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啄木文学散歩

北海道:小樽市   


 明治四十丁未歳日誌 

十二月二十九日

 今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。

 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。

 一切より、遂に、放たるる能はず。然らば遂に奈何。 

           (1907年・明治40年 啄木の日記)


函館本線で札幌から小樽に向かうと、途中から石狩湾が右車窓に見えてくる。窓から波が入ってくるかと思うくらい海の近くを通る。

啄木はこの小樽に18歳の1904年(明治37)9月〜10月にかけて、次姉トラ宅(夫・山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)を訪問した。

1907年(明治40)21歳の9月から翌1908年1月半ばまでは、小樽日報記者として暮らす。

1908年(明治41)4月半ばには、上京する前の6日間ほどを過ごす。

この地に、啄木はどのような足跡を残したのだろう。


小樽駅と啄木

啄木歌碑の除幕式 小樽駅前

小樽日報社跡

啄木と多喜二 -同じ小樽の空気を吸った二大文学者

水天宮にある啄木歌碑も新装披露

啄木 第一、第二の住居「た志"満」「弥助鮨」

小樽公園の歌碑

小樽あれこれ

資料

 1 [啄木歌碑趣意書] 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

 2 小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明


● 小樽駅と啄木

 

「SLニセコ号 小樽駅ホーム」

運よく蒸気機関車ニセコ号が、小樽駅4番ホームにいた。札幌発着で、秋は紅葉狩り・果物狩り・温泉と楽しみの多い人気のあるイベント列車だ。ただし、運転日も運転区間も定まっていない。

 

○ 啄木と鉄道 「車窓から生まれたものがたり」展

 

 

「車窓から生まれたものがたり」展 小樽駅

10月14日の「鉄道の日」を記念して、小樽ステーションギャラリー展が行われていた。

   

「啄木を紹介するコーナー」
中央の小さい写真は、義兄・山本千三郎氏

  

小樽にゆかりのある、石川啄木、小林多喜二などの文学者たちと鉄道との意外な関わり、歴史や写真などが展示されていた。昔の列車の椅子が飾られ、窓からは、ビデオで列車からの風景が見られるようになっていた。

壁には、石川啄木の義理の兄が中央小樽駅長を務めていたことが、写真パネルなどで紹介されていた。

 

 「駅正面にある案内板」

 

駅を出たところには「石川啄木と小樽駅」という案内板がある。

 

○ 駅長官舎と石川啄木

「明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍します・・・」

([啄木歌碑趣意書])

  

● 啄木歌碑の除幕式 小樽駅前  2005-10-23

 

「SLの 汽笛が祝す 除幕式」
ニセコ号出発の煙が碑の右に上っている

  

  ○ 市内3番目の歌碑誕生

 建立場所は、駅前広場から三角市場に上る石段の左側。駅長官舎がこの三角市場あたりにあったため、縁の深い場所として選ばれた。

 上掲の未だ白布に覆われている写真で見ると、歌碑の後ろに広がっている建物が小樽駅で、停車中のタクシーなどもよく見える。

 写真の手前側には(写っていないが)三角市場のトンネルのような入り口があり、両側が店になっている。海鮮、野菜などが並び威勢のいい売り声がする。


「二段階の除幕式」
一回目はモールの登場

 

小樽啄木会会長・水口忠さんの話

「中国の石を船で運んできたが、台風のため遅れに遅れて19日にやっと着いた。だから昨日一昨日と急いで組み立てた。間に合うかどうか心配したが、こうして今日を迎えた」

「啄木碑を見た時に、駅も見えるように建てた。色々な位置を考えたが、この位置と角度が一番良いと思う」

   

「三角市場そばに 威風堂々と立つ」

 

  規模
      中国産の黒御影石
      碑面  150×90
      全高  250
      碑石 中国産の台石と白御影3段積み
      表面の歌碑銘 インド産の赤御影石     

 
子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

        啄木

小樽日報の事務長小林寅吉から暴力をふるわれたことを契機として啄木は退社する。給料未払いのまま1907年(明治41)の年末を迎え、一家は生活に困窮する。

年明けて「釧路新聞社」に勤務決定した。釧路に向かう啄木を、節子は送りに来た。しかし、同行する釧路新聞の白石社長が遅刻した。

 

