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啄木行事レポート

国際啄木学会 札幌大会 

   2005年10月22日・23日 札幌市 札幌コンベンションセンター

    

 

「札幌・駅は出会いと別れ」
2003年開業のJRタワー

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 札幌市内に入ると、飛び回る雪虫に迎えられました。顔中にくっつき、目にも鼻にも口にも入ろうとします。マスクをしている人も多く見かけました。新聞によると「ケヤキフシアブラムシの大発生」で「ササの根で育ち、公園や街路のケヤキに移る」ために飛んでいるそうです。

 “雪虫が飛ぶと初雪が近い”といわれる北の地で、国際啄木学会が始まりました。


研究発表

パネル・ディスカッション テーマ「北海道は啄木をどう変えたか」

講 演      近藤典彦「北海道--啄木が来た頃」

札幌あれこれ  専用席、札幌に初雪

資料      札幌大会の新聞報道


「北海道大学構内のイチョウ並木」
色づけば 黄金色のトンネルになる

  

● 研究発表

 <小ホール会場>

(1)入江成美
   ロシア人はなぜ啄木が好きなのか
          --マルコーヴァ訳の文学性について--

1954年、翻訳家マルコーヴァによって詩集「日本の詩歌」がロシアに紹介された。340篇の掲載歌のうち、啄木作品は52篇あり破格の扱いであった。ロシアにおける啄木作品の本格的デビューだった。

1955年、B・H・エレーミン著「日本の国民詩人・石川啄木」という論文がソ連科学アカデミーから出版される。エレーミンは自らが翻訳した啄木の短歌を組み込み、プロレタリア詩人としての啄木評価を行っている。

  

(2)太田幸夫
   汽車・汽船 時刻表から見た啄木の行動

国鉄に勤務した役得でもないが、そんなに苦労もせず、当時の時刻表を探すことができ「真夜中の/倶知安駅に---」の真夜中も、午前1:55頃であることがわかった。

明治39年3月4日、盛岡での生活が破綻し、妹光子を盛岡に下宿させ、母と妻を伴い生まれ故郷渋民での生活が始まるが、この日の日記には「……午前7時40分盛岡発下り列車に投じて、好摩駅に下車……」とある。夜逃げ同然の啄木が、朝の列車で堂々と生まれ故郷へ帰ったのであろうか。

  

 「コンベンションセンター内《ウェルカムコート》」
吹き抜けの中庭は自然の光が入り 木々が美しい

 

(3)上田 博
   牧水の啄木観

啄木の「処女作」とは何か。「啄木」と石川一との関係は。「啄木文芸」はどこに現われるか。

異なる水源に発した「抒情」がどのように湊合したか、近代短歌史のほんの小さな光景について考えてみる。

牧水は、啄木の臨終に際会した唯一人の友人だった。

 

(4)堀江信男
   啄木研究の裾野 --地方における啄木の継承--

熊本は啄木の妹光子が住んだ所でもある。この地の研究者岩崎彰代志と光子に関わる論考がいくつかある。

岩崎彰代志は1915年熊本に生まれる。1935年、鹿児島高等農林学校入学。盛岡高等農林学校時代に啄木と交渉のあった西力造の教えを受ける。文芸部に所属。文芸部の雑誌に西の「啄木の思出」を掲載。啄木新婚のころは啄木自身の日記がなく貴重な記録である。2002年、87歳で死去。

 

「コンベンションセンター入口・雨」
2003年にオープン 3000人の会議にも対応できる

      

  <206会場>

(1)森 義真
   「秋?(らく)笛語」からの旅立ち
(?は音偏に出)

上京を決意してから構想され旅出の日より書き始められた「秋らく笛語」の「序」文に焦点を置いて、その作品意識と文学性について論じたい。

・啄木書簡 明治35年11月15日 細越毅夫宛
「……何年の後かにあなたにも御目にかけて笑はせてやりたい……」とある。「秋らく笛語」を人に見せるという意識があって書いていることがわかる。

・書き出しにおいて、タイトルをつけ、序文をつけ、歌を書いている。歌が先に作られ、それにより「秋らく笛語」という題をつけたのではないだろうか。

 装ひては
   花の香による
         蝶の羽
   秋は?れの
     笛に与路し起。

(?は音偏に出---読み「おとづ」れ)    

意訳をしてみる。『この秋、盛岡中学を中退した自分は笛の音を出発の合図として、文学的成功の待ち受けている東京へ羽ばたいて行こう。』

・「秋らく笛語」に関わらず、啄木日記の文学性はたくさん研究されている。143件の記述があり、そのうちローマ字日記は6割であった。「秋らく笛語」については5件あるが、序文についての論文はなかった。序文は文章に勢いがあり、漢文の素養も伺われる。序文付きの日記は、調べた範囲では建礼門院のものが一つあっただけである。

