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啄木行事レポート

国際啄木学会 東京大会 

   2006年9月9日・10日 明治大学 駿河台校舎

   大会テーマ「歌人 啄木」

 

会場・明治大学リバティタワー 」
最高部119.4メートル
エスカレータの縦穴を使った
自然換気が組み込まれている

 

 

 「挨拶・近藤典彦会長」
 『
前回の東京大会と比べると
 日程的にはコンパクトだが
 きっと成功します!』

 

● 研究発表

     司会 河野有時

(1)「葬列」に見るまなざしの相克

       細谷朋代   

・「葬列」の同時代評としては、金田一京助は誉め過ぎなほど好評価している。与謝野鉄幹は、相手にしていない。

・語られる盛岡--主人公・立花にとっては、前近代的なものが盛岡の地域性と見ている。

・まなざしの相克--5年前、立花は狂人たちを直接的にまなざしている。現在は盛岡の人々を通じて狂人たちをまなざしている。

・こうした変化が立花自らの思想を再構築せねばならない状況へと追いやり、「葬列」の執筆理由となったと考えられる。

・歌や評論の評価がよい啄木が、どうして小説をうまく書けなかったか。処女作といえる「葬列」の評価がよくなかったことで、啄木の小説家としての未来が暗示されていると思われ興味深い。

 

「エントランスの案内板」

   

(2)塚本邦雄から見た石川啄木

       文屋亮   

・塚本邦雄が啄木に言及している評論は少ない。

・その中から拾い上げてみる。
《人気の所以は夭折にある》
《歌集外短歌にみるべきものが多い。(例:磯行けば浪来てわれの靴跡を消せりわれはた君忘れ行く)シャンソンの「枯葉」とも照応するルフランを持つ…》
《「私には美点を解しかねる」と、人口に膾炙している歌は厳しく評価(例:東海の小島の……、砂山の砂に腹這い……)している》

・啄木が、歌集に佳作を収録しなかったのは大きな謎である。私(文屋)はそこに啄木の作為を感じる。

・私(文屋)は啄木の『一握の砂』が人々に愛されていることとは別に、塚本の「50人の読者がいればいい」ということばは傾聴に値すると考える。

   

(3)『一握の砂』における<秋>

  加茂奈保子    

・秋の霊性

 「秋立つは水にかも似る/洗はれて/思ひことごと新しくなる」
秋のもたらす感情は、「かなし」であり、「よろこび」であり、浄めの「水」に「洗はれた」ように「新し」い気分がもたらされるという点で共通する。「あたらしき心」が<秋>の霊性を享受することで、ごく自然的に実現されている。

・「秋の声まづいち早く耳に入る」という性

「秋の声まづいち早く耳に入る/かかる性持つ/かなしむべかり」
秋の声を誰よりも早く感受する研ぎ澄まされた「耳」の持ち主は、対象が「時代の声」である場合にも他人に先んじて感受し、より理想的な人間存在のありようへのヴィジョンを描かしめるであろう。そのヴィジョンの実行が不可能であるとしたら「かなしみ」とは無縁でいられない。


   

「受付 & 書籍フリーマーケット」

 

● 連続講演

 テーマ「歌人 石川啄木」

 司会 望月善次   

(1)歌人啄木---台湾における啄木の伝承

       高 淑玲  

・1930年ごろ、台湾の日本領地時代には日本語教育をされていた。そのため,日本語のわかる人は、20%ぐらいいた。1940年には50%が理解していた。台湾の人々は文学運動を起こして抗日し続けていた。

・戦後、1947年2月28日の「228事件」をきっかけに日本語教育禁止が1966年まで続いた。その後、日本語教育の飛躍期に入る。1968年、領地時代に途切れていた短歌会が復活した。短歌会は、3年前に「台湾歌壇」と称するようになった。

・台湾で啄木がどれだけ読まれているかというと、昔の方がよく読まれていた。今、大学の授業では、日本文学の一部・「短歌」の分野で例として取り上げるくらいである。私の大学(台湾景文技術学院)に大学院を作る予定があり、将来、啄木研究の人が育つことを夢見ている。

 

   

「台湾の青年が啄木研究する日を夢見て」

 

(2)啄木の責任

       今野寿美 

・啄木の歌は読みやすい。叙述の基本はあくまでも文語体なのに、意外と親しみやすい。啄木は「口語発想」をしている。それを「文語文体」にした。

・「いやになる」を例とする。明治より前の和歌には「いやになる」の表現はおそらく無い。「いやじゃぞ」は、あるが。
「気の変る人に仕へて/つくづくと/わが世がいやになりにけるかな」
「たのみつる年の若さを数へみて/指を見つめて/旅がいやになりき」
「いやになる」の表現に心情を訴えている。

・「いやになりにけるかな」のように「かな」という終助詞を愛好している。『一握の砂』551首中、103首に「かな」が入っている。実に18.7%、二割近くである。字余りになっても使っているのが11首ある。

・明治時代は文語文法がくずれて「暮らししとき→暮らせし」、「過ごししかば→過ごせしかば」と従来の使い方から外れてきている。啄木は、自ら文語文法に規制緩和をし、後世への道筋をつけたのかもしれない。

 

(3)<刹那>をとらえる啄木短歌

     木股知史      

・折口信夫は啄木を「平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉へて、叙情詩の上に一領域を拓いた」と評価したが、同時に、「此才人も、短歌の本質を出ることは出来なかつた」とも述べている。