啄木の日記

「妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。」(明治四十一年日誌)

 

○ 歌碑の裏面

 

「碑陰には協賛された方の名」

 

歌碑建立は、インターネットなどで全国から協賛者を募り、105名の参加者があった。協力記念に碑の裏面には、名前が刻まれた。

記念の手拭いには「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌が書かれ、濃紺の地に大小の雪の降る美しい意匠だった。

 

● 小樽日報社跡

創刊1907年(明治40年)10月15日。社長は、初代釧路町長の白石義郎(東泉)だった。できたばかりの小さな新聞社に啄木は約80日間勤務した。

本間内科医院前の案内板

 「石川啄木と小樽日報社跡」

 かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 聲の荒さよ

 小樽日報は、道会議員の白石義郎氏が明治40年10月創立し、石川啄木、野口雨情らが発刊に加わった。

 小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日小樽日報社に入社するため来樽した啄木は雨情とともに三面記事を担当した。当時小樽に姉が嫁いでいたこともあって函館から家族を呼び寄せ、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか十数日で小樽を去った雨情のあとを追うように、同年12月12日退社し明治41年1月19日小樽を去った。
                小樽市

 

 

小樽日報社跡(本間内科)

  

沢田信太郎「啄木散華」と啄木日記

「啄木と私とは編輯室の一番奥まった処に、壁を背にして卓子を並べ、殆ど競争の姿で筆を執ってゐたが、仕事にかゝった後の彼の態度は実に真剣で、煙草も吸わず、口も利かずにセッセと原稿紙に向かって毛筆を走らせる丈であつた。何か快心の記事を書くときも愉快そうにニコニコして、自分で原稿を工場に下げに行つた。工場では啄木の原稿は大歓迎で非常な人気があつた。それは第一に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少なくて読みよいことゝ云ふので、文撰長などスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた」
(「石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」『中央公論』昭13.5>)

 

「小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に
来て、今はしなくも其死ぬのをも見た」
(明治41年4月18日 明治四十一年日誌)

 

○ 野口雨情のいた職場

啄木は函館大火から逃れ、雑誌「明星」の同人同士という僅かな縁で野口雨情を訪ねた。雨情は記者仲間の小国露堂に啄木を紹介した。啄木は、露堂の斡旋で北門新報社に入社した。それから間もなく、小樽日報が旗あげし、鈴木志郎(童謡「赤い靴」の女の子の義理の父)、野口雨情、石川啄木の三人は一緒に入社した。

主筆岩泉江東の排斥運動で雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任となる。

そのような関係の啄木と雨情だが、同時に同じ職場にいたという意味は深いと思われる。

それから10数年して、有名な歌「赤い靴」が発表された。生後7日で娘を失った雨情自身の悲しみと、娘を手放した岩崎かよ(鈴木志郎の妻)の事情がこめられている。

「赤い靴と啄木」啄木の息-啄木文学散歩

現在、小樽日報は啄木が「小樽のかたみ」としてスクラップしたものはあるが、それ以外は93年前の10月24日発行のものしか残っていない。

 

● 啄木と多喜二 -同じ小樽の空気を吸った二大文学者 

 

「市立小樽文学館・美術館」

  

○ 小樽文学館

小樽は、北海道では函館についで古くから開かれた港町であり、かつて北海道経済の窓口としてたいへんにぎわいました。文学・美術などの文化面においても小林多喜二、伊藤整をはじめ大勢の優れた作家が生まれたのです。

これらの作家の著作や資料類は、現代の私たちに遺された貴重な文学的財産といえます。その散逸を惜しみ、また損傷を防ぐための施設をつくりたいという市民の声が実を結び、昭和53年11月3日市立小樽文学館が開館しました。

プロレタリア文学の小林多喜二、北海道漂泊の途上足をとどめた小樽で社会主義思想に初めて触れた石川啄木、・・・これらの人々の文学は、明治開化以来の日本の近代化と軌を一つにした〈北海道開拓〉とは果して何であったかという問いを静かにあるいは鋭く投げかけ、昨日と明日をつなぐ海港小樽の浮標、すなわち今日私たちの指標ともいえるでしょう。
(「小樽文学館のご案内」)

 

