歳   

● 1月3日 友人の平出修弁護士を訪問、幸徳秋水が獄中から担当弁護人(磯部四郎、花井卓蔵、今井力三郎)に送った陳述書を借用。
 
○ 1月4日 夜、幸徳秋水の陳弁書を筆写。
 
○ 1月5日 陳弁書を写し終わる。「この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男でない。さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。」(「日記」)
 
○ 1月10日 埼玉県の歌人谷静湖からアメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を寄贈される。
 
○ 1月12日 東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果(善麿)との会見を電話にて約束。
 
● 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
 
○ 1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。
 
○ 1月19日 大命により24名の死刑囚のうち12名が無期懲役に減刑。
 
○ 1月23日 自宅にて幸徳秋水事件関係記録を整理。
 
● 1月24日 「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」のまとめ。幸徳秋水等11名の死刑執行。(管野すがのみ25日朝執行。)
 
○ 1月26日 平出修の自宅で、七千枚十七冊に及ぶ特別裁判の「訴訟記録」初めの二冊と管野すがに関する部分を読む。
 
● 2月1日 東京帝国大学医科大学附属病院三浦内科で青柳登一医学士の診察を受け、慢性腹膜炎と診断され、入院を命ぜられる。
 
○ 2月4日 東京帝国大学附属病院青山内科に入院。
 
○ 2月7日 手術を受ける。結果良好で、13日には門内散歩を許される。
 
○ 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。
 
○ 2月26日 この日から月末にかけて38度ないし40度の熱が続き、病床に呻吟する。
 
○ 3月6日 肋膜の水をとってから小康を得る。
 
○ 3月15日 午後退院。以後自宅療養。(しかし、病状は、相当に進行していたと見るべきであり、その後の勤務復帰はならなかった。)
 なお、『樹木と果実』の発行は、印刷所の不誠実によって難航していた。
 
○ 4月16日 印刷所三正舎に、契約破棄の通知を行う。
 
● 4月18日 『樹木と果実』の発行を断念。なお、三正舎倒産のため、印刷代金は未回収に終わった。
 
● 5月 「‘V’NAROD’SERIES A LETTER FROM PRISON」執筆、大逆事件の真相を世に伝えんとする。
 
● 6月3日〜6日 節子の父堀合忠操が、函館の樺太建網漁業水産組合連合会に就職したため、函館移住の家族を送るために実家に帰りたいとする節子とトラブル。前々年秋の節子家出事件に懲りた啄木が帰省を許さなかったことによる。これが原因で堀合家と義絶。
 
● 6月15日〜17日 「はてしなき議論の後」の9編執筆。うち6編を『創作』(7月号)に発表。この作品に「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を加え、第二歌集『呼子と口笛』の詩稿ノートを完成。
 
○ 7月4日 病状悪化。高熱が続き、氷嚢を抱えて、病床に呻吟する。
 
○ 7月18日 名古屋の妹光子上京、啄木の家に立ち寄り、北海道に向かう。
 
● 7月28日 節子、東京帝国大学附属病院青山内科における診察によって肺尖カタル。伝染の危険ありとして、炊事は、カツの仕事となる。
 
● 8月7日 宮崎郁雨の援助により、小石川区久堅町74ノ46号(現文京区小石川5-11-7)へ転居。
 
○ 8月10日〜9月14日 妹光子、看病のため北海道より上京し滞在する。
 
○ 8月11日 本郷弓町より小石川区久堅町への転籍を小石川区役所に届け出る。
 
○ 8月21日 『詩歌(一ノ六号)』へ「猫を飼はば」17首を送る。活字となった最後の歌作。
 
● 8月24日 母カツが高熱と下痢で倒れ、腸カタルと診断される。
 
● 9月3日 一家窮状と感情の行き違いから父一禎は、次姉トラ宅(夫千三郎は、当時北海道・手宮駅長)を頼って家出。
 
● 9月 宮崎郁雨が節子に出した手紙が原因で、親友であり、義弟であり、経済的支援者でもあった宮崎郁雨と義絶。
 この義絶が、啄木にとって、種々の面でいかに決定的なものであったかは、経済的には節子が、9月14日からつけ始めた「金銭出納簿」にその具体を見ることが出来るし、文学的にも、以後の啄木に、これといった作品が提出されなかったことにも見ることが出来よう。
 
○ 9月中旬 娘京子、肺炎で倒れる。
 
○ 11月3日 岩手毎日新聞社勤務の友人岡山儀七(不衣)に宛てた、「平信(与岡山君書)」を書き始める。
 
○ 11月17日 クロポトキン『ロシアの恐怖』の筆写終わり、製本。
 
○ 12月1日 『二葉亭全集』の事務引継ぎのため西本波太来宅。
  このころ発熱が続き苦しむ。


 1912年 明治45年 満26歳   

○ 1月1日 「今年ほど新年らしい気持ちのしない新年を迎へたことはない。といふよりは寧ろ、新年らしい気持ちになるだけの気力さへない新年だつたという方が当つてゐるかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考へると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかつた。朝にまだ寝てるうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかつた。
 いつも敷いておく蒲団は新年だといふので久し振りに押入にしまはれたが、暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた。」(「日記」)
 
