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啄木行事レポート

「宝徳寺追悼2003」 語り継ごう「高橋兵庫」

     2003年11月11日(火)岩手県玉山村渋民 万年山宝徳寺
主催 万年山宝徳寺 宝徳寺「さわらの会」

 ・2年前の宝徳寺本堂の落慶を記念し毎年この時期に、啄木・セツゆかりの方々の霊を弔う。
 ・今年は啄木の後輩の高橋兵庫を語る。
 ・兵庫は啄木亡き後も村内の学校で子弟の教育にたずさわり、兵庫先生の名で親しまれている。


 ○「高橋兵庫様への献辞」

 ○啄木も食べた(?)渋民の郷土料理

 ○語り継ごう兵庫先生と玉山

 ○啄木が送った「ウエブスター英辞典」

 ○啄木の歌碑

 ○渋民あれこれ


いわて銀河鉄道に乗り、啄木の故郷へ

 啄木が一歳のときから住んだ渋民の宝徳寺で行われる「啄木と兵庫先生の追悼」に向かう。
 銀河鉄道は2両編成で、ほどよく空いていた。

 

中央の屋根が宝徳寺

 門柱を覆うように柳が垂れ、宝徳寺屋根の両側に聳える「さわら」の大木。
 中学を退学してしまった啄木は、庭に来るキツツキのたてる音に心慰められて「啄木」のペンネームをつけたという。



 次第

 ・開会 ・住職の読経 ・代表者献辞 ・しおり解説 ・ご遺族の方とともに記念撮影

 ・会食 ・語り継ごう「兵庫先生」と玉山 ・閉会


ご住職の読経 お数珠の音が響く

○「高橋兵庫様への献辞」より(抜粋)

・地主の長男として生をうけ(1888年・明治21年)、自宅から好摩駅まで、他人の土地を踏まずに列車に乗ることができた。
 
・盛岡中学校では、北岩手郡出身の数少ない後輩として、啄木に大変目をかけられた。しかし、1945年(昭和20年)に起きた火災で、啄木と共に写した写真や、啄木から届いたはがき、盛岡中学校の校友会雑誌などが屋敷と共に焼失した。
 
・結婚は、「啄木の妹の光子を」と言う話も出ていたが・・・啄木と同様に初心を貫き、巻堀尋常高等小学校の教員であったウメ夫人と結婚した。
 
・若き日の啄木のように一時は、渡米を志し、啄木からウエブスターを送られたこともあった。
 
・1960年(昭和35年)義弟・瀬川宗吉の葬儀に出かけた旅先で、突然72歳の生涯を閉じた。
  
 

「啄木の間」に飾られた兵庫先生関連の品々

左---高橋兵庫着用の羽織袴 額写真左・高橋兵庫、右・瀬川宗吉(兵庫夫人ウメの弟)
 ---手前の本が啄木から送られたものと同じ「ウェブスター大辞典」
 
右---瀬川宗兵衛、瀬川忠四郎(兵庫夫人ウメの弟)
 

○啄木も食べた(?)渋民の郷土料理

彩りよく並んだ渋民の郷土料理

 お弁当の中身は豊富。
 ヒエご飯・カレイの煮つけ・イカ大根・卵焼き・たくあん・蒲鉾・イクラ・ロールキャベツ etc.

 兵庫先生は「特にカレイの煮つけとたくあんが好きだった」と紹介された。
 

○語り継ごう兵庫先生と玉山

 参加されたご遺族の方々と地域の人たちで思い出や、祖父母、父母から聞いた当時のようすなどを語り合った。

 
●兵庫先生はコンピューターのような人だった。渋民の人を見ると「オメはどこそこから来て、○年○月○日に生まれて、○をしている」
別の人を見ると「オメの父さんはダレ、母さんはダレ、兄弟は○○で、オメは長女」など、みんな頭に入っていた。
 
●母から「兵庫先生は、履き物が玄関先に散らばっていると黙ってドンドン整理した」という話を聞いた。
息子の薫先生がそっくり同じに靴の整理をしているのを見たことがある。

