啄木行事レポート
「石川啄木を語る会」第二回
2006年4月9日 さいたま文学館(桶川市)
主催 国際啄木学会東京支部
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「JR桶川駅前」
かわいい色の市内循環バス 1回100円
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1 「石川啄木」を紹介 横山 強
2 啄木と北海道 目良 卓
3 今読みたい 啄木の病中詠 柳沢 有一郎
4 啄木秀歌(30分で知る啄木の魅力) 大室 精一
* 桶川あれこれ
資料 「杉村楚人冠宛針文字書簡」
「桶川市民ホール」
さいたま景観賞を受賞
円形に連続したガラス製の外壁
1 「石川啄木」を紹介
横山 強
○石川啄木と大逆事件
1910年(明治43)
・6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道する。啄木も衝撃を受け、社会主義思想に関心を持ち、多量の社会主義文献を読む。
・6月22日、「時事新報」に獄中の管野須賀子から弁護士の横山勝太郎宛の「針文字」書簡の全文と写真が掲載される。
・それから百年近くを経て、もう一通の同様な書簡の存在が確認された。大逆事件に関し、ジャーナリスト杉村楚人冠旧邸で保存されていた史料のなかから、獄中の管野須賀子名で杉村に宛てたいわゆる針文字書簡が発見された。
・「史潮」(弘文堂)に「大逆事件針文字書簡と杉村楚人冠」を発表した小林康達氏は、どちらの針文字も「同一人物によって書かれたものと判断してよいのではないだろうか」としている。
(資料 「杉村楚人冠宛針文字書簡」)
杉村楚人冠宛針文字書簡
封筒表 京橋区/朝日新聞社内/杉村縦横様 前社屋
消印 牛込/43・6・11/后□ー12
同裏 緘 六月十一日(差出人の住所氏名はない)拝
「百年近くを経て存在が確認された」
〔杉村楚人冠宛針文字書簡〕
封筒の表と裏
・9月「東京朝日新聞」紙上で「朝日歌壇」を開始し啄木が選者となる。10月啄木の長男誕生し、まもなく亡くなる。歌集「一握の砂」の稿料が葬儀代となる。
・12月10日、幸徳秋水ら26名に対する刑法第七十三条の罪(大逆事件)、第1回の公判が開かれた。大逆事件は非公開裁判だった。
「白板に地図を描いて啄木を紹介」
手のファイルは針文字書簡の拡大コピー
1911年(明治44)
・1月3日、啄木は友人の弁護士(平出修)宅を訪問、幸徳秋水が獄中から弁護士宛に送った「陳弁書」を借用し書き写す。
・1月18日、特別裁判の判決が下る。幸徳秋水以下、26名中、24名が死刑。翌日、大命により、12名が無期懲役に減刑された。
2 啄木と北海道
目良 卓
○啄木の北海道時代の意味
1 2年ぶりに短歌を詠み始めた
・歌集『一握の砂』の「忘れがたき人人」が北海道時代を懐かしんで歌った歌である。ドラマ的で小説を読むような面白さがある。
2 現実生活を見つめるときになった
・前半は教員、後半は新聞記者だった啄木だが、ちょうどこの時代が分岐点となった。函館時代に教員が終了し、新聞記者に転換し死ぬまで続くのである。ロマンチスト啄木から、現実を見つめる啄木へと移行していったのであった。
「啄木は北海道で生涯の友人を得た」
3 生涯の友人を得た
大嶋経男(流人)、岩崎正(白鯨)、吉野章三(白村)、宮崎大四郎(郁雨)の4人。啄木のすばらしさは彼の死後、友人たちが広めていった。函館小樽では、啄木会ができ顕彰活動をやって受け継いできた。
・大嶋経男(流人)
啄木が生涯「先生」と呼んだ人は二人。一人は森鴎外、もう一人が大嶋だった。わずか数カ月の触れ合いだが大きな影響を持った。
・岩崎正(白鯨)
啄木と同年の22歳だった。詩、短歌にすぐれた才能を持ち、『明星』『スバル』等にたくさんの作品を発表している。晩年気が狂って亡くなるが、啄木の詩に影響を与えた。
・吉野章三(白村)
このとき27歳。短歌に優れたセンスを持ち『明星』で活躍した。吉野の素直な歌が、啄木の歌を美文調から平易な言葉へと変えていったのではないか。
・宮崎大四郎(郁雨)
