名 前 |
女性に寄せる啄木のことば |
女 性 と 啄 木 と の 関 わ り |
堀田秀子
ほった ひでこ
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かの家のかの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに蛙聴きけれ |
啄木が1906年(明治39)4月から1年間、故郷渋民で代用教員をしていたときの同僚である。秋に赴任した彼女とは半年ほどの付き合いであったが、よく気が合い、啄木が彼女の下宿を訪ねて話し込むこともあった。
学歴はなく貧しくとも毅然としてへつらわない代用教員の啄木に、秀子は好意と信頼を寄せた。啄木---妻も子もある22歳の春であった。啄木は「渋民を思出して此人を思出さなかった事はない」と、故郷渋民と秀子の結びつきに気づいている。 |
橘智恵子
たちばな ちえこ
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山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり |
1907年(明治40)5月、啄木は函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。智恵子はこの小学校の同僚。「真直に立てる鹿ノ子百合」という啄木の言葉そのままの、若々しく清楚な女性であった。二度の語らいと数通の書簡のやりとり---それが彼らの関係のすべてであった。
智恵子を歌った珠玉の二十二首は、苦しい東京の生活の中で生まれた。だが、漂白の人生途上に智恵子を得たことは、啄木の数少ない幸いであったと言わねばならない。 |
高橋すゑ
たかはし すえ
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高橋すゑ君は春愁の女にして、橘智恵君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし。 |
橘智恵子と同じく函館区立弥生尋常小学校の同僚。啄木が函館を去る前日、智恵子を訪ねた後、最後の最後に高橋すゑを訪ねている。物憂げな中にも、どこかなまめかしさを感じさせる美人で、当時の教師には珍しくお化粧もしていたすゑに、優しい言葉や仕草で気に懸けてもらったことが想像される。その日から日記に「恋」の語が頻出するのも興味深い。
冬の小樽で啄木は、すゑをモデルに短編小説を書こうとする。しかし、作品は書き上げられなかった。 |
小奴
こやっこ(坪ジン)
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死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉の痍を見せし女かな |
1908年(明治41)、釧路の町で新聞記者として筆をふるっていた啄木が、取材を兼ねて遊びに行く料亭の芸妓。踊りがうまく利発で、気だてのいい19歳。小奴は、妹のような愛らしさと、酸いも甘いも噛み分けた年増女の優しさを併せ持つ女性であった。
彼女の前では、気取らず自然体でいることができただろう。等身大のままに愛されたという点において、小奴は、妻節子とも並ぶ存在感をもって迫ってくる。
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梅川操
うめかわ みさお
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泣いて居る。涙がとめどもなく流れる。何といふても泣いて居る。此女も泣くのかと思った。 |
操は釧路笠井病院の薬局助手をしていた。啄木は彼女の印象を「何方かと云へば珍しいお転婆の、男を男と思はぬ程のハシャイダ女」と書き留める。
頻繁に啄木を訪い、夜遅くまでいて、時には帰宅を催促されるほどであった。啄木は彼女を「長尻の女」と呼んで、その無神経さにいら立つが、彼女にしてみれば、好意を持つ人の近くに一刻でも長く居たかっただけだろう。しかし、啄木は彼女に対しては終始つれなかった。 |
植木貞子
うえき ていこ
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恋をするなら、仄かな恋に限る。 |
京橋の踊りの師匠の娘。1908年(明治41)新詩社主催の演劇会で知り合っている。言葉も装いも垢抜けた生粋の江戸の女であった。
程なく二人はのっぴきならない関係となるが、啄木は次第に貞子をうとましく思うようになる。啄木の変心を恨んだ貞子は、彼の部屋から日記と小説『天鵞絨』の原稿と歌稿一冊とを持ち去っている。12日後にそれらが返されてきたとき、日記の一部は切り裂かれてなくなっていた。 |
菅原芳子
すがわら よしこ
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私の半生には、泣くべき事のみ多く候。誠に多く候。 |
