啄木文学散歩
東京都:浅草-2 了源寺と等光寺
浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
啄木
啄木長男・真一の葬儀場「了源寺」と、啄木の母カツ・啄木本人・長女京子・二女房江の葬儀が行われた「等光寺」を訪ねた。どちらも浅草にあり直線にして約600m離れている。浅草寺とも近い。
「浅草寺の山門」
浅草寺山門の風雷神門。この提灯は高さ約4mあり、仲見世側から見ると「風雷神門」と書いてあり、表側は「雷門」の文字になる。
○ 了源寺
「啄木長男・真一の葬儀場了源寺」
浄土宗「了源寺」は、都営大江戸線新御徒町駅に近く、住所は台東区元浅草3丁目。静かな佇まいで、高い建物に囲まれている。
「門柱右側に【了源寺】の表札」
● 【うまれて やがて死にし児】真一
1910年(明治43)
- 10月4日、啄木24歳 東雲堂と歌集出版契約し原稿料20円のうち10円を受け取る。長男真一、誕生する。
- 10月9日 東雲堂に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。
- 10月27日 長男真一死去。
- 10月29日 真一葬儀を浅草の了源寺にて行う。法名は「法夢孩児位」。
- 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。歌集『一握の砂』は、末尾に長男真一の死への挽歌八首を加え五五一首となった。この歌集の最初の見本組が啄木の手元に届いたのは10月29日、真一の葬儀の夜だった。
啄木日記
明治四十四年 当用日記補遺 ○前年(四十三)中重要記事
十月-----四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に付す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。
「了源寺境内と墓地の境にある門」
● 真一挽歌八首
生後わずか24日しか生きられずに逝ってしまった我が子を切々と詠う。
『一握の砂』石川啄木
夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな
二三こゑ
いまはのきはに微かにも泣きしといふに
なみだ誘はる
真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな
死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心
底知れぬ謎に対ひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる
かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
ー (をはり) ー
「新井家之墓」
真一が荼毘に付された後
仮に納骨された新井家の墓
新井家は、啄木が1909年(明治42年)6月〜1911年 8月まで家族とともに住んだ、本郷区弓町の床屋さん「喜之床」である。現在も「理容アライ」という名前で営業している。
○ 等光寺
「小路の角にある等光寺」
右隅カーブミラー脇の塀裏側に啄木歌碑がある
● 土岐善麿と等光寺
土岐善麿(号・哀果)は西浅草一丁目(旧松清町)、真言宗大谷派の等光寺が生家である。父善静、母観世の二男として生まれる。兄土岐月章は啄木葬儀時の導師を努める。
等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)、長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀が土岐の好意により行われている。
また、土岐善麿の告別式も(1980年没)行われている。
「等光寺の正面」
門柱右には「等光寺」と書かれ
左は「土岐」という表札がある
● 土岐善麿と啄木
土岐善麿は1885年(明治18)浅草に生まれる。1886年生まれの啄木とは1歳違い。早稲田大学英文科卒業。読売新聞に勤務しているときに啄木と知り合う。
土岐は1910年(明治43) 4月にローマ字3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を出版した。啄木は東京朝日新聞「歌のいろいろ」で土岐の歌を取りあげた。
土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、
燒あとの煉瓦の上に
syoben をすればしみじみ
秋の氣がする
といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。
(東京朝日新聞」「歌のいろいろ」1910年12月)
1911年(明治44)
- 1月12日、東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果との会見を電話にて約束。
- 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
- 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。
1912年(明治45)
- 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された
- 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
- 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名は恵光妙雲大姉)。葬儀は土岐哀果の厚意によるものである。
- 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。
「歌とレリーフと案内板」
境内では啄木生誕70周年の1955年(昭和30)10月27日、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。
門を入ってすぐ右手に縦1メートル、横1.5メートル余りの黒みかげ石の碑があり、歌集『一握の砂』にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首と、左上に胸像が刻まれている。碑の右に台東区教育委員会による案内板がある。
「案内板」
石川啄木歌碑
台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺
石川啄木は明治十九年(一八八六)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。
明治四十一年(一九〇八)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。
しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(一九一二年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(二十七才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。
この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
平成十五年三月
台東区教育委員会
浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
「ブロンズの啄木像」
● 啄木の葬儀と土岐の辞世
1912年(明治45)
- 4月13日 啄木早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水とであった。享年26歳1カ月余。
- 4月15日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。
- 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日-20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。
土岐は啄木を「きざなやつだ」と思っていた。後に親友となり啄木のことをこう詠った。
石川はえらかったな、と/おちつけば、/しみじみと思ふなり、今も。
土岐葬儀のとき「会葬御礼」の色紙に記された歌
わがために一基の碑をも建つるなかれ
歌は集中にあり 人は地上にあり
「一念」とのみ刻まれた石柱
土岐は1980年(昭和55)4月15日に下目黒の自宅で心不全により死去。満94歳。土岐の墓は、啄木歌碑を過ぎ本堂わきの小路を辿り裏墓地に入ったところにある。「一念」とのみ刻まれた石柱がそれである。
啄木の一つ年上だった土岐は長寿を全うした。「もし」は許されないが、啄木も長寿であったなら1980年代くらいまで生きることができたかも………。
土岐という友人のおかげで啄木はたくさんの幸せを得たと思う。
主要参考文献
「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001 「石川啄木全集」筑摩書房/1983
「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
「仲見世の《にぎはひ》」
(2009-冬)
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