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啄木文学散歩

北海道:釧路市

 ● 22〜25 歌碑めぐり

 ●“さらば釧路”

   ★ 釧路あれこれ


さいはての釧路駅

1〜4 歌碑めぐり
 釧路停車場跡 幣舞橋 南大通二丁目 小奴碑 釧路新聞社跡

5〜10 歌碑めぐり
 港文館 釧路信金南支店前 南大通四丁目 啄木下宿跡 啄木ゆめ公園 南大通七丁目

11〜16 歌碑めぐり
 南大通八丁目 米町公園 米町二丁目 米町三丁目 米町四丁目 弥生二丁目

17〜21 歌碑めぐり
 米町三丁目 本行寺 米町一丁目 浦見八丁目(1)(2)

22〜25 歌碑めぐり
 料亭しゃも寅跡 浦見八丁目 南大通七丁目 料亭喜望楼跡

“さらば釧路”

釧路あれこれ

 歌碑めぐりの「1〜25」の数字は、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)によります。


● 22〜25 歌碑めぐり

22 料亭しゃも寅跡

 

「緑の多い静かな道」

啄木は、この「しゃも寅」と、百米ほど離れた「喜望楼」と、そのすぐ隣りの「鹿島屋」というふうに、狭い地域を中心に行動していたようである。よく云われるが、近くにある“しゃも寅の井戸”は、この料理屋の構内にあった昔からの自然噴井戸である。

(「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)

 

火をしたふ蟲のごとくに
ともしびの明るき家に
かよひ慣れにき

 所在地 釧路市浦見8-2 料亭しゃも寅跡
 建立  1983年(昭和58)8月5日

「しゃも寅の井戸」

喜望楼は釧路で一、二の料亭で、啄木もよく出入りしたところ。しゃも寅は小奴がいたことで知られる料亭で、酔った啄木がそこの水を飲んで酔いをさましたという。“しゃも寅の井戸”には、今も冷水が湧き出している。

(「啄木文学碑紀行」浅沼秀政)

 

「しゃも寅の井戸、がけ地の補修工事へ」

かつて釧路の名水で知られ、石川啄木ともゆかりが深い市内浦見八の「しゃも寅(とら)の井戸」について、釧路市は新年度、周辺のがけ地の補修工事を行う。同井戸は、水質の悪化で人気が薄れているが、周辺の環境を整備することで、観光スポットとしての復権が期待されている。

(2001年 釧路・根室の出来事(今日のニュース)釧路新聞WEb )

 

23 浦見8丁目

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

 舟見坂を上り 臨港鉄道住宅の脇に建つ碑
後ろに広がる海とクレーンが印象的

波もなき二月の湾に
白塗の
外國船が低く浮かべり

 所在地 釧路市浦見8-1先
 建立  1992年(平成4)12月14日

 

 周辺には夏草の緑に仄赤い穂がつき、歌碑の色とよく映っていた。

 

24 南大通七丁目

  

「ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑」

 

西の空雲間を染めて赤々と氷れる海に日は落ちにけり

 所在地 釧路市南大通7-2
 建立  1992年(平成4)12月4日

 

25 料亭喜望楼跡


「佐野碑園は しゃも寅があった場所だといわれる」

この場所は現在佐野孫右衛門を記念する“佐野碑園”となっているが、かって久寿里場所の運上屋、釧路郡役所、日進小学校の前身丸太学校などのあったところで、釧路発祥の地とされている。

(「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)

あはれかの國のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに

 所在地 釧路市南大通8-2 佐野碑園内
 建立  1983年(昭和58)8月5日

 

●“さらば釧路”

 若い新聞記者として活躍し紅燈の巷に出入りしていた啄木は、やがて釧路がイヤになっていく。その頃のことを啄木の日記から拾いだしてみる。

 

3/22 急に心地が悪い。不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になつた。
 つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。

