・柳 1
矢ぐるまの花 函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花 初出「スバル」明治43年11月号 家の周囲に矢車の花が咲き、友と文学を語り恋愛を談じ作歌に親しんだあの青柳町時代がとりわけて懐かしい。 「石川啄木必携」 岩城之徳・編 ヤグルマソウ 高さ1メートル位。花は初夏、花弁はない。和名矢車草は葉の形が端午の節句のとき、鯉のぼりといっしょに立てる矢車に似ているところからついた。 ヤグルマギク ヨーロッパ東部から南部の原産、高さ30〜90cm、白綿毛をかぶる。花は初夏から秋、花屋で温室ものは春に出まわり、青紫、桃、鮮紅、空、白色など品種が多い。和名矢車菊は周辺花の状態を矢車に見たてた名。園芸上はヤグルマソウと呼ばれる。 花ことば 優雅・幸福・繊細な心・独身生活・デリカシー 「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。 (近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」) (宮崎郁雨「函館の砂」) (函館・啄木記念小公園 啄木座像近く 西条八十の詩碑) (阿部たつを「啄木と函館」) 土地と季節の醸し出すすばらしく美しい舞台の上で語られる「友の恋歌」。恋を歌うにこれ以上望むべくもない眺めであって、歌集の中でも際立って美しい歌である。 &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& &&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&& 柳 1 やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 初出「一握の砂」 やわらかく柳の芽が青く色づいた北上川の岸辺が目に見えるようだ。いかにも思郷の涙をさそうかのように。 まず柳の青む早春の景をだし。『北上の岸辺』と場所を指定し、『泣けとごとくに』と、思郷のせつない思いをこめる。実に巧みな構成であり・・。人間だれもが抱く望郷の情をこれほど美しく歌った作はまれである。 「石川啄木必携」 岩城之徳・編 柳 葉は多く互生するが,まれに対生,披針形〜卵形で,ふつう托葉が発達する。雌雄異株。春,開花し,多くは直立する尾状花序となる。おしべは多くは2本,子房は1個。虫媒花。 シダレヤナギは中国原産といわれ,日本最古のクローン樹木。その歴史は1200年を超える。日本には奈良時代には渡来。各地に植えられるが,日本に入ってきているものには雄株が多い。種子ができず、挿し木で殖やされた同一遺伝子のクローンである。 枝は柔軟で長く下垂し,葉は線状披針形で,裏面は白い。3〜4月,葉がのびきる前に軸の曲がった花穂をつけ,多数の黄緑色の小さい花を開く。材を器具,樹を街路樹,庭木などとする。 花言葉 愛の悲しみ・わが胸の悲しみ・素直・自由 啄木がふるさと渋民を去って、北海道への漂泊の旅に出たのは、岩手の自然が最も美しい五月でした。彼、二十歳の時です。そのふるさとでの最後の日記に、啄木はこんな意味のことを書き綴るのです。 “春の山も川も、いつになく美しい。その山々の草も木も、そして目の前の青い麦も、今日ばかりは生き生きと、私の目にうつってくる。北上川の岸辺には、ヤナギの木があわい緑の芽をつけて、きれいな川の水面に、そのかげをうつしている。”……と。 (遊座昭吾「啄木秀歌」) 啄木望郷歌中の最高傑作として推されることの多い一首です。 ・・文部省検定国語教科書(高校・現代文関係)における啄木関係教材を調べたことがあります。1949年から85年までの37年分のほぼ全部を調べました。啄木の短歌からは89首もの多様な作品が採用されていました。 ・・こんなに多くの短歌作品をとりあげられる歌人は空前にして絶後ではないかと思われます。 (近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」) ・・つまり故郷を離れ心満たされぬ生活を送る作者の心に、故郷の春の風景が浮び上りそれで「泣けとごとくに」という思郷の心が生じたのではなく、そうした対象を持たぬ自己中心的な感動としての思郷の心を、「柳あをめる北上の岸辺」という外部の素材に託して歌い上げたのである。 (岩城之徳「石川啄木」) 啄木が「やはらかに」とこの歌を起こしたとき、それはたんに「やわらかに柳が青んでいる」という想像だけでなく、その柳に、そして故郷に、身体ごと触れたいという思いがその存在の奥深くひそんでいる。 そう読むことによって、「泣けとごとくに」とまで表現せねばならなかったこの思郷の歌の深さ、受容の永続性がうかがわれるというものなのだ。・・・ (平岡敏夫「啄木の歌 新鑑賞50首」) 「やはらかに柳あをめる」風景は、春の風物詩で、「やはらかに」は「柳」を修飾するとともに、一首全体を包み込む情緒に効用する。 一、二句の「や」音のくり返しと、三、四句の「き」音のくり返しによって、ふるさとの風景が、記憶の底から、ゆっくりと、ある和やかさと緊張を伴って次第に浮上してくる容相が、効果的な韻の重ね、韻と韻の際だち(「や」と「き」、一、二句と三、四句)によって表現されている。 (上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」) 啄木の中でもっとも印象的な色である。ゆるぶ季節の色彩的なやわらかさ。そして歌のひびきが美しい。色とのびやかな声調が溶け合って、無限のなつかしさを誘い出す。おのずから「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」の<青>を思い出すというのは強引だろうか。 (「石川啄木事典」イメージ項目『色』) 啄木の幼い魂を守り育てたものは、ひとり父母の慈愛や小学校の教育ばかりではない。原野をつらぬく北上川の白い波や、磧や、草叢や、又は姫神山や、岩手山の雪の襞や劃空線。 ・・・川の南岸は崖になって翡翠の淵を湛へてゐた。北岸の河原には楊柳が密生し、水近い磧の間に可憐な撫子が咲いた。・・ (中西悟堂「啄木の詩歌と其一生」) ふるさとの春を、北上川の柳によせて偲んでいる。「目に見ゆ」は目裏にありありと浮んでくる意で、現実に見ているわけではない。 ・・・目に見えるようだ、のその「ようだ」が省略されている。・・・おそいみちのくの春は、啄木の記憶の中で、「やはらかに柳あをめる北上の岸辺」からおとずれるのである。 (上田三四二「『一握の砂』鑑賞」) 岸辺は短歌のように柳が青々と染める。・・・「柳あをめる・・」の緑は渋民の春にこそ似合うものと、春の訪れとともに思うのは啄木と私ばかりではないだろう。・・「春は渋民」である。 (花坂洋行「渋民の面影 2」石川啄木記念館館報15号) 故郷を出て一年後、啄木は東京で生活を始めていました。そんな啄木を、故郷の知人が訪ねてくることもあり、啄木は故郷の話に熱心に耳を傾けました。 ふるさと渋民村、現在の玉山村を北上川が北から南へ流れています。村の北はずれの鶴飼橋からは姫神山と岩手山を望むことができ、川岸には柳が密生していました。こうした風景を何度も思い浮かべては、涙が誘われる啄木でした。 (啄木記念館「啄木歌ごよみ」) |