・「秋らく笛語」は、啄木の文学的成功への夢と挫折への軌跡である。

  

 

「啄木の人生を語る」 

  

(2)小林芳弘
   啄木と露堂・雨情 --小樽日報入社をめぐって--

啄木が記者として入社した明治40年10月13日付釧路新聞には、同時に入社した雨情の名前があるのに、精力的に働いていた啄木の名がない。それはなぜか…。

釧路新聞のほかにもう一つ小樽日報を任された白石社長は、見劣りしない紙面を作るための人材として求めたのが、経験を積んだ「即戦力」だったのではないか。代用教員在職のままで、遊軍記者と校正係のわずかな経験しかない啄木には期待のかけようがなかったのであろう。

小国露堂は啄木より9歳年長であり、北海道の新聞事情にも精通していた。白石は、露堂に狙いを定めて経営の苦しい北門新報から引き抜こうとした。露堂は啄木よりやや遅れて北門を辞め、小樽日報に移るつもりだったらしい。北門新報に校正係として入社して間もない啄木が辞めるのには、まったく問題がなかった。

これに対し、露堂の退社は容易ではなかった。露堂が引き止められたのは、啄木と違い北門新報社内における役割が極めて大きかったからに他ならない。ここで急に抜けられると新聞が出せなくなるほどの影響力を持っていた。すなわち、「即戦力」であったことの動かぬ証拠である。

・小樽日報創刊以来、社内は混乱しつづけた。啄木には自分自身が小樽日報から求められているのだという強い意識があり、それが日記の中に感じられるため、真相究明が容易ではなかった。啄木は、北鳴新報社内で雨情が「除け者にされたことを根に持っていた」という真相を案外知らなかった可能性も考えられる。

  

(3)瀬川清人
   「所謂今度の事」を啄木の原稿に拠って読む

「所謂今度の事」の原稿は、昭和32年になって初めて世に現れた。東京の古書籍商を通じて、昭和43年に天理図書館の収蔵となり現在に至る。

社会主義運動家幸徳秋水らが、明治天皇暗殺を企てたとして大量逮捕されたのは、明治43年5月下旬以降のことで、当時啄木は、東京朝日新聞社に校正係として勤務していた。

本原稿は、縦25cm、横17.5cmの二百字詰め原稿用紙37枚から成る。松屋製の、薄い、普通の原稿用紙である。危ない原稿なので朝日新聞社の用紙は使わなかったのだろう。文章は、18字で改行されている。明治43年当時の朝日新聞の紙面は、一段が18字であり、新聞に掲載されることを想定した書き方であろう。

下書きがあったかどうかは分からない。文字の削除、加筆訂正は、各所に見受けられる。未完ではあるものの、かなりの完成度を示している。

筑摩書房版啄木全集に収録された「所謂今度の事」の原稿本文は、ルビが不正確である。本原稿を引き合わせて、ルビを正確に再現したレジメを提供する。新・新全集が出るまでは、この資料が、本原稿の本文表記の標準となる。

複雑な削除、加筆訂正のし方から見て、啄木は、本原稿を、事件報道と同時進行で書き進めているのではないか、つまり、啄木は、本原稿を5月の終わり、あるいは、6月の初めから書き始めているのではないかと思われる。

・最終章の第五章末尾は唐突に中断されている。この終わり方は、原稿が不本意に取り上げられ、社会主義、無政府主義と、今度の事件について書くことを厳重注意、禁止されてしまった事態を示しているのではないか。

  

 「二つの会場で同時進行の研究発表」
全部屋にLANポートを装備 パソコン使用が可能

     

(4)亀谷中行
   『樹木と果実』をめぐる大島経男と啄木

・「忘れがたき人人」の中で「神のごとき友」と啄木が歌にした男・大島経男について、これまで本格的に論じられたものは少ない。

『明星』第10号には「大島あいぬ」の筆名で3首の短歌が掲載されている。さらに第11号に「渡島あいぬ」として短歌4首が載っている。

1907年(明治40)9月23日、啄木は、並木武雄宛書簡で「日高なるアイヌの君の行先ぞ気にこそかゝれ」と書いているが、大島の出自はアイヌではない。1871年(明治4)淡路から静内へ移住した稲田家臣団の子孫である。1877年(明治10)2月19日生まれの道産子。大島の実母は1855年(安政2)生まれ、1879年(明治12)6月に死去した さい(才子)。大島が満2歳4カ月の時のこと。継母はとよといった。父は陸軍軍人で大島幸衛。

とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
山に入りにき
神のごとき友
      『一握の砂』「忘れがたき人人 一」

