啄木行事レポート
国際啄木学会新潟大会
2003年 9月13・14・15日 新潟県新潟市 朱鷺メッセ
学会初日、台風14号によるフェーン現象の影響で新潟市は気温37.1度になり、9月の最高記録を更新しました。(ちなみに糸魚川市で観測史上最高の37.4度)
雪国というイメージの強い新潟ですが、夏は夏でキッパリと暑いのだと感心しました。
学会受付--美しいプラズマディスプレイ
・基調報告 山田穀城(花作)の生と歌-新潟の風土と近代文化の誕生
・ミニ講演 啄木をフィンランド語に訳してみて
・研究発表 幻の回覧雑誌「三日月」二号
・新潟あれこれ 新潟の感想、伝言ダイヤルにはまる石川啄木
一日目
基調報告・講演
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- ・基調報告 塩浦 彰 山田穀城(花作)の生と歌-新潟の風土と近代文化の誕生
(佐渡出身、短歌革新運動の始祖)
- ・第一講演 金子善八郎 相馬御風の「還元」について
(啄木とも深く関わったが、突如新潟の民衆の中へ)
- ・第二講演 荻野正博 大杉栄と田口運蔵-その「自由」と「反逆」の原点
(新潟新発田の風土は社会運動家を産んだ)
- ・第三講演 本間恂一 新潟の大正デモクラシーと田中惣五郎
(もし啄木が大正期を生きたならば)
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基調報告
「山田穀城(花作)の生と歌」 塩浦 彰 氏
-新潟の風土と近代文化の誕生-
○二つの「柳」の歌
石川啄木と山田穀城(よしき)の「柳」
啄木 やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
穀城 柳散る 秋の西堀東堀 さびしき頃よ 恋のみなとも
○短歌革新者としての穀城
- ・新潟県の近代短歌は穀城が切り開いた。
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- ・穀城は佐渡の生まれ。佐渡は奇人を生み出す風土がある。奇人といっても時代の先駆性、開明性を持った人間のことである。
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- ・1876年(明治9)佐渡郡相川町に生まれ父の顔を知らずに育つ。
- ・1898年(明治31)旧派和歌「清楽舎」に属していた祖父和秀、鈴木重嶺(最後の佐渡奉行、明治初期歌壇の名家)の二人の死によって、穀城は古い歌のラインを破り旧派を乗り越えるきっかけとした。
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- ・1899年(明治32)新潟新聞に歌論『こぼれ松葉』を発表。和歌に「清新の思想と清新の形式」を求め「恋歌を大いに勃興すべき」等、新しい歌への転換を提唱。ここに近代短歌の花が開く。
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- ・『はつ若菜』十八首 同年5月 新潟新聞
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- 寒稽古する声かなし幼な子が うられ行く身と露しらずして
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- 行人のた江し霜夜に客をまつ 老いたる車夫のかげさむげ也
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- 民衆の実態を歌った歌であり、個性の尊重、現実批判を含んでいた。しかし、当時、常識外の歌として非難を浴びた。
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- ・1900年(明治33)新派和歌団体「みゆき会」結成。穀城は自主独立の姿勢を貫いた。
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- ・『みゆき会会則』によると、「幹事は輪番制」をとり、また、弟子が師匠から一方的に学ぶというだけではなく「互に批評を試る」となっていた。
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- ・1902年(明治35)月刊雑誌『若菜舟』創刊。
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- ・一世を風靡した『明星』は1908年(明治41)100号で終刊。『若菜舟』はそれより一ヶ月後(一ヶ月も長かった)77号で終刊。当時の地方紙としては画期的だった。
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○新聞記者としての穀城
- ・穀城は中学進学のため新潟へ出たが病気で佐渡へ戻った。彼の『北溟雑誌』寄稿に注目していた新潟新聞社主筆高野問蔵の誘いで新潟新聞記者になる。
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- ・入社した翌年、1897年(明治30)5月、新潟新聞は第6000号を発行した。当時地方において6000号を超えた新聞は無い。
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- ・穀城は新聞記者になって「時代の動向に敏感であり人々を啓蒙する使命感」を、優れた資質として身につけた。
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- ・1939年(昭和14)『山田花作歌集』
- 新聞記者としての心意気ある歌を発表。
- 弱けれど筆とれば起つ力ありこの力もて生きむことしも
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朱鷺メッセ 3F
中会議室(Open 2003年5月1日)
○石川啄木に関する記事 新潟新聞
- 「啄木とその歌」山田山花 1931年(昭和6)3月14日
