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啄木行事レポート

啄木学級東京講座

   2001年 8月26日 有楽町朝日スクエアにて

始業前

1時間目 - 講演「私と啄木」 講師 永六輔氏

2時間目 - 対談 永六輔氏 山本玲子学芸員(石川啄木記念館)

放課後


始業前

 会の始まる前に銀座を歩きました。有名店舗がずらりと並ぶ並木通り。たくさんの車の排気ガスを浴びながらも、元気に啄木の歌碑は立っていました。朝日を浴びて碑は暖かでした。

 

銀座並木通りの啄木歌碑

 京橋の滝山町の

 新聞社

 灯ともる頃のいそがしさかな   啄木


碑の裏側には啄木鳥

 シナノキのスペード形の葉陰には、啄木鳥が真剣な目をして留まっていました

1時間目  講演「私と啄木」永六輔氏

啄木を観光資材にするには

  • 啄木のことは、ぼくはだいっきらい。でも嫌いな人のことは気になる。
  • 盛岡駅の駅名の文字は、啄木の字。下手で勢いがない。なぜかといえば、啄木の書いた文字の中から,「も・り・お・か・」を選んで切り取って貼っただけ。啄木の字を使おうという思いつきは良いけれどね。
  • (「ふるさとの山に向かひて」の歌をテープで聞かせてくださってから)この歌は、33年前、いずみたくと作った。バラード部分は啄木の歌(「ふるさとの山に向かひて・・」)。オブリガートをぼくが書いた(「・・ふるさとの川はおふくろのまなざし・・」)。デュークエイセスが歌っている。ほら、ぼくと啄木は関係あるでしょう。
  • はっきり言います。啄木を観光資材としてどう扱うか。それが岩手県に、玉山村に必要。啄木をどう売るか。歌碑を作っても生家を紹介しても今の若い人は付いてこない。啄木は貧乏、病気、どこを取っても悲惨。どこか一カ所くらい明るく楽しいところを探したがなかなか無い。啄木をどう語り残していくか。たとえば、啄木の人脈の中に幸徳秋水が入っている。幸徳秋水を知らなくても、井上陽水はみんな知ってる。彼は本当の親戚にあたる。啄木は貧しいから病気だから暗いのか。今の日本のみなさんはやっぱり貧しい。

啄木は歌に託した思いがあったのではないか

  • 頭の体操です。みなさんの頭の中に思った数字をぼくが当てます。【思った数字に1を足して2を掛けて10を足して2で割って始めに思った数字を引いてください】僕の数字になったでしょう。
  • 頭の体操がどうして啄木か。心配しないで。ちゃんと繋がるのです。これはすり替えの問題。頭の中に浮かぶ数字を当ててるのではない。単なる数字のマジック。必ず「6」になるのです。
  • 啄木も歌の中ですり替えをやっていたのではないか。自由に物がいえなかった時代、言ってはいけないことを上手にすり替えていたのではないか。
  • 北原白秋、西条八十、野口雨情。戦争の時代、みんな詩を書くのをやめて童謡に変更した。子どもの詩なら警察は見逃す。「かえりゃんせ」について野口雨情は『今なら間に合う「今来たこの道かえりゃんせ」と歌ったのだ』と直接話を聞いた人が言っている。「七つの子」の『からすなぜなくの』のカラスは、朝鮮人の強制労働者を歌っている。「シャボン玉」「赤い靴」「歌を忘れたカナリア」みんなその中に何かを託した。
  • 同じ時代に生きた啄木はどうしたか。今これを言ったら危ないよという思いを、五七五七七の中に詰め込んだはず。このことは、対談の時に聞きます。

2時間目  対談 永六輔氏 山本玲子学芸員 

啄木直筆ノートのこと

  • 永   『啄木直筆ノート「悲しき玩具」』は、途中から筆跡が変わるが、そのことについて説明してください。
  • 山本  同じ人の筆跡です。ペンを換えたり、一字ずつ書いた部分と、つなげて書いた部分があり、違う人のように見えるけれども。岩手大学の先生が、節子か光子の字かと調べたが、一文字一文字は啄木の字であると分かりました。
  • 永   家族じゃないですよ。誰も知らない女性が居たんだ。
  • 啄木の考え

  • 永   歌の中に(隠れた思いを)託しているのはないか。
  • 山本  大逆事件のころ「時代閉塞の現状を・・」と歌ったのはあります。
  • 永   それは生(の言葉で)で歌っていますね。啄木の考えはどんなですか。
  • 山本  無政府主義です。自分が貧乏なのは、社会が悪いからだと考えていた。でも啄木の無政府主義とは、たとえば肉を生で食べてしまうような人と考えていたところもあります。当時の家父長制度で、啄木は長男だから父・母・妻・子・妹を20歳にして養わなければならない。同じ給料30円で、金田一京助は、妻だけを養う。これでは自分がどんなに働いても豊かになれない、と考えていました。
  • 永   啄木は寺の子ですよね。僕も寺の子ですが。お父さんの寺の檀家の数は?
  • 山本  今は、700です。その頃も街道沿いにあり(檀家数では)いい寺でした。
  • 永   瀬戸内寂聴も初めて寺に行ったころは檀家が30くらいだった。(啄木のお父さんの寺が)そんないい寺だったなら、お父さんが駄目だったんだな。
  • どんな先生だったか

  • 永   教え子の話はどうなの。啄木はどんな先生だったの。
  • 山本  英語が得意で、道で出会うと「ハロー」「グッドモーニング」と話しかけてきた。熱血先生で、文部省で決められたことを教えるのは好きではない。課外授業で英語を教えたり、担当ではないのに社会を教えたりしました。
  • 永   それはいいな。啄木は英語をどこで身につけたの。
  • 山本  中学の時のユニオン会で。小沢恒一に習いました。
  • 今なら治る病気で

  • 永   啄木の病気は今なら治るの。なんて病気なの、結核?
  • 山本  今なら助かると思います。死亡診断書は肺結核です。その前は慢性腹膜炎。立ち居が困難で、入院手術をして、ウイスキー色の水が一升五合とれた。
  • 永   内臓に痛覚は無い。でも、腹水を抜く前の啄木はずいぶん痛かったでしょう。27歳で今なら治る病気で死んだのですね。30,40,50歳と生きていたら面白かったと思いませんか。
  • 山本  わたしは、若くて美男子のまま死んだから良かったと思います。


  • 放課後

     このあと卒業式があり、記念のおみやげをいただき笑いいっぱい・得ることいっぱいのクラスは終わりました。帰り道、永さん絶賛の歌舞伎座前「いわて銀河プラザ」に寄りました。アイスクリームが美味しくて、おみやげにもしてしまいました。

    企画運営してくださった方々、どうもありがとうございました。また、次回もよろしくお願いします。

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