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啄木行事レポート

国際啄木学会〈春のセミナー〉2008

   2008年5月11日 明治大学駿河台校舎      

  

【明大前は『ベニバナトチノキ』満開】


国際啄木学会〈春のセミナー〉 
講演「新版『評伝与謝野寛晶子』(明治編)をめぐって」逸見久美
   
◎ インドネシア大会報告 近藤典彦「赤道直下の啄木」
 
研究発表 特集:啄木の日記を読む
  
◯ 村松 善「『明治四十一年戊申日誌』と『明治四十一年日誌』の一月一日の項の考察」
 
◯ 森 義真「『甲辰詩程』考 ー 7月21日から23(28)日の書簡体日記を中心に ー 」
 
* 啄木関係の本の紹介
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◎ 明治大学とその近くのあれこれ

◎ 講演

逸見久美「新版『評伝与謝野寛晶子』(明治編)をめぐって」

       

昭和53〜56年、『与謝野晶子全集』20巻が発行された。その頃は、原稿1枚につきいくらという形だったので、出版社側の都合で文章を少なくされたりした。

コピー機が使えなかったころは、資料は全て書き写していた。そのうちに、図書館でコピー機が使用できるようになった。コピー液を持参しなければならなかったので両手に重いタンクを抱えて行った。だが、次回に行くと無断で誰かに液を使われたらしく、減っていることもあった。

女が勉強することに対して、世間でも家庭の中でも冷たい目で見られた。隠れるようにして机に向かっていた。

昭和42〜58年、『天眠文庫蔵与謝野寛晶子書簡集』を出した。小林天眠は晶子を金銭面で支えていた人で、459通の書簡を持っていた。京都の天眠の長女の家にあるその書簡を見せられて「本にしてくれないか」という話をされ、17年間京都通いをした。家を空けるため家族への言い訳も苦労した。

 

   

【河野鉄南あて晶子書簡 明治33年3月3日】

   

 

平成13年『鉄幹晶子全集』出版。本当は鉄幹だけで出したかったが、勉誠出版社が「鉄幹と晶子の二人にしてほしい」という。「二人なら50巻くらいになるが…」と伝えたら、社長が「いいでしょう」と答えた。結果45巻になり、24巻既刊で現在も刊行中である。

全巻終わるまでは生きていなくてはならない。これからは自分の健康を考えながら、やりかけの仕事を終わらせたい。中途で亡くなる学者が多い。『鉄幹晶子全集』が、あと20巻あるから5年くらいかかる。健康が一番大事でみなさんに迷惑かけないようにしたい。大きなことを終わらせるまで死ぬに死ねない。

  

◎ インドネシア大会報告

 ◯ 近藤典彦「赤道直下の啄木」

・バンバン・ウィバワルタさん(インドネシア大学日本研究所長)が、「HP 啄木の息」を見て啄木学会に入ってくださった。インドネシア大会の構想はそこから始まった。

・大会は2007年9月3日、インドネシア大学日本研究センターで開催された。バンバンさんたちが中心となりインドネシア大学だけでなく日本語を学んでいる多くの人たちが集まった。参加者約200名。詩歌の鑑賞会もあった。

バンバン氏からの申し入れで、閉会の挨拶を端折り「大逆事件をめぐっての反体制の立場からの啄木について」のミニ講演をした。逐一語訳で学生たちや他の人たちもよく理解して聴いてくれた。

・啄木は国際詩人としてますます広がりと高まりをみせている。日本の学生たちの反応も明らかによい。いくつめかの啄木ブームがやってこようとしている。

 

研究発表

 「特集:啄木の日記を読む」

松 善「『明治四十一年戊申日誌』と『明治四十一年日誌』の一月一日の項の考察」

   

啄木日記には、明治41年1月1日から1月12日の日付を持つものが二つ存在する。同一人物が2度同じ期間の日記を書いている。両日記の重複箇所を下書き(『明治四十一年戊申日誌』)と、清書(『明治四十一年日誌』)という視点で捉え、詳細に比較検討、考察をしてみたい。

・比較対照のため二つの日記本文を検討

『明治四十一年戊申日誌』

「自分は紋付も着ない、袴も穿かない。」

 なぜ紋付も袴も着ないのかその理由が定かでない。

『明治四十一年日誌』一月一日

「着た儘の外に一枚もないのだから紋付も着ず、袴は例の古物一着、」

「外に一枚もない」あるいは「古物」だからというように紋付も袴も着ない理由が明らかにされている。

「いる」から「居る」へ、「飽迄」の添加も含め、読者を意識した清書段階の改変としてふさわしい。

『明治四十一年戊申日誌』一月一日

「正装した小供ら」「何だか少し正月らしい気になって来た」

(しかし)まだ完全には「正月らしい」気持ちになりきれていない感想を持った記述。

『明治四十一年日誌』

「取り置きの身装に心から嬉しさうな女の児等」「何だか恁う底の底から微笑まれる様な、ホントの正月らしい心地になつた」

この記述に改変したことにより、巧みな描写となっている。「雪路」の<白>の「狭い」空間に華やかに着飾った「女の児等」の<色とりどりの色彩>を対比的に配置することで、自分もどっぷりと「正月らしい」空間に共に浸かることができた。