大島は少年期・壮年期を札幌で過ごし、函館時代に「苜蓿社」同人として啄木と出会う。1907年7月より、日高国静内の牧場に過ごす。1908年高静尋常高等小学校の代用教員として勤務。

1911年(明治44)1月、啄木が土岐哀果と発行を計画した雑誌『樹木と果実』への前金申込みや寄稿の依頼にこたえ、忙しい中で原稿を送り、豊かでないにも関わらず一年分の前金申込みをしている。

大島経男にとっても啄木は“忘れがたき人”であった。

  

● パネル・ディスカッション

テーマ「北海道は啄木をどう変えたか」

 司会    若林 敦
 パネリスト 田中 綾・西蓮寺成子・古澤夕起子・立花峰夫

田中 綾
 
北海道 ーー亡命者の視座を与えた地ーー

北海道という土地は、故郷喪失者である啄木に特異な視座をもたせる契機を与えたのではないか。火事は<革命>をもたらすもの、ととらえていた点も興味深い。北海道は啄木の内面を深化させ「一握の砂」などの名作を生まれさせた。

西蓮寺成子
 
啄木と植民地主義

北海道は「我々日本人の為めに開かれた自由の国土」として捉え、函館や札幌以上に小樽を「真に新開地的な、真に植民地精神の溢るゝ」土地として位置づけた。あえて釧路を外している。

古澤夕起子
 
小説における母親像の変容「血を流す母」というモチーフ

北海道での一年間は、啄木の中に<生活者>意識が浮上してくる時間だったといえる。その後の啄木が東京で書いた小説から「血を流す母のモチーフ」(額・乞食・母)が登場してくる。母の存在が、いとしさや申し訳なさを感じるものに変っていった。

  

「パネリストに鋭く切り込む司会者」

      

立花峰夫
 
北海道時代の日記・書簡などを通しての考察

渋民代用教員時代は、「副業が教員、本職は夢想家」と「林中書」に書いている。北門新報校正係時代は文学者の可能性を感じ「予が天職は遂に文学なりき」「この道を外して予が生存の意義なし」と日記に書く。

若林 敦

啄木は北海道で何と闘っていたか。国家権力ではない。貧困と闘ったが、生活を確立すべきだと、家族を養うために自分の人生を犠牲にしなかった。だから、啄木はアウトサイダーになった。啄木が闘った相手は「この時代の道徳」だった。道徳の中に取り込まれていたら…、妻子を養っていたら…、「啄木」はいなかった。

     

● 講 演

 近藤典彦
  「北海道--啄木が来た頃」

「啄木が来た頃」の<植民地>北海道も産業革命の波をかぶっていた。その波は函館を、札幌を、小樽を、釧路を急速に変貌させつつあった。啄木の慧眼はその変化を確実に捉えた。

砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

函館の大森浜にあった砂山は、海に沿って1500mにわたって起伏し、幅は最大約375m、高さは最高21〜2mあった。腹の下に砂のあたたかさを感じ、遠く下北半島を見て詩人は、そのゆたかな想像力で青春の地へ帰っていく。それらの砂山はどこへ行ったか。啄木の「砂山」の歌々は近代化の波がやがてかき消すであろう砂山のモニュメントとなっている。

   

百年前の原始の北海道を語る近藤典彦会長
“そ
のイメージで啄木の歌を読もう”と呼びかける

      

雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間の町のともしびの色

汽車は函館発17:00。外は雨。窓の外は原始の北海道の闇、山々の間に人家が密集し「ともしびの色」が夜汽車の窓に届く。「町」をとりまく山々は大木に覆われ、猛獣・羆がいる。「苫前羆事件」など、羆に襲われた開拓の人たちが大勢いる。北海道人にとって熊は、生き物の形をした“自然の脅威”だった。吉村昭著「羆嵐」には『羆に頭蓋骨まで食べられた』と書かれてある。

・私は電車に乗り駅を探した。候補の駅は、黒松内・目名・蘭越・昆布・ニセコ。 

・作家の井上ひさしさんは「啄木は日本史(文学史ではなく日本歴史)の上で、五指に入る日本語の使い手である」といっている。百年前の北海道のイメージを大切にしながら啄木の歌をまた読んでいただけたらよいのでは、と思う。

  


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☆ 札幌あれこれ

 

「紅葉に囲まれた クラーク博士の胸像」
クラークが札幌農学校に赴任したのは明治9年

    

*地下鉄に乗りました。首都圏では「優先席」という表示が多いと思いますが、こちらは「専用席」となっていました。立っている人が多くても「専用席に該当する人」以外は座らないようでした。数回乗りましたがほとんど「専用席」は空いていました。4歳くらいの子とその親が「専用席」のそばに立っていたのも気持ちのよい光景でした。