啄木と宮崎は文学を抜きにした友情で結ばれていたのだろう。啄木の妻節子の妹と結婚。啄木を援助し続けるが、節子との仲を疑われ、義絶した。
「美しい文字の“お知らせ看板”」
ホール内には、文学図書室(文学資料閲覧)や
文学展示室(埼玉ゆかりの文学者など)もある
3 今読みたい 啄木の病中詠
柳沢 有一郎
1911年(明治44)
○2月
晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。
・啄木は死ぬまで煙草を手放さなかった。当時、肺結核は煙草絶対禁止だったから、この段階で啄木の肺結核はそんなに悪くなかったのではないか。
「円形を作るガラス製のカーテンウォール」
○6月
堅く握るだけの力も無くなりし
やせし我が手の
いとほしさかな。
○7月
・高熱を発しこのまま死ぬのではないかと思われるほどの病状。
・啄木は痩せていたが若く、北海道生活を耐えることができた。結核はだんだんと身体を消耗し蝕み、やがて死に至らしめる残酷な病気だった。
○8月
何がなしに
肺が小さくなれる如く思ひて起きぬーー
秋近き朝。
病のなかの啄木の歌は
「前向きに生きる力を与えてくれる」
1912年(明治45)
○1月
・木の枝のようになった啄木が残した二つの歌
呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音!
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
…啄木は死と向き合い、死とうまく距離を取りながらやってきた。その姿勢は今生きる私たちに力を与えてくれる。
…悲しき玩具の病中詠は暗いだけでなく、前向きに生きる力を私たちに与えてくれるものだと思う。
4 啄木秀歌(30分で知る啄木の魅力)
大室 精一
○あまり知られていないが、足尾銅山鉱毒事件の「直訴状」は幸徳秋水によって起草された。啄木は「足尾の鉱毒事件」の被災者
へ義捐金を贈ったりしていた。啄木は中学時代すでに幸徳秋水の文章に触れていた。
○ 東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる.
・日本中の人が知っているこの歌を、私が教えている生徒に絵で描いてもらった。すると、絵の中の人の様子がみんな違う。なぜ泣いているのかの理由も違う。絵で描くと持っているイメージがみな違うということがよくわかる。
○『一握の砂』は啄木の人生を凝縮し象徴したような歌集である。啄木は歌集の配列構成を完成させるため、推敲を重ねた。
春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦造に
やはらかに降る
『一握の砂』
春の雪滝山町の三階の煉瓦造によこさまに降る
初出「東京朝日新聞」1910年(明治43)5月16日号
・例えば、上の歌「よこさまに降る」が初めに作られた。しかし、歌集のなかの前後の歌の関係から推敲されて「やはらかに降る」となった。「一握の砂」の歌番号
190、294,453、この三首が配列構成のため推敲されていると考えられる。
・「一握の砂」の歌の順序、配列構成は流れるようでその移りかわりが美しい。
「ね、啄木と私の顔は似てるでしょう!」
○ 真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
『一握の砂』
真白なる大根の根のこゝろよく肥ゆる頃なり男生れぬ
宮崎郁雨宛書簡 1910年(明治43)10月4日附
・この二首はどちらが先に作られたかというと、下のほうである。下の歌を推敲して、五七五七七の七音一句の途中で改行し(うまれて/やがて)、上の歌になった。ものすごい変化をしている。
…啄木の歌はだれでも感情移入ができるしだれでもイメージ化できる。しかしその形はみな違う。啄木を足がかりに多くの人が、特に文学離れといわれる若者が、文学の世界に入ってきてくれることを願っている。
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*桶川あれこれ
*いつも通り過ぎるだけの「桶川」。大宮からわずか15分で到着しました。
