啄木の息トップページ 文学散歩:目次

啄木文学散歩

神奈川県:横浜市

啄木の横浜上陸地点 - 1908年4月27日午後6時横浜港に着く

石川啄木、小島烏水を訪ねる - 啄木は正金銀行の受付に名刺を渡した

旧横浜駅ホーム近く - 午後2時発の汽車は都門に向かった

幻の卒業記念写真 - 石川啄木肖像画


 JR根岸線関内駅を出て馬車道を行く。歩道上にある彫刻「太陽の母子」の作者名に覚えがある。北海道函館「啄木小公園」の啄木座像を彫られた北海道出身の彫刻家 本郷 新氏だった。“横浜と啄木を結ぶ線”がここにもあるような気がする。

啄木の横浜上陸地点 

 石川啄木は、1908年(明治41年)4月24日午後9時函館にて、横浜行き郵船三河丸に乗る。4月27日午後6時、横浜港に着く


啄木の上陸した旧桟橋のあった所に立って この写真を撮っている
(現在の大桟橋国際客船ターミナル4Fより)
手前左側に細長く突き出ているのは『象の鼻』と呼ばれる突堤 
後方に横浜ランドマークタワー みなとみらいの大観覧車が見える

  啄木の横浜上陸地点、つまりは三河丸の接岸地点は、大桟橋の改修前、明治38年の第二期、前期工事終了時の状態にあった。

(大桟橋の改修が完成したのは、明治44年の海面埋立、大正3年の陸上諸設備工事に次いで、大正6年11月のことであった。)

(小木田久富「啄木の横浜上陸地点を検証す」『新しき明日』第17号)


中央に長細く見える赤茶色のビルが
啄木の宿泊した長野屋旅館の跡地に建てられたシティホテル
道路を挟んで右側の建物が旧横浜正金銀行 現在の神奈川県立歴史博物館

  当時の長野屋の住所、弁天通5丁目88番地は、県立公文書館の『横浜土地法典』の中の「明治39年の土地法典」と「昭和5年の土地法典」を照合して、現在の弁天通71番地と合致することを確認し得た。

 訪れた現地には10階建てのシティホテル「平和プラザホテル」が聳え建っていた。

(小木田久富「啄木の投宿先『長野屋旅館』を訪ねて」『新しき明日』第15・16号) 

         

 

石川啄木、小島烏水を訪ねる

  ・・その長野屋の三階に落ち着いた啄木は・・船中で「新詩社同人名簿」を繰っていて見つけた、評論家であり、山岳文学者としても有名な、烏水小島久太に宛てて手紙を書いた。当時、小島烏水は横浜正金銀行の預金課長をしており、横浜市西戸部町八九八に居を構えていた。長野屋からは西へ約1.5キロほど離れたところであった。・・ 

(天野仁『啄木の風景』) 


旧横浜正金銀行 現在の神奈川県立歴史博物館

 翌28日、啄木は斬髪をし、横浜正金銀行預金課長の新詩社の同人である小島烏水を訪ねる。

 現在の神奈川県立歴史博物館入口(旧横浜正金銀行)の階段を上り中へ入る。廊下の床はカーペットが敷かれ、天井は片側に段差を作り、直接に灯りが見えないようにしてある。

 喫茶室の天井は円く切り抜いた段差があり間接照明のおしゃれな雰囲気。出された器も季節の食物もなかなか。

「ドイツの近代洋風建築の影響を受け、国の重要文化財の指定を受けている」と外の案内板に書かれてあった。

 4月28日

・・港内の船々の汽笛が、皆一様にボーッと鳴り出した時、予は正金銀行の受付に名刺を渡して居た。応接室に待つ事三分にして小島君が来た。相携へて程近い洋食店の奥座敷に上る。玻璃の花瓶には白いあやめと矢車の花。夏は予に先立ってこの市に来て居た。・・

(石川啄木 『明治41年日誌』) 

 ・・当日の啄木がどのようないでたちで、どのような思いで・・本格的近代建築の威容を誇る横浜正金銀行を訪れたのだろうかと思わないではいられない。・・ 音のしない大理石の床を踏んだ、啄木の姿を想像すると、私はいつも泣けて仕方がない。おまけに帽子を脱ぐと、ついさっき髪を五分刈りにしてきた頭は、北海道の床屋で移された、台湾坊主(禿頭病)のまだ治りかけで、三カ所ほど禿をこしらえていたのだから、初対面の銀行マン小島烏水の驚きはいかばかりであっただろうか。・・

(天野仁『啄木の風景』)

 ・・横浜でまず会った新詩社の同人小島烏水から聞きえたことは、詩が散文に圧倒されてゆく傾向が強まり、『有明集』が六百部しか売れぬということだった。啄木は北海道では、短歌や詩を作る機会が多かったが、遠く都の自然主義の動きを注目しながら、さいはての地を流寓する身を嘆息し、心はあせっていた。・・

(山本健吉『啄木と歌』)

 

旧横浜駅ホーム近く

 (4月28日 つづき)

・・名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかった。・・

 午后二時発の汽車は予を載せて都門に向かった。車窓の右左、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍したい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却って此緑の色の中に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。

 三時新橋に着く。・・

(石川啄木『明治41年日誌』)  


この辨天橋を渡ると左手奥に
 小島烏水の通った横浜商法学校(現在の横浜商業高校)がある

 1873年12月生まれの小島烏水はこのとき34歳、1886年2月生まれの石川啄木は22歳。

 一回り以上も先輩を「小島君・・」と日誌に記し、書簡にも数回、烏水との会食を登場させている。

  • 4月27日 大島経男 宛   〈明日小島烏水君と会食の約あり〉
  • 4月27日 宮崎大四郎宛   〈明日烏水君と会食の約あり〉
  • 4月30日 宮崎大四郎宛   〈一昨二十八日烏水氏と一洋食店に会食〉
  • 5月 2日  宮崎大四郎宛   〈一洋食店に小島君と会食して快談いたし候、誠によい紳士にて、今後若し小生が職でも求める際は出来る限りの助力をすると申居り候〉              
  

 啄木は、上京の不安と、それに負けまいと肩肘張った気持ちとのバランスを必死で取っていたのかもしれない。


辨天橋の袂近く 横浜桜木郵便局前 桜木町の駅はこの左手奥

昭和38年頃まで旧横浜駅のホームなど残っていたが今は道路になっている

啄木はこのホームから電車に乗り緑の中を抜け東京へ向かう
 

幻の卒業記念写真 啄木の肖像画

石川啄木“幻の卒業記念”肖像画

画作者・岡田和紀

湘南啄木文庫所蔵

(2001-春)   

啄木の息トップページこのページのトップ