*テーマ「北海道は啄木をどう変えたか」について、上田博氏が「啄木が北海道をどう変えたか」の方も重要な問題ではないかと指摘されました。視点を変えると、今までの事柄がガラガラと動きだし違った形で見えてきました。大切なことを学んだ気がしました。

  

 

「残ったポプラ」北大
2004年の台風18号で 51本中27本が損傷
再生には 15〜20年かかる

   

*札幌でさっぽろラーメンをいただきました。Good ! でした。

*北海道から帰って少したって、「札幌に初雪」のニュースを聞きました。テレビに映る大通公園を見ていたら、雪の中に泰然として座り続ける啄木の姿が見えるようでした。

*ご準備くださった方々に感謝いたします。参加させていただき、ありがとうございました。

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 ★「啄木文学散歩」札幌市 小樽市 函館市 へもどうぞ。

 


● 資料 1

 ファン150人集い、啄木の心境探る 札幌で国際学会

北海道新聞>  2005-10-23

 歌人、石川啄木の研究者らでつくる「国際啄木学会」の札幌大会が二十二日から二日間の日程で、札幌市白石区の札幌コンベンションセンターで始まった。十六回目の今年は、熱心なファンら約百五十人が、道内での生活を通し、啄木の心境がどう変化したかなどの研究成果に耳を傾けた。

 道内での開催は函館、釧路に続き三回目。大会では、茨城キリスト教大の堀江信男教授が、啄木への関心が各地で高まっていった背景を解説したほか、会員七人が研究の成果を発表した。

 続くパネルディスカッションでは、北海道情報大の立花峰夫教授ら四人が「北海道は啄木をどう変えたか」をテーマに議論。立花教授は、啄木の日記を読み上げながら、「啄木は、北海道での新聞記者としての生活を通じ、より文学者としての自己認識を深めていった」と指摘した。二十三日は、小樽市内の啄木ゆかりの地を巡る。

  

● 資料 2

 「啄木と北海道」検証 国際啄木学会

<岩手日報>  2005-10-23

 国際啄木学会(近藤典彦会長)の第16回大会は22日、札幌市白石区の札幌コンベンションセンターで2日間の日程で開幕した。

 全国から120人が参加。研究発表と講演などを通し、啄木と、啄木が1907(明治40)年から約1年を過ごした北海道とのかかわりを検証した。

 開会式で、近藤会長は「北海道は岩手、東京と並ぶ啄木ゆかりの地。北海道が啄木をどう変えたか明らかにし、考えたい」とあいさつした。

 研究発表では、盛岡大短期大学部の小林芳弘教授による「啄木と露堂・雨情―小樽日報入社をめぐって」など、県内外の8人が独自の観点で啄木論を展開した。

 「北海道は啄木をどう変えたか」をテーマにしたパネルディスカッションと、近藤会長による講演「北海道―啄木が来た頃」も行われた。

 最終日は、啄木が勤務した小樽日報社跡などを訪問する文学散歩が行われる。

  

● 資料 3

 北海道での啄木を多角的に 国際啄木学会札幌

しんぶん赤旗>  2005-11-07 

 明治の青年、石川啄木。その研究者、歌人、愛好者ら170人が札幌大会に集いました。

 16回を迎えた同学会大会が北海道で開かれたのは、3回目。啄木が函館、札幌、釧路を漂泊したのは、わずか11カ月余。しかし、北海道は啄木に、本州では見られない広大で印象的な大自然を見せ、「産業革命の波をかぶった国内植民地・北海道で日本社会を底辺から構造的にとらえる糸口を与えた」。加えて、住職の子・教員・文士という「特権階層」だった岩手に比べ、北海道は「赤裸々な民衆の生活・人間関係を教え、のちの歌集『一握の砂』などの卓越した作品・新聞記事を遺した」のです。

 では、北海道は啄木をいかに変えたか、どんな成果をもたらしたか----。大会での研究発表、パネルディスカッションで展開されました。

 啄木を「時代に先んじた苦悩の詩人」と紹介した旧ソ連のマルコーヴァの翻訳の仕事や、茨城など地方での研究のすそ野の広がりといった国際・国内の受容の様相、新聞記者小国露堂・野口雨情や歌人大島経男ら「忘れがたき人々」との交流がもたらしたインパクトなど、八人の研究が披露されました。

 若い世代の研究者は、ミニ講演・討論で“逃亡者”啄木がのちの大逆事件や国家・軍隊批判の特異な視座をかちとる契機になった、小説『病院の窓』から母親・妻子の扶養など啄木の「生活者」意識を浮上さす内面の持続の分析、新聞記事を通し明治政府の植民地主義の把握の思想変化を追い、新聞記者生活を経て文学者を天職として自覚した経緯を提起。そこには、「啄木に親しみ、親しみを深めて研究にまで到達した人々の心」がありました。

  

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