・福田恆存は、「意識家啄木」と呼び、「意識が記憶のフィルムに強烈な光をあてながら、そのひとこまひとこまを断続的、幻燈的に、前面のスクリーンのうへに投影せしめる」と、指摘した。しかし、全部がうまくいく訳ではない。「気ぬけして廊下に立ちぬ/あららかに扉を推せしに/すぐ開きしかば」などは、うまく焦点を結んでこない。「手套を脱ぐ手ふと休む/何やらむ/こころかすめし思ひ出のあり」などは、「素材としての場面よりも時間の経過そのものが読者に感じ取られるのがすばらしい」と、言っている。

・空虚が実存の根拠になるようなひとつの時代、枠組みがあって、そこに啄木が立っていたという感じがする。

 

「内容の深い連続講演が 文字通り続く」

 

(4)「暇ナ時」を読み直す

     三枝昂之      

・商業雑誌の編集者から見ると、圧倒的に啄木は人気がある。売れる。今の十代の若者の心情に一番近いところを掬い上げているのは、俵万智ではない。啄木だ。若者の心の置きどころを一番見つけているのは、啄木だ。

・季節は万人に共通に訪れる。季節をどう受け止めてどう詠うかは歌人にとって大切なことである。啄木に季節の発見がいつ訪れたか。それは、明治41年秋だった。

・「ふる郷の空遠みかも高き屋に一人のぼりて愁ひて下る」
明治41年9月11日の作。この歌は啄木季節の歌ベストスリーの中に入る。季節が望郷の心に広がり、それがさびしさをより自分にもたらしている。

・「秋立つは水にかも似る洗はれて思ひことごと新らしくなる」
秋の季節の新鮮さがとてもよく生きている。オーソドックスに歌いながらどこか一点だけ勝負どころを配置している。

・これほど季節の発見がはっきり表れる歌人は珍しい。引越しをし、借金取りから解放され、富士の見える部屋で虫の声を聞いたりという、環境の変化が重要なポイントでもある。啄木という名で歌を作れるようになったこともその理由であると思われる。

  

講 演

   草壁焔太
       演題「意識人・啄木」

 

啄木は読むたびに新しい。啄木ぐらいその日その日を克明に書き,日記にも書簡にも書いている人は他にいない。日記、評論、小説、短歌の書き損ないも含め全部に意味がある。全部に意味付けしている。

啄木に逢いたいと思いません? 今、一番会いたい人は啄木だ。

 

草壁焔太氏の迫力ある姿と言葉
啄木は後の世に役立つものを全て書き残してくれた

    

●経歴から見る

26歳でこれだけの思想に到達した人はいない。26歳までに思想家になるには啄木のように生きればよい。

しかし、文章だけで生活できたのは当時、尾崎紅葉ぐらい。啄木は経歴も勉強の仕方も間違っていないが、社会を知らなかった。

この人の意識の力は並外れたものではなかったか。一緒にいると反応が速く面白い人だった。おっとりした金田一や土岐には特に面白かった。意識が鋭くて周りの人が生き生きとしてくる人だった。さわやかで気品のある人だった。意識が鮮明なときがずっと続いているのが啄木ではないか。表情豊かで人に好まれる人だった。

●借金問題

啄木を文学者と考えちゃいけない。口八丁手八丁の事業家だったと考える。今の金額にして1,300万円くらいの借金は、どうってことない。もし、あと5年くらい生きていれば簡単に返していただろう。たまたま亡くなったから返せなかった。

生涯,私は啄木と話し合うだろう。やってもやっても金になって返ってこない26歳の啄木に、今、忠告したいこと。「あんたは、今一番いいところにきている」と言ってやりたい。「あと少しだ」と言ってやりたい。

啄木は五行歌を予言している。五行歌のすぐそばまできている。「歌は、二行でも三行でも四、五行でもいい。三十一文字でも五十一文字でもいい」と言っている。一つ足りない考えは「五行歌は字余りではなく字足らずである」そこだけが啄木が気づかなかったこと。あと3年、生きていたら必ず五行歌の創始者になっていた。

●歌の力

小説も評論もダメで、もう自分は全部ダメだと思ったとき、感情が入って歌になった。その歌が、みんなが「ああ、いいな!」と思うものになった。

「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」

国民の気持ちに染み通るもの。人口の大半が田舎から出てきた、その気持ちにしみ込む歌を作った。

若山牧水の啄木批評は優れている。晩年、彼は「あなたが負けるような歌人いましたか?」のインタビューに「ほかの歌人はともかく、啄木にはねぇ…」と応えた。あの「白鳥は哀しからずや…」を詠ったあの人が、そう言っている。

啄木は、時代を捉え、人間を捉えた「意識人」であった。

 


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会場もよりのお茶の水駅あたり】  

「ニコライ堂」
日本ハリストス正教会復活大聖堂
1891年(明治24)に完成

 

 

「お茶の水駅と美しいアーチの聖橋」
湯島聖堂とニコライ聖堂を結んでいることから
聖橋と名づけられた
1927年(昭和2)に完成

「オレンジの灯ともる聖橋」

さだまさしさんの「檸檬」が心に聞こえてくる……。

♪喰べかけの檸檬聖橋から放る
 快速電車の赤い色がそれとすれ違う
   川面に波紋の拡がり数えたあと
   小さな溜息混じりに振り返り
   捨て去る時には こうして出来るだけ
   遠くへ投げ上げるものよ ♪

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