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啄木文学散歩  

北海道:釧路市

 ● 17〜21 歌碑めぐり                                              


さいはての釧路駅

1〜4 歌碑めぐり
 
釧路停車場跡 幣舞橋 南大通二丁目 小奴碑 釧路新聞社跡

5〜10 歌碑めぐり
 
港文館 釧路信金南支店前 南大通四丁目 啄木下宿跡 啄木ゆめ公園 南大通七丁目

11〜16 歌碑めぐり
 
南大通八丁目 米町公園 米町二丁目 米町三丁目 米町四丁目 弥生二丁目

17〜21 歌碑めぐり
 
米町三丁目 本行寺 米町一丁目 浦見八丁目(1)(2)

22〜25 歌碑めぐり
 料亭しゃも寅跡 浦見八丁目 南大通七丁目 料亭喜望楼跡

“さらば釧路”

釧路あれこれ

 歌碑めぐりの「1〜25」の数字は、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)によります。


● 17〜21 歌碑めぐり

17 米町三丁目

  

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

 
 

酒のめば悲しみ一時に湧き来るを
寐て夢みぬを
うれしとはせし

 所在地 釧路市米町3-1先
 建立  1990年(平成2)11月22日

  

18 本行寺

「本行寺山門の啄木歌碑」

 この歌碑は、石川啄木が本行寺での歌留多会に出席したのを記念して建立された。

  

一輪の赤き薔薇の花を見て火の息すなる唇をこそ思へ

 所在地 釧路市弥生2-11-22 本行寺門前
 建立  1983年(昭和58)8月5日

  

……釧路座の慈善演劇へ行つた。昨夜よりは見上げる許り上手に演つて居る。同じ桟敷に本行寺といふ真宗の寺の奥様が娘の三尺ハイカラと一緒に居たが、釧路病院の俣野君や太田君も来合せて仲々賑やかであった。娘の手は温かであつた。

(明治41.2.11 啄木日記)

 

「啄木通信の展示」

本行寺と石川啄木

(以下「本行寺」パンフレット)
 啄木は、『明治41年日誌』の3月31日の頃に、「本行寺の歌留多会へ衣川と二人で行ってみたが、目がチラチラして居て、駄目であった」と記しています。

 実は啄木の日誌に、本行寺の名がそれ以前にも出てきています。 それは2月11日のところです。

 この日、啄木は釧路座というところに慈善演劇を観にゆき、本行寺の奥様(伊藤よしえ)とその娘である「三尺ハイカラ」、すなはち本名・小菅マツに会った、というくだりです。この観劇の席で、三尺ハイカラは啄木に手をにぎられ、彼女は啄木に恋心を抱くのですが、その恋は実らなかったとされています。

 

「本行寺20分の1の模型」
左壁には啄木一人百首の木製かるた
その右奥の書棚が啄木関係文献

歌留多寺

 第五世菅原弌也住職は、若いころから啄木の歌に親しみをもっていました。このため啄木関係文献を収集して開放していました。そこへ啄木が本行寺での「歌留多会へ行ってみた」という日記の記載。開基住職・伊藤浄栄師ゆかりの人が啄木と出会い、その啄木が本行寺本堂で百人一首カルタに興じたことに深い因縁を思い、弌也住職は「啄木ゆかりの歌留多寺」を名乗ることを発案しました。

 歌留多寺は本行寺の歴史の一面、歌留多寺の異称によって本行寺を啄木並びに啄木作品を研究・鑑賞、顕彰する拠点のひとつに位置づけようとしたものです。

啄木一人百首

 本行寺が歌人としての啄木らしさを世に問うものとして試みたのが、生涯を通じて4100首余といわれる作歌のなかから100首を選び、「一人百首」の木製カルタを作ったもので、全国にも例のない貴重なものです。

啄木資料館

「啄木も参加したカルタ会の復元模型」
左手前の人物が啄木だと思われる

 弌也住職が年来、収集してきた啄木関係文献が300点に達したこともあり、昭和61年9月10日、啄木の生誕百年を記念して本堂の一隅に「啄木資料館」が開設されました。この時、中心となった資料は@啄木資料、啄木関係文献、A啄木一人百首一式、B啄木グッズの簡単なものでした。

