石川啄木は1886年生まれだから、今年は生誕百二十周年である。
本紙4月30日付三面に「水俣病 公式確認五十年」の記事が載った。見出しに「国、一度も全容調べず」「多くの被害者を放置」「全員救済は政治の責務」とある。見出しはすぐに足尾鉱毒事件を連想させ、筆者の胸に啄木短歌一首を浮かびあがらせた。
啄木は盛岡中学四年生の1月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。それも彼一人で詠んだのではなく、かれが主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で彼自身が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだのである。メンバーは十人前後であるらしいから、少なくとも十首以上が詠まれたであろう。鉱毒事件をもっとも早い時期に何人もでたくさんの短歌にしたということになる。
○盛岡中学の回覧雑誌に
今は所在不明だが「白羊会詠草」という回覧雑誌があった。1902年(明治35)1月に啄木らが出したものである。歌の題はいろいろである。摘菜、行春、古城、藤花、虹、月といった題である。それら風雅な題の中にあって「鉱毒」という題は異様である。つぎの啄木の歌のみが残っていて知られている。
夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや
わたくしは長い間この歌を評価していなかった。
○私の評価が180度の転換
湘南啄木文庫の佐藤勝氏に教わりたいことがあって電話した。そのとき「この歌はつまらないですね」と言ったところ、氏は「民の叫びが届かない、と言いたいのではありませんか」と言われた。一瞬で目から鱗が落ちた。この歌について調べた。その結果わたくしの中でこの歌の評価は180度転換した。
1901年(明治34)12月10日、田中正造は明治天皇の馬車に近づき、足尾鉱毒問題を直訴しようとして捕まった。当時啄木が読んでいた新聞は岩手日報一紙だったと思われるが、翌日事件を報道した。14日には直訴状の全文を載せた。この作品は直訴状の内容を歌にしたものだったのである。
○正造直訴の3つの核心
直訴状の内容は三つの核心からなる。
1 足尾銅山における採鉱製銅による鉱毒が渡良瀬川流域とそこの人民を襲い「二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野」となってしまった。
2 流域人民の途方もない苦しみがますますひどくなるのは、政府も地方官庁も被害者を放置しているばかりか抗議するのを弾圧までしているからだ。
3 天皇の力でこれを救済してほしい。
碓田のぼる氏はかつて、啄木歌の「夕川に葦は枯れたり」は直訴状の「黄茅白葦」をイメージした句ではないか、と言われた(『新日本歌人』99年4月号)。卓見である。「枯れて黄ばんだ茅と白っぽくなった葦が見渡すかぎり広がる」渡良瀬川流域を啄木は上の二句でうたおうとしたのだ。「血にまどふ」は「血まよふ」の意味ではなかった。啄木は「血に」の二文字で悲惨さを表現しようとしたのである。
○田中・幸徳・啄木を繋ぐ
知られるとおりこの直訴状は田中正造が骨子を示し、幸徳秋水が書いたものであった。田中・幸徳・啄木がここでつながったのである。直訴状の三大内容は、冒頭にあげた「水俣病」記事の三つの見出しに通じている。啄木短歌・足尾鉱毒事件・水俣病もまたつながっていたのである。
(2006-05-26 しんぶん赤旗)
啄木の息--啄木の広場 掲載2006-05-30