3/23 何といふ不愉快な日であらう。何を見ても何を聞いても、唯不愉快である。身体中の神経が不愉快に疼く。頭が痛くて、足がダルイ。

3/25 早晩啄木が釧路を去るべき機会が来るに違ひないと云ふ様な気が頻りに起る。

3/27 自分が釧路を去るべき機会は、意外に近よつて居る様な気がする。

3/28 今日も休む。今日からは改めて不平病。
 十二時頃まで寝て居ると、宿の下女の一番小さいのが、室の入口のドアを明けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。

″ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ″

 歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。

 ″さらば″

 啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷中の趣味を解し、觴を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天上の楽となす。既にして酔さめて痩躯病を得。枕上苦思を擅にして、人生茫たり、知る所なし焉。

 啄木は林中の鳥たり。風に随つて樹梢に移る。予はもと一個コスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所を知らず。噫。

 予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを袂別の辞となす。

「港文館前の啄木像」

4/1 今日は何とかして、金を拵へなければならぬ、と考へた。其次は、イヤ、何とかして東京に行かねばならぬ。…………

4/2 朝、鎌田君から十五円来た。新聞を披いて出帆広告を見ると、安田扱ひの酒田川丸本日午後六時出帆――函館新潟行――とある。自分は直ぐ決心した。“函館へ行かう。” “さうだ、函館へ行かう。”

4/3 十時半波止場に菊池君と手を分つて艀に乗つた。二三度波を冠つて酒田川丸に乗る。

4/4 船員は皆大屈さうに遊んで居る。何時の出帆かと聞くと、今日は潮が無くて炭が積めぬと云ふ。

4/5 石炭を積み了つて七時半抜錨。波なし。八時港外に出た。氷が少し許り。

(明治41年 啄木日記)

 

 啄木は76日間の釧路滞在(合わせて約1年の北海道生活)に終わりを告げ、宮古経由で4月7日夜、函館に着く。

 それから4年後の1912年(明治45)4月13日、26歳と少しの生涯を終える。

 

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☆ 釧路あれこれ

● 上も下も啄木

「啄木来釧の敷石」

 「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」

南大通「くしろ歴史の散歩道」には、歩道の敷石に「人力車」「ランプ」「幣舞橋」などを彫った御影石のブロックが嵌め込まれています。それらに混じって「啄木来釧」の敷石もあり、啄木の姿と歌が彫られています。

 

「街路灯に啄木フラッグ」

「しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ」

美しい街並の南大通街路灯には、「啄木フラッグ」 が取り付けられています。全部で83本もあるそうです。

見上げても見下ろしても啄木啄木啄木 ・・・。

● 啄木通りスタンプ帳

 

「啄木通りスタンプ帳」

南大通にある店で「啄木通りスタンプ帳」をいただきました。5店舗に設置されています。しっかりした台紙に自分でスタンプを捺していきます。

全部で5個のスタンプですが、「完成しなかった場合は啄木通り推進実行委員会宛に送ると、代わりに捺して返送してくれる」というサービスまであります。なんて親切でしょう!

● 霧笛・海猫・幅広き道

行く前に、釧路観光協会に連絡しパンフレットを送ってもらいました。「啄木」に力を入れた観光をすすめている街なので、たくさんの情報が手に入りました。

釧路市にお住まいの啄木研究家・北畠立朴さんには「全国の啄木碑」の冊子をいただきました。また、手紙にてもいろいろとご教示をしてくださいました。

歌碑を探してあちこちでお話をした釧路の方々も啄木を好きでいらしたようです。

霧笛の響き、海猫の声、幅広の道をたどりながらの楽しい「啄木文学散歩・釧路編」となりました。

お世話になりありがとうございました。

「海抜66m“まなぼっと幣舞”から見る幣舞橋や市内」

 運がよければ、 雄阿寒岳・雌阿寒岳・斜里岳・襟裳岬・日高連峰・・
も見える「まなぼっと幣舞」。最上階の展望室で景色を楽しみました。

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(2006-夏)         


主要参考資料
・「全国の啄木碑」北畠立朴 冊子 2006.6.1
・「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三 釧路新書 2005
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983

 

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