「明星」に短歌を投稿していた大分県の女性。啄木の選でいくつかの歌が採られたことから文通が始まった。「文字も優しく、歌もやさしい」芳子への関心は日ごとに高まる。自分の来し方や現在の不遇を「包まず」述べた中に左の一節がある。
啄木は彼女の写真を懇願した。それが送られてきた日の日記「筑紫から手紙と写真。目のつり上がった、口の大きめな、美しくはない人だ。」顔が見えたとき、彼の幻想は幻滅となった。夢が覚めたのである。 |
与謝野晶子
よさの あきこ
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晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。 |
中学時代、啄木は愛読書の一つとして与謝野晶子の『みだれ髪』を挙げている。1902年(明治35)初めて与謝野家を訪ねた。1908年(明治41)には与謝野家に滞在し、その後も頻繁に訪ねて行った。鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会もたびたびあった。彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。
晶子は、啄木が共にいて「性」を意識することのなかった数少ない女性の一人であった。 |
管野すが
かんの すが
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われは知る、テロリストの/かなしき心を----- |
すがは天皇暗殺計画の首謀者とみなされた幸徳秋水の、内縁の妻・同志。秋水に一日遅れて処刑された。死刑執行のニュースが流れた1911年(明治44)1月24日、啄木はこの事件の経過を深夜までかかって克明に書き記した。啄木は「制度」の破壊を標榜した「テロリスト」管野すがに、新しい時代の女性像を見ていたのである。
処刑時すがは31歳。「微笑を湛へ自若として」絞首台に向い、「われ主義のため死す、万歳」と叫んで死んでいった。 |
上野さめ子
うわの さめこ
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あはれかの男のごとき
たましひよ
今は何処に何を思ふや |
盛岡中学を退学し大いなる野心とともに上京した啄木は、生活にゆきづまり帰郷した。1904年(明治37)、さめ子は岩手師範を卒業して渋民小学校に赴任した。啄木は小学校にさめ子を訪ねては、節子のことや将来の夢を語った。
啄木がさめ子に残した写真の裏には「我心二つ姿とならび居て君がみもとにとはに笑まま志」とある。自分たちの恋愛の理解者であるさめ子への信頼と友情にあふれた書き付けである。 |
瀬川愛子・もと子
せがわ あいこ・もとこ
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ほたる狩
川にゆかむといふ我を
山路にさそふ人にてありき |
愛子は1902年(明治35)、渋民に初めて迎えられた医師瀬川彦太郎の妻。インテリの医師と美人で謙虚な妻に、啄木は将来の自分と節子を重ねていたのかもしれない。
もと子は啄木の妹光子と同級。美しく成長した幼なじみとのホタル狩りの体験は、「蛍の女」という美しいイメージで啄木の中に定着した。もと子は後に彦太郎の弟の妻となる。 |
田中久子・英子
たなか ひさこ・ひでこ
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わが宿の姉と妹のいさかひに
初夜過ぎゆきし
札幌の雨 |
1907年(明治40)8月末の大火で函館を去った啄木は札幌に向かい、友人の下宿先である田中サト方に同宿する。娘のうち、妹の英子はミッション系の女学校に通う13歳。臆せずものを言う性格で、無邪気に啄木に接近した。
19歳の姉久子は、年相応の恥じらいをもって彼に接した。久子と啄木の間に、ある種の感情の交差はあったようである。しかし、滞在わずか2週間で啄木はこの地を去る。 |
桜庭ちか子
さくらば ちかこ
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媒人は急がしいものである。 |
小樽にいた啄木は、ある恋を成就させようと奔走した一週間があった。彼が友人沢田信太郎と知人ちか子を結婚させようと動きだすのは、1908年(明治41)1月10日のことである。ちか子は当時25歳。「才色兼備の、美しい、品格のある」「知る限りに於て最も善良なる婦人の一人」と啄木は評している。
啄木は彼らの関係をプロデュースし、ロマンを作り出す意欲に駆られたのではあるまいか。だが現実は「桜庭ちか子から…断りの事を云って来た」という結果になり、啄木は「途方に暮れ」る。 |
市子
いちこ(大和いつ)
