啄木行事レポート
啄木学級東京講座
2003年8月24日 有楽町朝日スクエアにて
○ 始業前
○
1時間目 - 講演「啄木への思い」 講師 三好京三氏
○ 2時間目
- 対談 三好京三氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)
○ 放課後
○始業前
会場となった有楽町朝日スクエアは、有楽町駅前のマリオン11Fです。
冷夏となった今年ですが、講座の開かれた日は夏の日ざしが溢れていました。
マリオン11Fの会場入り口
○1時間目 講演「啄木への思い」 三好京三氏
啄木は愛されて育った
- ・啄木は私にとって雲の上の人だから、語るのは怖い。しかし、大きな影響を受けた。
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- ・啄木は盛岡中学に128人中、10番で入学した。私は一関高校で220人中、34番だった。やっぱり啄木はすごいと思った。
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- ・中学1〜2年の教科書に啄木の歌が載っていて、それが啄木の歌に出会った始めだった。実力のある国語教師から習った。
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- たはむれに母を背負いて
- そのあまり軽きに泣きて
- 三歩あゆまず
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- ・私は、「みあしあゆまず」と習った記憶がある。だから「さんぽあゆまず」という人はバカかと思っていた。
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- ・この歌を習って、啄木は親孝行で母親を大好きだったんだなと思った。「おれのようなわがまま者を育てたから軽くなってしまったのか」と詠んだ啄木は親孝行だ。そして、啄木の母親は優しかったのだろう。
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- ・啄木は愛され愛され、何でも思う通りさせてもらって育ったから、自分の思いを誰かに言わずにいられない。発表せずにいられない。「たはむれに背負う」ことのできる母に育てられたから。
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- ・私は、母から出刃包丁で追いかけられた。運動会では遅いが出刃包丁の時はすごい速さで逃げた。母は怖かったが祖母は優しかった。小学校にはいるまで祖母のオッパイを吸っていた。
身振り手振りで思いを伝える三好先生
啄木も私も、将来の夢は小説家
- ・戦争中は軍国少年だから、女学生を見ただけで上級生から殴られた。
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- ・でも戦争が終わり「陛下のために死ぬ」といっていたのが、たった10日後の、8月25日ぐらいには、文章家になると決めて毎日本を読むようになった。将来、農業はしない。父が荷馬車引きをしていたがそれも継がない。小説家になりたいと思っていた。
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- ・啄木の「あこがれ」を読んだ。
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- 師も友も知らで責めにき
- 謎に似る
- わが学業のおこたりの因
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- ・ああ、これは初恋の歌かと思った。啄木の「あこがれ」の中の歌、十首か二十首を読んだことで、私は文学をもらった。
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- ・学制改革で、一関中学から一関高校になった。啄木は三年次修了時135人中、85番。私は、220人中、6番。ちょっと勉強したら啄木に勝った。
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- ・人殺し以外のことだったら何でもして作家になりたかった。宮沢賢治、石川啄木は私にとって神様だったから、研究する気は全くなかった。“無頼派の流行作家”になるつもりだった。
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- 石をもて追はるるごとく
- ふるさとを出でしかなしみ
- 消ゆる時なし
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- ・天才啄木は中学のときカンニングをし退学した。そして東京へ出て与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻に会った。しかも夫妻に歓迎されたのだ。退学してよかった。啄木は短命だから一日も早く師匠に会ったのはよかった。
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- ・私は、煙草と酒をのみ、堕落して停学になった。「これで作家になれる」と思ったが実際はそれから30年かかった。そして「小説作法」の丹羽文雄に会いたかったが会えなかった。
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- 汽車の窓
- はるかに北にふるさとの山見え来れば
- 襟を正すも
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- ・この歌で、家庭教育の良さが分かる。子育てはやっぱり幼児期が大事。啄木は、お寺さんらしい礼儀を身につけ、母のたっぷりの愛情を受けた。だから楽しい発想を得たときには人に言わずにいられない。
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- ・啄木はあらゆる意味で天才だから、私は「そのように勉強は出来ない」と逃げていた。しかし、尊敬し続けひとつの指標となった。
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- ・作家は「小説がうまければいい」。歌人は「歌がうまければいい」。
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啄木の里からのおくりもの
啄木の顔写真入りのジュース、啄木そば
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○2時間目 対談「啄木と学校」 三好京三氏 山本玲子学芸員
- 山本/ 啄木は14歳で恋をし、節子のことを「白百合の君」と呼び、節子は啄木宛の手紙には本名を書かず「百合子」としていました。恋は罪悪の時代に百数十通の手紙をやりとりしています。三好先生は、中学時代女学生を花にたとえるということはありましたか。
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- 三好/ そういう美しい夢を抱かなかった。無頼派だから。「どうしたらキスできるか」と思っていた。
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- 山本/ 啄木は陸軍幼年学校に入るのが夢でした。上級生の及川古志郎は、啄木の体が小さいので軍人の道は向いていないと与謝野鉄幹の本を薦め、やはり上級生の金田一京助などの影響により文学を志すようになりました。三好先生も「軍人から小説家へ」と変わったのでしたね。
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「北上川讃歌」を作詞されている三好先生
語り、そして歌う
- 三好/ 啄木はうらやましい。初恋の人と結婚している。節子のことは美しいことばかり詠んでいるのではないですか。
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- 山本/ 節子は眉の美しい人でした。
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- 子を負ひて
- 雪の吹き入る停車場に
- われ見送りし妻の眉かな
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- 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
- 花を買ひ来て
- 妻としたしむ
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- などの歌があります。
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- 三好/ 岩手県は南部藩と伊達藩があり、方言から生活習慣から全く違う。だから(藩の違った)私の女房は苦労した。
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- 山本/ その点、啄木と節子は同じ南部藩でした。
- 修学旅行で啄木は三好先生の一関中学にも行ったのです。啄木の友人の船越金五郎の日記に、一関中は「壁が白く盛中と似ている」「理科室で胎児を初めて見た」などの記述があります。
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- 三好/ ほう、そうでしたか。知りませんでした。
- 啄木の「校長排斥」がありましたね。
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- 山本/ 渋民尋常高等小学校代用教員のとき、高等科の生徒を指導して校長排斥の ストライキ をしました。大騒動になり、校長は転任、啄木はもともと辞表を出していましたが、免職になりました。
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- 三好/ 啄木は自分の信念を行動に直結させていたんですね。
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- 山本/ 「教育とは人間を育てること」と言っています。教育の本質を人間づくりととらえていました。
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○放課後
今日の公演の舞台を飾った土岐哀果さんの掛け軸は、ふだんあまり見ることが出来ないものだそうです。
授業の終わった後に壇上近くでゆっくりと鑑賞しました。
大正11年4月13日
土岐哀果書 「啄木記念碑 除幕式」(第一号歌碑)
企画運営してくださった方々、どうもありがとうございました。また、来年を楽しみにしています。
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