 しかし、平成元年4月13日に啄木が参加したカルタ会の行われた本堂の20分の1の復元模型が展示され、資料館らしくなりました。さらに、平成4年7月に展示全体の改修を行い、「啄木の釧路時代」を中心にした展示情報の一新をはかりました。

「啄木顕彰展示室への階段入口」 

 本堂2階の大広間に「啄木顕彰展示室」を増設し、市内にある啄木歌碑の拓本を中心とした展示を行っています。釧路時代の啄木と関わった人たちの資料も、展覧することができます。

(以上「本行寺」パンフレット)

    
2階の大広間「啄木顕彰展示室」   

 

小菅まさえ

 釧路の「本行寺という真宗の寺の娘」で「背の極めて低い」「東京に行って居たといふのが自慢」なところから「三尺ハイカラと綽名され」ていた女性。芝居で同じ桟敷に隣り合わせた啄木を気に入って、何度も訪ねてきたり、啄木への思いを公言してはばからない彼女を、啄木は「獣の如き餓ゑたる目をした女」と言う。

(「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子 盛岡タイムス2002.02.20〜2004.06.16 「啄木の息」掲載文より)

 

 本行寺の娘「小菅まさえ」は、啄木にひどい紹介のされ方をしている。しかし、本行寺は歌留多寺として、啄木ゆかりの品々を集めて訪れる人に開放した。二階の啄木顕彰室へは、特殊なドアを開けて階段を上っていく。拓本や写真などを自由に見ることができる。啄木関係書籍も豊富で、他の資料もゆっくり見られた。

 啄木がカルタを取った頃の本行寺模型の中では、娘たちや啄木ら若者の木製人形が賑やかに札を拾っていた。

 

19 米町一丁目

 

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

  

 

出しぬけの女の笑ひ
身に沁みき
に酒の凍る真夜中

 所在地 釧路市米町1-1先
 建立  1991年(平成3)12月24日

  

20 浦見八丁目(1)

 

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

 
 

よりそひて
深夜の雪の中に立つ
女の右手のあたたかさかな

 所在地 釧路市浦見8-2先
 建立  1991年(平成3)11月18日

 

釧路時代の啄木については映画やラジオとか有名無名作家の釧路紀行文にしばしば描かれてはいますが、案外に的外れのものが多くて何時も失望ばかりして居ります。(中略)

余り有名になった人には誰でも縁故を主張するものでしょうが、私と石川さんのお交際(つきあい)は第三者が考えるよりも淡々としたもので、何と云いましょうか丁度女学生と文学の教師が特別親しく往来が在った位と推量して頂けば本当のところです。(中略)

自作の歌を一首御披露して結びます。

 六十路すぎ
 十九の頃を泌々と
 君が歌集に偲ぶ思い出

(「文藝 石川啄木読本」『私の知っている啄木』近江じん(=小奴))

 

 交差点角に寄り添って立つ石二つ。歩道も車道も広く建物は低い。このあたり一帯が静かで広々としている。

 

21 浦見八丁目(2)

 

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

「しゃも寅の井戸」の半丸形の石が右に見える
石の前を右に曲がるとすぐに「井戸」がある
 

葡萄色の
古き手帳にのこりたる
かの會合の時と處かな

 所在地 釧路市浦見8-2先
 建立  1990年(平成2)11月8

 

【歌意】えび色の古い手帳に残っている、彼女との人目を忍ぶあいびきの時と処であることよ。

【観賞】初出「東京朝日新聞」明治43年5月7日号。「手帳の中より」五首中の一首。紅燈の巷に出入りした釧路時代の思い出を歌ったもの。「會合の時と處」になまめかしい女たちとの過去の思い出が走馬燈のように浮かび上がる。啄木が「釧路新聞」に連載した「紅筆だより」はこのあいびきの思い出の背景となる釧路花界の動静を伝えて興味深い。

(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)

 



主要参考資料
・「全国の啄木碑」北畠立朴 冊子 2006.6.1
「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子 盛岡タイムス2002.02.20〜2004.06.16
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983
・「石川啄木必携」 岩城之徳・編 學燈社 1981
・「文藝臨時増刊号 石川啄木読本」河出書房『私の知っている啄木』近江じん 1955

 

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