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三味線の弦のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜に |
市子は、釧路の芸妓小奴と並ぶ花柳界の人気者で、1908年(明治41)当時17歳。市子の無邪気な言葉やふるまいは、時に啄木の微笑を誘ったであろう。市子とふれあうひとときは、心なごむものであったに違いない。
啄木の市子への眼差しは、歌中「騒ぐ子」の「子」の語に表れているように思われる。釧路で親交のあった女性たちが、みな「女」と歌われるのに対し、市子のみが「子」となっているのは、偶然ではあるまい。 |
小静
こしず(尾張ミエ)
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あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに |
啄木は、1908年(明治41)冬、釧路新聞記者となった。彼に華やかな夜の世界に遊ぶ楽しさを最初に教えたのは小静である。芸達者で人あしらいがうまく「よく笑ひ、よく弾き、よく歌」い、座を盛り上げた。
帰りぎわにそっと「煙草を袂に入れてくれ」るような行為に啄木は、大人の女の心遣いというものを知っただろう。年上のどこか謎めいた小静が「若い時は二度ない」と歌うとき、酒と白粉のにおいに巻かれて、23歳の啄木は何を思ったであろうか。 |
小蝶
こちょう(甲斐谷シモ)
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芸事も顔も
かれより優れたる
女あしざまに我を言へりとか |
ある日小奴は啄木に告げる。先輩の小蝶姐さんに「奥さんも子供もある」啄木との関係を注意された、と。芸においても容ぼうも小奴をしのぐ売れっ子であった。啄木が小蝶に抱いた「風情ある女」という印象はしかし、小奴から話を聞いた後には「毒がある」と変わっている。
小蝶はこの時期、東京に学ぶ同郷の男性に仕送りを続けている。やがて彼は町長として故郷に帰り、彼女も町長夫人となる。初恋を貫いて一途であった姿が、まぶしいほどである。 |
平山良子
ひらやま よしこ=良太郎
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君は若き女にして、我は若き男に候ひけり。 |
良子は菅原芳子の友人として、手紙と詠草を啄木の元に届けてきた。二度目の手紙に同封されていた写真を見た日、啄木は日記に「驚いた。仲々の美人だ!」と書く。早速したためられた返信は「君。わが机の上にほゝゑみ給ふ美しき君」と甘く呼びかける。
良子は実は、良太郎という味噌の製造販売を営む老舗の息子であった。だまされていたと知ったときの啄木の気持ちは想像に難くない。しかし、幻の「良子さん」を求める気持ちが軽薄であるよりも、痛ましく思われてならない。 |
塔下苑の女たち
マサ・ハナ・・・
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八時半頃に遂々出かけた。(略)妙に肌寒い心地で十二時に帰った。モウ行かぬ。 |
啄木が浅草の凌雲閣を初めて訪れたのは、1908年(明治41)8月下旬のことである。凌雲閣の北側に広がる私娼窟--啄木が塔下苑と名付けた場所である。マサは「貧乏な年増女」のように「荒れてガサガサし」た肌を持つ、18歳の娼婦である。ローマ字日記には彼女と過ごした、陰惨とも言える時間が描かれる。ハナは17歳。小奴に似ていた。ハナと過ごした夜は「うっとりとし」て「縹渺たる気持」になるのだった。
啄木が塔下苑の娼婦たちに引かれながら、同時に彼女たちを嫌悪したのは、最もみじめな男が、最もみじめな女を金で買い、苛む。愛しながらも嫌悪していた、自己への思いに通じるように思われる。 |
福井しん
ふくい しん
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いつとなく、記憶に残りぬ----
Fといふ看護婦の手の
つめたさなども。 |
1911年(明治44)2月4日、啄木は「慢性腹膜炎」で東京帝大付属病院に入院する。三人部屋の十八号室担当看護婦は、福井しんだった。啄木は彼女の「手」を思い出す。その手は脈をとり、注射をし、塗薬をし、布団を直す。きびきびとした、働く女性の手だ。触れられると、ひやっと冷たい手だ。
福井しんの記憶は、生活に「疲れ」運命を「憎んでいた」啄木の心に、ぽっとともった、小さなほのかな灯りのようにも思われる。 |
土井八枝
つちい やえ
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二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかった。 |
1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。
厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。 |
