啄木行事レポート 第14回企画展 「石川啄木展」 2002年11月 群馬県立土屋文明記念文学館 ――――― 時代を駆け抜けた天才 ――――― 上越新幹線を降りて高崎の駅から乗った「しんとう温泉行き」バスはガラガラ。途中で一人乗って、その人が途中で降りただけ。 運転手さんは「前は自衛隊員がたくさん乗っていたけれど、今はみんな自家用車だもんね。」「朝晩の通勤通学に使われるくらい。」と寂しそうでした。 数えて23停留所、穏やかな群馬の秋の風景を楽しみました。
「保渡田」下車。雪を被った浅間山、ギザギザの妙義山が見え、「土屋文明記念文学館」は目の前です。
「明治末期、新しい文学の創造をめざして苦闘し、短い生涯を終えた石川啄木の天才的な創造活動は、近代日本文学史に光芒を放ち、現在も多くの人々から愛され続けています。 啄木は、感傷と望郷の歌人として親しまれてきましたが、近代人の抱える自意識崩壊の危機に立ち向かい、 小説・評論・短歌・詩と幅広い創作活動を行い、社会の矛盾に鋭く切り込んだ多彩な文学者でした。 石川啄木自筆の詩稿・歌稿・小説原稿・書簡・時事論ノートや、詩集、歌集、雑誌、写真等の資料によって、 啄木の実像に迫ります。また、群馬と啄木とのつながりを、雑誌「野の花」、「おち栗」や、啄木葉書新井 勘司宛等から探ります。」(第14回企画展パンフ)
「啄木は生前、群馬県内で発行された六誌に作品を掲載している。これは、啄木が生活した岩手・東京・北海道に次いで多いと推定される。啄木は群馬に来たことは一度もなかったが、この六誌を発行した人々を通して、純然と文字(書籍・雑誌・書簡等)を通じた文学的なつながりによって、群馬と堅く結ばれていた。啄木死後も、萩原朔太郎など詩人たちをはじめとした群馬出身の文学者たちには、啄木の文学的影響が広く深く認められる。」(第14回企画展記念誌) 『野の花』創刊号 上毛新詩社 1906年(明治39)3月27日発行 啄木の詩「野の花」掲載 『暁聲』創刊号 群馬県山田郡大間々小学校同窓会誌 1906年(明治39)4月12日発行 啄木の新体詩「海辺の春の夜」掲載 『おち栗』創刊号 麗藻社 1909年(明治42)5月16日発行 啄木の散文「手を見つつ」掲載 『野より』第二巻第三号 田園詩社 1911年(明治44)3月10日発行 啄木の短歌「病気にかかりて」掲載 記念館の庭からつながる敷地には、復元された前方後円墳があります。約1500年前の豪族が葬られた墓で、古墳時代の中期末の大型前方後円墳です。
*土屋文明記念文学館内のイタリアンレストランは、時間が少し早かったのですが入ってしまって正解でした。
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