啄木行事レポート
啄木学級 文の京(ふみのみやこ)講座
2008年7月2日 文京シビックホール
○ 講演「啄木と京助をめぐる時代」
講師 金田一秀穂 氏
○ 対談「啄木と京助の友情」 金田一秀穂氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)
祖父は金田一京助、父は金田一春彦。大学にTVに雑誌にと広く活躍中の金田一秀穂氏を迎えて、石川啄木と金田一京助との親交をテーマに文の京講座が開かれた。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
啄木
「文京シビックセンター」
25階には都内を一望できるラウンジがある
● 祖父と祖母の生活
祖父・京助さんとその妻・静江さんはあまり仲が良くなかったように見えた。私から見る祖母は、歌舞伎が好きでいわゆるミーハーだった。「歌舞伎は楽しむものだ」と教えてくれた。
毎年、家族みんなでお手伝いも連れて湯河原に避暑に行った。阿佐ヶ谷から湯河原までハイヤーをたのんで行くなど、どんどんお金をつかう人だった。
祖父のお陰で、私たち一族は中学に入るとみんな国語の先生が担任になった。学校側が配慮してくれたらしい。金田一という名が無ければと思ったこともあった。
京助さんは最期まで盛岡弁の抜けない人だった。息子の春彦さん(父)は盛岡弁が嫌いだった。春彦さんは最期まで京助さんを追い越せないと思っていた。そこでなんとか自分のアイデンティティーを示すため、京助さんの絶対できない「アクセント研究」をした。
「盛岡市先人記念館」にある金田一京助記念室には「阿佐ヶ谷のおじいちゃんの部屋」(一部移築し復元した)がある。思い出通りの全くそのままの部屋になっていて懐かしかった。
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- 「文京シビックセンターの入口」
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● 京助と啄木の青春時代
京助さんは1907年に東京帝国大学を卒業した。1908年、啄木が北海道から京助さんの住む赤心館にころがりこんだ。今からちょうど100年前にあたる。京助さんは立派な明治の男で長男だから年下の面倒をよくみた。
啄木は「オレはダメだ」というセンチメンタルな人。しかしとんでもない才能を持っていた。心は言葉でしか伝えられない。そして、心は得体の知れないものだ。啄木は、心をことばに表せる天才だった。
京助さんは文学的素養のある人で文章も絵もうまかった。ところが、啄木と出会って、「とてもじゃないが敵わない」と文学への道を捨てたのではないか。京助さんは啄木に金を貸し、そして、貸し倒された。しかし、私は京助さんは啄木という人に会えてよかったと思う。
啄木が初めて京助さんのところへ来た時の手紙が盛岡てがみ館にある。長い手紙でそれを読むと二人が楽しい青春時代を過ごしたことがわかる。
静江さんは「節子(啄木の妻)さんはとてもとてもいい人だ」と言っている。啄木が亡くなったあと挨拶に来たが、お茶にも菓子にも手を出さず(結核菌がうつることを慮って)よく気のつく人だと話した。
京助さんは啄木に金を貸して返してもらえなかったが、その後、啄木のことを話すこととアイヌ語と辞典の三本柱で金を儲けたからちょうどいい。
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- 「東京ドームシティのビッグ・オーと
サンダードルフィン」
- 会場の隣は後楽園ゆうえんち
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○ 対談
「啄木と京助の友情」 金田一秀穂氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)
金田一/ 私は、言葉と心に興味がある。心をどう表すか。作品から啄木を見ると素直ないい子に見える。「働けど働けど・・・」だけど、そんなに啄木は働いたか、と思う。
山本/ 啄木は「歌はいいが人間性はダメだ。たくさん借金しているし・・」といわれる。京助さんは作品と人間性は同じだと言っている。一つよければ両方よいと書いている。
金田一/ 啄木は口語で気持ちを伝えるという、今の日本語を作った一人である。自分の素直な思いを表したら五七五七七になった。啄木がいなかったら俵万智もいない。
山本/ 啄木と京助さんは赤心館で互いに自分の心をさらけだして語った。そのうち啄木は『あまりにも正直にさらけだしてはいけない』と、ある程度距離をおくようになった。
金田一/ 京助さんは家長的で啄木の兄としてふるまうので、啄木にはうっとうしかっただろう。金田一の家には飲んだくれの絵描きとか、宮沢賢治とか頼ってきたり訪ねてきたりする人が多かった。だから面倒見がよかった。
山本/ 二人が話す時は盛岡弁だった。啄木は他の人とは東京弁で話した。京助さんはなかなか方言が抜けない人だった。二人の共通の思い出として「秋の岩手山」がある。二人ともに大好きでそのことを書き残している。
「渋民尋常小学校のクリアファイル」
その昔
小学校の柾屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけむ
啄木
金田一/ 京助さんは岩手山の写真を阿佐ヶ谷の家に飾っていた。盛岡に行くと街に山がある。それはうらやましい。山を見ると、自分のルーツを感じる。
山本/ 明治41年7月28〜29日、啄木は一家を養うため炎天下の東京を(金策に)さまよい、やっぱり最後は京助さんに頼った。
金田一/ 一晩二晩、語り明かす青春は今もあるのだろうか。貧しいことを苦にしない幸せな時代だったと思う。京助さんは啄木のために本を売ったが、それは京助さんのためでもあった。京助さんがアカデミックな道を選ぶ決意でもあった。啄木が赤心館に来てくれたおかげで、私はここにいるといってもよい。
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● 当日の講演会の様子をCATVで放送予定
・番組名「みんなのひろば」金田一秀穂氏 講演「啄木学級『文の京講座』」
・2008年8月4日〜8月10日 20:02〜21:57
・文京区民チャンネル(アナログ5ch/デジタル111ch)
*番組は都合により変更になる場合があります
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- 「盛岡のお土産」
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