夏目鏡子
なつめ きょうこ
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私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。 |
1912年(明治45)1月22日の日記である。薬を買うのにも窮した啄木は夏目漱石に金策を頼んだ。夫人鏡子は十円を届けてくれた。この親切は夫漱石の意向に添ったものでもあろうが、彼女自身の人柄の表れであったようにも思われる。儀礼的な見舞いではなく、深い同情を伴った行為ではなかったか、と推察する。
世間に「悪妻」と評される鏡子であるが、人情味豊かな女性だったのではあるまいか。 |
金田一静江
きんだいち しずえ
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東介は(略)妻や妹の前で佐川の事を思出すさへも、(略)苦痛に感じてゐた。 |
啄木が友人の金田一京助をモデルに書いた『底』という小説の一節である。「東介」は金田一を指し、「佐川」とは啄木であると思われる。金田一の結婚は、啄木が取り持ったものであった。
しかし、新婚家庭を訪ねては金を借りて返って行く夫の友人が、静江にはずうずうしく思えてならなかったのである。啄木を嫌ったことも、当時の金田一家の生活事情を考えれば、自分たちの家庭を守ろうとして、彼女なりに必死であった結果とも思われる。 |
阿部梅子・松子
あべ うめこ・まつこ
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阿部松子さんより端書来る。返事直ちに。 |
二人は、啄木の友人阿部修一郎の姉および妹にあたる。修一郎は盛岡中学時代、英語の自主学習を目的に結成されたユニオン会の仲間である。梅子は二男三女のきょうだいのかしらで、両親を早くに亡くした弟妹たちには、母親代わりの存在であった。
1904年(明治37)正月、啄木のもとに修一郎から「大晦日に姉梅子が急逝した」との報せが届く。啄木は葬式に参列した。姉の死に、りんとして取り乱すことのない松子の様子に、啄木は「涙なき涙」を見、「平温を装ひたる絶痛」であると察している。 |
金田一りう子
きんだいち りうこ
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小生のいのちのある限りは小天地の寿命はつきざる筈に候 |
1905年(明治38)雑誌『小天地』発行。雑誌後ろの「社告」には、金田一りう子の『夢』其の他が紙面の都合で止むを得ず次号に譲ると書かれている。りう子は金田一京助の二歳下の従妹であり、女学校時代から、雑誌『女學世界』等に投稿して名を知られた才媛である。
「いのちある限り」「つきざる筈」だった『小天地』は資金が続かず「次号」は永遠に発行されなかった。啄木が高等小学校の時に寄寓していた家は、京助の家と隣同士だった。啄木とりう子は、互いを誰と知らぬままに無邪気に遊んでいたかもしれない。 |
立花さだ子
たちばな さだこ
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午後より夜へかけて、村の乙女ら来り、さだ子さんなどと共に歌留多会催す。愛らしきエンゼルよ。 |
1903年(明治36)東京での生活に行き詰まり、帰郷した啄木は、故郷渋民で疲れ果てた心と身体を養った。傷心の帰郷ではあったが、極めて濃厚な日々を過ごしたといえる。 旺盛な執筆活動の合間に、彼は村の若者たちを集めてたびたびカルタ会を催している。「うら若き男女入交りて」「和気藹々」たる雰囲気が彼は好きであった。さだ子は郵便局の娘、啄木より六歳年少。エンゼルという呼び方の中に、あどけない笑顔や仕草の少女が浮かぶ。 |
奥山絹子
おくやま きぬこ
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柴内陸七郎と二年の奥山絹子との恋は(略)さながら一葉女史の『たけくらべ』を読む心地。 |
「私に教へらるる児童は幸福なることと信じ申候」。1906年(明治39)渋民尋常小学校代用教員となった啄木は、「自分の一言一句」に素直に反応する少年少女たちが「喰ひつきたき程可愛」かった。
絹子は、高等科二年で、北海道旭川からの転校生であった。名があらわすような美しい少女でその上成績優秀、物おじしない性格で転校早々女生徒たちのリーダーとなった。陸七郎は三年の級長で「全校中、其成績其素行、肩を並ぶるものなし」だった。16歳と14歳---の淡い関係に啄木は『たけくらべ』を連想した。 |
佐藤ふぢの
さとう ふじの
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漂泊の人はかぞへぬ風青き越の峠にあひし少女も |
