啄木の息トップページ 文学散歩:目次

 

啄木文学散歩

神奈川県:横浜市

 みなとみらい・赤い靴と啄木

 

●みなとみらいと石川啄木

 みなとみらい線・啄木が上陸した横浜桟橋・宿泊した旅館跡

赤い靴の女の子と石川啄木の縁の露

 岩崎かよ〜きみ(赤い靴の女の子)〜鈴木志郎〜野口雨情〜石川啄木

 


みなとみらいと石川啄木

 宇宙ステーションのような元町・中華街駅

 「みなとみらい線」が、2004年2月1日、横浜駅と元町・中華街に開通。ハマに路面電車が登場した1904年(明治37)から、ちょうど100年目。
 1908年(明治40)4月27日午後6時、啄木が横浜港に着いてから96年目。

  

元町・中華街駅ホーム

 エスカレーターに乗ると、視界が開けて宇宙ステーションに入っていくような未来感覚がある。美しいだけでなく、身障者への配慮がたくさん見られる。みなとみらい線は、全駅にエレベーターと身障者用トイレがあるという。
 また、各駅のホームにカモメの声が流れているそうだ。(聞き逃してシマッタ!)

 元町・中華街駅から横浜まで、10分弱。渋谷までは、特急で40分弱。

 ウエルカムボードは赤い靴

駅構内のウエルカムボードは「赤い靴の女の子像」

         赤い靴  (作詞 野口雨情  作曲本居長世)

        赤い靴はいてた女の子
        異人さんにつれられて
        行っちゃった

          横浜の埠場から船に乗って
          異人さんにつれられて
          行っちゃった

        今では青い目になっちゃって
        異人さんのお国に
        いるんだろう

          赤い靴見るたび考える
          異人さんに逢うたび
          考える

 啄木が上陸した頃の横浜桟橋

明治時代の「横浜桟橋全景」(道路脇/壁面のパネル)

 このパネルの左上隅に「象の鼻」と四角で囲んだ文字が見える。それは桟橋中央から左へと続く突堤のことである。

・・・横浜に波止場が出来たのは開港前年、1858年(啄木誕生の28年前)で、当時は二本の突堤が突き出ただけの波止場で、東をイギリス波止場、西を税関波止場と呼んだ。

 やがて、東の突堤は海を囲むように西側にかぎ形に拡張され、先端につれて細長く緩やかなカーブを描いていることから、通称『象の鼻』と呼ばれ、全長89.4メートルで、これにより船だまりを造った。これは、関東大震災により崩れることとなるが、後に間知石で積み替えられ今も現存する。

(小木田久富「啄木の横浜上陸地点を検証す」『新しき明日』第17号1996年2月20日) 

神奈川県庁新庁舎F12
喫茶室から見る横浜港

 横浜港大さん橋国際客船ターミナルが目の下の見える。2002年12月1日グランドオープンした国内最大級の大型客船の発着所である。

 啄木の宿泊した長野屋旅館の跡

啄木の宿泊した長野屋旅館の跡地に
建てられたシティホテル

 2001年4月・・・「平和プラザホテル」前を通った際、ホテルの入り口に張り出された「公告」にびっくりさせられた。

 「公告」は破産管財人の弁護士によるもので、同ホテルが競売に付された旨のものであった。・・・

 しかし、それから数カ月後、再び同ホテルを訪れた私は、偶然にも債権者の方に会う機会を得、状況を聞くことができた。

 それによると名称を「平和プラザホテル」から「YOKOHAMAHEIWAPLAZAHOTEL」と改称しただけで、大半の従業員も含めてそのまま引き継いだとのこと、外観もほとんど変わり無く、啄木の投宿先「長野屋旅館」の縁を、またそのままホテルとして引き継がれたことに、何故かほっとさせられた次第であった。

(小木田久富「啄木の投宿先『長野屋旅館』跡のホテルが債権者の手に」大阪啄木通信No.19 2001年11月1日)


 

    ホテルのロビー

 フロントの方に写真の許可をお願いした。
 ついでに「啄木がかつてこの場所に泊まったことについて」をお聞きしたら「全く知りませんでした」と話していた。 

赤い靴の女の子と石川啄木の縁の露

1 岩崎かよ〜きみ(赤い靴の女の子)〜鈴木志郎〜篠崎清次〜ヒュエット

2 鈴木志郎〜野口雨情〜石川啄木

3 野口雨情〜本居長世〜(童謡「赤い靴」)〜岡その〜菊地寛

この曲の舞台は横浜港
1921年(大正10)発表

1 岩崎かよ〜きみ(赤い靴の女の子)〜鈴木志郎〜篠崎清次〜ヒュエット 

1902年(明治35)

7月15日 岩崎かよが、静岡県旧不二見村(その後清水市、 2003年4月より静岡市と合併し新「静岡市」)で、私生児として「きみ」を出産。父は、佐野安吉と思われる。

 岩崎かよ 1884年<明治17>1月13日生ー1948年死亡
 佐野安吉 1850年<嘉永3>生ー年月場所不詳死亡

1903年(明治36)

父親の名を明かせない私生児ということから世間の風当たりは厳しく、逃げるようにして母子は函館に渡る。

1905年(明治38)

かよは鈴木志郎と再婚し、篠崎清次(函館平民倶楽部を創設・主宰)の世話で開拓地真狩村の平民社農場に入植。(現在は留寿都町)
しかし、病弱なきみを連れての入植は無理と判断。篠崎清次
の世話で知った、函館の教会の牧師であるアメリカ人、ヒュエット夫妻の養女に出す。