 

「啄木のコーナー」

○ 同じ小樽の空気を吸った二大文学者 

「多喜二にとって、啄木は、きわめて身近なところにいたにちがいない。・・・小林多喜二の一家が、秋田から小樽に移住してきたのは、1907年(明治40)12月下旬、多喜二が4歳の時であった。その約20日後の、翌年1月中旬、22歳の石川啄木は、吹雪の小樽から、北海道漂泊の最後の旅を釧路にむけて出発していった。

 22歳の啄木と、4歳の多喜二とが、ほんの二十日ほどであったにせよ、同じ小樽の空気を吸って生活をしていたことは、二人の文学の本質を探究するうえで、きわめて興味深いことである。」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる)
(白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」)

 

「多喜二のコーナー」

  

○ 啄木の短歌と多喜二

「多喜二の短歌作品は12首ほど、残されている。多喜二が16.7歳のころのものである。

多喜二の歌

  焼印の押したる下駄を穿きたりし昔のわれのいとほしきかな

  寝ぬる間のみ貧苦を忘ると就床にける老いにし父を涙ぐみて見る

これらの作品は決してすぐれているとはいえない。・・・しかし、一首一首が生活の具体的事実とむすびつけられていることは、十分注目してよいことであると考える。」

「『多喜二のお母さんの話によれば、多喜二は少年時代から啄木の短歌を好み、彼の家で啄木の会を催して啄木を語り、よそで開かれた啄木会にも出席し、お母さんに啄木ことを何くれとなく語ったので、啄木について何も知らなかったお母さんも、いつの間にか啄木のことを知るようになった』(川並秀雄『啄木覚書』)というほどであるから、大変な熱の入れようであったことが知られる。」

「短歌にたいする多喜二の理解の深さをもっともよくあらわしているものは、田口タキへの手紙の中で、啄木の歌を読むことをすすめ、歌集の中から「これならばと思われるのを選んで」やったという、その作品の選択眼である。」

「○印をつけた啄木歌集『一握の砂』を(田口タキへ)贈った。この歌集には制作年代は付されていないが、啄木自身が‘これぞ我が歌’とした明治43年作の歌から85%に〇印がつけられていた」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる)
(白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」) 

 

もう一つの「多喜二コーナー」には、無念のデスマスク、息子に手紙を書くために一生懸命文字を習った母セキの筆跡もある。 

小林多喜二の短歌が知りたくなったので、全集の中にある「多喜二の12首」を読んだ。わたしの心に一番響いたのが次の歌であった。

  悲しきは面会謝絶と貼りし紙薄暗き廊下に白く浮べる
                        多喜二

  

○ 多喜二「退職」ではなく「解職」だった

このページをまとめている今、「小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明」の記事が新聞に載った。

それによると、多喜二は依願「退職」ではなく依願「解職」だった。文芸書の中に、勤務先の北海道拓殖銀行の名前を「明示」し、「攻撃」したことは「言語道断」だということで、退職手当金も半額にされていた。

「破綻後の残務整理をしている拓殖銀行から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した」とのこと。

どんなに隠されていた事柄でも、いつか「明らかになっていく瞬間」があるのだと確信したときだった。

 

● 水天宮にある啄木歌碑も新装披露

 

   

 「水天宮境内の歌碑」(右はトイレ脇にあったときの写真)

 

○ 境内に昇格-10月に除幕式

水天宮は海まで4〜500mの距離。小樽の街がよく見える。この地に啄木の歌碑を建立除幕したのは、1980年(昭和55)10月12日だった。

以前、歌碑を訪ねて行ったときは見つけるのが大変だった。境内の外のトイレの脇にあり薄暗く、前に車も止まっていたので見るのに苦労した。右の小さい写真が1999年、左側は2005年に撮ったもの。

 

碑の近くに公衆トイレがある。どちらが先にできたかわからないが、研究者や愛好家の方たちを案内するたびに、「かなしきは小樽の町よ」と揶揄され、恥ずかしい思いをしてきた。
 今回、国際啄木学会文学散歩を機会に、水天宮の許しもいただき、啄木夫妻も上ったであろう石垣内の境内に移設された。ここは港を見下ろす景勝地であり、碑前には鏡のように磨かれた御影石が敷かれ、碑の風格は一新し生き返ったようだ。
(「今も息づく啄木」小樽啄木会会長 水口 忠-小樽啄木会Homepage2005-11-10)