研究のまとめ

二つの日記を下書きと清書の視点で捉え、考察してきた。『明治四十一年日誌』一月一日の項は、表記、表現、そして、構成の面において、きわめて読者を意識した創作性を有する他者に開かれた文学的記述として整備されたものであることが明らかとなった。

 

森 義真「『甲辰詩程』考 - 7月21日から23(28)日の書簡体日記を中心に - 」

『甲辰詩程一の巻 啄木庵日誌』は、明治37年1月1日から7月23(28)日までの日記であるが、4月9日から7月20日までの記述はない。

仮に、1月1日から4月8日までを<第一部>とし、7月21日から23(28)日を<第二部>と区分けする。

<第一部>1月1日から4月8日

「備忘録的要素を含んだ記録的性質」

病気療養から立ち直り明るい希望を抱いて新年を迎えた啄木の心情が表れている。日記としては一日の記述が短く、感想や考えを巡らせることは(1/1,8のほか)ほとんどなく、事務的で備忘録のような印象を受ける。

  

<第二部>7月21日から23(28)日

「告白録的要素を持った自照的性質」

翌年5月に妻となる節子への書簡体日記となっている。節子に語りかける文体をとることで親しみやすくわかりやすい文になった。啄木が<自己の再生>の時期に大きな影響を受けたワーグナーの「タンホイザー」をめぐる思いなどを綴っている。

 

他の日記は大学ノートだが、『甲辰詩程』だけは、洋罫紙を綴った一頁二十六行紙数十八枚のもの。函館市文学館の前館長の話では、「たこ糸のようなもので綴じられていた」とのこと。誰がいつ綴じたか。予め綴じた紙に書いたか、書いてから綴じたか。途中がないのは紛失したのか、など疑問が生じた。

4月1日から4月8日は字が乱れて走り書きのようである。7月21日はきれいな文字でゆっくり書かれている。

4月9日から7月20日までの中断は、「渡米熱」、詩作、病などで日記を書かなかったものと思われる。

7月28日以降の断絶は、おそらく病か。

   

 

* 啄木関係の本の紹介

 ☆ 啄木歌集『一握の砂』」アラビア語版

  -アラビア語と日本語を併記した書籍は アラビア語圏では初めて-

    

翻訳 ムハンマド・オダイマ 武田朝子 (写真)

・ダール・タクウィーン社(ダマスカス シリア共和国)

・2007年発行 (日本に在庫がある場合は 1000円+送料)

・問い合わせ・購入希望

 

  

  

   

 ☆『啄木の母方の血脈』

  ──新資料「工藤家由緒系譜」に拠る──

 

・編集者 森 義真 佐藤 静子 北田 まゆみ 

・ 序 遊座 昭吾

・2008年5月11日発行 頒価 1,000円

・問い合わせ・購入希望

 

 

  

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◎ 明治大学とその近くのあれこれ

 ○「岸本辰雄記念ホール」

 

・会場となった明治大学キャンパス23階にある「岸本辰雄記念ホール」の天井。

・岸本辰雄は、明治大学の創設者。1851(嘉永4)年、現在の鳥取市に生まれた。1881(明治14)年、有楽町に「明治法律学校」を開校し、初代校長となった。

・ホールは東側が巨大ガラス張りになっていて、お台場の大観覧車や東京の夜景が楽しめるそうだ。

 

 

   

○ 日本ハリストス正教会本部

 
「ニコライ堂」
ニコライ堂は、明治大学からは徒歩2〜3分の距離にある。日本最大のビザンチン様式建築物で国の重要文化財に指定されている。お茶の水に来たときはいつも、緑色の大きなドームの屋根をみるのを楽しみにしている。
 
 
 

 

 ○ 明大前は「ベニバナトチノキ」の並木

 

<マロニエ>と<アカバナトチノキ>の交配で生まれた

ベニバナトチノキ」が満開。ずっと見上げて歩いた。

 

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次はインド!

「国際啄木学会インド大会」

・期日 2008年11月下旬頃の予定

・開催地 インド(デリー)の予定

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