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啄木行事レポート 

「石川啄木を語る会」第3回

   2007年5月13日 川越市立図書館(埼玉県川越市) 
主催 国際啄木学会東京支部  

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     *川越は小江戸と呼ばれる蔵の町

 
 
「川越駅東口」   
    
蔵の町並み・喜多院・会場である中央図書館などは東口にある
 

  

   「WELCOMEの横幕」
   川越城築城550年記念・市制施行85周年記念

 

   

    

 
 「川越市立中央図書館」
インターネット上で図書館資料の検索・予約と貸出状況確認ができる
 

      

「始まる前の会場」     

  

 「啄木の貧乏生活」          清水健一 

・この時代の文学者はすべて金持ちがなった。例外として「寺の息子」は、文学者になれる可能性があった。

啄木は岩手郡日戸村の常光寺に生まれた「寺の息子」。

・「女学校に行けば生意気になる…」という時代。啄木の母は頭は良かったが教育は受けていない。字もロクに書けなかった。

・啄木の入った盛岡中学は、今でいうと東大進学率が全国でも屈指の高校と同じような学校だった。野村胡堂、米内光政などみんな金持ちの息子。その中に1人だけ啄木がいた。啄木が、なぜ退学したか。今よりも激しい学歴社会の中で理由はいろいろあっただろう。

・啄木は「借金魔」といわれるが、残された日記や手紙を見ると、建設的できちんとした人だったのがわかる。

・亡くなる年には、結核療養のために施療院を勧められたが「俺は人に施しをしてもらったり、助けてもらったりしない」と断った。最後まで誇りを失わなかった人だったのがわかる。

・現在の私たちは、腹いっぱい食べられるようになったが、果たして幸せだろうか。

・啄木が金持ちの坊ちゃんだったら、あの短歌はできなかった。貧乏が啄木に名歌を作らせた。

    

 

 「飛行機と啄木」           柳沢有一郎    

○ 啄木が「飛行機」を書いた頃、日本における“飛ぶもの”の認識はどのようなものだったか。

    飛行機
                   1911.6.27. TOKYO.

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ・・・

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

 

・1903年、アメリカのライト兄弟が初飛行をした。日本では、飛行船も飛行機も違いがあいまいで飛ぶものとしてひとくくりにし、漢字も飛行『器』とされていた。

1909年11月。愛知県の少年が設計した飛行機は、上下の動きもできるし空中で止まることもできる、滑走路もいらないといういい加減で非科学的なものだった。しかし、それが東京朝日新聞に載ってしまう時代。まだ飛行機はあいまいなものだった。

・1909年12月。ル・プリアールというフランスの武官が日本に滞在していた。エンジンを積まず車に引かせて飛ばすグライダーのようなものに乗って日本初飛行をした。

・1910年12月。日野大尉、徳川大尉が本格的飛行に成功する。

・1911年4月。川崎でアメリカ人マースが飛行機に乗って飛ぶという見せ物をした。

・1911年6月27日に、啄木がなぜ飛行機の詩を書いたかはわからない。日記にはその年の4月2日に「…新聞には花の噂と飛行機の話が出てゐた…」の記述がある。

啄木は身長1m58cm、体重44kg、兵隊検査は丙種合格。徴収免除になり「…安心して…元気よく帰った」ことが日記(1906年-明治39年-4月21日)に書き残されている。この時代多くの若者が海軍飛行予備学生として亡くなっていった。

    

 

「貴重な啄木資料の展示」
  

「二葉亭四迷」 坪内逍遥・内田魯庵編輯 易風社

 

    「資料のことなど話し合う」

     

 「啄木短歌の魅力」          大室精一

○「慕情・共感・流離・家族・悲運・編集」のタイトルで、歌を紹介     

「家族」

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

・家族への思いを歌うということで有名な歌。子どもたちの本にもたくさん入っている

・啄木は「母をおんぶしたことは一度もない」と、妹光子が書き残している。だからこの歌は事実ではないが、啄木の孝行心をよく表している。妻と母の嫁姑問題で苦労したことも事実である。

 

