≪ 啄木理解のキーワード ≫
1 名前 --- 寺の息子として生まれた啄木は、工藤(母の姓)、一(はじめ)と名付けられた。
2 神童 --- と呼ばれたが、自分から堕ちていった。
3 村八分 --- 石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
4 流離 --- 北海道を11カ月間転々と流離ったことが啄木の歌に息吹を吹き込んだ。
5 絶交 --- 啄木は次々と友人たちから絶交された。自分の結婚式にも帰らず、宮崎郁雨とも別れた。
6 大逆事件 --- と妻の家出事件が啄木に大きな影響を与え、啄木は人格者となり死んでいった。
7 つなぎ歌 --- 『一握の砂』の配列構成を完成させるために、つなぎ歌という手法の存在がある。
≪ 啄木短歌の魅力 ≫
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(1) 真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
『一握の砂』546
(2) 真白なる大根の根のこゝろよく肥ゆる頃なり男生れぬ
宮崎郁雨宛書簡 1910年(明治43)10月4日附
(3) 真白なる大根の根の肥ゆる頃肥えて生れてやがて死にし児
「スバル」1910年(明治43)12月号
(2)の歌のかえ歌が(3)の歌。これを推敲して(1)の歌になったと考えられる。五七五七七の七音一句の途中で改行し(うまれて/やがて)、上の歌になった。すごい変化をしている。
啄木は、佐藤北江の本名真一をとって息子に名付けた。長女京子は金田一京助の京をとった。口べたで直接言わないが、彼らに感謝しているのが分かる。
「推敲された長男真一の歌」
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はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
井上ひさしさんの話では、啄木短歌以前に「手を見る」歌はない。啄木の歌によって「手を見る」ことが国民に定着した。死後、啄木が手相の本をたくさん持っていたことがわかった。啄木は手をよく見ていたのではないだろうか。
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ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
この歌は最も啄木の特色を出している。「ふるさとの山」とあるが山の名が出ていない。読む人がそれぞれに自分のふるさとの山をおもう。日本全国、海外にもこの歌の歌碑がある。誰でも協調しやすい。戦争中、軍隊に持って行く本で万葉集と啄木歌集が人気だった。
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己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし
啄木の14歳は、節子と出会い文学と恋に熱中した。もし、節子と出会わなければ超エリートコースに乗っていたかもしれない。
「校舎からの景色」
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呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音!
啄木は医学的には結核症で亡くなり、家族もほとんど結核で亡くなった。呼吸の苦しいラッセル音を詠っている。土岐哀果はローマ字書きで歌を表したから物理的に三行になってしまった。啄木は内容的に三行にしている。
句読点やダッシュがあれば『悲しき玩具』、なければ『一握の砂』。行頭に上下があれば『悲しき玩具』、なければ『一握の砂』。一目で見分けられる。
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その親にも、
親の親にも似るなかれ――
かく汝が父は思へるぞ、子よ。
人生をしみじみと歌っている。啄木の内面がよくわかる歌。
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家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
気になる歌。文学の収入ない、プライド高い。世間から相手にされない、馬鹿にされる。家を出てしばらくは用のある風に歩き、それを過ぎるとフッと息を抜く。土岐哀果は晩年の啄木と会っているから、「啄木は人間性が成長している」と言っている。
≪ 万葉の歌 ≫
「下毛野 三毳(みかも)山」の歌碑 栃木県藤岡町三毳神社
志も徒けのみ可も能山能こなら乃す 万くはしころは た可けかもたむ
(しもつけのみかものやまのこならのす まぐはしころは たがけかもたむ)
・大意 下毛野の美可母の山の木楢のように、可愛らしく美しい女の子は、いったい誰の食器を持つのだらう。(誰の妻になるのだろう)
・下毛野(下野)は栃木県の呼び方