ご遺族の方々も思い出を語る

○啄木が送った「ウエブスター英辞典」のこと

甲辰詩程(啄木庵日誌)
 明治37年4月3日
 
「光一君兵庫君立直君、来る、学校にゆきて遊ぶ。
 兵庫へウエブスター英辞典送る。夕刻、沼丑君来り、共に町に出づ、瀬川へ一寸、郵便局へゆき十時まで遊ぶ。」
 

 兵庫先生の息子の薫さんは4キログラムもある辞典を持参した。

●辞典の実際のものは残っていなかったので、東京の古書店で探し1991年に手に入れた。
 
●辞典には文章中にもたくさんの図があり、巻末には動植物の絵がまとめてあって、百科事典のようだ。
  
●啄木の日記には上記のように「兵庫へウエブスター英辞典送る。」とあるが、どうやって送ったかはナゾ。丸善を通じて送る手配をしてやったということか。

4kgのウエブスター英辞典の説明をする高橋薫氏

 
ノア・ウェブスター Noah WEBSTER
(言語学者、辞書編集者 1758-1843)
・ウェブスターはアメリカのコネチカット州に生まれた。独立戦争に従軍(1777)ののち、1779-83年には教師を務めた。
・第一の辞典『A Compendious Dictionary of the English Language』を1806年に著しているが、その特徴は、従来の辞典に、百科事典的内容も加えてアメリカ人の知識や教養向上に役立てようと努めたことにある。
・1828年にニューヨークで『英語辞典』"An American Dictionary of the English Language"を刊行した。当時最大の7万項目のこの辞典は、アメリカ独自の英語の発達を取り入れた初めての辞書となった。
・19世紀末までに百数十万部が売れ、今日まで『ウェブスター大辞典』として改訂増補されつづけた結果、アメリカで辞書といえば、ウェブスターといわれるほどである。

○啄木の歌碑

 2001年11月10日、111年ぶりに宝徳寺本堂が再建された。それをきっかけに、宝徳寺駐車場に隣接する伊五沢富雄さんが、祖先の伊五沢丑松と啄木供養のため歌碑を建立した。
 

  今日もまた胸に痛みあり。

   死ぬならば

   ふるさとに行きて死なむと思ふ。

                啄木

  名香の堂を埋むや魂祭り

                洒楽(伊五沢丑松)

2001年に建てられた新しい歌碑


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○渋民あれこれ

●“いわて銀河鉄道”の乗り方
 電車のドアは閉まっていましたが、ドア脇に「ボタンを押す」と書いてありました。「なるほど!」と思い恐る恐るボタンを押し、開いたドアから乗って座席に着きました。そうしたら、ドア近くに座っていた人が席を立っていって内側のボタンを押したのです。
 「??」と思っていたら、ドアが閉まりました。『シマッタ!』 開けた人は閉めなくてはいけなかったのです。開けっ放しでスミマセンでした。
 
●お世話になったタクシー運転手さんの話
「明治生まれの母親がまだ娘のころ、汽車賃は高くてそんなに乗れなかった。だから、夜中の2時、3時に起きて替えの草履を荷物に付け、盛岡まで歩いていった。」
 啄木の生い立ちにも、とても詳しい方でした。
 
「ヒエご飯」
 ヒエの粒がプツプツと舌に当たるけれど噛みしめると味わいがありました。
 大根に煮汁がよく浸みていました。
 
司会・進行のスバラシサ!
 宝徳寺「さわらの会」の佐々木祐子さんが進行をされました。
「拍手は心の中で」「起立は要りません、座ったままで」「秋の日は速いからね」
 言葉通りにスムーズ&楽しい進行に心の中で大拍手をしました。
 
初体験の拓本教室
「追悼2003」終了後「初めての方のための拓本教室」に参加しました。
 歌碑のような文字を写すのが拓本と思っていましたが、木彫りのお盆を写しました。
 飾ってあった作品では「マンホールの蓋」などもステキでした。
 
●“啄木のコーヒー記念日”のお便り
“啄木のコーヒー記念日”の11月28日に、玉山村で「薫風庵の集い」があったそうです。『高橋農園特製(企業秘密)の旨いコーヒーを飲み、話が盛り上がった』というお便りをいただきました。
  

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 ♪♪ いろいろとお世話くださった方々に感謝します。ありがとうございました。♪♪

 

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