*ホール内、福祉の店「まねきねこ」でドリンクを買いました。チャーミングな女性がゆっくりと対応してくださいました。並んでいたアクセサリーもきれいな作品でした。
*「「オケガワ」の地名の由来」について
桶川の地名の由来でもっとも有力な説は「沖側(おきがわ)」説で、オキは広々とした田畑という意味で、その、方向である沖側がなまったという説です。ほかにも芝川と鴨川の水源があることから、川が起こる意味で「起き川」説があります。(桶川市歴史民俗資料館HPより)
「さいたま文学館前 西口公園の桜」
水道橋のような煉瓦からは水玉のレース
*「啄木の母カツの写真は一枚も発見されていない。もし出てくれば大スクープになる。啄木の書簡もまだまだどこかに隠れているかもしれない。みなさん、家に帰ったら探してみてください」とのお話。わたしは、引越し・引越しだから、探してもあるわけないのが淋しい…です。
*「啄木との交際方法」はたくさんあると教えていただいた楽しい時間でした。ありがとうございました。
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資 料 (抜粋)
「史潮」 新58号 2005年11月 歴史学会 弘文堂
研究ノート 「大逆事件針文字書簡と杉村楚人冠」
小林康達(我孫子市教育委員会嘱託職員)
はじめに
大逆事件に関し、ジャーナリスト杉村楚人冠(注1)旧邸で保存されていた史料(注2)のなかから、獄中の管野須賀子名で杉村に宛てたいわゆる針文字書簡が発見された。針文字書簡とは、白紙に針で穴をあけて文字を綴った秘密の通信方法であるが、管野名で幸徳秋水の無実を訴えた弁護士横山勝太郎宛の針文字書簡は、当時の『時事新報』などに公表されたことによって知られている。それから百年近くを経て、もう一通の同様な書簡の存在が確認されたのである。
(注1) 杉村楚人冠:本名・廣太郎 楚人冠、縦横は筆名
(注2) 千葉県我孫子市杉村松子氏所蔵の杉村楚人冠関係資料約6200件は、我孫子市教育委員会我孫子市史編さん室によって整理され、『杉村楚人冠関係資料目録』三巻(沛草ミ、書簡、。書類他)として2005年3月発刊された。また書簡全部と書類他の一部はマイクロフィルム等に複写され、我孫子市教育委員会文化課で閲覧できる。
○杉村縦横宛管野須賀子名の針文字書簡
封筒表 京橋区/朝日新聞社内/杉村縦横様 〔右隅〕前社屋
消印 牛込/43・6・11/后□ー12
同裏 緘 六月十一日(差出人の住所氏名はない) 拝
「杉村楚人冠宛の針文字書簡」
本文 (一枚の半紙に針文字で書かれている)
京橋区瀧山町
朝日新聞社
杉村縦横様
管野須賀子
爆弾事件ニテ私外三名
近日死刑ノ宣告ヲ受ク
ベシ御精探ヲ乞フ
尚御幸徳ノ為メニ弁ゴ士
ノ御世話ヲ切ニ願フ
六月九日
彼ハ何ニモ知ラヌノデス
○横山勝太郎宛の針文字書簡
一方、横山宛の針文字書簡は、明治四十三年(1910)六月二十一日付『時事新報』で初めて報道され、翌日の同紙でその写真(と思われる)とともに全文が紹介された。また、二十二日付『日本』にも詳しく報道された。
「横山勝太郎宛の針文字書簡」
(写真)『石川啄木』清水卯之助 和泉選書 1990年
横山勝太郎宛の針文字書簡
麹町区一番町〔二七]
横山勝太郎様
管野須賀子
爆弾事件ニテ
三名近日死刑ノ宣告
ヲ受クベシ
幸徳ノ為メニ何卒
ご弁ゴヲ願フ
切ニ/\
六月九日
彼ハ何ニモ知ラヌノデス
(〔 〕は『日本』による)
おわりに
今回の新史料が管野説を決定づけるものとは言い難いが、管野が獄中で針文字の本文を書いた可能性が大きいとする従来の見解を覆すものでもない。むしろ、当事者の一人横山の偽物説とは異なり、もう一人の当事者杉村が管野説をとっていることは、少なくとも従来の見解を強めるものとはいえよう。
(疑問について)
・なぜ横山弁護士が、偽物と確信していた針文字書簡を新聞公開したのか。
・目立たない小さな記事ではあるが、『東京朝日』紙上での二人のやりとりが、これまでの大逆事件研究にもジャーナリズム研究にも利用されなかったこと。
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