啄木は、1908年(明治41)4月、函館港から横浜へ向かった。翌日、船は石巻市荻浜港に入り5時間碇泊した。啄木は上陸し大森屋という旅館で朝食をとったが、そのとき給仕してくれた少女に「戯れに名を聞」いて、日記には「佐藤藤野」と書き付けている。
貧しく複雑な境遇にあったようだが、すれたところがなく、愛らしい印象を与えた。控えめで、クスッと笑う癖があった。歌の中に読み込まれた「風越峠」を越えて、彼女はいつも旅館に通っていた。 |
板垣玉代
いたがき たまよ
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茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき |
啄木が盛岡尋常中学校時代、近くの岩手山神社(新山堂)の境内で遊んでいた中学生や女学生の集団があり、「新山グループ」と呼ばれた。啄木もその一員で、男女が親しく交流することの珍しい時代、自然の中で無心に共と語らい、戯れた。
学問好きで英語が得意、弓道もたしなんだ少女が玉代である。自分をしっかり持ち、流されないタイプの女性であった。「あまりある才を抱」いた少年と「才をたの」む少女は、どんな語らいをしたのであろうか。 |
金矢信子
かなや のぶこ
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七難隠す色白に、長い睫毛と格好のよい鼻、よく整った顔容で(略)
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啄木生前唯一の新聞小説『鳥影』で、資産家の娘小川静子を描写した部分である。静子のモデルといわれる信子は、啄木とは小学校入学以来の知り合いであり、妻の節子とも盛岡高等小学校および盛岡女学校の同級生であった。
盛岡にあった金矢家別邸で、啄木と節子は幼い恋を育んだ。信子は啄木・節子の恋の目撃者でもある。どうしようもなく啄木に傾いていき、学校をさぼって彼の下宿を訪ねる節子の姿も、信子は間近で見ている。 |
金矢りう子・タツ
かなや りうこ・たつ
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橋はわがふる里渋民の村、北上の流に架したる吊橋なり。 |
金矢家には鶴飼橋を渡って行った。啄木は中学で同級だった金矢七郎と気が合い、部屋にこもって文学の話やアメリカへ行く相談をしたりした。りう子は七郎の妹で、信子から見れば叔母にあたるが、年齢は一歳下。金矢家は啄木にとっては、おいしいご馳走があり、文学を語る友と美しい女友達のいる楽しいたまり場であった。
それに苦言を呈したのが、信子の母タツである。啄木と七郎が若い血を滾らせて渡米の話をしていたりすると、「真面目に生活しようという気を持ちなさい」と水をさした。 |
小沢糸子
おざわ いとこ
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本日限り、小生一家と貴下並びにいと子氏との間の交りは断絶いたし候者也。 |
1906年(明治39)1月3日、啄木はユニオン会の仲間であった小沢恒一に「最後の一書を認め候。」で始まる長い手紙を書いた。左は、その最後の部分である。負けず嫌いで誇り高い啄木にとって、ユニオン会を除名されたことは堪えがたい屈辱であったろう。
小沢が啄木について書いた本に、小沢の妻糸子の「節子さんの思ひ出」が載っている。糸子のやさしく慎み深い人柄を彷彿させる筆致であり、とりわけ恋する女学生の節子がいきいきと描かれている。 |
関しげ
せき しげ
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予は予の妻が予を計略を以て欺かんとした事を許すことが出来なかつた。 |
1911年(明治44)6月、妻節子の実家堀合家が函館に移住することになり、節子が盛岡まで見送りに行きたいと申し出たのを啄木は突っぱねる。節子は妹孝子からの手紙に金が封じられて来たからと頼む。
が、やがて妹からの手紙は「ウソで、金はおしげさんから借りた」ということが分かる。しげは盛岡女学校で節子の六年先輩。この頃、しげ夫婦は啄木の家から徒歩数分のところに住んでいた。妻の幼稚ともいえる必死の嘘を「計略」と憤るほどに、彼は追い詰められていた。 |
堀合孝子
ほりあい たかこ
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血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 |
「きみはをさなき妹の/姉に似たれば、無花果の/新樹のかげのほのめきに/ほゝゑみ見せて、おとづれし」啄木が孝子を歌った詩の一節である。姉の節子に面ざしも雰囲気もよく似ていた。優しくかれんな孝子に、啄木は理想の妹像を描いていたようである。
しかし結婚後、大好きな姉が次第に不幸になっていくようであったのは、孝子にとって心の痛むことであった。孝子は1918年(大正7)、28歳で結核で亡くなった。 |
堀合ふき子
ほりあい ふきこ