 

今回はこの歌碑が新装披露されていた。小樽みなとライオンズクラブ主催の除幕式が、2005年10月15日に行われたばかりだった。場所も境内の中に昇格し、碑面は新たな門出の顔をしていた。

 

札幌の人は四辺の大陸的な風物の静けさに圧せられて、矢張静かに緩慢と歩く。小樽の人は然うでない。路上の落し物を拾ふよりは、モツト大きい物を拾はうとする。四辺の風物に圧せらるゝには、あまりに反撥心の強い活動力を有つて居る。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。
(「初めて見たる小樽」石川啄木 小樽日報 明治40年10月15日・第1号)

    

そして続けて「予は風の如き漂泊者であるから、小樽人と共に突貫する事は、足が弱い予には出来ない」といい「予にとつて何といふ理由なしに(小樽の人となったことが)唯気持が可い」と言う。

かなしきは小樽の町よ

歌ふことなき人人の

声の荒さよ
         啄木

やはり、啄木は突貫する小樽の人を見、「耳に爽快なる活動の行進曲を聞」き、小樽を愛していたのだと思う。

 

● 啄木 第一、第二の住居

  ○ 最初の住居「た志"満」

   

「啄木最初の住居・た志"満」

水天宮から花園橋を渡り公園通り(啄木通りともいう)を上がっていき、花園十字街の角に「啄木最初の住居・た志"満」がある。

義兄・山本千三郎宅から明治40年10月2日に移転。南部煎餅屋の二階二間、六畳と四畳半、日記によれば「思ひしよりよき室なり」。妻節子、京子、母カツと家族四人の暮らしが始まる。

 

「店の角には大きな啄木の額が‥」

 

○ 売ト者先生の姓命判断は・・ 

襖一重隔てた隣室には占い師が住んでいて、啄木は姓命判断を頼む。二週間後に渡された姓命鑑定書には「五十五歳で死ぬ」と書かれていた。啄木は「情けなし」と日記に記す。

もしも「55歳が寿命だった」とすれば、残した命が30年近くもあった!

 

「た志"満の二階の座敷」

店の人に話を聞くと、「(写真では)右側に見えるタテの柱と右上隅にちょっと写っている横柱が
啄木が住んでいたころのもの」だそうだ。

 

  ○ 第二の住居「弥助鮨」

  

「二回目の住居 弥助鮨」(今は無い)

明治40年11月6日、た志満の裏手にあたる花園町畑14番地の借家(家主・秋野音次郎)に移る。小樽で二回目の住居である。

その場所には、後に「弥助鮨」という店が営業をしていた。1999年に伺ったときの写真が上。間口のそんなに広くない店だった。現在は廃業したとのこと。

 

「・・・狭い路地を入つた二軒つづきの平屋で、通路に面した所に九尺の格子窓があつてソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使つてゐた。(中略)奥の六畳間には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であつた。」

(「小樽日報記者 石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」『中央公論』昭13.5>)

  

● 小樽公園の歌碑

 

「小樽公園の啄木歌碑」

 

花園通りから公園通りへと上がっていくと、小樽公園にぶつかる。小高い丘にあり、市街地と港がよく見える。 道路から続く石段を登ると小さな広場があり、その前の木立の中に啄木の歌碑がある。

 

         啄木

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて死なむと思ふ

 
『小樽啄木会沿革史』より

昭和25年啄木会は市文化団体協議会に呼びかけ有識者に諮り建碑期成会をつくり、市議会に請願しその翌年助成金を獲得することに成功し、いよいよ建設する目途がついた。そして歌碑に刻む歌は市民投票最高点の「かなしきは小樽の町よ」が決定された。

市議会側から再審議が要請され、結局歌人小田観蛍、歌人で小樽商大教授の峰村文人、そして会長高田紅果の三人で選んだ「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌が刻まれた。

