啄木行事レポート
啄木学級東京講座
2004年10月3日 有楽町朝日スクエアにて
○ 始業前
○
1時間目 - 講演「啄木短歌を源泉として〜寺山修司・立原道造・藤沢周平〜」講師 門屋光昭氏
○ 2時間目 - 対談「啄木と明治の盛岡」門屋光昭氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)
○ 放課後
○始業前
マリオンのある有楽町朝日スクエアには、目立たない入口がある。啄木も校正係として月給25円で働いていた、朝日新聞本社の跡を記念した朝日新聞記念会館のドアである。
朝日新聞記念会館の入口
大勢が出入りする口とは別にひっそりとしてる。入ってすぐの右壁には、この写真にも小さく写っている金属板が掲げてある。
「朝日新聞東京本社跡」を記念するプレート
「朝日新聞東京本社跡
朝日新聞社は1879年(明治12年)大阪で創業、9年後に東京に進出し本拠を現在の銀座6丁目に置いた。(中略)
その建物は当時の最高傑作とうたわれ----東京の新名所となった。----この地に一文を掲げて末永く記念するものである。
○1時間目
講演「啄木短歌を源泉として〜寺山修司・立原道造・藤沢周平〜」
●藤沢周平は『啄木評伝』を書いたかもしれなかった
- ・今いちばん輝いている作家は藤沢周平だろう。
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- ・司馬遼太郎は上からの視線で世界を見ている。しかし、藤沢は自分と同じ名もない武士、町人の姿を描いている。
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- ・啄木はすごい借金をしたが26歳で亡くなった。40〜50歳になれば返せたかもしれない。だから私たちは、40〜50歳になっている自分の眼で啄木を見てはいけない。
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- 各地から200人もの参加者
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- ・ 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
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- この歌は藤沢の心の中に入っている。藤沢は44歳のとき直木賞候補になり、46歳で直木賞を受賞。それまでは書いても書いてもだめだった。評価されなかった。
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- ・藤沢がまだ命があったなら、啄木の評伝を書いただろう。 藤沢の目線で書いたものはおそらく今までの啄木の評価を変えただろう。
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- ・井上ひさし氏に「先生が先に『泣き虫なまいき石川啄木』を書いたので、藤沢周平氏は啄木を書くことを遠慮したのではないか」と聞いたら、「確かに啄木の資料を藤沢は集めていた。そうだったかもしれない」と答えた。
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●寺山修司は啄木が好き
- ・寺山が最初に作った句。
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- 便所より青空見えて啄木忌
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- 中学のとき作ったと本人はいうが高校ではないか。よくウソを言う人だった。
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啄木祭のビラ貼りに来し女子大生の古きベレーに黒髪あまる
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- 門屋氏のユーモアたっぷりの話
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- ・寺山の小説に「若き日の啄木」というのがある。啄木短歌を使いながら小さな9つの物語を構成している。
「煙草」という章では、冒頭に啄木の歌がある。
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- 青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか
・啄木が便所で煙草を初めて吸ったと書いている。事実ではないが、寺山は啄木が好きでそういう虚構をしている。
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●強い人気の立原道造
- ・立原道造は女学生に根強い人気がある。
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- ・堀辰雄を批判しそこから自立するために盛岡へ行き1カ月滞在する。24歳で亡くなるがその半年前のことだった。
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- ・「出たばかりの宮沢賢治全集を読んだがつまらない。」と評する。しかし、啄木に対しては、「啄木の住んでゐた家などが僕のゐる近くにあり、いろいろなところに啄木の記憶が残ってゐる。」などと、友人への書簡に書いている。
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- ・立原道造に与えた啄木の影響は大きかった。啄木短歌の模倣もしている。
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- ・1938年(昭和13)秋、盛岡に滞在。冬、長崎に滞在中喀血。帰京して東京市立療養所に入所。1939年(昭和14)24歳で亡くなった。
全国に誇る麺のまち盛岡
盛岡冷麺、わんこそば、じゃじゃ麺のディスプレー
○2時間目 対談
「啄木と明治の盛岡」門屋光昭氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)
- 門屋/
- 「壬生義士伝」は今年の日本アカデミー賞の最優秀作品賞などを受賞した。「南に遠く早池峰山、西は南昌山、東根山、北のおやまは岩手山・姫神山。ぐるりを高い山々に囲まれて、城下を流れる中津川…」
- この浅田次郎の原作は、啄木の小説「葬列」から出たのではないか。
- 「遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峰を繞らして、近くは名のある鑪山…、河鹿鳴く中津川の浅瀬…」
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-
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- メモをとる手も忙しく
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- 山本/
- 啄木は銀座で老紳士が赤い靴を履いているのを見てうらやましがった。「緩やかに運ばれる赤革の靴が、軽さうであった。」と記している。啄木もどんなにか赤い靴が履きたかったか。
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- 門屋/
- 背広もそうです。洋服を着ている人のことは日記に書いている。洋服に憧れていた。しかし自分はワイシャツの上に着物を着ていた。
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- 汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも -
- 啄木は洋服を着ることはできなかったが、着崩れた着物の襟を正している。
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- 山本/
- 啄木が初めて口にした西洋料理はカレーライスではないか。盛岡中学時代に、清風館で行われた歌会のときであったと思われる。啄木は黙々と食べていたという。それを見ていた野村胡堂は「一握の砂」を手にしたとき、カレーライスの歌がないかと探した。初めての洋食を啄木はためらわずに食べていた。
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○放課後
- やはらかに柳あをめる
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- 北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
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「第一号歌碑除幕式の日」の金田一京助の書が壇上に飾られていた。
除幕式の日(第一号歌碑)金田一京助書
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冷麺などのディスプレーがとても美味しそうでした。
企画運営してくださった方々、どうもありがとうございました。
また、来年を楽しみにしています。
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