「相不変半ば廃人同様のからだ」(木下杢太郎宛書簡)、「今も猶やまひ癒えずと告げてやる文さへ書かず深きかなしみに」(岩崎正書簡)に見るような最後の新年を迎えた。
 
○ 1月2日 市電ストライキの報道に関心を示す。「明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久しぶりに一志きり急がしかつた。」(「日記」)
 金田一京助の言う所謂「思想的転回」など起こしていないという一傍証とも言えよう。〔なお、ストライキへの関心としては、前年の海沼慶治宛書簡(1911/明治44.8.17)もある。〕
 
○ 1月19日 『病室より』(エッセイ)をまとめ、「学生」に送るために投函。
「去年のうちは死ぬ事ばかり考へてゐたつけが、此頃は何とかして生きなければならぬと思ふ。」(「日記」)
 
○ 1月21日 森田草平に窮状を訴える手紙を書き金策を依頼する。
 
○ 1月22日 森田草平、夏目漱石夫人鏡子から得た見舞金10円と征露丸を持参する。
 
● 1月23日 母カツ、近所の開業医(宮内省侍医)三浦省軒の代診の診察により、結核であることが判明。江馬修の厚意により訪れた医師柿本庄六の診察結果も同じものであった。母は喀血が続き重体。
 
○ 1月24日 佐藤北江へ母の病状と、一家病人と化した近況を報告、施療院への入院を断る。
 
○ 1月25日 以後、三浦省軒の診察を受ける。
 
○ 1月26日 杉村広太郎(楚人冠)〔東京朝日新聞学芸部長〕から、社内有志による義金企ての通知来る。
 
○ 1月29日 佐藤北江、社内有志17名の見舞金34円40銭と新年宴会酒肴料3円を届けに来宅。
 
○ 1月30日 夕方俥に乗って神楽坂の相馬屋まで原稿用紙を買いに行き、帰りに本屋でクロポトキンの『ロシアの文学』を購入する。
 
○ 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された。
 
● 2月20日 最後の日記を書く。以下が全文である。
二月二十日(火)
 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。
 
● 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
 
○ 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名恵光妙雲大姉)。なお等光寺は、土岐哀果の生家であり、葬儀はその厚意によるものである。
 
○ 3月31日 金田一京助病気見舞い。「収入金田一氏ヨリお見舞い 十円」(「金銭出納簿」)
 
○ 4月5日 一禎、啄木重態の報を受け、室蘭の次姉トラ宅から上京。
 
○ 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。(この契約は、後述するように、啄木の死後、歌集『悲しき玩具』として実現することになる。が、例えば、三行書きの形式が前半と後半では不統一であることが示すように、「歌集」というより<ノートの復元>に近いものであった。しかし、こうした実態も、啄木の命の終わりが間近であったことを考え合わせると、一方では、やむをえなかったことだったとも言えよう。)
 
● 4月13日 早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水であった。
 26年と53日の人生であった(1912年は閏年)。
 
● 4月15日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。
(妻節子の意思もあり、遺骨を、翌年の3月23日に、函館に移し、立待岬に墓地を定めて葬った。なお、現在の「啄木一族の墓」は、宮崎郁雨により大正15年8月1日に建立された。)
 
● 6月14日 次女房江、節子の療養先であった千葉県安房郡北条町(片山カノ方)にて誕生。
 
● 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。総歌数、194首。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具(おもちゃ)である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日〜20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。
 
○ 9月4日 節子は、京子・房江の二人の遺児を連れて、当時は函館に移住していた実家に帰り、借家生活(青柳町32番地)を始めたが、翌年の1913年(大正2年)5月5日、午前6時40分、肺結核のため函館区豊川町34番地豊川病院で亡くなった。(法名貞安妙節信女)享年26歳6カ月。
  
石川啄木年譜 死後


 つづく 

・若山牧水、金田一京助の啄木臨終の記

・東京朝日新聞の啄木死亡記事

・宮崎郁雨の節子臨終の記

○啄木死後(1912年 明治45年以降)の啄木関連年譜等


主要参考文献
 
「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001
「石川啄木伝」岩城之徳/筑摩書房/1985
「石川啄木」人物叢書/岩城之徳/吉川弘文館/2000
「啄木評伝」岩城之徳/学燈社/1976
「啄木の妻節子」堀合了輔/洋々社/1981
「石川啄木」近代作家研究叢書/金田一京助/日本図書センター/1989
「石川啄木全集」第8巻啄木研究/筑摩書房/1983
「石川啄木集」日本近代文学大系23/岩城之徳・今井素子/角川書店/1990



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