建設場所は小樽公園入口の高台海向き(花園町元啄木住居の方向)とした。

昭和26年11月3日文化の日に除幕式が挙行された。函館からわざわざ宮崎郁雨氏が参列され、安達市長ほか市会議員、さらに市民多数の参加もあり、NHKではその実況を録音放送した。歌人宮崎郁雨さんは
  碑の面を雨しめやかに来てぬらす
    そのかの日をば思へと如くに
と当日の感想を詠まれた。また高田紅果の喜びはひとしおで、「これで自分の墓が出来たよう気がする」と語った。

しかし4年後の昭和30年8月12日、高田紅果は心臓病で数え年65歳で急逝した。宮崎さんも昭和37年3月29日、76才で他界された。啄木を通じて因縁深い二人であった。函館啄木会と小樽啄木会との交流もこの二人の功績である。

 

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小樽あれこれ

美しいお土産
 文学散歩の昼食会でくじ引きがありました。賞品は小樽文學舎製本工房がボランティアで編集作製してくださった「啄木文集」でした。当たりは、30本。なかなか自分の番号が呼ばれないので諦めた頃、幸運にも呼ばれて本を戴くことができました。
 肌触りのよい紙質で、表紙と見返紙・中表紙の色あいのやさしさ。啄木の評論、小樽・札幌に関した随筆など。
 大切な私蔵書になりそうです。
 
●美味しいお土産
 「啄木さん大好き一市民から」小樽焼き煎餅(南部煎餅)をいただきました。誰にもへつらわない素朴な味が気に入りました。帰宅してから、お取り寄せをしました。
 
  
●た志満の「おしながき」のパンフレットを見ました。法事用祭壇のの黒枠写真は「啄木の顔」でした。なんだかちょっと嬉しくなりました。
 
●啄木が暮らしたことのある地で、たくさんの方にお世話になりました。とりわけ、小樽啄木会の方々のご準備はたいへんなことだったと思います。感謝いたします。どうもありがとうございました。
 
●また、小樽を訪れるのを楽しみにしています。
 

(2005-秋)        

《 弥助鮨、小樽公園歌碑、水天宮歌碑(小)の写真は、1999年夏に撮影 》
《最初と最後の写真は、湘南啄木文庫・佐藤勝さんにいただきました 》
 


 資料 1
 [啄木歌碑趣意書]
 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

小樽啄木会 会長 水 口  忠  
建立期成会 会長 安 達 英明  
             

 駅長官舎と石川啄木

 明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

 啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。

 後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。

子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

 

 歌碑建立のお願い

 啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。

 以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。

 これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。

 今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。

 

 建立 啄木歌碑のあらまし

  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地
     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)

  規模  黒に近い中国産御影石

      碑面  150B×90B
      全高  250B
     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)

  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む
      (揮毫については交渉中)

  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会
      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。

 

 協賛金のお願い

 協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。

 締切 2005年9月20日厳守


 資料 2
 小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明

朝日新聞 2005-10-30

  小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明

 北海道小樽市に住み、特高警察の拷問を受けて昭和初期に死亡した作家、小林多喜二(1903〜33)は、勤務先の旧北海道拓殖銀行から、「蟹工船」などプロレタリア文学の執筆を理由に解雇されていた。これまでは「依願退職した」という説も有力だったが、破綻(はたん)後の残務整理をしている拓銀から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した。

 複写は「行員の賞罰に関する書類」の一部。多喜二は当時、拓銀小樽支社で書記をしていたが、1929(昭和4)年11月16日の発令で「依願解職」(諭旨)となっていた。

 解職の理由として「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」ことを挙げ、欄外には「書籍発行銀行攻撃」と書かれていた。退職手当金も「1124円14銭なるも半額の560円給与」と記されている。

 文学館の玉川薫副館長は「多喜二が辞めた本当の理由がわかる大変貴重な資料だ」と話している。

 複写は今夏、辞令書割り印簿や職員表などとともに寄贈された。文学館は11月3日から資料を公開する。


主要参考資料
・「小樽日報記者 石川啄木地図」荒木茂 小樽文學舎 平成5年
・小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる 新日本出版社 1982
・白樺文学館 石川啄木と小林多喜二
  http://www.shirakaba.ne.jp/index.htm
・「石川啄木 光を追う旅」 碓田のぼる ルック 1996
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983
・「石川啄木歌集全歌鑑賞」上田博 おうふう 2001

 

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