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 啄木行事レポート

国際啄木学会〈春季セミナー〉

   2003年4月19日(土) 同志社女子大学 京都・今出川学舎ジェームズ館
 

「春霞の街」京都タワーより

 

国際啄木学会〈春季セミナー〉

 研究発表
        ・池田千尋 
「内山愚童と曹洞宗」
               宗内擯斥と宗門総懺悔、そして名誉回復に寄せる
        ・塩谷知子 
「天鵞絨(びろうど)」
               人物形象が意味するもの
        ・
大室精一 「『真一挽歌』の形成」
               歌稿ノート「四十三年十一月末より」の意味
 講演会
        *安森敏隆 
 「斎藤茂吉と石川啄木」 
 

 

同志社女子大学の門と啄木学会の看板

 キャンパスには、静かな雨に打たれベニバナハナミズキの薄赤の葉がくるくると巻いていました。学生ラウンジに入ると、座り心地よさそうなソファが並んでいました。中庭に流れる水の配置も憎いほどです。        

赤煉瓦のジェームズ館

 今出川学舎ジェームズ館は、啄木が1912年に亡くなってすぐの1914年(大正3)8月に出来ています。赤煉瓦で統一された美しい景観です。
 

研究発表

・池田千尋「内山愚童と曹洞宗教団」
 
             宗内擯斥と宗門総懺悔、そして名誉回復に寄せて

○啄木と内山愚童 
 両人はともに曹洞宗教団に属する「寺族」と「寺院住職」の立場にあった。啄木が、その鋭敏な感受性と透徹した先見性によって、所謂大逆事件の真相を今日的視点から見ても、ほぼ正しく理解していた。そうした見識からみて、同じ“洞門”の和尚の処刑はショックであったはずである。
 
○内山愚童に対する曹洞宗教団の対応
 *二段階ステップを踏み文字通り処断
 ・1909年(明治42)7月6日 本人が充分に関与しないまま「依願免住職」
 ・1910年(明治43)6月21日 宗門極刑の「宗内擯斥」により「僧籍」剥奪、追放処分
 
○宗門総懺悔(仏教界では「サンゲ」という)
 ・1911年(明治44)2月16〜18日 懺悔と教化の実を全うするために、全国規模の大研修会を開催
 
○名誉回復
 ・1993年(平成5)4月13日付で、「宗内擯斥」処分を取り消し、全宗門に告示した。
  

・塩谷知子「天鵞絨(びろうど)」 
              人物形象が意味するもの

○作品成立の背景
 *上京直前の心境
 ・現実に「虚無」を観ながらも、新しい文学の「創造」を目指す態度
 ・家族と別れる「悲痛」な心境と創作(小説)に対する「希望」
 
○作品の構造 
 ・各章の役割 十一章構成
 ・各章ごと、時間と場所と登場人物の行動・心情
   「語り手」が存在し、語り手だけが知っている事柄がある
 
○人物形象
 ・「お定」と「お八重」の比較
   非常に対照的に描かれているが、互いに補完する立場にあったとも言える
 
○作品執筆の背景と主題
 ・啄木の自然主義観、生活状況、社会状況
 ・先行論文

 

美しい黒板の枠を背に、熱心に語る


・大室精一「『真一挽歌』の形成」 
             
 歌稿ノート「四十三年十一月末より」の意味

○「真一挽歌」八首にしなければならない理由
 
○『一握の砂』編集の仮年譜(私見)
 *編集完了時期をどこに置くか
 ・10月22日 「もう二三日にて歌集の校正」始まるとの記述あり
 ・10月29日 『一握の砂』の見本刷(見本組)啄木の手元に届く
 ・11月中旬頃か 『一握の砂』の編集が最終的に完了し、「再校」を印刷所に返却する
 ・12月1日以後か 処女歌集『一握の砂』が刊行される
 
○啄木の西村陽吉宛書簡の日付
 ・10月10日過ぎではないか
 
○精神修養・スバル・一握の砂の編集経緯
 ・『精神修養』明治43年12月号「崖の土」
 ・『スバル』明治43年12月号「死」
 ・『一握の砂』明治43年12月1日
 
○誕生歌から挽歌へ
 ・啄木は「真一の誕生」と「『一握の砂』が産婆の役」の関係を多くの人に書いている
 ・推敲過程
 
○「四十三年十一月末より」の意味
 ・「四十三年十一月末より」の意味を歌稿ノートから、啄木自身に語ってもらう
 
○啄木短歌史の逆転
 *推敲前と推敲後
 ・助詞一字の書き加えによる字余り
 ・歌句の改変などによる字余り

  