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- 石川啄木の歌壇に残した感銘は大きい。(略)(啄木の)失意と不満こそは彼れの天才を育くみ培ふた掩韻であつたといはねばならぬ。(略)しかも我等が彼の作に最も動かされるものは、もつと深くして又暗い所にある。といふのは彼が現実主義者の一面と虚無主義者の一面とをもつてゐ(る。)(略)
- 彼は歌うことによつて鬱勃の気を晴らす以上に出なかつたと同時にそこから一歩先へ進まんとして進み得ぬ悲痛の叫びが彼れの歌をして切々たる哀音に満たしめてゐる。(略)
- 最後に一言したいことは啄木以後啄木なし(略)。
○一衣帯水の故郷を見ながら
- 故郷佐渡は、ひたすら懐かしいが帰るところではない。新潟からは一衣帯水のふるさと、手に取るようにそこに見える佐渡を、外から客観的に見ることが穀城のグローバルな活動を求めていく力になった。
二日目
講演・研究発表
講演
・ミニ講演 ミーカ・ポルキ「啄木をフィンランド語に訳してみて」
・講演 孫 順玉 「啄木詩歌に表れた自然観」
研究発表
- ・幻の回覧雑誌「三日月」二号 佐々木祐子
啄木が代用教員時代に止宿した家の壁紙下貼調査の中からでてきた雑誌「三日月」。
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- ・啄木の俳句考 木佐貫 洋
「茶の花に淡き日ざしや今朝の冬」啄木の俳句は僅か10句のみ。しかし、重要な文学的要素が内包されている。
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・「人生手帖」に見る戦後の啄木受容 小菅麻起子
短歌選者の提唱する<啄木>と、読者が受容した<啄木>と。<啄木>に求められたものは何であったか。
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・夢と散文詩 -「白い鳥、血の海」をめぐって- 木股知史
啄木が1908年(明治41)7月の「明星」に散文詩を発表した中に、夢をモチーフとした特異な作品が入っていた。
ミニ講演
「啄木をフィンランド語に訳してみて」 ミーカ・ポルキ氏
○啄木との出会い
- ・毎夏、野尻湖に行っていた。そこで、たまたま父の書庫から啄木の本を見つけて読んだ。
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- ・高校卒業後、ヘルシンキ大学に入った。近代文学ゼミで歌や詩の課題が出たとき、啄木を思いだし簡単な論文を書いた。そのとき歌をいくつかフィンランド語訳した。1999年だった。
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- ・翌年、先生に翻訳を見せたら「もっと翻訳をやったらどうだ」といわれ「一握の砂」を訳した。歌論も入れて本を作ってみてもいいかと思った。今まで啄木の歌はフィンランド語に訳されていたが、啄木が詩をどう考えていたかなどを向こうの読者に解ってもらいたいと考えた。歌論解説を加えて本にすれば啄木のコンテクストが解ってもらえるのではないかと思った。
「エスプラナード」
各施設をつなぐ350mの長い廊下 窓の外は信濃川
○翻訳して考えさせられたこと
- ・心の動きを訳すのはむずかしい。「心」という言葉はどう訳すか今でもわからない。英語なら
「heart 」「mind 」などだが、それでいいか気になる。
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- ・「感じる」「考える」ことはヨーロッパ言語では表現しにくい。
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- 曠野ゆく汽車のごとくに、
- このなやみ
- ときどき我の心を通る。
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- よごれたる手をみるー
- ちやうど
- この頃の自分の心に対ふがごとし。
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- ・「こと」「もの」とは何か。そのまま表現できない。「あはれ」など、詩的言語もむずかしい。
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- ・英語は主語が、I ,You, He ,She,とはっきりしている。日本語は、I
でもYouでも HeでもSheでもいい。
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- ・フィンランド語は英語と日本語の中間にある。主語が出なくても動詞の活用で判る。
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- ・フィンランド語の単語は長くて困る。しかし、詩のリズムをつかんでそのリズムに合えばいいんじゃないかと思って翻訳した。
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○真剣な遊びをした啄木
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- ・啄木の魅力は英語でいうウイット、フランス語ではエスプリ、それが効いていて面白い。ヨーロッパでは言葉遊びだけと捉えられやすい。啄木の詩は遊び心はあるがかなり真剣でないとそこまで遊ぶことはできない。
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- ・ドイツの有名な翻訳者のベンジャミンが「良い歌は翻訳できない。翻訳できるのは悪い歌だ」と言っている。でも翻訳しなければ仕方がない。
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●対談 ミーカ・ポルキさん・近藤典彦会長
ミーカ・ポルキ氏と近藤典彦会長の対談
*このミニ講演の前にミーカ・ポルキさんと近藤典彦会長の対談があり、日本語とフィンランド語で「一握の砂」が朗読された。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
砂の歌十首。
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研究発表
幻の回覧雑誌「三日月」二号 佐々木 祐子 氏
-啄木が止宿した家の壁紙下貼調査の中からでてきた雑誌「三日月」-