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あの不愉快な事件も昨夜になつてどうやらキマリがついた、家に置く |
啄木が妹光子にあてた1911年(明治44)9月16日付書簡の一節である。親友宮崎郁雨は函館の人、啄木一家を物心両面で支えた。彼が軍隊の演習地美瑛から出した節子宛の手紙が「事件」の発端だった。恋情溢れる言葉に激怒した啄木は節子に離縁を申し渡す。
ふき子は、節子の妹で「事件」の二年前に郁雨と結婚していた。口数の少ない女性であった。ふき子にいつもあったのは、「節子の妹」としてではない、ただひとりのわたしを見てほしいという、夫への切ない思いだったのではないだろうか。 |
田村イネ
たむら いね
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本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。(略)いねにすけらる。 |
1911年(明治44)8月、啄木一家は小石川の借家へ移った。そしてここが啄木の最後の住居となる。暑い盛り、母も妻も自分も、肺を病み、咳と熱に苦しんでいた。引っ越しの「すけ」にきたのが長姉サダの娘イネである。啄木より六歳年少のイネは、新山グループ時代、啄木にいわれて、節子の家まで手紙を届けては、節子やその母からお駄賃をもらうかわいい「郵便屋さん」であった。
「不愉快な事件」の発端となった手紙を、郵便受けから取り出し、啄木に手渡したのは、このイネであった。 |
田村サダ
たむら さだ
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かぎりなき智識の欲に燃ゆる眼を/姉は傷みき/人恋ふるかと |
長姉サダの家から盛岡中学に通っていた頃の啄木は、二つの熱に浮かされたいた。恋の熱と知識の熱と。サダは優しい姉であった。そして不幸な姉でもあった。16歳で結婚し、貧しい生活の中で5人の子を生し、31歳で帰らぬ人となった。
いつのときも、姉は弟の味方であった。難航していた節子との結婚問題も、彼女の奔走によって婚約にこぎつけることができた。なかなか会えない恋人たちのために、家を留守にしてふたりきりの時間をつくってやったりもした。 |
山本トラ
やまもと とら
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岩見沢の姉は馬鹿者だ。 |
次姉トラは岩見沢に住んでいた。啄木より7歳年長、小柄で色白な美人であったという。トラが山本千三郎と結婚して以来、啄木は幾度も姉夫婦を訪ね、金銭的援助も受けている。妹光子も母も父もこの夫婦を頼って行っている。
妻の家族を全面的に受け入れた千三郎の人柄がしのばれる。同時にトラが夫に愛され、堅実な家庭を築いていた、賢明な女性であったこともうかがわせる。「馬鹿者」であるどころか、啄木を支え続けた姉であったといえるだろう。 |
三浦光子
みうら みつこ
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船に酔ひてやさしくなれる
いもうとの眼見ゆ
津軽の海を思へば |
1907年(明治40)5月、啄木の家族は一家離散した。ことのき、啄木とともに津軽海峡を渡ったのは、妹光子であった。「いもうとの眼」が「やさしい」ではなく「やさしくな」った、とうたわれているところに、啄木から見た妹の、日ごろの性格がはかられる。利発で負けん気の「兄のおさがりの木綿の着物を着た男の子そっくりの少女」だった。のちに光子は洗礼を受けキリスト者としての真摯な道を行くことになる。
啄木が妹にあてた手紙は、一貫してくだけた口語体である。飾らない物言いが、ふたりの心の距離の近さを感じさせる。啄木没後、光子は節子の晩節問題をも語ることになる。各方面から反撃を受けたが、彼女が事実を意図的に曲げて喧伝するような人間であったとは、思われない。彼女を突き動かしたのは、無念を抱いて逝った兄を思う、妹の情愛であったように思われる。 |
石川カツ
いしかわ かつ
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死にたいと思ふ考が、執念く起る。
(略)母の顔が目に浮ぶと、ただもう涙が流れる実際涙が流れるよ。 |
カツの写真は一枚もない。少女期に結核を病んだせいか、若いころは抜けるように白い肌の小柄な美人であったという。晩年息子からは「母の生存は、私と私の家族とのために何よりの不幸だ!」と日記に書かれ、嫁の節子には「きかぬ気のえぢの悪ひばあさん」と手紙に書かれたカツは、生涯啄木を盲愛・溺愛した。弱い啄木が丈夫に育つようにと、生涯卵と鶏肉を断ち、晩年は好きな茶を断って息子の平復を祈った。
啄木に度重なる挫折があり、それと同じだけの立ち上がりと飛躍があった。啄木のこの打たれ強さは母の絶対的な愛情に因するのではないかと想像するのである。