 鈴木志郎 1880年<明治13>生 青森県鰺ヶ沢町ー1953年(昭和28)死亡

 Charles W. Huett 1864年(元治元年)生ー1935年(昭和10)死亡
 Emma A. Huett 1870年(明治3)生ー1965年(昭和40)死亡

1905年ヒュエット夫妻はヨーロッパに出かけ、それからアメリカに戻ってデンバー大学の大学院に入る。1906年(明治39)の秋に再び日本に戻った。きみはこの時、一緒に外国へ行ったかもしれない。

横浜の山下公園にある「赤い靴の女の子の像」
みんなに可愛がられ磨かれてブロンズの地が見える
作者は山本正道氏

2 鈴木志郎〜野口雨情〜石川啄木

1907年(明治40)

1月 志郎とかよの間に、初めての子のぶ(きみにとって父違いの妹になる)が生まれた。

この年の暮れ、開拓は失敗し平民農場は解散した。家族は札幌に出た。志郎は北鳴新報に入社。

同じ頃に野口雨情も同社入社。志郎と雨情は、同世代、子供一人という同じ家族構成もあって急速に親しくなった。一軒の家を二家族で借りて、8円の家賃を分け合い共同生活をはじめた。

そこで、雨情は、かよ夫妻から「手放してしまった娘きみの話」を聞いたと思われる。

 野口雨情 1882年(明治15)生ー1945年(昭和20)死亡

1908年(明治41)

野口雨情を、函館大火から逃れてきた石川啄木が訪ねて来た。雑誌「明星」の同人同士という僅かな縁だった。

雨情は記者仲間の小国露堂に啄木を紹介した。啄木は、露堂の斡旋で北門新報社に入社した。

それから間もなく、小樽日報が旗あげし、鈴木志郎、野口雨情、石川啄木の三人は一緒に入社した。

鈴木志郎との出会いが後年、啄木の「悲しき玩具」の中の歌になる。

  名は何と言ひけむ。
  姓は鈴木なりき。
  今はどうして何処にゐるらむ。

この鈴木は、志郎のことである。

 石川啄木 1886年(明治19)生ー1912年(明治45)死亡
 小国露堂 1877年(明治10)生ー1952年(昭和27)死亡

この年の8月、ヒュエット夫妻にアメリカの教会本部から帰国指令が出た。しかし、6歳のきみは結核におかされ、身体の衰弱もひどく長旅ができなかった。夫妻は、アメリカに連れていき治療をと考えたが、病気を理由に乗船させることも出来なかった。

ヒュエット夫妻はやむをえず、きみを東京麻布十番の鳥居坂教会の孤児院に預けて、横浜の波止場からアメリカへ帰国した。

1911年(明治44)

9月15日 きみは三年間の闘病生活の末、9歳2カ月で麻布の鳥居坂教会の孤児院で亡くなった。

きみの墓は東京の青山霊園にある。麻布から外苑通りを青山通りに至る途中、葬儀所のすぐ左の石段を上って目の前に、鳥居坂教会のちょっとした共同墓地がある。
その墓碑には「佐野きみ」と刻まれてある。岩崎でも鈴木でもヒュエットでもない。佐野はきみの実父の姓である。

1913年(大正2年)

かよは志郎との間に2番目の子そのを生む。

      

歩道には黒船、赤い靴、下駄、etc.のタイルが並ぶ。


3 野口雨情〜本居長世〜(童謡「赤い靴」)〜岡その〜菊地寛

1921年(大正10)

野口雨情が「赤い靴」を作詞。雑誌「小学女生」12月号に掲載し、初めて世に出る。

生きるためとはいえ娘を手放した岩崎かよの事情と、生後7日で娘を失った雨情自身の悲しみとが絡み合い、「赤い靴」そして「シャボン玉」が生まれた。

1922年(大正11)

本居長世が「赤い靴」を作曲。

 本居長世 1885年(明治18)生ー1945年(昭和20)死亡

1973年(昭和48)

11月 岡そのが、「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です。その後の消息を調べて欲しい」と、北海道新聞に投書。

母親かよも野口雨情も『きみはヒュエット夫妻と外国へ行った』と 思っていた。父親違いの妹:岡そのに『「赤いくつ」の女の子はあなたのお姉さんよ』といつも話していたという。

 岡その 1913年(大正2)生ー1981年(昭和56)8月30日死亡

1979年(昭和54)

北海道テレビの記者・菊地寛が、5年あまりの 歳月をかけて「女の子」の実像を求め、「赤い靴の女の子」が実在していたこと を突き止めた。そして、追跡調査の結果を出版した。
「赤い靴はいてた女の子」 菊地 寛著1979年 現代評論社

横浜港を見つめる後ろ姿

************************
主要参考資料
・「麻布十番未知案内 / 赤い靴の女の子 きみちゃん」
  http://jin3.jp/kimi/kimi.html
・「たるげい」2003年8月4日号
 
 http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/tg030804.html
・「悲しい.童謡たち / 童謡のなぞ4 赤い靴」
  http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka07.html
「石川啄木と童謡『赤い靴』」大庭主税(2004-05-15横浜啄木の集い記念栞)
・「鈴木志郎と童謡『赤い靴』」星雅義 国際啄木学会東京支部会会報 第10号
 

(2004-夏)   

啄木の息 神奈川県:横浜市 にも、どうぞ。

  

啄木の息トップページ 散歩:目次