○資料との出会い
- ・啄木は、1906年(明治39)から1907年(明治40)の一年あまりを家族とともに渋民村、斎藤宅に間借りした。渋民尋常高等小学校の代用教員時代である。
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- ・啄木が止宿した斎藤家の壁紙下貼り調査をした中に、啄木が盛岡尋常中学校で同人古木巌等と共に編纂した、回覧雑誌「三日月」二号もあった。
○内容解明への試み
- ・カッターで壁紙を切って取ると、壁紙の下は新聞紙だった。壁紙資料は大小あり、煤を吸い込んでいたため中の資料が保護されていた。
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- ・反故を剥ぐと本堂再建の寄附帳ほか、二冊の帳簿が出てきた。
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- ・「三日月」は作品をバラして貼ったため密着していた。小片に切り分けないと取れなかった。断片、小片あわせて「83片」になった。残っている作品はおそらく半数だろう。
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- ・1906年(明治39)3月10日 啄木の渋民日記には「夜、室内の壁に壁紙を貼る。」と書いてある。
○「三日月」の由来・発行年
- ・1901年(明治34)6月21日 金田一京助宛書簡に「雑誌は末ながく望ある「三日月」と名づけ候」と記している。
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- ・従来は、啄木自身の記述により「明治33年秋」(1900年)としてきた。
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- ・しかし、1901年(明治34)に三冊とも出た。
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- ・1901年(明治34)6月21日 金田一京助宛書簡に「二号は先月末(五月末)に発行仕候」「三号は来る六月廿五日に出さむつもりに候」と記している。
○「三日月」の目次
- ・「三日月」という文字が入り、その次に「目次」と書いてあるので“「三日月」の「目次」”とわかる。
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- ・目次も全部残ってはいない。しかし、不完全だが残ったためにいろいろなことが分かる。目次を見るとこれが一地方の回覧雑誌かと驚く。盛岡のみに限らず函館などとも交流があった。
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「下貼り調査はワクワクする」と、佐々木祐子氏
○なぜ「三日月」“二号”か
- ・編輯子口上「本号が先月のより余程・・」とあるので“二号”とわかる。
○当時の文学観、英雄感
- ・半紙に書いた作品を綴って、同人の間を回覧し各人が批評を付けている。行と行の間に朱でギッシリ書き込んである。野村胡堂の書き込みが、一番多い。
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- ・後に盛岡中学校の黄金時代といわれる、啄木世代の中学生の文学観、中学校の雰囲気、当時の英雄感など、解明出来た部分もある。
○下貼調査をして
- ・壁土の赤と朱文字が混在し非常に読みにくい。
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- ・壁紙は酸性紙、明治の新聞も酸性紙のため作品を蝕んでいる。鉛筆、万年筆など色がどんどん薄くなっていく。剥いだときが一番新しい。
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- ・これから「三日月」は、表具師にお願いしなければならないと思っている。
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新潟あれこれ
- ●伝言ダイヤルにはまる石川啄木
- 学会の日の朝。ホテルのテレビで作家の高橋源一郎氏が「明治の作家」について話していた。
- 「明治の作家を現代に役立てるにはどうしたらいいか。明治43年にそのまま現代の風俗を出してしまう。そうすると明治文学を現代語訳したことになっていくと考えた。」「石川啄木が娼婦をたくさん買ったのは、これは今で言うと援助交際にあたる」
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- 以前に、高橋源一郎氏の『官能小説家』『 日本文学盛衰史』などを読んだがよくわからなかった。
- でも、新潟に来て「石川啄木は伝言ダイヤルで遊びまくった」という意味がやっと分かった気がする。
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夕暮れの新潟 中央に140mの万代島ビル
- ●縦ならびの信号機
- 信号機の“青黄赤”は普通、横並びしか見ないが、ここでは縦に並んでいる。信号機に雪の積もる面積を少なくするための「雪国仕様」だそうだ。
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- ●電柱が無い
- 街の空が広く感じるなと思ったら、電柱がなかった。
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- ●1923年関東大震災の混乱で惨殺された大杉栄
- 大会中の新潟日報 9/14「日報抄」にこんな文が載っていた。
- 「今年は大杉栄らが没して八十周年、追悼集会はこれで幕を引きます」「命日の9月16日に追悼してきたが、遺族が高齢化して参加が難しくなったために、一区切りつける・・・」(大杉は、少年時代を新発田市で過ごした)
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- * ご準備くださった方々に感謝します。
- * 新潟のお米は美味しかった!
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