「悲運」

夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな

・啄木は悲しい運命に襲われる。長男真一が生まれ、みんなで喜ぶ。しかし、病弱だった。

・啄木は朝日新聞社に夜勤を申し出て、12時過ぎに帰宅するがその数分前に真一は死んでいた。生まれて24日だった。

・啄木の人生を象徴するような悲しい歌である。この歌が入っていることで「一握の砂」は皆に愛されている。

・妻節子はお嬢様育ちだった。バイオリンを弾き、英会話も出来る。もし、節子との出会いがなかったら、啄木は盛岡中でエリートコースを進んだかもしれない。

 

      

 「響きから読む『一握の砂』-1」     目良卓      

 

○「一握の砂」を歌の響きに注目して解釈

・九州大学の西田忠毅氏の「日本語母音音感の統計的研究」の分析方法により啄木短歌を分析する研究を進めている。

・なぜ響きにこだわるかというと、短歌は口伝えで始まっている。短歌の三要素は、メロディ(言葉)、リズム(音律)、ハーモニー(響き)であると考えている。

「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」

・ホニツタウ

 「ツ」は、非常に強い響きを持つ。薄暗さの中に強さがくっきり響く。

・ナミダノゴワズ

 トータルとしては暗い響き。

・イチアクノスナヲシメシシヒトヲワスレズ

 前半は明るく強い。後半、暗い響き優先で自分の内面へ入り込む。

 解釈は二つ。砂を示した人は誰か。

  1 恋人が私のことを忘れないでという恋の歌

  2 人生のはかなさを強調した歌

 自分としては2の解釈だと思う。

「いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ」

・イノチナキスナノカナシサヨ

 強めで明るく輝かしく激しい感情がよみとれる。

・サラサラト

 S音とR音、摩擦音、流音の繰り返しが効果的。

・ニギレバユビノアイダヨリオツ

 暗め、重厚。砂が落ちていくことに儘ならぬ人生を表している。

 音の響きから見ても合っている。

 

□ 「昴」のことなど     横山強(司会)

○今日は、全国的に「母の日」。実は啄木の母カツの写真はまだ一枚も発見されていない。もし、自分の家や知り合いのところにありそうな方は探してほしい。

啄木の歌と谷村新司さんの歌
  昴−すばる− 谷村新司  
   目を閉じて何も見えず
   哀しくて目を開ければ
   荒れ野に向かう道より
   他に見るものはなし
  
     呼吸をすれば胸の中
     木枯らしは吹き続ける
     されど我が胸は熱く
     夢を追い続けるなり
   
  「悲しき玩具」 石川啄木
     眼閉づれど
     心にうかぶ何もなし。
      さびしくもまた眼をあけるかな。
     呼吸すれば、
     胸の中にて鳴る音あり。
      凩よりもさびしきその音!

以前、ラジオの番組で谷村新司さんがこんな話をしていた。「神田古書店街を歩いていたときに見た本のイメージから『昴』を作った」。

その後、谷村さんはそのことには触れなくなってしまった。

     


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*川越あれこれ
 
「川越駅 西口噴水広場」
 
 
「旧八十五銀行本店本館」
蔵造りの町に突然現れる白れんがの西洋建築
 

「有名な時の鐘」

鐘は午前6時・正午・午後3時・午後6時に鳴る

    

喜多院境内にある538体の五百羅漢
必ず誰か似ている顔に出会うという

 

♪実は、谷村新司さんは…エバンジェリスト?

* 「昴」や「雪の音」を聴いていると谷村新司さんの心の声が聞こえてくる気がします。 

* 『啄木の歌が好き』『啄木の歌を歌ってほしい』

「雪の音」

    雪にこの頬うずめるような
    激しく燃えるような恋ならしてみたい

石川啄木

    やはらかに積れる雪に 
    熱てる頬を埋むるごとき
    恋してみたし

 

* 川越はさつまいもの名産地です。サツマチップス・芋羊羹・川越芋と並ぶお菓子を見ていたら、谷村さんは『啄木のエバンジェリストかも…』そんな思いが浮かびました。

* お世話になりました。ありがとうございました。

「啄木の息」管理者 yu   

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