カツは、南部藩士の末娘として生まれた。仏門に入った次兄の寺で家事手伝いをしているときに、そこで修行中の三歳年下の一禎と結ばれた。当時では珍しい恋愛結婚であった。啄木の嫁節子との不和の部分に、啄木という人物に対する認識の違いがあったように思われる。カツは「石川一」を愛し、節子は「石川啄木」を愛したのである。息子の死に先立つこと一ヶ月、カツは家族を起こすこともなく、ひとりの床でひっそりと冷たくなっていた。 |
石川京子
いしかわ きょうこ
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その親にも、/親の親にも似るなかれー/かく 汝が父は思へるぞ、子よ。 |
京子は啄木節子の第一子として生まれた。彼女は「毎日隣近所へ遊びに行つては喧嘩をし…」家に帰ってきて啄木に「今日も泣いたナ」と言われると「泣かないと強情をは」るような子供だった。そして、同時にすこやかに開かれた未来を感じさせる子でもあった。
6歳で父と、7歳で母と死別し、函館に移住していた母方の実家堀合家で育てられた。志なかばに倒れようとしている啄木が、ロシアの女性革命家「ソニア」と呼びかけた京子は、女学生になってペン・ネームとして「ソニア」を使用していた。彼女を育てた祖父(節子の父)は、京子が「学業には極めて熱心」だが「女子の最も大切なる裁縫、洗濯、炊事清掃」を嫌い「閑さへあれば寝転んで新聞雑誌を」読んでいると嘆いている。
京子は女学校在学中に、北海タイムス記者須見正雄を知り、一途に恋い慕い、卒業を目前に退学、翌年結婚した。夫妻は「石川啄木研究雑誌 呼子と口笛」を刊行した。京子は明らかにソニアになろうとしていた。しかし、急性肺炎のため二十四年の生涯を閉じるのである。父よりも母よりも若い死であった。 |
石川房江
いしかわ ふさえ
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何といふ名か知らないが、(略)/黄色い草花よ、/路傍の草花よ。/----何だか見覚えがある。 |
石川啄木は、三人の子を生した。第二子真一は、生後わずか24日で世を去り、その哀悼歌を加えて『一握の砂』は成立した。第三子房江は1912年(明治45)啄木の死去二カ月後に生まれている。父に歌われることのなかった子である。
節子は啄木が亡くなった翌月、光子を通して知ったキリスト教の伝道師夫妻を頼って、房州へ行きそこで生まれたので房江と名づけられた。翌年母をなくしてからは姉とともに母の実家で育てられる。虚弱な体がさらに弱り、やがて結核を患って、19年の生涯を閉じた。義兄の正雄は、遠くの町の花屋まで菊・水仙・スイートピーなどを買い集め、花に埋まって眠る房江の顔は「天使のやう」だったという。 |
石川節子
いしかわ せつこ
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恋人は云ふ、理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
眼閉づれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくも、また、眼をあけるかな。
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1886年(明治19)10月、啄木より8カ月おくれて節子は盛岡に生まれた。父堀合忠操は、岩手郡役所に勤務しのちに玉山村村長になった人物。厳しくも子煩悩な父と、やさしく控え目な母トキの子として、慈しまれ成長した。14歳で啄木を知ったことが、節子の生きる道を決定した。節子が恋人啄木に求めたものは、金でもなければ地位でもなかった。詩人こそが彼女の理想だったのである。
1905年(明治38)花婿のいない結婚式で、誰よりも毅然としていたのは花嫁の節子だった。「貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居る」ような日々、京子を生むために盛岡の実家に帰った節子は手紙に「私は君を夫とせし故に幸福なりと信じ、且つよろこび居候」としたためた。
1907年(明治41)厳寒の小樽の冬、障子も襖も売り払い吹きさらしになった部屋で暮らす節子はそれでも「詩人の妻」であることを誇り得たろうか。節子はいつも待つ女であった。盛岡で小樽で函館で…彼女はひたすら待ち続けた。
1909年(明治42)節子は小さな京子の手を引いて盛岡行きの汽車に乗り込む。節子の家出は、啄木に家庭や社会について考えさせる重大な転機となり、彼の文学観も大きく変換する。
1913年(大正2)函館の病院で、母・妹孝子・郁雨らに見守られながら、そのひたむきな生涯を閉じた。啄木より遅れることわずか1年。全集二巻分を占める膨大な量の日記は、節子によって残された。「啄木が焼けと申しましたんですけれど、私の愛着がさせませんでした」と節子は郁雨に語っている。夢も挫折も共にしたただひとりの男を、今こそ心に抱きしめていたのではあるまいか。 |