しっくいと木だけのインテリア、ペンダントにも注目

講演「斎藤茂吉と石川啄木」
         安森敏隆 同志社女子大学教授 

○茂吉・晶子・啄木の編纂過程
 
*斎藤茂吉
 
 「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」
  
・『あらたま』は、大正6年夏、10月、大正8年夏、10月末、大正9年9月と、5回編纂を試みている。
・茂吉は時間を掛けてしっかりと編纂している。
 
*与謝野晶子
 
 「臙脂紫は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命」
 
・晶子は、明治34年6月に与謝野鉄幹と出合って結婚のため家を捨てた。『みだれ髪』は、この1か月で編纂したのではないか。
・晶子ではなく鉄幹が作ったと思われる歌、また、鉄幹が晶子の脇に寄り添って作っているのではないかと思われる歌・・・。
 
*石川啄木
 
 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」
 
・明治43年10月4日 真一生まれる。啄木は春陽堂に行き、歌集出版契約。原稿料20円。
・一週間後の10月11日には、韻律を崩し、漢字をひらがなに変え、三行書きにして返している。
・啄木は校正のプロとして、どんどん書き換えていく。足りない分はどんどん作ってしまう。
一晩で250首作る才能を啄木は持っている。
・啄木はすごいスピードで(もっといい加減に)編纂していったのではないか。
 

「人間啄木」と「作品啄木」について語る安森先生

 
 
○齋藤茂吉と石川啄木
 
*茂吉と啄木の出会い
・明治42年1月9日 森鴎外宅での観潮楼歌会にて、啄木は茂吉と会う。茂吉と啄木のたった一回の出会いである。
・啄木は「観潮楼歌会」より「パンの会」のほうが大事だったから、次回の歌会を休んでいる。
・啄木は茂吉の4歳年下だが、すでに脚光を浴びていた。だから茂吉を軽く見ていた。
 
*茂吉と啄木の日記
・茂吉は昭和10年から20年の10年間で、日記を残さなかった日は10日くらいである。書いてない日については、弟子に「日記を見せろ」といい、自分の日記に写したりもしている。それだけ日記に執着している。
・比較すると啄木はいい加減で、日記の無い時期が多い。

 

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参加しての感想

*「歌」とだけ相対さないと「作品啄木」は見えてこない。
 
*茂吉・晶子・啄木と歌人が歌を推敲していくプロセスのおもしろさ、それを推理していくおもしろさ。安森先生は、鉄幹と晶子の間にも割り込んでいって道筋を探求している。その一端にちょっと触れた気がした。
 
*茂吉の日記もこんな風に読んでいくと興味が深い。

*「銃撃のような」と、どなたかが評した安森先生のお話は、雨足の強くなった戸外とは関係なく烈しく熱く続いた。

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 ご準備くださった方々、セミナーに参加する暇もなく受付等でずっとガンバってくださった方々に感謝します。


*参考 
 「同志社女子大学 ジェームズ館 改修工事」報告書より

-室内デザインについて-

しっくいと木だけのインテリア
 居室内の仕上は全室共通で床が米松の長尺板張り、腰壁が米松の竪羽目板張(一部鏡板張)、壁が白しっくい塗、天井が米松板張(一部白しっくい)、造作材と建具が杉となっている。
 特に天井は井の字形に分割した特徴的なデザインとなっている。杉の見切縁で切り取られた井の字の部分は白しっくいで仕上げ、残る部分は米松板で方向を変えて張っている。見切縁を良く見ると、くり型状に加工された洋式のディテールなのだが、細く繊細につくることで、日本的な雰囲気も醸している。
 このシンプルでありながら、和洋が巧みに折衷されたデザインは、ジェームズ館の特徴なので、大部分を原形どおりに改修する方針とした。 

木の質感あふれる開口部
 上げ下げ式の外窓は、バランサーを埋め込むために木製の額縁を大きく廻し、面台も大きなものとしている。2連や5連に連なる部分では、窓と窓の間を木で方立状にしつらえて複数の窓を一体感のあるものとしている。

初期の電灯照明デザイン
 竣工直後の卒業アルバムから廊下には2灯型のペンダント、居室には4灯型のペンダントがあったことを確認した。
 電灯照明の普及初期のものと思われるので復原を試みた。ジェームズ館オリジナルのデザインのようだが、同時期の山口県庁舎などよりシンプルな形状で、その後のガラスセード付ペンダント照明の基本形とも言える形状である。

 

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